自転車と鼻血と推理(唄視点)
唄は冷めたポテトを一本ずつ、丁寧に口に運んだ。ゆっくりとそれを繰り返しながら、丹恋という存在について思いを馳せた。
出会ったのは、遠山先生の差し金がきっかけだった。あのとき、丹恋が嘘をついたことを知りたくもないのに頭は証してしまった。知ってしまったら、腹も立つ。こんなことはこれまで何度もあって、その度に関係はそれきりになった。丹恋とだって、そうなるはずだったのだ。
保健室のベッドで暇を持て余していたとき、壁越しに聞こえた会話。瞬時に悪意が介在していることに気づいた。そのまま、見て見ぬ振りをする選択肢もなかったわけではなかった。
ベッドを飛び出したのは、丹恋とだけははじめから目を見て話すことができたことを思い出したからだった。もしも、一生の中で出会うべくして出会う人がいるのなら、それは丹恋なのではないか。普段なら理性で防御するロマンチックな思いがこのときに限っては全身を突き動かした。
今思えば、正しい選択だった。それをきっかけに丹恋は唄に興味を持った。丹恋と一緒なら、推理をする恐怖にも打ち勝つこともできた。丹恋を中心に広がる輪の中に混ざることが、楽しいと思える自分も芽生え始めた。
嘘みたい。こんなの、嘘みたいだ。
だから、楽しさの裏には怖さがいつもあった。
これが幻だったら。ずっと夢を見ていて、目が覚めたら目の前には問題集ばかりがあったら。頬をつねって、唄はそれを否定してきた。
けれど、不安は消えなかった。自分から名探偵の部分を切り取ったら、あとに残るのは何だ。人の目を見るのが怖くて片方の目を隠している、愛嬌のないちんちくりん?
推理力も、学力も父親から遺伝した。自力で勝ち取ったものは何もない気がして、悲しくて、虚しくなる瞬間が不意にやってくることがある。今日は、そういう日だった。
唄の主観の部分が膨れて破裂しそうになったとき、いつも賢ぶって澄ましている客観の部分があることに気づいた。
――もう二十分、経っている。
唄の心臓が跳ねるように鼓動する。
不安があっという間に身体に染みていって指先が痺れた。
杞憂ではないはずだ。何かあったのだ。想定よりも遅れるのなら、取りに行ったはずのスマホで連絡するだろう。つまり、スマホを取る前に彼女に何か起きた。
通り魔? いや、学校までの道は明かりがある。どぐん。視界が確保されている状態で合気道黒帯の彼女が遅れを取ることは考えにくい。不意を突かれたのではないか? どぐん、どぐん。
――心臓がうるさい。いちいち思考を遮るな。
唄はブラウスを握り締め、自分の心臓に命じた。言うことを聞いてくれるわけもなく、鼓動は乱れたままだ。
ひとまず、丹恋のスマホに電話をかけた。応答はない。
警察に電話しようにも、まだ丹恋の身に何かあったという確証がなく、動向がわからなくなってからの分数が短い。父の名前を出しても、電話を受けたオペレーターが認識しているとは思えない。
もし、学校で事件に巻き込まれたんだとしたら、犯人は恐らく5048だ。殺人予告をした卑劣な相手。丹恋がまだ生存していたとしても、すぐに救い出さなければ、命の危険がある。
学校だとするなら、まだ手はある。唄は職員室への直通ダイヤルに電話をかけた。誰も出ない。
そうだ。教師達は体育館のパイプ椅子を片付けている最中なのだ。
「もう!」
店内に唄の叫びが響いた。迷惑そうな視線を気にする余裕すらなかった。
トレイのゴミを乱暴に捨てて、唄は学校に走った。体育の授業さえまともに受けていない唄は一瞬で息が上がってしまった。タクシーは近くの大きめの駅に集まるせいで、こちらには滅多に走っていない。
そんなとき、ちょうど駐輪場に自転車を停めようとする派手な見た目の若い女性が目に留まった。
「あ、ああ、あの!」
耳にいくつものピアスをつけた女性が訝しげに眉根を寄せて、後ずさるのを見て、唄はしまった、と思った。衝動的に呼び止めてしまったが、考えてみれば初対面かつ少し怖そうな人だし、何より何と言えば、見ず知らずの相手に自転車を貸す気になるというのだ。自分だったら絶対に貸さない。
「何? 何か用?」
冷たい声。いきなり理由もわからず他人に呼び止められたのだから、自然な反応だ。けれど、唄の胸は鈍く傷んだ。
だが、今は泣き言を言っている時間はない。唄は頬の内側を軽く噛んで、涙目になった。
「じ、自転車を貸してくれませんか? 必ず、必ず返しますから」
「え、えー、知らない子に貸すのはちょっと……」
唄はブラウスの裾を強く握りながら、頭を下げた。
「お願いします。友達が、死んじゃうかもしれないんです」
声が震えた。もっとはきはき喋れないのか、と自分自身を詰った。
きっと断られる。断られたら、貸してくれるまで頭を下げるか。それとも、自分の足で学校に向かった方が早いか。
「いいよ。鍵も渡すから、終わったらここに鍵かけて停めといて。鍵は、うーん、交番に落とし物だって届けといてくれればいいや」
「い、いいんですか?」
「なんで頼んできた方がびっくりしてんの? ほら、早く行けば。友達、ピンチなんでしょ?」
女性はハート型のキーホルダーのついた鍵を唄に手渡して立ち去った。
「ありがとうございます!」
できる限り大きな声で礼を言って、唄は自転車を飛ばした。
しかし、学校を闇雲に探しても時間を空費してしまう。それに、5048が必ず校内にいるという確証がない。
――どうすれば良いの?
自分に訊いたはずなのに、心から聞こえてきたのは丹恋の声だった。
――推理してよ。唄なら大丈夫。
唄は苦笑した。新たに出てきた証拠もないのに、どう推理しろと言うんだろう。簡単に言ってくれる。文句はいくつも浮かんだが、熱い気持ちが込み上げてきた。
「……やってやろうじゃないですか」
唄の脳内に一連の事件のデータがハイスピードで駆け巡る。脳が熱く、擦り切れそうになる。鼻の下を液体が伝う。口に入ったのは血だった。考え過ぎで鼻血が出てしまったのだ。
鼻血くらい、いくらでも垂れていい。その代わり、事件の真相を私の頭にちょうだい。
願った瞬間、糸口らしきものが現れた。離してたまるか。糸が切れないように、慎重に、手早く引き寄せる。
学校に到着するのと同時に、ついに一連の事件の目的、そして5048の正体に行き当たった。
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