【二十三話】「食されるは我が嗜好」其の一

 梅雨の鮮やかさも過ぎ去り、日照りが増す一方──七月一日、憂鬱の始まりである月曜早朝。


 庄司家の食卓を彩らせる役目を担う台所の前で、五人の男女が噂話をするかのように耳打ち、怪訝そうな表情を揃えながら、奥で一人包丁を握る女を凝視していた。


 日本中から庄司の料理人として選抜された彼らは普段この時間──野菜を切り、肉を弁柄べんがら色へと彩らせ、音と匂いで庄司彼らの舌を喜ばせる準備を整えている頃合いなのだが──五人は怖れ、職場に入ることすら出来ない。


 否、からす色をした長髪の女によってのだ。


 彼女は何の前触れも無く、料理人彼らの聖域へと踏み込み──「台所ちょっと借りるね」と冷静な声色と共に料理を始め、彼らはその後姿に何とも言えぬ悪感を抱いたまま扉の前まで出て行ってしまったのだ。


 それからニ十分。

 庄司家の飼われる怪物こと衆能江しゅのえは眼を細くしながらも肉を切り、一人模索していた。


「唐揚げ……あと醤油に二、三分漬ければいいかな。そのうちにキャベツとトマト……ん?

 ──ねぇ、トマトってどこー?」


 衆能江は冷蔵庫を漁りながら、大きな声で料理人たちに話しかけると彼らを震え上がらせた。

 全員が「どうする」と小声で話し会うと、料理長である中年の男性は五月蝿うるさく鳴る自分の心臓の鼓動を聞きながらも声を上げた。


「み、右の方にある大きな冷蔵庫にトマトが入ってるはずです……」

「んー? どれどれぇ」


 彼の言葉を聞き、素直に冷蔵庫の中を漁りだす。


「お、あったあった!」


 彼女は笑みを浮かべ、まな板の上に置いたトマトをくし形切りにしていく。

 その姿はまるで処刑人であり、果実を切り裂いては中の汁を垂れさせる。


 料理人は肩を震わせながら実験の様にも見える光景を観察していると、ある事に気付いた。




 彼女の料理は、特に“危険”と思わせる点が無いのだ。


 荒くれ者の鬼、といった残虐無慈悲な印象がある彼女の手並みは特に下手と感じさせる要素は無く、とはいえプロと同等という雰囲気もない。

 ──強いて言えば、何処となく家庭を感じさせる作りをしていた。


 しかし、目を見張ってくる眼差したちとは裏腹。




 ──次、どう作るんだっけ……最後に作ったの何十年前だっけ……。


 衆能江は焦っていた。




 咄嗟に料理を振る舞おうと思い立ってきたのだが、これは如何いかがな……震える手を抑えるのに精いっぱいとなってしまっている。

 自由に人を食い殺して生きていた時は、こうやって他者を騙すためにと料理を振る舞ってきていたのだが今回は違う。


 ではなく、の食事を作っている。


 そんな食事を作るのは、寺に住んでいた時以来だ。

 眸は儀等儀等ギラギラ、腕は包丁の感覚を思い出しつつ、事を慎重に進めていく。


「えーっと、卵焼きの砂糖は大さじ一杯……っと」


 綺羅綺羅キラキラと鮮やかに彩る砂糖を本で調べた内容を思い出しながら大さじスプーンへと乗せ、溶き卵に入れるとスプーンを洗い場に投げようとする。


「お待ちなさい」


 刹那──しわが刻まれた手に衆能江の腕はピタリと止められた。

 くるりと顔を移すと其処にいたのは想像通りの人物で、笑みを浮かべている彼女に溜息をついてしまう。




たえ……様。いったい何の用でございましょう」


 せわしないこの状況での乱入。

 追い出しに来たのだろうか、と思考を巡らせど彼女の表情だけでは解らない。


 この家の人たちは本当に考えている事が読めない。




「足りないわよ」


「え?」

「お砂糖、小さじもう二杯よ」

「……はい?」


 予想外、な内容に瞬きを繰り返す。


「あの子はね、甘い方が好きなのよ」

「な、何で霞命かなの為に作ってるって事を……⁉」


 ──この家の女たちは、全員読心術を会得しているのか?


