翌朝、ノアは憂鬱な気分で
翌朝、ノアは憂鬱な気分でブルーモス要塞を訪れた。
ラクスフェルド新市街の北西、城山の山裾からゆるやかな坂を上ってゆくと、やがて大きな煉瓦造りの建物が見えてくる。このオーリア軍の司令部が置かれた要塞には、武器庫や兵舎、低級武官の住まいなどが配されており、小さな街ほどの広さと設備がある。山の麓の高台に鎮座するブルーモス要塞は、立地的にも外寇からラクスフェルド城を守る最後の要衝となっていた。
ノアが要塞の敷地へ入ろうとしたとき、ひと悶着あった。身分不肖の男がいきなり現れ、なかへ通せと言ってきたのだから無理もなかったろう。
オーリア軍の憲兵に拘束されたノアを救ったのは、ウイリアム・クリスピンだった。国王騎士であるクリスピンは、連絡を受けてオーリア軍の司令部へあわてて駆けつけた。
数年前、ほぼ同時期に旧神隷騎士の叙任を受けたノアとクリスピンは、従騎士のころからの僚友である。クリスピンが貴族の息子なのに対し、ノアは平民という出自だったが、彼らは身分のちがいを超えて友情を深めた。司令部の営倉で再会を果たしたのは、三年ぶりだ。そのときにはどちらも自然と笑みがこぼれた。
無事にノアが解放されて司令部の外へ出ると、ふたりは固い抱擁を交わした。が、ふとクリスピンはノアから身体を離し、眉をひそめる。
「ノア、ひどいなりだな。それにおまえ、臭うぞ……」
「ゆうべ風呂には入ったんだが」
ノアは言うと、首を曲げて自分自身を見おろした。どうやら、まだ下水の臭いが残っているのだろう。
あきれたクリスピンが鼻を鳴らして笑う。
「おまえ、これから誰と会うか知ってるのか」
「知るか。おれはグリムに言われてここへきただけだ」
「だろうな。こっちはその世話を命じられた。おまえはこのあと、オーリア軍のお偉いさんと会うんだよ。ハートレイ将軍。彼は一○人委員会の構成員でもある」
「一〇人委員会? なんだそれは」
「各方面の実力者を選りすぐった、国王の助言機関だ」
「へえ。つまり、マントバーンに悪知恵を吹き込んで国を牛耳ってる連中か」
「まあそうだな。おまえは知らんだろうが、オーリアも大きく変わったのさ」
それからふたりは要塞内にある国王騎士団の仮設駐屯所へ向かった。ノアはそこで風呂に入り、無精髭を剃って身支度を調えた。いくらか見られる容姿になったあと、彼らはふたたび司令部の、今度は地下の営倉ではなく上階へと足を運んだ。
「なかなか似合ってるぞ」
司令部内の階段を登る途中、クリスピンが隣を歩くノアを見て言った。
ノアは着の身着のままだった遍歴から帰還後、はじめて国王騎士団のチュニックを身につけた。キルト地のチュニックは胸のところに、楢の木に実るドングリと甲冑の兜を組み合わせた紋章が見える。それが新生オーリア王国の国章だった。
「着ている服が替わっても、中身はおれだ」
とノア。
司令部の衛兵がふたりを案内し、通されたのは手狭な一室だった。そこでしばらく待たされた。退屈したノアは窓辺から外の様子を眺めた。いまの彼には、オーリアで見るものすべてが目新しい。
高台にあるブルーモス要塞からは新市街が一望できる。きっちりと区画整理された城郭都市には、まだ建物がそれほど多くない。
「でかい街だな。真ん中に大きな空き地がある」
「あそこにはオーリア正教会の聖堂が建つ。その左の奥には王立翰林院が造られる予定だ」
クリスピンがノアの横に並び、そう言った。
「翰林院?」
「さまざまな学士を養成するオーリアの最高学府らしい。マントバーンは国の中枢をすべてこの新市街へ移すつもりだ」
「旧市街はどうなるんだ」
「さあな。いま、あそこはきな臭い。マントバーンの即位後、恩赦で釈放された囚人どもが押し寄せたからな。不法な移民も多く入り込んでいるとも聞く。そのうちスラムとなるかもしれん」
昨日、旧市街へ足を運んだときのことをノアは思い出した。たしかにクリスピンが言ったように、あそこには不穏な兆しが見て取れた。
