第三水 追憶
私と先生は毎週水曜日、駅までのおよそ10分間を共にするようになった。話題は若者の流行についてだとか、私の論文の指摘だとか、何でもあった。彼の興味は尽きることを知らなかった。その一方で私は繰り返される帰路に変化をつけようと思い、初めて彼を寄り道に誘った。
「先生、駅の先に喫茶店があるのをご存知ですか?」
「ええ、”episode”ですよね。もう随分長く営業している趣きのあるお店ですね。」
「そうです、最近はレトロ喫茶も流行ってているんですよ。よかったら一杯お付き合い願えませんか?」
「そういうことなら、喜んで」
私たちはいつもさよならを言う駅の一歩先、正確に言うと3分ほど歩いたところにある喫茶店に入った。先生はブレンドコーヒー、私はアイスティーを頼んだ。ついでに手作りチーズケーキを頼むと先生は何となく嬉しそうに笑っていた。ここのチーズケーキがおすすめだったのだろうか。
いつもと違う放課後に私は何だか興奮して、いつもと違う話題を持ちかけた。
「先生って、結婚はされているんですか?」
「いえ、お恥ずかしながら未婚です」
未婚。この言葉は私の心を軽くさせたが、その直後に漬物石のように重い言葉が帰ってきた。
「もうずっと、長い間好きな女性がいるんですよ」
私は開いた口が塞がらないまま、先生の優しい目尻の皺を見つめていた。注文したコーヒーとお茶と、ケーキが届いた。私は震える手でストローを持ち、会話を繋げる。
「せんせに好きになってもらえるなんて、幸せな人ですね」
「そうでしょうか。貴女にそう言っていただけると何よりです」
「どんな女性か聞いてもいいですか?」
「そうですね・・・。」
それから、彼の過去の話を聞く運びとなった。
その女性はある日突然、彼の目の前に現れたらしい。彼女には不思議な魅力があって、活発で、花の咲くような笑顔をしたと言う。大学生の頃に出会ったが、卒業する頃には会わなくなった。ほんの短い間の恋だったが、忘れられないままこの歳になったそうな。
「もう会っていないんですか?」
「・・・そうですね。彼女とはそれきりですよ」
「彼女に会いたいと思いますか」
「会いたいけれど、会って後悔するかもしれない。・・・長く生きていると、恋愛の成就だけが目的ではなくなるんですよ。相手の幸せを想うことも愛だと僕は思うのです」
「やだ、先生。ここでも哲学の講義ですか?」
私は笑った。笑って誤魔化すしかなかった。定年間際の、おじいちゃん先生が学生の頃から想い続ける人になんて勝てっこない。そう考えると涙が出そうで、私はわざと大きな声で笑った。チーズケーキはしょっぱかった。
有り難いことに喫茶店の会計は先生が支払ってくれた。「過去の恋愛話を聞いてくれたお礼」らしい。それならケーキを頼まなかったのに。と愚痴を溢せば「チーズケーキは美味しかったですか」と聞かれた。美味しかったですよと答えれば「それでいいんです。」と私の頭をポンポン叩いた。やっぱりここのチーズケーキは先生のおすすめだったんだろうか。
駅までの3分間で、私はどうしても聞きたいことがあった。
「先生は、彼女のことを忘れたことはないんですか」
「正直、忘れてしまいそうになったこともあります。別の女性と恋愛関係を持ったこともありました。それでも、彼女が僕に残したものがあって、それのせいで忘れることもできないんです。本当に、とんだじゃじゃ馬ですよ、彼女は」
言いぶりから歳下なんだろうか。大学の後輩だろうか。彼女の残していった初恋を捨てることができないままここまできた彼をこれ以上邪魔する気になれず、その日はおとなしく駅で別れた。遠くなっていくボロけたリュックサックを見ながら、ポタリと涙が落ちた。
次の水曜日から、私は彼と駅まで歩くことをしなくなった。
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