沙紀からの罰(第三章完結)
丹恋達が旧体育館のあたりをうろついていた頃、璃子は沙紀の家の前まで来ていた。
敷地は広くないが、周りの集合住宅とは違ったシックなデザインで、沙紀の両親がこだわって注文したのだろう。そんな家の玄関前で、璃子はインターホンのボタンを押すのを何度も迷って既に十分近く経っていた。
沙紀の家は一度も訪れたことはなく、無理を言って高戸先生に住所を教えてもらったのだ。このままうじうじしていても結莉や丹恋を心配させるだけだと、ひとまず沙紀の見舞いに来ようと思ったのだ。それなのに、どうにも敷居が高く感じてしまって、ボタンを押すのが憚られた。
とはいえ、さっきから通行人の怪訝そうな視線が痛い。ピンポンダッシュだと思われているんじゃないだろうか、と見当外れの心配が膨らんできた璃子はえいとボタンを押した。押してみるとこんなものか、という気もしたが、押してしまったという気もした。
アイスにしなくて良かった、と璃子は手に持ったビニール袋を見た。中にはコンビニで買ったシュークリームが入っていた。アイスだったら既にかなり溶けている頃だ。
数秒経って、インターホンのスピーカーから「はーい、どなた?」と声がした。沙紀ではない、女性の声だ。
「あ、あのう、春日璃子といいます。小野寺、あ、沙紀さんと同じ女子マラソン部で――」
「お見舞いに来てくれたのかしら?」
「そうです」
「ちょっと待っててくれる?」
悪いことをしに来たのではないのに、簡単な受け答えもおっかなびっくりだ。大胆不敵とは正反対のところにいる自分がつくづく嫌になる。もっと堂々としていられたら。
玄関ドアが開き、姿を見せたのは部屋着に近いカジュアルな服装をした中年女性だった。目元のあたりが沙紀に似ていた。
「沙紀のためにありがとう。だいぶ体調も戻ってきたから、顔を見せてあげて」
沙紀の母は突然訪問した璃子を歓迎してくれ、沙紀の部屋の前まで案内してくれた。ドアに取り付けられたフックには『さき』とほんわかした字体で彫られた木製の板が掛かっていた。
沙紀の母は璃子にウインクすると、階下に戻っていった。
しっかり者の沙紀の母にしては随分チャーミングだった。
ドア越しに「小野寺さん、璃子です」と声をかけると、
「えっ、ちょっと待ってて!」
部屋の様子は全く見えないが、ドタバタとドアの向こうで忙しなく物音を立てていた。どうやら沙紀の母は娘には何も伝えなかったらしい。沙紀は突然知り合いが来たことで、見られたくないものがあればそれをクローゼットかなにかに押し込めるという急務に駆られたのだろう。
やがて何事もなかったかのように落ち着き払った声で、「どうぞ」とドア越しに許可が出た。
「あ、うん。お邪魔します」
ドアを開けると、学習机の前の椅子にちょこんと腰掛けている沙紀がいた。璃子が毎晩抱いて寝ているぬいぐるみのような柔らかい素材のパジャマを着ていて、練習の時の凛々しい彼女を思うと、璃子は意外に思った。おかしなことだが、今ようやく沙紀に親近感を覚えた。
部屋は綺麗に片付いていた。一、二分片付けただけではどうやってもこうはならない。このあたりは普段見ている沙紀の几帳面さが出ている。
璃子ははっとして、手に持ったビニール袋を沙紀に差し出した。
「これ、シュークリームなんだけど、良かったら食べて」
「ありがとう。ちょうど甘いの食べたい口だった」
「良かったぁ。あの、小野寺さん。体調は大丈夫?」
「見ての通り、体調はだいぶいいよ。明日には学校に行けると思う」
沙紀はシュークリームを掌に乗せて、自慢気に掲げた。
