ママは風より速い
俺が買い物カゴを盾にして身構えていると、そいつはゆらりと姿を現した。
幽鬼のような足取りだった。
「生きた女はうるさいな」
顔色の悪い、初老の男である。額には二本の角が生えており、人間ではないとわかる。
しゃがれた金属質の声に、長身で痩せぎすの体型。
全体的に、干からびてると表現するのがしっくりくる出で立ちだ。
なのにまとっている装備は、豪華そのもの。
カサカサに乾燥した肌の上に、見事な鏡面装甲の鎧を着込んでいる。
右手には黒く光る短刀。こちらもかなりの業物に見える。
俺と男の視線が交差する。
その途端、男の目が驚愕に見開かれた。
「……ダゴン様?」
ダゴン?
俺が妻や妹と力を合わせて倒した、魔王軍の幹部の名だ。
また死に際に、俺とエリナの体を入れ替えた張本人でもある。
その名がどうして俺を見て出てくる?
不審に思っていると、乾いた男は片頬を歪めて笑った。
「……違うな。だが無縁でもないか。ほう、少し混じっているのか」
発言の意図が読めない。
撹乱? それとも本当にダゴンと面識がある?
推測する。こいつは何者だろう。ダゴンの部下か? ありうる。
混じっている、の意味はなんだ。
ダゴンの最後っ屁は、俺に何かしら影響を与えているのか?
まさか死んだはずのサムソンが王都に現れたのも、それと関係しているのか?
刹那の速さで駆け巡る思考は、シャロンの囁きで途切れた。
――あのナイフ、お母様が持っていたものに違いありません。
一瞬で俺の関心は男の手元へと移る。よく磨かれた、繊細な装飾の短剣が握りしめられている。
あの男には全く似合っていない、女性的なデザインだ。まるで女魔術師が、護身用に持ち歩くかのような。
シャロンの母親の二つ名、毒刃のシャーロットの由来になったのは、特注の黒い短刀だと聞いている。
魔術師でありながら、短剣術を極めた凄腕の女冒険者。
そうなのか。
そういうことなのか?
この悪趣味な野郎は、シャロンのおふくろさんの亡骸を漁ったのか?
「……お母様が死体で帰ってきた時、トレードマークだったはずの毒ナイフは見つかりませんでした」
こんなところにあったんですね。そう囁く声は、震えていた。涙声だった。
戦うにはそれで十分である。
今まさに、ママの目の前で子供を泣かせたのだ、この干物男は。
生かしちゃおけねえ。
俺は買い物カゴからミスリル製包丁を取り出し、逆手に持った。
男が告げる。
「やる気か? ……儂は
「主婦エリナ」
「くく……さぞや名のある術師かと思えば、よもや主婦……主婦? は?」
「主婦だ」
刃物を抜いたのは、こちらの方が効くと判断したからだ。
このバールなる男の着ている鏡面鎧は、いかにも魔法を弾きそうに見える。
わざわざ金属ではなくこのような材質を用いるのは、それ以外に考えられないのだ。
ただでさえあの規模の炎を防げる結界を張れる上に、そんな要素まで加わればまず魔法は無意味。
ならばエルフが鍛えしミスリル銀の刃で――断ち切る。
なに、剣術ならサムソン時代に嫌になるほど練習したんだ。
切り札だってあるしな。一度やってみたかったんだ。
俺が刀身に闘気を込めていると、バールはまたも声をかけてきた。
「待て。……なぜ主婦がここにいる」
「あんたをぶっ倒すためだよ」
「そうか。だがなぜエプロンを着て、台所包丁を構えている」
「切れ味がいいからだよ」
「どこで手に入れた」
「うちの村でイチキュッパで売ってた」
「……」
バールは天井を見上げると、「帰れ」と呟いた。
「どうせ旦那と喧嘩でもしたんだろうが、八つ当たりの相手にされてもな。儂はねぐらと手下を焼いた術者を探している。今はそいつにしか興味がない。帰れ」
それ私だよ、と教えてやる。
「私がやった。全部焼いた」
「……人間風情がか?」
バールは黄色い目を細め、じっと俺の顔をねめつけてくる。
やがてその眼球はぎょろぎょろと左右に動き始め、何度か往復してから止まった。
