海の色

黒潮旗魚

第1話

「私ね、何も知らないんだ」


そう言って僕の前に現れた少女を、何故か僕は見捨てることが出来なかった。


夏休みのある日、セミの合唱がうるさくてしかたなかった。汗が僕の額を流れると、それはもう優雅に落ちていった。


(アイスでも買いに行こう)


ふとそう思い、重たい足を動かす。自分にかかる重力をやたらと強く感じた。小銭の入った財布を持ち、玄関へと向かう。この時点で、クーラーの効いた部屋が恋しくて仕方なかった。


ドアを開けると、凄まじい熱気が僕の全身をおおった。一気に汗が吹き出てくる。先程の優雅な汗はどこへ行ったのか、今はまるで合戦にでも出かけるかのような急ぎ足でベタついた汗が全身を包んだ。しかしやっとの思いでここまで来たのだ。今更戻るなんてしょうもない。僕は1歩前へ足を出した。


コンクリートからの熱が僕を焦がすようだった。1歩1歩足を出す度汗が流れ落ち、それをコンクリートの熱が蒸発させていった。恐ろしい程の速さで。


やっとの思いでコンビニに着くと、勢いよく自動扉を開け中に入った。心地いい冷気が僕を包む。全身から吹き出していた汗が一気に冷えていくのを感じる。まさに砂漠のオアシスとはこのことだろう。


店内の奥へ進み、アイスの入った冷凍庫に目をやった。そん中から適当にアイスキャンデーを2つばかし取り出しレジに差し出す。そして財布から適当に500円玉を取り出し店員に渡した。お釣りを受け取り、重たくなる足を無理やり外へ向け日差しの中に歩いていった。


帰る途中、あまりの暑さに屈した僕は袋からアイスを取り出し、口に運んだ。ひんやりとした感覚が僕の口内に充満する。そして冷気は口内の征服が終わると、勢いよく頭への進行を始めた。キーンとする痛みの中、僕は急に違和感を感じた。

僕の影の後ろに、もうひとつ影が伸びている。疑問に思い振り返ると、そこには小学3年生ぐらいの女の子がたっていた。


「それ、なに?」


少女は僕のアイスを指さして言った。


「これ?」


僕がアイスを指さし聞き返すと少女はコクリと頷いた。


「これはアイスだよ。」


「美味しいの?」


「うん、食べてみる?」


僕が聞くと少女はまたコクリと頷いた。袋からアイスを取りだし少女に渡すと、少女は不思議そうに受け取り口に運んだ。そして驚いた顔をして僕を見た。


「冷たいんだね。」


「本当に食べたことないんだ。美味しいでしょ、そのアイス。」


少女はアイスに夢中で、僕の問いかけには答えなかった。


少女がアイスを食べ終わる頃、僕は彼女に問いかけた。


「お父さんやお母さんは一緒じゃないの?」


すると少女はキョトンとした顔で僕に聞いてきた。


「お父さんお母さんって何?」


僕は質問の意味が分からず黙り込んでしまった。


「んーとね、じゃあパパやママって言えばいいかな?」


しかし変わらず少女はキョトンとしている。僕はなにか深い事情があると思い詮索するのをやめることにした。


僕は少女を近くの公園に案内した。日陰にあるベンチに少女を座らせ、僕は自動販売機に向かった。アイスのお釣りから300円取り出し、適当にジュースを買おうとボタンに手を伸ばした。


「これ、なに?」


後ろからの急な声にビクッとした。振り返るとあの少女が自販機を指さして立っていた。


「これ?自動販売機だよ。これでジュースやお茶を買うんだ。」


「そうなんだ。」


「なにか飲みたいものある?」


僕がそう聞くと、少女はサイダーを指さした。お金を入れ、ボタンを押す。ガタンという音と共に冷たい汗をかいたサイダーが落ちてきた。少女がそれを手に取ると、不思議そうに太陽に透かせた。


