第二水 黄昏
待田ゼミは「自由」なので内職をする者、出席登録をして帰る者、別の課題をする者と、十人十色だ。私はと言えば、本を読んだり、課題を片付けたり、ゼミの論文を書いたり・・・その時々で色々なことをした。本を読んでいると、「今日は何の本ですか」と待田教授が語りかけてくれる。私はドイツ文学を好んで読んでいて、この時はカフカの「変身」を読んでいた。
「訳者によって解釈が違うんです」
私は話しかけられることが嬉しくて、つい調子に乗ったことを言った。
「それじゃ、原文で読んでみてはどうでしょうか」
待田教授は五カ国語話者であるらしい。ドイツ語もお手のものだ。ちなみに日本語、英語、中国語、ドイツ語、スペイン語だと伺った。
「先生はすぐ難しいことをおっしゃる」
私はわざと拗ねた顔をして小首を傾げた。彼の前では服装も、お化粧も、髪型も、仕草も全て可愛くみられたいがためである。こんな老齢の男に何を必死になっているのか、自分でも不思議だ。
「はは。貴女ならすぐに覚えられますよ」
待田教授は私の必死のアピールをモノともせずに、おべっかを言うと他の生徒の様子を見に行った。
「XXくん、今日も必修課題ですか。頑張ってくださいねぇ」
「〇〇さんはゲームのやり過ぎには気をつけてくださいね。それと、教室は充電禁止です」
待田教授はいつもみんなに満遍なく語りかける。その優しさも好きだが、私は1年生の時から通い続けているんだからもう少しくらい特別扱いしてくれてもいいのに、とさえ思う。完全なるやきもちだ。
カフカもそろそろ終わりを迎えようとする頃に、講義の終わりを告げるチャイムが鳴る。私はわざとのんびりと片付けをして、待田教授の座る教卓へ歩み寄った。
「せんせ、帰り道はどちらの方面ですか?」
「私は地下鉄です。美山さんは?」
「私も地下鉄の方面です。下宿しているから、電車には乗りませんが・・・途中までご一緒してもよろしいでしょうか?」
「ええ、喜んで。」
この時、私は小さな嘘をついた。本当は地下鉄の駅を通ると少しばかり遠回りになるけれど、待田教授と歩きたい一心でそっちの方に帰ると言ってしまった。待田教授は急ぎ気味にノートパソコンをリュックサックにしまう。リュックサックから何かキーホルダーの様なものが落ちたけど、私がそれを確認する前にサッとカバンにしまい込んでしまい、「行きましょう」と微笑んだ。
大学を出て、2人で並んで歩く。肩が触れない距離感で。途中、本屋の前を通りかかった。待田教授は「あ。今ちょうど欲しいものがあったんです。寄ってもいいですか?」と本屋を指差したので、私は頷いた。
本屋の中で適当な雑誌類を見て教授を待つ。「彼を落とす大人メイク」「新しい恋の始め方」・・・そんな安いタイトルにばかり目がいく私は恋に恋をしている状態なのだろうか。雑誌はレジコーナーのすぐ近くにあるので、待田教授もきっと買い物が終われば気がつくだろう。私はその安っぽい恋愛ハウツー特集の雑誌を立ち読みしていた。案の定、数分で買い物を済ませた教授は私の姿を捉え、「お待たせしてすみません」と声をかけてきた。謝らなくてもいいのに、私のような若造に対して腰が低いところも、やっぱり好きだ。
「何を買ったんですか?」
「最近流行りの自己啓発本です。哲学をやってる身としてはこういう類のものも勉強になるんです。」
「自己啓発・・・”人の心を掴む3つのルール”的なアレですか?」
「そうです、そういうアレです。
「私も今度読んでみようかな。先生は、本の内容を実践するんですか?」
「いえ、読んで分析をします。講義に引用できる部分もあるので」
「勉強熱心なんですね」
「・・・いえ、人並みですよ」
先生は何かを懐かしむように遠い目をして笑ったが、私はそれを言及しなかった。永い彼の人生で私はほんの一瞬しかいないことを理解しているからだ。先生はたまに私をみて、目をキュッと細めるけれど、それはきっと私が彼に何か影響をしたのではなくて、彼の青春を回顧する何かがその瞬間にあったのだろうと自己解釈をしていた。
そのまま私は駅までの間、自分の卒論のテーマについて質問したり、それについて議論をして帰った。駅前で別れを告げ、改札を通って人混みに溶けていく待田教授の背中を見送る。背負う黒色のリュックサックはくたびれていたが、綺麗に伸びた背筋は歳を感じさせず、去り際までかっこいいな、と思ってしまった。この胸は日々熱くなるばかりだった。
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