春出水~はるでみづ~

亞辺マリア

第一水 春麗

 私は今、人生で最大の恋をしている。相手は大学の教授で、初老の男だ。なぜ私はそのようなおじいちゃんに恋をしているのか。それを語る為には一度時を戻そう。それは、二年前の春のことだった。四月、満開の桜の下で私は一人で頭を悩ませていた。


 「うーん、火曜の3限、何か入れたいんだよなぁ・・・」


 それは授業の時間割を如何様いかようにするかということだ。大学への入学に浮かれている暇もなく、受講希望を提出するまでに与えられた期間はわずか二週間ほどであった。私には友達がいなかったので、周囲の群れた同級生のように「一緒に体育とろうよ」なんて会話もなく、兎にも角にも学科の必修科目と、気になっていた近代社会学となんらかの一般教養科目を空きコマに入れて、最後の一つ、火曜の三限をどうしたものか悩んでいた。

 本来ならば空きコマにしてもよかったが、火曜は必修科目のせいで二限から授業がある。そして夕方にもう一コマ。必修科目をこの配置にした学科主任を逆恨みしながら、なんとかこの時間に丁度いい授業はないかとレジュメと睨めっこをしていた。

 私は中庭のベンチに座っていたのだが、隣で「よっこいせ」と声が聞こえた。ちらりと見ると、上品なブラウンのスーツを着たおじいちゃんが一つ隣のベンチに腰掛けた様だった。おそらくここの教授だろう。優しそうだし、ああいう人の授業がいいな。そんなことを考えていると、ふと彼と目があった。先に口を開いたのは先生(仮)だった。

 

 「こんにちは。今日はいいお天気ですねぇ」

 「そうですね。快晴に桜の色がよく映えます」

 「貴女は1年生ですか」

 「ええ、そうです。どうしてお分かりに?」

 「だって、ここの中庭を使う在学生は少ないですから」

 「そうなんですか?こんなに長閑のどかなのに・・・」

 「ここはどこの教室にもアクセスが悪いんですよ。みなさん、カフェテリアや次の授業に使う教室で休みを取ります。ここでは課題もできませんからね」

 

 そう言われて、私はベンチの上であぐらをかいてレジュメを膝に乗せていることに気が付きサッと足を下ろした。初対面の人の、しかもこんなにも紳士な男性の前でなんだか恥ずかしいことをしてしまったようだ。私が姿勢を正していることを気にも止めず、先生は話を続けた。


 「僕はここが好きなんです。春には桜、夏には新緑、秋には紅葉、冬には枯れ木。四季折々の顔があります。とても風情があるんですよ」


 ここで私は彼の教養に素直にときめいた。私もそういった景観を楽しむのは好きだった。


 「私も、ここが気に入りました。もしお邪魔でなければ、これからも来てもいいですか?」

 「何をおっしゃいますか。中庭は皆さんのものですから」


 教授はふわりと笑い、手に持っていた本を閉じて立ち上がった。


 「では、またどこかの講義でお会いしましょう」


 最後まで紳士的な男性ヒトだったなぁ・・・と暫しぼんやりしてしまい、彼の名前や担当科目を聞くのを忘れていたことに気がついたのは、予鈴がなった時だった。結局、その時は「火曜の3限」を決めることができずに自分の必修科目の授業へ参加しに中庭を発った。


 その後私は期限のギリギリまで悩んだ挙句、火曜の3限には哲学の授業を選択した。教授は「待田春樹まちだ はるき」先生と言うらしい。のちに気づくことになるのだが、彼こそが中庭で出会った老紳士であった。

 これが「私の初恋」の始まりだった。私は中庭の彼の、落ち着いた雰囲気と知性ある話し方に恋をした。言ってしまえば憧れに近いかもしれないけれど、まだ若い私には敬愛と恋愛の違いなど解らなかった。

 それから2年の時が経った。私は彼の哲学の授業を毎年受け、論文はA+の評価を得た。積極的にお薦めの本を聞きに行ったり、自論をぶつけて数分間のディスカッションもした。彼の印象に少しでも残りたい一心で、慣れない本も読んだ。


 そして現在に至る。私は3年になり、ゼミを選択する時が来たのだ。志願先はもちろん、待田教授の哲学ゼミだ。彼は少々変わり者で、研究テーマは「自由」。自由を論ずるもよし、自分の決めたテーマを論ずるもよし。他者と意見を交換するもしないも自由。実に彼らしいおおらかさだ。その一方で確実に単位が取れると言うことで人気のゼミでもある。実直に言えば、サボりたい人が多いのだ。私はゼミの志願書に教授の講義でいかに成果を発揮したか、また、どのような論文を書きたいかなどを真摯に書き連ねた。

 結果、私は無事に待田ゼミへの登録が決まった。これからはさらに教授へ近づけると思うと、鼓動が速くなった。


 毎週水曜日の5限はゼミの時間になった。これは忘れもしない、第一回のゼミの自己紹介での出来事であった。みんながそれぞれ趣味や卒論テーマを語る中、私はマイクを持って「美山さくらです。待田教授が好きなのでこのゼミを選びました!」と宣誓した。ゼミ生からは笑う人や白ける人がいる中で、教授は「大変ありがたいことですね」といつもの様に朗らかに笑っていた。

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