「あ、ごめん、ベッドにでも座って。私、ケッペキとかじゃないから気兼ねなく」
言葉に従い、璃子はベッドにちょこんと腰掛けた。身体が軽いのか、頑丈なベッドなのか、少しも軋まなかった。
いつ切り出そうか迷った挙げ句、璃子はちょうど沙紀がシュークリームを頬張ろうとしたときに「ごめんなさい」と頭を下げた。
「なんで? 私、お見舞い来てくれて嬉しいよ。璃子だけだし、お見舞いなんて」
「違うの、謝りたくて。あの日、私が、千歌がスマホを持ってこうとするのを咎めなかったら、小野寺さんが熱中症になることもなかった」
「まだそんなこと言ってるんだ」沙紀が呆れた様子で言った。
「だって、私のせいで」
「悪いのは犯人。それ以上でもそれ以下でもないでしょ?」
「わかってるけど、わかってるんだけど」
いつの間にか、涙が溢れていた。どうして自分が泣いているのか。一番の被害を受けたのは沙紀なのに、どうして元気な自分が? 妙に客観視しているもう一人の璃子が璃子を詰った。
「じゃあ、私が罰を与えれば気が済む?」
沙紀の言葉に璃子は目を丸くした。罰という言葉に一瞬璃子は怯んだが、罰こそ自分が求めていたものだと思い直した。励まされても罪の意識が消えないのは、罰せられない自分の立場に甘んじていることが許せなかったからだ。
「うん、済むかも」
「そっか、わかったよ」
沙紀は立ち上がり、璃子の目の前に立った。沙紀の片手が璃子の頭よりも上になり、璃子は思わず目を瞑った。頭を叩かれるか、殴られる。そう思ったのだ。
衝撃は柔らかかった。衝撃というより感触だ。璃子は沙紀に頭を撫でられていた。
これの、どこが罰なんだろう。
「これからは私のこと、下の名前で呼んで。それが罰」
「え?」
「だって、嫌なんでしょ? ずっと私だけ、名字にさん付けだしさ。でも、私だって璃子に名前で呼んでほしいもん」
沙紀は恥ずかしそうに頬を赤くした。
「嫌じゃないよ。さん付けしてたのは、小野寺さんが憧れだから……あっ」
「憧れ?」
秘めた思いをこんな形で口にするとは思わなかった。破れかぶれになって、正直に告げた。
「私と違くて小野寺さんは大人っぽくて、ずっとそうなりたいと思ってるから、名前で呼ぶのは何となく違うかなって……思ってただけで」
すると、沙紀は虚を突かれたような顔をしたあと、お腹を抱えて笑い出した。
「何それ? そんな理由?」
「うん、お恥ずかしんだけど」
「そうだね、めっちゃ恥ずいね」
頷かれて、璃子はそのまま蒸発してしまいそうなくらい身体が熱くなった。
「大人っぽくなんてないよ。私のはただの強がり。あの日だって、無理せず早めに休んでおけば良かったんだから。だから、璃子は私に憧れちゃだめ」
「でも、小野寺さんはやっぱり私にないものをたくさん持ってるから」
「そんなの璃子だってそうだよ。私にはないものばっかりで、そうなれたらいいって思うこともある。でも、比べてたら疲れるでしょ? 私は璃子と対等な関係が良い。名前で呼び合いたい」
沙紀は悪戯っぽい顔をしてまだ璃子の頭に乗せたままだった手で、璃子の髪をくしゃくしゃにした。
「お、小野寺さん」
「沙紀ちゃん、ね? 呼んでくれなきゃ、髪はくしゃくしゃのままです」
「さ、沙紀、ちゃん?」
「何で『?』つけてんの?」
他愛もないことなのに、璃子は今年で一番笑った。
お見舞いに来てから泣いたり笑ったり、大人っぽさとは程遠い。それでも、璃子は暖かい大切なものを手に入れた充実感に満ちていた。
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