ママにしか言えない

 後にシャロンは俺を母性地獄に叩き落としてくれるのだが、それはもっと先の話。

 今はとりあえず、腰にしがみついて離れようとしないこの子をなだめるのが先決だろう。


「エリナママぁ……いい匂いする……」

「あのね、そろそろ離れてくれるとお母さん嬉しいかなって」

「すんすん。産道の匂い」

「そこはお日様の匂いとかでお願いしたいんだけど」

「赤ちゃんベッドの入り口の匂い。すん……これは……キングサイズ! わたくしにはわかりますわ、広めの子宮ですのね。ああ……きっと胎児を包み込むための形をしてらっしゃる……そう、わたくしを包み込むための形……」


 美少女にあるまじき言動である。はっきり言って、サラマンダーより酷い。

 産道の匂いってなんだ。服の上からわかるのか。

 言っとくけど俺は毎日ちゃんと洗って清潔にしてるからな。

 愛する妻の体だけあって、きちんと品質管理してんだぞ。

 

「もうこんな汚れた世界いやだ。エリナママのお腹に帰りたい」

「まずその前にダンジョンをどうにかして、お家に帰らないとね」


 ていうかお前が汚れそのものだろ。

 俺は力を込めると、シャロンをべろんと引き剥がす。

 うるうるとした目で名残惜しそうな表情を見せてくるが、ここはあえて冷たく突き放すのも親心である。

 

 帰ったらちゃんと甘やかしてやるから少し我慢しろよ。

 俺だって辛いんだから。


 気を取り直して、俺達はダンジョンの本格的な攻略に入った。

 攻略といっても、実情はほぼゴミ掃除だが。

 灰の山に変わり果てた回廊を、ゆっくりと行進していくだけ。

 なぜゆっくりなのかといえば、神官さん達がアンデッドの燃えカスを見つけるたび、浄化作業で足を止めるからだ。

 迷える魂を昇天させるのは、地道な作業なのだった。

 

 見ればシャロンも小さな体を一生懸命走らせ、そこかしこの肉片を浄化している。

 意外にも、これといっておかしなところはない。

 目からハイライトが消えた上に、ハートマークが浮かんでいることを除けば。


 羊水がどうのこうのと発言してから、ずっとこうなのだ。

 魔眼……?

 眼病……?


「ね、シャロン」

「なんですの?」


 呼びかけると、艶やかな金髪をなびかせてシャロンは振り返った。

 ばっちり目が合う。


 やっぱそうだ。瞳孔の周りに、ハートマークが出ている。

 エメラルドグリーンの虹彩の上に、ピンクのハートがビカビカと自己主張している。

 こんな精神状態異常、あったっけ。

 俺も長いこと冒険者やってたけど、ちょっと記憶にない。

 

 修道院でずっと生活してるとこういう症状が出るのかな。

 それともシャロンが頭おかしいせいなのかな。

 

「羊水飲みたいって何」


 試しに聞いてみる。ある種の精神鑑定である。


「えっとですね」


 シャロンは可愛らしく両手を合わせると、祈るようなポーズを取りながら言った。


「エリナママは、人生のピークっていつだと思いますか」

「ええ? ……うーん。人によると思うけど、普通は二十代かな? 年齢に関係なく、新婚直後や子供が産まれたばかりだったらそこがピークかもしれないけど」

「違いますわ」


 シャロンは目をつむると、穏やかな声で語り始めた。

 まるで宗教指導者が、信徒に教えを説くかのようである。


「母親のお腹の中にいる時期が、人生のピークなのでしてよ。あったか胎盤おふとんに包まれて、羊水のみを飲食し、へその緒でママを拘束……コホン、繋がっていられる。これこそが子供にとって、最も幸福な時期なんです。産まれたら敗け。敗けなんです」


 つまりこの子はナジール霊廟の瘴気に当てられて、混乱状態にあるんだな。

 おそらくこの解釈は間違っている。

 でも精神衛生上一番よい解釈なので、俺はそう思い込むことにした。

 

「ママの羊水……欲しい……一番良かった頃の気持ち……味わいたい……」

「無理だよ。出せない。出せるはずがない」

「エリナママならいつかやってくれると信じてます」

「それ破水って言うんじゃないの?」


 どうでもいいが、知らぬ間に呼び方がエリナママで固定されてるのな。

 どうやらこの猟奇犯罪者じみた発言しか出てこない少女に、正式にママ認定されたようだ。

 確かにそれを目標に動いてたんだけど。調子狂うというか。頭狂うというか。

 見た目が愛くるしいからまだ許容できてるけど、普通なら逃げ出してるところではなかろうか。


 よく先輩神官達は今までこの子の相手できたな。普段どういう風に過ごしてたんだろうか?