 彼女の言葉に、妙は頬に手を添えながら少し考え──


「なんとなく」


 と、曖昧な答えを返す。


 衆能江は気落ちしそうになるも、気持ちを整えて料理を続けた。


「あぁ、あぁ、そのままじゃお肉が良い味を出さないわよ」

「は、はい」


「あぁ、あぁ、お野菜はもうちょっと小さく切らないと」

「はいはい……」


「あぁ、あぁ、これは──」






 ──五月蠅うるせぇぇ、横からギャアギャアとぉぉ。




 あろうことか妙はそのまま衆能江の横を陣取り、指示を何度も送り出してきた。

 どれだけ彼女の苛立ちを募らせようと、衆能江は反撃することが出来ない。

 この光景はそのまま、怒れる猛獣に芸を仕込む老婦人とも見受けられる。


 されど衆能江の態度とは裏腹、作る手は速まり、無駄な動作が無くなっていく。


 年が百も離れている女達、言葉と腕の動きはまるで歌劇のようで料理人たちを圧倒させていく。

 彼らは席で沈黙として観覧するだけの客人に過ぎず、舞台だいどころに入り干渉することなどは決して許されない。




「あら、豚汁はないの? 霞命、豚汁大好きだから作ってあげると喜ぶと思うの」

「はいはい! 今、作りま──」


 衆能江の怒気どきは天井へと達し、若く清逸な聲のする方を睨みつけると──知っている女が、目の前に立っていた。


 双眸を均一に縫われながらも慈愛に満ちた笑みを浮かべるもう一人の役者せんせい──


 永進丸えいしんまるが参戦してきたのだ。


 衆能江は先に起こるであろう展開に絶望し、永進丸は秀麗な表情を浮かべながらも両手で口元を隠して満悦とした気持ちを表現する。


「まぁまぁまぁまぁ、“娘”が霞命に手料理を……い、わし感動しちゃうな」

「誰も貴方の娘になったつもりはないです! 永進丸!」

「おやおや、もう母娘の仲になったのね……」

「違うッ!」


 これは衆能江でなくともまずい状況になった、庄司の女二人に挟まれる。これ以上の地獄があるか。


 凌辱される、殺される、そんな物ではない。

 例えるのであれば精神の拷問、それを受けるは二百年の時を生きた創人そうじん

 それなりの精神攻撃を食らった経験がない訳では無いが、これは訳が違う。




「あぁあぁ、油の温度を上げすぎよ。焦げ過ぎちゃう」


「まぁまぁ、おにぎりの具、これでは多すぎるわ。もうちょっと少なめにして」


「あぁあぁ、切ったキュウリをそんな所に入れちゃ駄目よ、もっと隣の方に置いて頂戴」


「まぁまぁ、豚汁はね……人の心を温める効果があるのよ、こんな感じだと味が死んでしまう。私が始めて一兎かずしげさんに作ってあげた時は……」




「あぁあぁ」

「まぁまぁ」






 ──五月蠅ぇぇぇぇぇぇ、こんの糞婆クソガキどもがよぉぉぉぉぉ。






 両横から来る大人し気な母娘の聲は脳裏まで侵入し、料理を速めていく。

 これが昨今話題の嫁姑よめしゅうとめ問題。


 否、結婚してない。


 ※


 日差しは色移りもしない学び舎の教室いっしつへと侵入し、窓際にいる者たちの机に反射していく。

 席に座る生徒達の純白な夏服は涼しさを表し、季節の移り変わりを実感させる。


 一日の最初──ホームルームというのは、誰かしら隣の友人と教卓に立つ教師の話など耳にも通さぬまま只管ひたすら話しあっている生徒達が一定数いるものだが、今回はその光景は見受けられない。

 皆が同じ方角へと視線を重ね、硬く跳ねる音を鳴らしながら黒板へと描かれていく白い文字を追いかけ続けていた。


 黒板に書かれた文字はこれまた削拙そつたなく──振り返った彼女の右腕には痛々しい包帯、そして全身の至る所には痛々しい程の絆創膏が張られていた。


 傷付き使い古された机が並ぶ教室でほつれすら無い学生鞄を持ち、真新しいセーラー服を羽織り、ポニーテールに髪を編んだ傷だらけの少女は皆の視線を誘う。

 生徒のみならず、教師ですらも珍しい名前とそのちを交互に見比べてしまう。


「……では、自己紹介をお願いします」


 多少戸惑いがこもった教師の聲に、少女は曲璃こくりと頷く。


 名の読み方、そして彼女の怪我の訳を知る者は──後ろの方で“甲賀忍法帖こうがにんぽうちょう”を読んでいた白髪の美少年女びしょうねんじょただ一人。


「本日、この学校に転校してきました、千石瀏鑪哢せんごく るるるです。

 利き腕は今この通りなので黒板に書いた字が汚いですが、名字は『せんごく』、名前は『るるる』と読みます。

 ではありません。これからよろしくお願いします」


 と長い挨拶を終え、転校生は直角九十度の御手本のようなお辞儀をしてみせた。


 堅苦しそうな感じとは真逆とも取れる愛らしい読みの響きに圧倒される中で──霞命は誰にも悟られずにニ、三回ほどまばたきをさせていた。

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