ノアは帰国した初日にも旧市街を訪れていた。父親に会うためだ。二言三言しか会話しなかったが、息災ではあった。家族とはいえ、お互いに干渉し合う間柄ではなかった。母親が亡くなり、ノアが家を出てから、父の偏屈には拍車がかかったようだった。だが、彼の馬蹄職人として何十年も同じことをコツコツつづけているところは尊敬していた。
部屋の扉がノックされ、ひとりの兵士が入室してきた。
「将軍閣下がお召しです」
表情のない兵士が直立不動の姿勢でそう告げる。
ノアとクリスピンは廊下を挟んだ向かいの別室へ移動した。そこは大きな円卓がある会議室のような場所だった。
部屋のいちばん奥、円卓の上席にハートレイ将軍がいた。でっぷりと太った男。髪も髭も白くなっている老人だが、それなりに威厳はあった。
「挨拶は無用とする」
口を開こうとしたクリスピンを手で制し、将軍はノアに椅子を勧めた。そうして、彼らを案内してきた兵士とクリスピンへは退室するよう命じ、人払いした。
ノアとふたりきりになると、ハートレイ将軍はあらためてノアを見つめた。
「さて、ノア・デイモン──若いな。ここへ呼ばれたことについて、なにか知っているのか?」
「いえ、なにも」
円卓に着いたノアは首を横に振る。
「よかろう。これから話すことはすべて極秘事項であるゆえ、心して聞け」
言いつつ、ハートレイ将軍は手元に置いたなにかの文書に目を落とした。
「おまえはたったいまから国王騎士でなくなる。無期限で騎士身分を剥奪されるのだ」
ノアは一瞬、困惑した。
「理由は?」
「ない。マントバーン国王の仰せつけである。そのうえでおまえには、陛下の友人として、私的な依頼を請け負ってもらう。ハイランドのイシュラーバードは知っているな?」
「オーリアのずっと北でしょう。険しい山岳のほかに、なにもない場所だ」
「そうだ。オーリア王国でもマグナスレーベン帝国でもなく、ドワーフたちが仕切る土地だ。そこへ向かってもらう」
「なんのために?」
「なんのためでもない。おまえはただ、旅の途中でそこへ寄ることになる」
言っていることが滅茶苦茶だった。最初の騎士身分の剥奪に加え、この漠然とした指令である。ノアはしだいに腹が立ってきた。
「意味がさっぱりだ。将軍、おれにいったいなにをさせるつもりなんだ?」
目を眇めたノアはハートレイ将軍へ不快感を込めた視線を送る。しかし将軍のほうはといえば、すぐ近くにいる若造の無礼など微塵も意に介さないといった態度だ。椅子の上で身をのけぞらせた彼は、突き出た腹の前で両手の指を組んだ。そうしてノアへ、なんの感情もこもっていない顔を向けた。
「さきほども言ったとおり、おまえはすでにわが国の枢軸とは繋がりのない平民なのだ。詳細を明かさないのもそのためだと考えろ」
ノアは心のなかで悪態をついた。
権力に深く組み込まれ、完全にその一部となった人間。ハートレイ将軍に楯突いても無駄だ。おそらくこの茶番を仕組んだのは彼ではない。
「ばかばかしい」
「どう思おうと勝手だ。が、陛下はおまえに選択の余地を与えられた。この依頼を受けるも受けないも、すきにすればいい。返答はいま、この場でしてもらう」
「いやだと言ったら?」
「一向にかまわん。その場合、おまえにはすぐ荷物をまとめてオーリアを去ってもらう。そして今後、永久にこの国へ立ち入ることが許されなくなる」
そういうことか。ノアは低く笑った。
マントバーンは、ノアの意思に関係なくこの任務に彼を引きずり込むつもりだ。もしかすれば、ノアが昨夜の王城潜入を達成する以前から、それは決まっていたのかもしれない。
悪縁。どうやらノアとマントバーンは、そういった関係で結ばれているらしい。
ノアは腹を決めた。彼は円卓に身を乗り出した。そして頬杖をつき、ハートレイ将軍を挑戦的な目で見た。
「で、いつ発つんです?」
「今日にでも。現地には、われわれの協力者がいる。まずはそいつと接触するんだ」
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