「あけられる?」


僕が聞くと少女は首を横に振った。


キャップを握り右に捻る。プシュッという音とともに、少女は目を大きく開いてみせた。


「はい、ここに口をつけて飲むんだよ。」


少女は言われた通り、飲み口に口びるをつけ、恐る恐るサイダーを流し入れた。口に入った途端、少女はビクッとして僕の方を見た。


「口の中でパチパチするんだね。びっくりした。」


「炭酸だからね。面白いでしょ。」


そう聞いたが、少女はサイダーに夢中になっていた。

僕らはさっきのベンチは戻り腰をかけた。僕は自販機で買ったコーラを勢いよく喉に流し込んだ。


「君はどこから来たの?」


少女に問いかけると、少しの沈黙の後に少女は答えた。


「わからない」


「そっか、じゃあお名前は?」


また少しの沈黙が続いた後に口を開く。


「わかんない。」


「そっか。」


僕が頭を抱えていると、少女は寂しそうな声で言った。


「私ね、なんにも知らないんだ。」


少しの沈黙の後、僕ははっとして少女に問いかけた。


「じゃあさ、逆になにかわかることは無いかい?」


そう聞くとさっきよりも長い沈黙の後、嬉しそうな顔で少女入った。


「アイスと自動販売機!」


「…なるほど。」


僕は一本かまされたような気持ちになった。くすくすと笑う僕を横目に彼女は小さな声で言った。


「あと、海の色。」


僕はハッとして少女を見た。


「海の色は知ってるんだね。」


「うん、ずっと見てきたから。」


「そうなんだ、じゃあ海の色は何色だい?僕に教えてよ。」


そう聞くと、僕らの間にやたら長い沈黙続いた。普通の子供であれば海の色は青と答えるはずである。そこまで悩む質問では無いはずだ。


「どうしたの?」


僕が聞くと少女はサイダーを少し飲んでから答えた。


「いっぱいありすぎてわかんないや。」


「海の色はいっぱいあるのかい?」


「うん、青とか黒い青とか緑とか、時々赤にもなるよ。」


僕の街は海に面していない。だからよく分からないが、少女がよく海を知っているのは間違いなさそうだった。


「なんで海の色はよく知っているの?」


「わかんないけど、なんか見たことがある気がする。」


「そっか。じゃあ君はこの街の子ではなさそうだね。この辺りには海は無いから。どうやってこの街に来たかも覚えてない?」


少女は首を傾げた。


「わかんないけど、目が覚めたらあそこにいた。」


少女が指を指した場所、それは昔からある古びた骨董屋だった。昔、時々祖父に連れられて顔を出した店だが、もうしばらく行っていない。1人のおじさんがやっていて、いつも祖父と難しい話をしていたのを覚えている。しかし今ではもうやっているのか分からないぐらいボロボロの店だった。


「ちょっと行ってみようか。」


僕が提案すると、少女はコクリと頷いて足を地面につけた。


横断歩道を渡ってすぐにある骨董屋は昔よりも物は増えている気がした。ドアに手をかけ、横に引く。相変わらず価値があるのか分からないものが大量に置いてあった。その中にひとつ、少し気になるものがあった。棚の上、壁にかけられた帆船の絵だ。しかしその絵に色は塗られておらず、白い海に黒い線で書かれた帆船が壮大に描かれていた。


「いらっしゃい。」


急な声に驚いたのか、少女は素早く僕の後ろに隠れた。


「珍しいね。若いのが2人で来るとわ。兄弟かい?」


「まぁ、そんなもんですよ。」


骨董屋のおじさんは相変わらずニコニコとした気前のいい人だった。


「すいません、この絵ってどうしたんですか?」


おじさんはゆっくりと絵に首をやり、ニコッとして言った。


「あぁ、その絵はとある女性の人が店に置いていったんだよ。名前は知らないが綺麗な人でね、お金はいらないから適当に飾ってくれって頼んできたんだ。」


「それはいつのことですか?」


「さぁねぇ、いつだったかな。確か、今から2年前ぐらいの…あぁ、そうそう今日みたいな暑い日だったね。白いワンピースを着て画材を持った人だったよ。」


このおじさんの物覚えの良さは相変わらずだ。しかし成長した僕の姿はさすがに分からないだろう。


「すいません、この絵を頂けませんか?」


僕が聞くとおじさんは嬉しそうに答えた。


「あぁ、いいとも。そろそろこの店も閉めようかと思っていてね。大量の骨董品をどうしようか迷っていたんだ。少しでも減らせるならタダでもいいさ。そうそう、その絵を貰っていくなら、その下のカバンも持って行っておくれ。その絵の書いた人が置いていったんだ。ついでに貰ってくれよ。」