「なるほど、尖り耳か。純粋な人間ではないな。……魔族、にしてはあまりに見目麗しい。エルフの血筋か」
だがエルフの腕力など大したものではなかろう、とバールは含み笑いをする。
「儂はな、死んだ生き物が好きだ。死ねば永遠になるからだ。しかしエルフは生きながらにして永遠に近い存在であるな。よって例外的に、エルフは生きていても好きだ」
「だから?」
「お前の目玉をくり抜き、手足を潰し、ここに置いておこうと思う。遊ぶのに飽きたら、食う。エルフの女はそうするに限る」
俺は何度か瞬きをする。
てっきりこいつの枯れ木のような風貌から、俗な欲望など持ち合わせていないと思い込んでいたのだ。
所詮は魔物。
やはりこいつも人間の敵なのだ。
「その短刀の持ち主だった女魔術師は、どうした。まさかそんな風に弄んだの」
「さあ? 記憶にないな。覚えていないということは、手足を何本か食って放り捨てたんだろう。相手が人間ならそうしている」
「……かわいそうに。今の発言で、あんたの死に様は酷いのにするって決めたから」
「かわいそうなのはお前だ。とても魔法が通じそうにないと判断して、やぶれかぶれになっているのだろう」
その言葉と、俺が跳ぶのは殆ど同時だった。
床を踏み、バールの死角へと、滑空するかのような高速の移動。
「――速い!?」
儂の目に追えぬだと!? とバールのうろたえる声が聞こえる。
それもそのはず。
今の俺は風よりも、否、音よりも速い。
おそらくバールの発した言葉がシャロンの耳に届くより先に、俺はもう斬りかかっている。
『兼業主婦流歩行術――特売日ステップ』
農業のかたわら主婦業もこなしていた俺は、村の市場で行われる特売日に間に合わないという悩みを抱えていた。
レオンの子守をしながら畑をいじって、食事の支度まで行わねばならなかったのだ。
時間が足りない。速さが足りない。
そのような理由から開発したのがこの技術だ。
自身の魔力を身体能力に還元し、高速で移動する。いわゆる身体強化の呪文。
それに主婦特有の粘り強さ(それ私が買うんだけど! どいてよ!)などを組み合わせると、尋常でない機動力を発揮するのが判明したのだ。
母は強しというわけだ。
おそらく世の中の母親は、大なり小なり無意識のうちにこれを使いこなしている。
それを自覚的に体術として体系化し、ハーフエルフの馬鹿魔力を上乗せして用いるのは俺が初めてだろう。
さらに今回は――精霊術師の特性も活かし、周辺のマナを吸い取って筋力にブーストをかけている。
魔力×母性×マナ=スピード。
おかげで村で使っていた時では考えられない速度を実現している。
断言できる。俺の足は今、地上で一番速い。
「そんな……!? エリナママは出産だけでなく、格闘も得意だというの!?」
ミスリル包丁が、バールの右腕を切り落とす。
シャロンの母親の形見ごと、地面に転げ落ちた。おそらく利き腕なはずだ。
奴の戦力がどれほど削られたかは、言うまでもない。
ところでなんか今シャロンの褒め方おかしかったなよな。出産に得意も不得意もあるのか。
戦闘中に何考えてんだ俺は。
邪念を振り払い、バールに再度縦斬りを行う。
予想通り、こいつの鎧は対魔法防御に特化しているらしく、物理防御はからっきし。
面白いように切れる。
実力はおろか、相性でも勝っている。まるで負ける気がしない。
「ならばこれで……!」
だがバールも諦めない。残された左手から、無数の光級を撃ち出してくる。
一つ一つは大した威力でも精度でもないが、やたらと数が多い。
「シャロン!」
そのうちの一発が、シャロンのいる方向へ向かった。
咄嗟に俺は跳躍し、背中で流れ弾を受け止める。
「……うっく!」
「ははははは! さぞかし痛かろう!」
痛かろう。痛かろう。バールは声を上げて笑っている。
まあな。
確かに背中はミスリルエプロンでも守りきれない箇所だ。肌が焼ける感触もある。
出血だってしているかもしれない。
けどよ。こんな痛みで俺を止められると思ったのか?
