空白

淀江ユキ

空白

 大学に入学してから一か月が経った五月。今年の二月に入試を終え、都内の私立大学へと進学した私は初めての来客に対応していた。

「お邪魔するよ」

「どうぞ」

 そう言って1LDKの自宅へと身を収めたのは長身の女性。黒縁眼鏡と黒髪のロングヘアを携えたその人は私の先輩だった。


 この人と出会ったのはちょうど一か月前、入学式帰りの時のことだった。部活動への勧誘をやんわりと断りながら、人の波を正門の方へとかき分けていると、ふとそれが目に入った。文芸部。机から垂れ下げられたしわだらけの紙にはそう書かれていた。机の上には部誌らしきものが十部ほど重ねておかれていて、それ以外には何もなかった。

 なぜだか、そこだけやけに浮いて見えていた。まるで、文芸部のスペースだけ周りの空気から切り取られているような、そんな気がした。そして、私は折り畳み式の椅子に腰かけて本を読んでいた彼女に声をかけた。

「こんにちは」

「こんにちは。文芸部に興味があるのかい?」

「あぁ、いえ。ただ単に気になっただけと言いますか」

「ほう。まぁ、部誌はテイクフリーだから持っていくといいよ」

「ありがとうございます」

 遠慮なく積み上げられた本の山の頂上をこそぎ取る。

 ふと、先輩の方を見た。目の前に将来の部員候補がいるというのに、この人は目もくれず活字を追い続けている。ほかの部はもっと熱心に勧誘をしているというのに。

 そこで気づいた。ここだけ浮いて見える理由、それは周りとの温度差によるものだ。端的に言えば、必死さ。とでもいうのだろうか。それがこの人からは一切感じられないのだ。

 その姿を見て、不思議とこの人に対する興味がわいてきた。そして、勢いのままに文芸部へと入部した。

 それからかれこれ一か月が過ぎたのだが、私は未だにこの人の名前を知らない。

好きな食べ物や趣味とかについては、簡潔かつ丁寧に教えてくれたのだが、名前に関しては一切教えてくれない。

 どう呼べばいいか困っているというのに、毎度「別に不便はないだろう?」と言ってはぐらかされてしまう。だから彼女を呼ぶときは先輩としか呼べない。

 最初は、他の先輩と混ざってしまう。と若干の不便を覚悟していたのだが。なんとも奇妙なものだ。ついぞ私には彼女以外に先輩と呼べる存在ができなかった。

というのも、文芸部はほとんどが幽霊部員で、彼女ぐらいしかまともに活動している人がいなかったからだ。


「さて、それじゃあ棚を見せてくれないかな?」

「棚ですか」

「そう。私は人の棚を見るのが好きでね。そこから、その人の人柄とか性格を大体把握できる」

 思わず首を傾げた。

 過去に部屋を見せてくれと聞かれることはあったが、真っ先に「棚が見たい」と聞かれたのはこれが初めてだ。それに「棚から人柄や性格が大体把握できる」とは一体どういうことなのだろうか。

 最近流行りの漫画よろしく、なにか超能力の類でも持っているのだろうか。

 若干訝しみながらも、言われるがまま先輩を案内する。玄関から廊下を抜け、フローリング張りのリビングへと彼女を招く。

 リビングには必要最低限のものしか置いていない。

テーブルに椅子、テレビは高いので代わりにラジオ。そして、先輩お目当ての棚もここにある。

 足を踏み入れると、先輩はすぐに棚を見つけた。まるでどこにあるかを事前に知っていたかのように。

 しかし、先輩は少しうなった後、ひとりごちる。

「ふむ。なんとなく予想はしていたけれど……それもそうか」

 そこにあったのは空っぽの棚。

 残念なことにこの棚を買ったのはつい先日の事だ。加えて、荷解きもまだ一部終わっていない事もあって、棚の中はただただ、空白に支配されていた。

「これじゃあ、推測しようがないな。或いは、これが君の個性の現れなのか」

「意図的に空にしているわけではないですよ」

「なら、まだ君のことを知るのは無理ってわけだ」

 「いやぁ、残念だ」と言いつつも、先輩は棚をしげしげと見つめ始める。

「それにしても、どうして棚なんです?」

 その質問に先輩はすぐには答えなかった。何一つ喋らないまま、棚の隅々をなめるようにして見る。

 その姿はまるで質屋の査定人のようだった。

「……まるで棚から読み取れることは何も無い。とでも言いたげだね」

「いえ、そこまでは言ってませんけど……」

「いいかい、棚にもその人の人間性が出るんだよ」

 そう言って、先輩は棚の左端を指さした。

「例えば……ほら、値札が張りっぱなし。思うに、君はどうやら細かいことに頓着しないように見える。違うかい?」

「それはまぁ……合ってますけど」

 それは棚限定ではないような気がする。

 それに、そこから私の性格を判断するのは少し横暴というか、雑にも思える。

 だれしも剥がし忘れることはあるだろうに。だが、実際にその推理は当たっていた。

「中身だけじゃない。物の配置だってその人がどんな人かを見るのに役立つんだ。重いものを下段に集中させる人は慎重な人、中段に物を集中して置く人は面倒くさがりな人、とかね」

 先輩は棚の淵を愛おしそうになぞった。

「覚えておくといい。誰も見ないような箇所、そういうところにその人が一番色濃く映ってるものさ。例えば、そう、水たまりみたいにね」


 その後、先輩と少しお茶を嗜みながら、他愛もない会話を交わした。気付かぬ間に時刻は既に午後五時を回っていた。

 どうやら先輩はこの後も予定があるらしく、この日はお開きとすることになった。

「またいつか来るよ。今度は何かしら置いてあるだろうし」

「荷ほどき、頑張りますよ」

「それがいい。私も君のことをもっと知りたいからさ」

 スニーカーを履く先輩の背を見て、ふとある疑問が浮かんだ。

「もし……私のことを知るとしたら、普通に話すのと棚を見るの、どっちが好みですか?」

 先輩は一度振り返ると、私の方を見て微笑んだ。

微かな香水の香りが鼻をくすぐった。

「それは、また会った時に話そうじゃないか」

 それじゃ。と言うと、先輩は私の家を後にした。


 先輩が帰った後、ふと棚の中段に何かが置かれているのが目に入った。

それは本来であればテーブルの上にあったはずの卓上カレンダー。

 動かした覚えはないし、なんなら表紙をめくってすらもいなかった。

 不思議に思いながらめくると、次の週の休日に赤く丸が付けられていることに気づいた。日付下の空欄には「予定なし。場所はキミにまかせる」と書いてあった。

それは紛れもなく、先輩の文字だった。

「……変な人」

 それから私は荷解きを着々と進めて、棚の空白を埋めていった。

 ただし、中段の先輩は残したままで。

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