一年前のトラブル

「日比先輩、どうなんですか?」


 問いかけで我に返ったのか、あかりは勢い良く振り向くと、取り繕うように「え?」と言った。狼狽は既に表情から消えていた。


「心当たりはありますか?」

「ないよ、そんなもの。うちの部に限って、そんな部員いない」

「唄は、女子マラソン部員って言ってません。日比先輩の頭には部員の誰かが思い浮かんでるんじゃないですか?」


 結莉が尋ねたときもあかりは様子がおかしかった。女子マラソン部が狙われる理由は、部内にあるのではないか。

 あかりの様子をその目で確認していない唄まで同じ結論に至ったのかはわからなかったが。


「璃子は昨日の出来事で未だに自分を責めてます。事件を解決することが璃子のためになるならって、私も結莉も思ってます。興味本位で首を突っ込んでいるわけじゃありません」

「別に、そんな風には思ってないけど」


 あかりは困ったように眉を下げた。

 攻めるなら今だ、と丹恋はあかりの手を取った。


「それなら、隠し事はなしにしませんか? 言いにくくても、事件に関係がありそうなことなら打ち明けてほしいです。お願いします」


 あかりは目を丸くして丹恋を見つめたあと、自分自身で背中を押すように細くて長い息を吐いた。


「このことは、言いふらしたりしてほしくない。それを守ってくれるなら……」

「守ります、絶対に」

「私も、守ります」


 必死さを感じさせる言葉に、丹恋達も覚悟を決めて頷いた。


「ありがとう」あかりはふわっとした笑顔を見せる。

「そもそも、スマホを部活中に使用しちゃいけないってルールは一年前に高戸先生と当時の部員で話し合って決めたことなの。ある部員が、トラブルで部活を辞めることになったから」

「退部、ですか」

「それも、あのときは自発的なものじゃなくて、辞めるしかない状況だったから」


 あかりからの告白は想像よりも複雑そうだった。人間の悪意に臭いがあるとしたら、聞くだけで鼻をつくような何かが告白の終着点にあるような気がした。

 丹恋はその悪意がどんな形をしているのか理解するためにじっと動かずに、整理しながら話の内容を聞いた。

 時々、当時のことを思い出したのか、あかりは言い淀むような場面があったが、簡潔に話してくれた。

 去年の女子マラソン部は、主要な大会で早々に三年生が負けてしまい、初夏には三年の部員が引退してしまった。

 この影響を受けたのは部長決めだった。例年であれば、三年が部長に相応しい部員を見定める中で、二年生以下の部員の中でも『たぶん、〇〇が次の部長だな』という認識が生まれてくる。しかし、その猶予が普段よりも短くなり、残る部員達は予測がしづらくなったのだ。

 とはいえ、部長に選出されるような生徒は何人もいるわけではない。二年の中で、候補になるような部員は三人だった。

 実際に部長に選出された日比あかり、二年で一番の成績を収めていた郡司ぐんじ晴香はるか、会話の輪の中央にいることの多い陸奥むつ梨里りり

 本人達の意思とは関係なく――狙っていた者もいたかもしれないが――派閥のようなものが二年、一年部員の間に生まれ始めた。あかり曰く、そのときの部内の空気は〝最悪〟だったという。普段の行動のすべてが部長に値するかの評価に結びつくかのような張り詰めた感覚、それぞれの部員達の〝推し〟を取り巻く純粋な応援はいつしか他の候補者への不純な言動へと歪になってしまった。

 女子マラソン部の中で勃発した冷戦、とでも形容できるだろうか。しかし、当事者、それも渦の真ん中にいた当時のあかりは客観視できるほどの余裕はなかった。人が作り出した渦の中、ただ為されるがままに翻弄されるばかりだった。

 決定的な亀裂は、とりとめのない日常に突然に走った。

 部内のメッセージグループに、とある音声データが投稿された。時刻は十七時五十二分。ちょうど、部活動中だった。投稿は晴香によるものだった。

 音声データの内容は、誰かが誰かの陰口を言っているというもの。

 やる気ないよね。

 マジでタイム絶望的。

 向いてなくない?

 陰口の内容からして、これはどうやら部員が部員に悪口を叩いているところを録ったものらしい。聞き進めると、陰口を叩かれている部員の名前が出てきた。一年の虚弱体質なのかいつも練習で置いていかれている部員だった。

 当然、この音声はその部員も聞いていて、立っていられないほどに号泣してしまった。こんな努力を頭から否定する酷いことを言ったのは誰なのか。耳を澄ますと、一人の人物を思い浮かべた。

 これは、梨里の声だ。

 気づいた部員達が梨里を見ると、彼女は唇まで青くして、胸のあたりを苦しそうに掴んでいた。

 本当に梨里がこんなことを。いつも明るく、誰かを笑顔にすることが生き甲斐みたいに振る舞っていた梨里の姿は偽りで、彼女の中にも悪意はしっかりと息づいていた。それから、梨里の築き上げた人望は崩れ落ちてしまった。一年部員に謝罪をして和解はしたものの、部長には相応しくないという評価は返上できるはずもなかった。

 部長候補は二人に絞られ――とはならなかった。たったの一人になったのだ。

 梨里の陰口音声は隠し録りされたもの――途中挟まる夕方の無線チャイムから部活中に録られたらしい――だった。

 そして、投稿したのは、晴香のアカウントから。

 告発とも言える行為だったが、一年部員まで傷ついてしまった以上、平和的な解決とは言えない。それどころか、部内に余計な混乱をもたらす行為だ。

 それを認め、謝罪をしていれば、正義の暴走として部員の見方も変わったのかもしれない。しかし、晴香は謝らなかった。彼女はこんなことをした覚えはない、と主張したからだ。

 晴香は練習中にスマホは使わないから、いつも部室に置いてきていた。それを誰かが盗み、録音をして、盗み見たパスワードでメッセージを投稿したのだろう、と。

 しかし、それを証明することはできなかった。不穏な空気に耐えられなくなった晴香は部長候補辞退どころか女子マラソン部自体を辞めてしまった。

 顧問の高戸先生は問題の根本を解消するのではなく、トラブルが広まることを嫌って、口外禁止と部活動中のスマホの使用禁止を命じた。言うなれば、臭いものには蓋をするというような対処に終わった。


「恨んでいるのは、その郡司先輩ってことですね?」

「結果として悪口を言った梨里じゃなくて晴香が退部に追い込まれたから……。でも、晴香は犯人じゃない。これは、そうであってほしいって思ってるだけじゃなくて、晴香にはアリバイがあるから」

「アリバイ、ですか」

「あの日、雨が降り出してから、鍵がかけられていると気づくまでの時間には、晴香は校務員用のプレハブ小屋にいたっていう校務員さんの証言があるの」

「どうして校務員さんのところに?」

「校務員の久留米さんは、凄く面倒見がいいの。自分は学校に馴染めなくて虐められたりしたから、居場所がないならいつでも遊びに来ていい、なんて校内新聞のインタビューに答えたりもしてた。だから、居場所をなくした晴香は校務員さんのところに。水やりだとかを手伝ったりしていたみたい」


 動機から考えるならば第一容疑者となるであろう晴香。しかし、彼女にはアリバイがある。それなら、彼女は犯人ではあり得ない。

 と、素直に頷けないのがミステリー好きの性だ。

 自分なりに頭を捻ってみる丹恋だったが、どうやって校務員の証言をひっくり返すことができるのかさっぱりわからなかった。

 丹恋は新たな情報を唄に伝えるために、再び彼女とテレビ通話を繋いだ。

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