第四水 春雷

 一方的な失恋をしてから早数ヶ月。季節は移り、大学最後の春休みの真っ只中に私はいた。就職活動もしなきゃいけない、卒論も余裕を持って仕上げに入っていきたい。アルバイトをして新しいコスメも買いたい。私は案外忙しくやっていて、失恋の傷はそう深くはなかった。・・・というのは嘘で、想像よりもずっと深く教授に恋をしていた私は、敵わない女性の影に女としての敗北を感じ、悔しく、気を緩めるとどこでも泣けてしまいそうな気持ちであった。それを忘れるためにスケジュールを組み込んで忙しく振る舞っていた。

 本当は就職活動などせず、院に入って待田教授に弟子入りするくらいの心持ちでいたけれど、何となく今は彼の顔を見たくない。これまで参加していたフィールドワーク(という名の読書会)にも参加しなくなった。明らかに教授を避けて過ごしている。

 来週から四年生になって、水曜のゼミも再開されるのにこんな調子でいいのだろうか。部屋で一人、”さっくま”のぬいぐるみキーホルダーをにぎにぎと揉む。さっくまというのは「ナックルサックをつけたくま」を模したゆるキャラだ。令和5年の今、ちょっとした流行になっていて女子高生から大人までいろんな層がハマっている。さっくまが世の中の理不尽を殴り飛ばして論破する過激さと、内容に反するゆるい絵柄がヒットの要因だろう。私こと美山さくらもこのさっくまの魅力に激ハマりしていて、部屋着にしているTシャツのデザインもさっくまだし、通学用リュックにはさっくまキーホルダーをつけている。イライラする時にこのさっくまを握ったり揉んだりすると心が安定するのだ。さっくまが、この世の理不尽を殴り飛ばしてくれる。私の失恋の傷も、先生が何十年も愛し続ける幻想の女性も、すべて殴り去ってほしい。

 

 三月の末。桜がチラホラと蕾を膨らませている頃に私は大学を訪れていた。春休みの間でも意外と構内には生徒がいる。友達とカフェテリアを使う人だったり、ノマドワークをする人だったり。かく言う私も家では卒論に集中できなかったので、息抜きがてら大学に来てパソコンで論文を書いていた。日も傾いてきたのでいい加減帰ろうと思ったが、あともう少しデータが欲しい。私はテーマに合った本を探すべく、図書館に立ち寄った。

 閉館間際の誰も居ない図書室で事件は起きた。私は卒論のテーマに沿った本を何冊か抱えていて、それが結構な重さで足元がおぼつかない状態だった。躓きかけて、よろめくと目の前に脚立があり、そこで高い位置の本に手を伸ばしている生徒がいた。ほんの一瞬の出来事だった。


脚立から生徒が落ちてくる。


手にかかった本がバラバラと上から降ってくる。


私の持っていた本も宙に舞う。


窓の外で夕陽が沈んでいき、ほんの一瞬強く輝いた。


高い位置にいた生徒がちょうど私と重なるように落ちてきて、頭にぶつかる!そう思って目を強く瞑った。なぜだか分からないけれど、目を閉じる瞬間に目に入ったのは「1986年、ハレー彗星が76年ぶりの地球接近!」という古いニュースの見出しだった。


ドサドサドサッッ!!!


大量の本が私に降りかかったが、上にかぶさって来た生徒は消えていた。そう、私は今、夜の図書館で一人、尻もちをついている。大量の本に囲まれながら。本棚の向こうのほうから、司書さんの「そろそろ閉館の時間でーす」という掛け声が聞こえた。


「え、消えた・・・?」


私は呆然としていたが、とにかく手元にあった本を片付けてその場を去った。


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