おじさんは壁から絵を外すと、絵と一緒にカバンを僕に渡した。僕は軽く会釈をすると、店を後にした。少女は僕の顔を見て何か言いたそうな表情を浮かべていた。

またあのベンチに戻ってきた。少女は何か理由ありげに絵をじっと見ていた。


「この絵を知ってるの?」


そう聞くと少女は首を傾げながら言った。


「わからない、だけどなんかこの絵は見たことがある気がする。」


「そっか。」


僕は絵を横に置くと、一緒に貰ったカバンを開いた。宙に舞うホコリを手ではらい中を見る。そこには筆や絵の具など、たくさんの画材が入っていた。


「なんでこの絵を貰ってきたの?」


少女の問いかけに少し悩んだ。


「なんでだろう。分からないけど、この絵がなぜが気になって仕方なかったんだ。」


「この絵に色でも塗ってみたら?そしたら私もなんか分かるかもしれない。」


僕は絵が苦手だ。しかしこの絵は何故か美しく仕上げられる気がしてならなかった。


「そうだね。やってみるよ。」


まずは帆船をスマホで調べてみた。すると、1枚の写真に映った帆船が絵ととてもよく似ていた。


「Sea Jewel⋯。」


外板に書かれた文字を検索にかける。すると妙な記事が出てきた。


『帆船Sea Jewel 沈没』


物騒な記事は今から2年前に書かれたもので、内容は簡単に言うと、イギリスの帆船Sea Jewelが嵐に巻き込まれ沈没、船長が死亡し他の乗組員は無事生還したというものだった。この事故はかなり世界的に有名なもので、僕も昔テレビで見た記憶があった。


「この帆船がモデルなのかな。」


「わかんない、だけど綺麗な船だね。」


白い外板はまるで真珠のようで、

Sea Jewel(海の宝石)の名にふさわしい美しさだった。僕は写真を見ながら貰った画材で帆船に色をつけた。何枚もその帆船の写真を見つけ、何とか全体の色を塗ることが出来た。僕が色を塗る姿を見て、何故か少女はずっと嬉しそうに笑っていた。


残るは背景の海の色だが、困ったことに僕はろくに海を見たことがない。写真で済ませても良いと思ったが、何故かそれではいけないと感じた。時計を見ると午後3時を指している。今から海を見に行くと着くのは夜遅くになりそうだった。海に行くのは明日でもいい、しかし困るのは少女のことだった。家が分からないのであれば警察に届けるのが普通だろう。しかし、この絵を完成させるには彼女が必要な気がした。警察に届ければ明日会える保証は無い。しかし家に連れ込めば家族にバレてしまう。僕は頭を抱えた。その時だった。急に携帯のベルがなった。画面を見ると母からの電話だった。


「もしもし」


「もしもし、私だけど、今日ね急遽用事が入ってお父さんの実家に行くことになったの。あんたはどうする?一緒に行く?」


「いや、明日ちょっと用事があるから行けそうにないや。」


「そっか、もしかしたら帰るの明後日とかになるかもだけど大丈夫?」


「大丈夫、何とかするよ。」


「わかった気をつけてね。なんかあったら連絡してね。」


そう言って電話はきれた。


「ねぇ、お家わかんないんだよね?」


「うん。」


「じゃあさ、今日はうちに泊まっていきなよ。暗くなってから探すじゃ遅いだろうし、この絵のことも気になるだろうし。」


そういうと少女は満面の笑みで頷いた。少しの罪悪感を好奇心が塗り替えていくのがわかった。

公園から歩いて10分ほどで僕の家には着いた。車庫に車は無い。もう両親は出かけたようだ。鍵を開けようとすると、何故か刺さらない。ドアノブを引くと簡単に開いた。


「おかえり。」


「お、おう⋯。」


家には誰もいないと思っていたが、妹はついて行かなかったらしい。


「一緒に行かなかったのか?」


「うん、行っても暇だし。ところで、後ろの子はどうしたの?」


見つかっては仕方がない。全てを打ち明けると、妹はすんなりと受け入れ、少女を風呂に入れると脱水所に連れていった。少女もすぐに妹と打ち解け、ニコニコとしながらついて行った。

