逆襲
縛られていた箇所の毛細血管に血が通って、痺れている。だが、支障はない程度だ。
突進してくる5048に向かって丹恋は歩き出した。相手は本気で自分を殺めようとしている。匂いまでしそうな殺気に怖気づきそうな心と、脳から大量に分泌されたアドレナリンによる高揚感がせめぎ合っていた。
こんな感覚は試合では感じたことがなかった。
合気道は螺旋。小さい頃から口を酸っぱくして言われてきたことだ。あの頃は意味がわからなかったけれど、今ならわかる。
5048の身体には螺旋を作り出せる場所がいくつも存在していた。
走る、刺す。全ての動作にはエネルギーが発生していて、それを利用するのが合気道だった。だからこそ、小柄な自分が体重差のある相手に立ち向かえる。ただし、どこに螺旋を作るつもりなのか悟られてはいけない。そこに、個々人のセンスが現れる。
このまま二者が接近すれば衝突するタイミングは互いに頭が計算している。今から、それをずらす。
丹恋はぶつかる直前で一歩を大きく踏み込み、5048の首、肘に手を当てて制した。相手の体勢が崩れたところで、ナイフを持つ手首を極め、肘を極める。行き場を失ったエネルギーの逃げ場を丹恋の動きによって作り出し、5048は関節を極められたまま、床に投げつけられるしか道がなかった。
僅か一秒の間に起こったことだ。
5048は受け身を取らずに落下したため、背中と腰を強打した。骨や内臓まで届く衝撃に、ナイフを取り落とすばかりか、気を失っていた。
背後から拍手とともに称賛が浴びせられた。
「さすがですね!」
「まあね」
言ってから、マリオネットが糸を切られたように丹恋はその場にへたり込んだ。
「大丈夫ですかっ?」
「……緊張が解けたら力抜けたぁ。思ったより縛られてたところも痛いし。あ、私を縛ってたロープでこいつも縛ってくれる? いつ目を覚ますかわかんないしね」
「わかりました。そうしている間に警察も来るでしょう」
無策に突入したように見えたが、唄はやはり堅実なようだ。警察に通報した時点で5048がどこにいるか明確に認識していたことになるのだから、彼女の頭脳には舌を巻いても巻き足りない。
「そう言えば、何で頭を怪我してるの?」
丹恋は気絶している5048の額を指さした。
「出入り口の足元に紐を張っておいたんです。外が暗いのでそのまま気づかずに、転倒したというわけです。勢いがあったので、盛大に頭から地面にずざざーと。おかげで時間稼ぎができました」
激昂して戻ってきたことにも納得だ。虚仮にされた悔しさでたまらなかったのだろう。
「私、犯人の正体を知ってからも一連の事件を起こした理由がわからないんだけど、唄は推理できたってことでしょ? でなきゃ、ここまで助けに来れなかったもんね」
「そうですね、推理できました。知りたいですよね?」
「勿論。こんなに巻き込まれたわけだし」
「それもそうですね。ですが、後にしましょう。ほら、遠くからサイレンの音が」
耳を澄ますと、パトカーが徐々に近づいてきているのがわかった。いつもは警戒心を抱かせるサイレンが今だけは子守唄よりも平穏に引き戻してくれた。
「さて、私は警察の方を迎えに行きます。先生達もいきなりパトカーが来て、パニックになるでしょうし説明しないと」
「私も行く。この人と二人になりたくないから」
気絶した状態で拘束されているのだから逃亡されることはない。
足首が思うように動かなかったが、歩く分には問題ない。
外に出ていく前に、改めて5048の顔を見つめた。
「先生。どうして、人を殺そうとしたんですか?」
意識を失った相手に問いかけた言葉は、ただ古びた体育館のささくれた木の壁や錆びた柵に吸い込まれていった。
パトカーが一台、サイレンを弱めながら正門に到着し、サイレンを停止させてから敷地内に進入してきた。チョッキとブルーシャツの制服を着た警察官が助手席から降りると、すぐに丹恋と唄の姿に気づいた。優しそうな女性で丹恋は安堵した。
「通報者の方ですか?」
「そ、そうです。旧体育館に殺人未遂の犯人を私人逮捕しています」
「殺人未遂――怪我人は?」
「縛られていたので、少し痛むぐらいです。問題ありません」
警察官は丹恋の手首と足首の状態を確認して、
「念のため、病院で診てもらってください」
「あ、はい。わかりました」
運転席にいた男性の警察官も降りてきて、女性警察官とアイコンタクトを取ると、無線機で応援を呼んだ。
新体育館の方から教師が数人やってきて、パトカーを視認するなり血相を変えて走ってきた。その中には遠山先生もいて、警察官と共にいるのが自分の生徒だとわかると一人走り凄まじい速度で集団から抜けた。
「何事です?」
「ああ、どうやら殺人未遂があったとかで。この子達から通報が」
「殺人未遂っ? 一体、何があったんだ?」
「に、丹恋さんが旧体育館で5048に襲われたんです。殺される直前でどうにか助けられたので、大きな怪我は負っていませんが」
「おいおい、何だっていうんだよ」
遠山先生は顎を殴られたようにふらついてから、犯人について思いがようやく及んだようだった。
「犯人は誰なんだ?」
「今も、旧体育館で伸びてます」
「本当かっ? すぐに行く」
「先生、危ないですから。我々警察を案内していただけるだけで構いません」
遠山先生は「先走りまして、すみません」とへこへこ腰を曲げ、男性警察官と数名の教師を連れ立って旧体育館の方向へ向かった。女性の警察官は二人のために残ってくれた。
そんなとき、正門から一人の女性――真希と同年代に見えた――が怪訝そうな表情で現れた。やや細く、鋭く引かれたアイブローの形が勝ち気そうな印象を持たせた。丹恋は自分の友人に顔が似ているように思った。
女性は警察官に不安そうに尋ねた。
「どうしてパトカーが? 説明会は中止ですか?」
丹恋は気になったことを訊いた。
「説明会はもう終わってますけど」
「ええっ? 八時開始だってメールが来てたのに……見間違いじゃないと思うんだけどなぁ」
ぶつぶつと言っているうちに女性は苛立って舌打ちをした。
掴めない状況に、警察官も戸惑っていたとき、唄が丹恋に耳打ちしてきた。
「あの人が、本来殺されるはずだった方です」
思いもよらぬ言葉に息が止まった。5048の言っていたメインゲストが彼女だというのか。
唄はもじもじとしながら残っていた教員の一人に声をかけた。
「あ、あのう。先生の中に姿の見えない人はいませんか? 恐らく、どこかで気を失わされて放置されているはずです」
丹恋は、唄が推理によってどこまで解き明かしたのか、皆目見当がつかなかった。
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