エプロン姿の女を見て、何も感じなかったのか?
俺はな、ママなんだぜ。
ママってのはこの世で最も苦痛に強い人種の一つなんだぜ。
そうとも。
お産に比べれば、この程度の痛みはなんでもないのだ――!
「あれを上回る痛みなどあるかああああァァァァァー!」
痛みを無視して再びバールに接近し、包丁で半円の機動を描く。
きらりと輝く、キッチンのメインウェポン。
地上で最も美しい種族が研いだ、ミスリル銀の刃だ。
それはいともたやすく、死霊術師の体を切り裂いた。
「馬鹿な……」
どさりと、倒れ込むような音がした。
切断された、バールの上半身が腰から落下したのだ。
相棒を失った下半身は、呆然と立ち尽くしている。
横一閃に、真っ二つ。
予告通りの、酷くてみっともない死に様だ。
バール、お前は原型を留めるに値しない。
「……なぜ……魔王軍が序列第四位の儂が、こんなところで……」
「解せぬって顔してるね。いいよ、教えてあげる。あんたの敗因はたった一つ」
出産経験の有無、さ。
「……信じられぬ……儂が、よりによってただの主婦に……」
勝敗は決した。あとはただの処理作業だ。
俺はようやく一息つくと、首を振って目にかかった髪を振り払った。
激しく動き回ると、やっぱ長い髪ってのは邪魔だな。
カゴから紐を取り出して咥えると、一本に結ってまとめる準備に入る。
「お、おかあしゃん……! おかあしゃんがお料理する前に、髪をまとめる時の仕草……! ままぁ……! その動き、しゅき……!」
バールも原型留めてないけど、シャロンも原型留めてないな。お前どうなってんだよ。
今の俺の動作のどこがそんなにツボをついたんだよ。
わけわかんねーなほんと。
髪を整え終えたので、バールの上半身に近付く。
あわれにも、ゴボゴボと血を吐いてもがいている。
あとは喉なり眉間なりを貫けば、全てが終わる。終わらせる。
顔面に包丁の切っ先をつきつけたところで、バールが口を開いた。
「待て」
「何さ」
「せめて……台所包丁ではなく、まともな武器でトドメを倒してくれ。死因がそれでは、地獄でイジメを受けそうだ」
「あんたは今まで殺してきた冒険者の命乞いを聞いてやったの?」
「……した覚えがないな」
バールが瞑目し、全てを諦めたような顔になった時、ドタドタと神官集団が駆け込んできた。
「シャロン! お母さん! 大丈夫!?」
なんだか変な音が聞こえたんだけど! と血相を変えてシャロンを取り囲む。
神官さん達は目にハートマークを浮かべて「まましゅき」を連呼する妹分を見て、はらはらと涙を流していた。
「ひっ、酷い……酷すぎる。こんないたいけな女の子に、精神攻撃を加えるなんて。ええ、大丈夫よエリナさん。言わなくても全部わかってるから。……この男がやったんですよね。アンデッドを生み出すだけでなく、混乱呪文の使い手でもあったなんて。よく仕留めて下さいました。シャロンに変わって感謝します」
「さっきから言動が変だなと思ったら、こいつの仕業だったんだねー。十三歳の女の子に羊水飲みたいと言わせるなんて、とんだ変態モンスターもいたものだよ。うわぁ……あたし寒気してきた」
「恐ろしいわ……こんな変質者がナジール霊廟の主だったなんて。きっと地獄でも隔離されて、筋金入りの特殊性癖持ちと一緒に過ごすはめになるのでしょう」
バールは大勢の神官女子に冤罪をなすりつけられ、変態、変態、変態、と罵倒されていた。
確かにこの死霊術師は欲望を見せてきたけど、そういう方向ではなかったぞ……。
まあ、いいか。
悪人には変わりないしな。
本人からも「頼むもう殺してくれ。一秒でも早く死にたい」と懇願されてるし、やっとくか。
「えい」
俺がバールの喉を一突きしたところで、この日の探索は終了した。
王都周辺で最難関と謳われたダンジョンが、陥落した瞬間だった。
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