2人が風呂に入っている間に晩御飯を作ることにした。冷蔵庫を除くと、卵とケチャップが目に入った。


「夜ご飯、オムライスでいい?」


「いいよー。」


キッチンに戻り、準備を始める。すると風呂場でケタケタと笑う妹の声が聞こえてきた。あまり気にせず料理を続けた。

2人が風呂から上がる頃、ちょうどオムライスも3人前作り終えた。机を囲み食べ始める。


「そいやぁ、なんでさっき笑ってたんだ?」


問いかけると妹は思い出したかのように笑い始めた。


「この子、オムライスって何って聞いてきたんだよ。だから説明してあげたの。」


「人の無知をあんまり笑うんじゃないよ。ごめんな、うちの妹が。」


軽く謝ったが少女は目の前のオムライスに夢中で聞いていなかった。余程美味しかったのか、食べ終わるともう少し食べたそうにしていたのでもう1回作ってあげた。とても美味しそうに食べるので、僕も嬉しくなった。


「私、これ好き。」


そう言って笑う姿が眩しかった。


食器を洗っていると少女が妹が見ているテレビを指さした。


「あそこ、知ってる。」


指さす先には、とある岬が映されていた。その場所は僕の家の最寄りの駅から2時間程で着く場所だった。昔、1度だけ父親に連れていってもらった事がある。幼い頃のことだからろくに覚えていないが、綺麗な場所だったことは何となく覚えていた。


カメラのアングルが変わったその時、何か違和感を覚えた。僕はあの絵を取りだし、テレビと並べた。


「ここだったんだ⋯。」


この絵を見た時からずっと気になっていたことがある。絵の端に崖のような波のようなものが描かれていたが、僕はずっと波だと思っていた。しかし今この瞬間、これは切り立った崖だとわかった。これほどまでしっかりと合致するとは、奇跡とは本当にすごいものだ。


「明日はあそこに行ってみよう。昔行ったことがあるから行き方は知ってる。」


そう言うと少女は嬉しそうに笑って見せた。


その夜、少女は妹の部屋で寝かせてもらい僕はあの帆船の事故を調べることにした。


帆船Sea Jewelはヨーロッパから日本を目指す旅客帆船だった。しかし日本に向けてのテスト航海の途中、急な嵐に合いメインマストが破損、その影響で船は転覆。あと1夜、無事に開けていれば日本に無事到着していたという。船長は乗組員を逃がすため最後まで船に残り続けた。その結果、船長以外の乗組員は無事生還したのだ。何度調べても、悲惨な事故だということに変わり無かった。もう少し調べていくと、船長の名前がわかった。ロイ・フィリップ、29歳。若手だがとても正義感が強く、優秀な船長だったらしい。また、結婚して1年経っていなかったという。様々な要因からさらに悲惨さが増した気がした。


スマホの電源を落とし眠りにつく。しかし何故か上手く眠れなかった。無理矢理にでも寝ようと目を閉じてひたすら深呼吸を繰り返した。


その夜、夢を見た。僕が船に乗っている夢。慌て、泣く船員達、そして妙に落ち着いた様子で舵を取る船長。奇妙な構図に僕は勢いよく飛び起きた。時計の針は5時を指している。僕は1階に降りると、コップに麦茶をついで一気に飲み干した。そして朝ごはんの準備を始めた。


7時頃になると妹が少女を連れて降りてきた。眠そうに目を擦る少女はご飯の匂いを嗅ぎつけると嬉しそうに笑った。

朝ごはんは白米と味噌汁、それに鯖の塩焼きに卵焼きという、いかにも朝食らしい料理にした。手を合わせて食べ始めると少女は箸を指さした。


「これ、なに?」


「そっか、箸は難しかったね。ちょっと待って。フォークを持ってくるよ。」


少女は不思議そうに箸を眺めていたが、やはり難しかったらしくフォークを使って食べ始めた。少女の食べっぷりはなかなかなもので、昨夜と同じくなんでも美味しそうに食べてくれた。


「おかわりあるからいっぱい食べてね。」


少女は元気よく頷き、目の前の鯖を勢いよく頬張った。


朝ごはんも食べ終わり、食器の片付けも終わると僕は準備を始めた。妹は友達と遊びに行くらしい。カバンのホコリを拭き、大きめのリュックにあの絵を詰めた。そして財布とスマホをポケットにつめ、家をあとにした。