 俺は廊下の角を曲がりながら、シャロンにたずねてみる。


「神官のお姉さん達には甘えようと思わなかったの? 妹みたいに可愛がられてたんでしょ。一人くらいはママになってくれる人がいたんじゃない?」


 シャロンは「は?」という顔をして片眉を釣り上げる。


「何もわかってませんのね。神官女なんて、生涯独身でしょう。出産経験がないんですよ。そんな人達をどうやってママ扱いするんですか? 無理ですよ。常識じゃないですか。ちゃんと赤ちゃんの気持ちになって考えてください」


 はい。すいません。

 妙な迫力があるので怖くて口答えできない。


「よいですか? わたくしは見た目こそ十三歳かもしれませんけど、根っこの部分は生後二秒の赤ん坊なんです。心の中ではへその緒がぶら下がったままなんです。そこをしっかり意識して発言して頂かないと」


 レオンってまだ話の通じる子供だったんだなあ。

 急に息子が恋しくなる俺である。

 切実にあいつの顔が見たいぞ今。


 そうやって俺が口数を減らしていると、ととと、とシャロンが駆け寄ってきた。

 そっと俺の手を取り、己の胸にぎゅっと押し付ける。

 まるで大事な宝物を胸に隠すような、そんな動作だった。


「……こ、こんなこと、ママだから言うんですからね。許してくれそうな相手だから言うんであって、年上の女の人なら誰でもいいってわけじゃありませんから」


 わたくしのこと変な子供だって思ってたでしょう? と目をそらして言う。

 頬は真っ赤に染まっていた。


「常識くらいわきまえております。わたくしがこういったお話をするのは、エリナママで二人目ですから。……もちろん一人目は、本当のお母様です」

「……わかった」


 恥部をさらけ出したのは信頼の証。そう思うことにした。


「ところで本当のお母さんはさ、今みたいなお話したらどういう反応したの? 羊水飲みたいなんて打ち明けたら、びっくりされたでしょ」

「……それが……心の病気に効く薬を作ると言い出して、材料を集めるべくダンジョンに飛んで行きました」


 どうやらシャロンの母親は健全な精神の持ち主だったようだ。

 それでいて見た目が娘と瓜二つとなると、大層な美人さんなわけで。

 中も外も完璧な女冒険者だったのだろう。


 そりゃそんなお母さんいたら、大好きになっちゃうよな。

 

 忘れらんないよな。


 俺だってそうだ。母親ではなく妻だが、故人は永遠に美化され続ける。

 今も胸の中でエリナは微笑んでいる。この思い出を糧に生きていくつもりだし、新しい恋人を作る気はない。


 でも、シャロンはまだ十三歳なのだ。

 これまでではなく、これからのために生きていかねばならない。

 そのために、今から直視しなきゃいけないものがある。


 俺はシャロンに片腕を塞がれたまま、霊廟の最深部へと向かう。

 大抵のダンジョンは主である強力なモンスター、ようするにボスが待ち受けているものだ。

 無事に倒せばめでたくお宝をゲット、負けたらそこでジ・エンド。

 だが今日は、財宝に目がくらんでやって来たわけじゃないし、戦闘もおそらく発生しない。


「シャロン」


 俺を母と慕う少女に、これから待っているものが何を意味するかを語る。

 

「もうすぐ霊廟の最奥。ここで一番強い魔物がいる場所だよ」

「ええ……でも、ママの魔法で焼かれているのでは?」

「そうだね。きっとここの魔物に指示を出し、罠を配置していたはずの、一番悪い奴の死骸が転がってる。それってシャロンのお母さんの、ある意味では真の仇の死体だよね」

「……」


 俺は聞く。

 憎い憎いアンデッドの親玉の消し炭を見て、その時何を思ったか聞かせて欲しいのだと。


「もしそれを見てさ。不死者への恨みが消えちゃったなら、神官辞めたっていいんだよ」

「……ですが、わたくしをパーティーに入れたいのでしょう? 戦力として期待してたんですよね?」

「うん、神官はすっごい欲しいけどね。でももっと大事なことだし」


 神官じゃない、普通の女の子のシャロンでもうちのパーティーに居ていい。

 料理当番でもいいし、なんならただの賑やかし役として後ろの方で遊んでりゃいいんだ。

 もしシャロンが神官でなくなったら、恋愛も結婚も自由になる。

 シャロンがお母さんになったりできるんだぜ。


 そしたらもう寂しくないだろ?


 俺らと一緒に旅して、色んな可能性見ようや。途中で好きな男だって見つかるかもしれない。

 尼さん暮らしするには、もったいない器量してんじゃねえか。

 な、どうだ? 元々仇討ちのために入った修道院なんだろ。大して信仰があるわけじゃないんだろ。

 幸せになんなきゃ、天国のお母さんだって浮かばれえよ。


 ――と、いったことをお母さん口調で言ってみたところ、シャロンは涙声で「マンマアァァァァー!」と叫びながら抱きついてきた。

 

「ママ! ママ! ママァ! わたくしの羊水サーバー! ママしゅきっ! らいしゅきぃ……! 羊水……」

「ちょっとちょっと、今のでそこまで暴走するもんなの!?」


 とろんとした目でしがみついてくるシャロンを引っぺがそうと格闘していると、視界の隅に妙なものが映った。

 そこら中が燃えているというのに、不思議と綺麗な一角があったのだ。

 すす一つない、不自然に綺麗な空間。

 

 まるでそこだけが切り取られたかのように、周囲から浮いている。

 ここだけが、火精の火炎魔法などなかったかのように。


「――待ったシャロン。何か変。……何か、いる」


 俺は女の勘なんて持っちゃいないが、それを補うものとして熟年冒険者としての経験がある。

 溜め込んだ知識から結論を割り出す。

 間違いない。この手の状況でありうるのは、結界が張られた時だ。

 しかもあのレベルの炎を防げる、強力な結界をだ。


 俺はシャロンを庇うようにして立つと、「いるんだろう?」と声を荒らげる。

 返事は言葉ではなく、足音だった。

 ざり、ざり、と灰を踏む音が鳴る。


 それはじらすように歩いてくる。

 すぐそこまで迫ってくる。


 配下の焦げ跡を踏み分けて、霊廟の主がやってくる。

 シャロンの母親の、真なる仇が。

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