容赦のない現実
あかりの告白の内容を生唾を飲み下しながら聞くこともなく、唄は聞き終えると落ち着いた口調で『そうでしたか』と、言った。唄の背後には白い壁紙だけが映っていた。
「驚いたりしないんだ」
『正直に言うと、女子マラソン部で起こったのだろうトラブルについては大体予想できていたんです』
「私達は日比先輩から聞くまで全然わかんなかったんだけど。保健室で盗み聞きしたことあったの?」
『いえ。簡単な推測です。スマホを部活中のみ使用禁止とするルールがあるのはこの学校の他の部活動では聞いたことがありません。厳しい校則のないこの桜日高校で、時代遅れとも言えるスマホ禁止ルールが存在しているのは存在するなりの合理的な理由があると考えるべきです。中高生のスマホトラブルとしては人間関係が絡むものが第一位です。トラブルについて全校に広まっていないということは、部内に限定されたトラブルかつ口外しないように言われている。つまり――』
「ストップ! 私が悪かった、本題に戻ろう。この証言、何か裏がある可能性はある? 南側の鍵を持ってきたのも校務員さんだし、グルってことない?」
『それはどうでしょうか? そんなことがバレたら職を失うでしょう。庇うほど郡司という三年生のことを思っているのなら正当な方法で問題を解決するよう進めたはずです』
「まあ、それもそっか。じゃあ、郡司先輩は本当にやってないってことか。すみませんでした、日比先輩」
「ううん、いいの」
あかりは郡司晴香が犯人ではないとわかり、安堵した様子だった。かつての仲間を疑わなくて済むことに安堵したのか。それとも、追い出した形になった晴香から恨まれていないことに安堵したのかは本人にしかわからないことだった。
『申し訳ないんですが』唄が声を上げた。
「どうしたの?」
『郡司晴香さんの靴のサイズはいくつか、知っていたら教えてください』
「それは、二十二センチだけど」
『そうですか。それで、郡司先輩は最近校務員の仕事を手伝っていたから、プレハブ小屋にいたんですかね?』
「そうだけど……どうして、そんなこと訊くの? さっき、晴香が犯人じゃないことはあなたが推理したでしょ?」
『そんなことは一言も言ってません。ただ、校務員さんの証言自体は信頼できるといったんです。今の話を総合して考える限り、犯人は郡司先輩で間違いなさそうです』
「えっ?」
飾り気のない無機質な部室に、スマホを覗く三人の喉から漏れ出した声が響いた。
「どうして? 晴香にはアリバイがあるんだよっ?」
『申し訳ありませんが、そのアリバイは崩すことができるんです』
あかりにとっては唄が無慈悲な存在に見えているのだろうか。怒りと恐怖が彼女の瞳から覗えた。その視線を唄はどんな気持ちで受け止めているのだろう。唄は本来、事件の当事者にはならなくて良かったのだ。それを、璃子のためとか5048の名前を出して、丹恋が引き摺り込んだ。それを思い出し、丹恋の胸に悔悟が膨らんだ。
『まず、事件のポイントを振り返りましょう。
今回の事件の犯人は、女子マラソン部が雨天の日にどのような練習を行うのか熟知しています。ただ、知識の有無というのは厄介で、知識がある人物から他者に知識を授けた場合も考えられますから、これは嫌疑を強めるに留まります。
そして、最も重要なのは北側の出入り口に残された犯人の足跡です。事件とは関係ない第三者の残した足跡の可能性は限りなくゼロに近いでしょう。あの日、旧体育館に用があったのは女子マラソン部の関係者だけですし。この足跡の不自然な点からも、第三者のものではないことを傍証しています』
「ぼうしょう?」
結莉が首を傾げる。確かにミステリでは頻出単語だが、日常では登場しない。
『間接的に証明するという意味です。伝わってますかね? ひとまず、先に進みます。足跡の不審な点は三つあります。一つ目は、体育館から部室棟に向かう足跡が均一な状態で残っていたことです。犯行後、すぐに現場から立ち去りたいはずの犯人が走らなかったことになるんです。おかしいですよね?』
「泥が跳ねて足に残るのが嫌だったんでしょ?」棘のある口調であかりが訊いた。
『一理ありますね。では、次に移ります。二点目は、足跡が二十二センチと小さかったことです』
「何が、おかしいの? 犯人が女の人だってわかる重要な証拠じゃない?」
『犯人が女性だというのは間違いありません。ただ、自分が残す足跡から犯人の足のサイズを推測するだろうことは犯人にもわかったでしょう。丹恋さん、もしも自分が犯人の立場ならどんな行動をとりますか?』
「え、いきなり? うーん、あっ。いつもより大きいサイズの靴を履くかも」
『そうです、流石です。しかし、今回の犯人はしうしなかった』
「そんなの、突然犯行を思いついて、大きいサイズの靴を用意できなかったんじゃないの?」
『そうですね。ただ、三つ目の不審な点を考慮すると、どうもそうではなさそうなんです』
唄の言う〝三点目〟によって、ここから推理が展開していくものだろうか。そんな重要な証拠が自分の目の前にもあったとは丹恋には思えなかった。
推理の粗を探そうと反論していたあかりさえ、今はじっと推理の続きを待っていた。