最寄りの駅までは歩いて15分ほどで着いた。あの岬のある駅までの切符を買い電車に乗りこんだ。少女は電車を見るなりワクワクした表情で僕の手を引いた。


電車には運良くあまり人は乗っていなかった。少女は窓の外の景色を見てずっとにこにこしている。楽しそうでなによりだ。僕は岬の写真を見ていた。切り立った崖はどこか恐ろしいが、そのせいか、より美しさが際立っているように見えた。そして少し調べてみると、この場所は、あの帆船が通る予定の場所だったらしい。しかし帆船はここを通る前に嵐で沈んでしまった。偶然にしてはできすぎている気がして少し怖くなった。

電車に揺られること1時間半、岬のある駅に着くと、マップを見て岬の位置を確認した。歩いて30分程だろうか、なんとなくの目星をつけ僕らは歩き出した。


昨日よりは気温も低いがまだまだ暑いのに変わりはなかった。持ってきた水筒に時々口をつけ、少女の手を引き岬へ向かった。15分ほど歩いた時、少女が疲れているように見えたので、少し休憩がてらお昼ご飯を食べることにした。近くの中華料理屋に入り、冷やし中華を2つ注文した。少女は余程疲れていたらしく、出されたお冷を勢いよく飲み干した。5分ほどで冷し中華は到着した。疲れや暑さから冷し中華がやたらと美味しく思えた。それは少女も同じだったらしく、僕が食べ終わる前にからの皿が少女の目の前には置いてあった。お金を払い店を出る。相変わらず外はジメジメと蒸し暑かった。


「もう少しだから頑張って。」


僕の声掛けに少女は元気よく頷いた。またのんびりと歩いていく。途中、水筒の水が切れてしまったため、コンビニでジュースを買った。冷えたペットボトルが手のひらを冷やしていくのがわかった。

そして午後4時頃、目的地である岬に到着した。実際見て確信が着く。あの絵の場所はここだとはっきりとわかった。僕はベンチに腰をかけ絵の具の準備をした。そして、いざ塗ろうとしたその時、少女が急に変なことを言い出した。


「まだ早い。」


「え?」


「塗るの、もうちょっと待って。」


「⋯わかったよ。」


意味はわからないが、少女の言葉には謎の威圧感があった。僕はパレットを置いてペットボトルに口をつけた。


「なんで早いと思ったの?」


この質問に少女は答えず、ただじっと岬の先にある海を眺めている。それは何かを待っているようにも見えた。


それから何時間たっただろうか。少しづつ日が傾き始めていた。時計の針は6時を指している。


「まだダメかい?」


「⋯もう少し。」


「⋯そっか。」


時計の針を見つめる。1分、また1分と時間が過ぎていった。カチカチと鳴る秒針が、沈む夕日のカウントダウンをしていた。

もうすぐで日が沈みきる、その瞬間だった。


「塗っていいよ。」


急な少女の声に驚き、はっと海を見た。


その瞬間だった。


茜色に染まる地平線に、緑の閃光が駆け抜けた。


それは、いつしか落とされた爆弾のように。


理解のできない現象に脳が追いつかない。唖然とする僕に少女は声をかけた。


「塗らないの?」


「⋯今の景色じゃないと駄目かい?」


「うん、ずっと待ってたから。あの日からずっと。」


僕は震える手で筆を握った。パレットの隅に固まった赤の絵の具。その反対側にお世辞程度にのせられた緑の顔料。それらを水で溶かし、勢い任せに白い海に色をのせていった。何も考えない。いや、勝手に手が動いたと言った方がいい。あの一瞬の景色を忘れないうちにこの絵を完成まで持っていく。それしか頭になかった。背景が明るすぎるので白い帆船が映えないのではないかと心配になった。しかし不思議なことに、紅と緑の背景はあの帆船に見事なまでの強い存在感を与え、その雄大さと神秘的な美しさを表現していた。それはこの後沈没する船とは思えないほど。


全ての色が塗り終わると僕は静かに筆を置いた。純白だった画面に描かれたのはどこか悲しく、どこか恐怖を感じる美しい絵画だった。


「これでいいかな?」


そう言い振り返る。しかしそこにあの子の姿はなかった。これまでの事は夢だったのか、そう思う程、孤独な状況が僕の後ろには広がっていた。僕はかたかたと絵の具の片付けを始めた。