喉が渇いたのか、唄は画面外から結露したグラスをひょいと持ち上げ、一口含んだ。
『失礼しました。三点目でしたよね。それは、非常口の前のコンクリートについていた足跡です。靴のソールの輪郭があまりに綺麗に残っていました。泥濘に残っていた足跡には水が溜まり確認できませんでしたが、恐らくは同じように踏みつけたときは綺麗な足跡ができたはずです。どうして、靴のソールの模様が一切残らなかったんでしょうか? 素足でさえ、指や土踏まずが足跡に反映されるはずですから。足跡を残した人物は靴をビニール袋か何かを被せた状態で歩いたんです。こんなことを善意の第三者がするはずありません。そして、ビニール袋を用意していた以上、突発的な犯行でもない。
では、なぜビニール袋被せたのか。それは単純に靴に泥がついてほしくなかったからでしょう。雨が降って泥濘になる場所は敷地に他にもありますから、泥がついた=現場にいたとはなりません。それなのに、わざわざビニール袋で覆ったのは犯人は絶対に靴に泥がつくはずがなかったからです。
絶対に泥がつくはずがない人物とはどんな人物なのか。そして、靴を小さいサイズのままにしたのはなぜなのか。この二つを合理的に説明できる状況が一つだけあります』
そこまで言うと、唄はまた水分補給のため推理を中断してしまった。
普段なら関西芸人のようにズッコケるような間だが、今はそんな状況ではないと丹恋も重々承知している。大人しく休憩が終るのを待った。
『すみません。さっきから喉がカラカラで。話を戻しますね。あの足跡が犯人によって作られたなら、説明できます』
足跡が犯人によって、作られた? そんなのは当たり前じゃないのか?
『あ、すみません。言葉足らずでした。あの足跡は雨が降る前に、犯人によって作られたんです』
丹恋の頭に電流が走った。
そうか。そんな単純なトリックだったんだ。
犯人は、足跡を残さないトリックを使用しない代わりに、足跡を作り上げた。
『犯人は女子マラソン部の休憩のタイミングを熟知していた。犯行当日、天気予報を入念に確認し、雨が振り始めるのが旧体育館外に出る余裕のある長めの休憩が用意されている時間よりも前だとわかると、部員が旧体育館への移動を終えてから雨が降り出すよりも前に、地面を濡らし、足跡を残したんです。それから、雨が降ると、足跡がついたのは雨が降り出したあとだと錯誤させることができる。足跡がついたときに鍵が開かないように細工をされたと思いますから、犯行時刻も錯誤させることができたというわけです』
「それが、それがなんでさっきの二点を合理的に説明することになるの?」
あかりは愚鈍なタイプではない。冷静に思考すれば、その解答には自力で辿り着いただろうが、今の彼女には無理だ。晴香が犯人ではないの信じたいという思いを、唄の推理は間違いであると批難したいという思いにあかりはすり替えてしまっていた。
『このトリックを使うときにビニール袋を使わない場合、まだ雨も降っていないのに靴が泥だらけという矛盾が生まれます。犯人は絶対に靴を汚してはいけなかったんです。
そして、小さい靴を選んだ理由ですが。私の記憶が確かなら、ツツジへの水やりは大きなサイズの如雨露で行っていました。つまり、近くに水道がなく、ホースで水やりをすることができない状況にあったということです。犯人もホースを使って地面を濡らすという方法は取ることができなかった。旧体育館と部室棟の間の地面の一面を濡らすことはできなかったと考えられます。
その場合、どのように足跡を残したのか。単純な答えです。足跡をつける位置にだけ水を掛けて、水量を節約した。しかし、これはリハーサルなしには失敗する可能性が高い。恐らく犯人は使用した容器にどのくらいの水が入るのか、自然な歩幅から逆算して必要な足跡の数を導き出した。そして、大きなサイズの足跡だと水が足りるか怪しいとわかった。水を何度も汲みに行くのは怪しまれるため、補充も難しい。犯人は自分のオリジナルのサイズの靴を履くことを選んだ。
加えて、そもそも普通の生徒が如雨露等を持って歩いているところを見られたら怪しまれます。犯人はそうしていても不思議には思われない立場にいた。そうです、郡司先輩が校務員の仕事を手伝い始めたのは今回の犯行の準備でしかなかったんです』
推理は理路整然としていた。だからこそ、温度が低いもののように思えてしまう。本人にそんな意思はないが、唄の推理はあかりの晴香に抱いていた希望を容赦なく刈り取ってしまった。
あかりは今は部長という肩書きを捨て、一人の子どもだということを主張するように声を上げて泣き出してしまった。
そんなあかりの様子をカメラ越しに見た唄は、眉を八の字にして見つめていた。
『すみません。依頼を叶えるにはこうするしかなかったんです』
「剣持さんは悪くないよ。きっと、いつかは明るみに出さなきゃいけないことだったんだから」
結莉が日比先輩の背中を擦りながら言った。
唄がどんな思いであかりを見つめているのか、画面越しでも丹恋にはわかる気がした。
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