「お前さん、その絵は⋯。」


振り返るとそこには中年の男性が立っていた。


「あんた、その絵はどこで手に入れた?」


「僕の街の骨董屋ですが⋯。」


「なぜそんなところに⋯。」


男性は落胆したような顔でベンチに腰をかけた。


「この絵を知ってるんですか?」


「あぁ、だが完成までは見たこと無かった。そのカバンを見ると、あんたが完成させたらしいな。」


僕はこれまでのことを全て話した。少女のこと、絵のこと、そして帆船のこと。男性は静かに話を聞いていた。全て話し終わると、男は大きくため息を吐いて、この絵を描いた女性のことを話し始めた。


この絵を描いた人は小室 風香(こむろふうか)というらしい。風香さんは画家で、色々な場所を周り絵を描いていたという。その旅の途中、あの帆船の船長であるロイ・フィリップと出会いめでたく結婚。この男性とはこの岬で絵を描いている時に出会い、話を聞いたという。物静かで笑顔が素敵な女性だったらしい。


「しかし、この岬に出る前にあの帆船は沈んでしまった。彼女の夫を乗せたまま。あの事件以降、彼女の姿は見えなかったが、この絵のことは忘れなかったよ。」


そう言って立ち上がり男性はぺこりと頭を下げ、去っていった。僕はまた絵の具の片付けを始めた。


「話しは終わった?」


あの子の声に振り返る。何事も無かったかのように立つ少女に、あの時あった可愛さは無く、可憐で綺麗な目の少女が僕を見つめていた。


「あの人、まだこの絵のこと覚えてたんだ。最後に見せられてよかった。完成させてくれてありがとう。」


「これで良かったの?」


「えぇ、あの一瞬を私は何年も待っていた。これで未練は無くなったわ。」


話し方から声まで違う。まるで別の人間と話しているようだった。


「君はなんなんだい?」


「この体の名前?それは分からないわ。物心着く前には何故か1人だったから。きっと産んだ親が捨てたのよ。まぁ、結果としてそれで良かったんだけどね。」


「じゃあ君は小室風香さんなのかい?」


「小室風香⋯。そうゆう名前なのね。生まれ変わる時、何もかもを忘れさせられたから知らなかった。なのにあの絵と帆船のことだけは忘れさせてくれなかった。」


「そっか⋯。じゃあなんであの絵を描いたのか教えてよ。」


「知らない。ただ気がついたら描き始めてた。だけどあの人が居なくなってから、この絵どころか自分の存在さえ要らなく感じて、あの骨董屋に持っていったの。それで飛び降りた。なのにあの世へ行けなくて、起きたら生まれ変わってこの姿になってた。生まれ変わりたくなんてなかったのに。あの世へ行けない理由を探ったら未練があるとか何とか言われて、仕方なく完成させることにしたの。手伝ってくれてありがとう。」


「じゃあ、あの閃光が今日見られることは知っていたんだ。」


少女は少し間を置いてから口を開けた。


「この岬にあの船が通る日、その日もあの閃光は見られるはずだった。それも奇跡的にあの船が通る瞬間に。神が恵んでくれた最高の景色を悪魔が邪魔をした。それも大切な人を巻き添いにして。」


彼女の目から涙がこぼれ落ちる。幼気な少女の姿からは考えられないほど、その言葉のひとつひとつにはありとあらゆる感情が刻まれているのが分かった。


「あなたには本当に感謝してる。これでやっとあの世へ行けるわ。この少女の身体ともお別れね。」


「この後、君はどうするの?」


「さぁ、早くあの人に会いたい。寿命が尽きるまで待つのは長いし、行くところもないし、勝手に野垂れ死ぬはやだから⋯。」


その後に続く言葉を聞きたくなかった。


目を閉じ、海の方を見る。

すると昨夜見たあの夢を思い出した。


船の中にいる夢。


なぜ船長が落ち着いていたか、今ならわかる。


また会える。


そうわかっていたから。


「あの帆船に、君も一度乗ったよね。」


「? えぇ⋯。」


「その時食べた夜ご飯のこと覚えてる?」


「⋯えぇ。」


「「オムライス。」」

私が好きって言ったから。」

君が好きって言ったから。」


彼女は口を開けて愕然とする。


「なんでそのことを⋯。」


僕はそのことに答えなかった。静かにベンチに腰をかけると、彼女も隣に座った。


「あなたの名前は?」


「⋯わかんない。」


「⋯そっか。」


そういった彼女の顔は笑っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海の色 黒潮旗魚 @kurosiokajiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る