証拠は揃った、らしい
体育の授業では新体育館の方を使うため、まじまじと旧体育館を観察するのは初めてだった。
アーチ型の屋根の屋根板がどんな状態なのかは地面からは見ることはできないが、水が面に沿って垂れるときの不規則な模様の通りに外壁と屋根板が接する部分が錆びているのを見る限り、同様に錆びていそうだ。聞けば雨漏りはしていないそうだから、体育館という建築物の堅固さには驚く。旧体育館と部室棟の間に二本の常緑樹が生えていて、この時間は校舎側に日陰ができていた。フェンスの方にはこの前丹恋が傷を作りながら侵入したツツジがある。
さて、問題は北側にある出入り口だ。当時は部室棟の非常口まで往復する足跡が一組だけあったというが、今はいくつもの足跡が重なり合って残っている。一日経って土が吸収した水分は低下しているため、今はソールの模様がうっすらと残る程度だが、昨日ついたらしき足跡は二センチくらいの深さがあった。
「これじゃ犯人の足跡は確認できませんね」
「あ、昨日撮った写真があるから送るよ」
「ありがとうございます。唄、そっちにも転送するからね」
呼びかけると、唄からはリアルタッチの熊がサムズアップしているスタンプだけ返ってきた。
画像を見ると、足跡は同じ深さ、均等な歩幅で、非常口から体育館の出入り口まで――だいたい十メートルくらいか――蛇行することなく真っ直ぐ続いていた。それぞれの足跡が重なるようなこともない。足跡に雨水が溜まり、カフェオレが注がれているようだった。
スマホが短く鳴る。
『次は鍵穴を』
丹恋から友達兼探偵の手足になると言ったものの、段々と理不尽さを感じ始めていた。文字だけぽんと放られると、素っ気なさが倍増するらしい。
「はいはい」
と言いながら、スマホのレンズを引き戸の鍵穴に向けた。
「見えてる?」
『ありがとうございます。もう大丈夫ですよ』
ようやく肉声が聞こえて、丹恋に芽生え始めていた心細さのようなものが薄らいだ。
『かなり入念に接着剤を入れられていますね。鍵をかけてからでないとこの細工をしても意味はありません。引き戸を揺さぶると鍵がかかってしまうとのことですが、練習中にそのような物音は聞こえなかったんですか?』
対面していないと初対面の相手なら唄は流暢に喋った。
「練習中は掛け声とか指示が飛び交ってるし、こっちの出入り口と練習していたスペースの間にはもう一つ扉があるからそのくらいの音だと届かなかったと思う。屋根に雨がぶつかる音もかなり激しかったしね」
『そうですか。ちなみに、引き戸を揺さぶると鍵がかかってしまうことはどのくらいの人が知っていたんでしょう?』
「部活で使う生徒くらいかな。女子マラソン部、バスケ部、卓球部、柔道部くらい。どこもメインで使うのは新体育館だけどね。一応、セキュリティ的に部外者に言いふらすことはないように顧問からは言われてるはず」
新体育館は旧体育館の約一.五倍の敷地面積があり、一度に複数の部活が練習できる。旧体育館は皆にとって何かイレギュラーがあったときの代替手段でしかないのだ。
『鍵を持ち出して、その鍵で閉めた可能性はありますか?』
「ないよ。高戸先生から武野先生に訊いてもらったけど、昨日は誰かに鍵を貸してないって」
『なるほど。反対側の出入り口はずっと施錠されているのが常だったわけですよね?』
「そう。あの日も校務員さんが鍵を開けてくれるまで施錠されてた。これからは必ずそっちの鍵を借りてこないと出入りできなくなったってこと」
『そうですか。では、今度は部室棟の非常口まで移動してもらえますか?』
声に従い、僅かに柔い地面を歩き、部室棟まで。
部室棟の旧体育館側の外壁に窓はあったが、どれも小さい。あれでは部室棟から旧体育館側を覗くのは難しいのではないか。犯人が堂々と犯行に及んだのは部室棟からの視線を気にしなくてよかったからだろうか。校舎からの視線は樹々が遮ってしまう。
緑色に塗装された非常口のドアは鉄製で蹴りを入れたら鈍い音が響きそうだ。非常口のドアノブの上には透明な筒状のカバーが付いたサムターンがあった。緊急時にはこのカバーを壊して屋外から屋内に入れるようにするのだろう。そのまま、視線を下に移すと、ドアの前の地面にあるコンクリートのポーチ部分にも擦れた泥の跡がまだ残っていた。写真が撮られたときの足跡はもっとくっきりしていて、少しの切れ目のない綺麗な足の形が残っていた。
『二階の非常口から侵入した可能性はありませんか?』
「否定はできないね。足跡は階段に残っていなかったけど、うち履き用のスニーカーに履き替えれば足跡は残らないし」
『そうですか。非常口の鍵は、ボルトが飛び出ないように強力なテープを貼っておくか、扉が閉まらないようにしておけばカバーを壊す必要もないですし、犯行に支障はありませんね』
念のため、二階の非常ドアの様子も見たが、特筆すべき点は見られなかった。
『部室棟の構造がわからないのですが、見せてもらえますか?』
丹恋も帰宅部なので一度も部室棟を利用したことはない。外から見るだけでは気づかないこともあるだろう。
部室棟へは基本的には一階の旧体育館とは反対側きあるガラス扉から出入りする。両開きのガラス扉にも防犯カメラは向いていて、ケーブルが他の防犯カメラとは別の位置にあったためか切られていなかったという。
部室棟に入ると、空調が良く効いていて鬱陶しい湿気から解放された。目の前を通路が東西方向に横切っていて、通路には一定間隔で部室へ続くドアが並んでいる。
「狭いアパートみたい」
結莉がぼそっと呟いた表現がぴったりだった。
東端には二階へ続く階段があり、西側突き当たりには非常口があった。
女子マラソン部の部室は二階にあるということで、一行は二階に移動した。部室はどれも同じ構造だというから、一室だけでも見られれば充分だった。
ドアを開けると、制汗剤の匂いと汗と埃の入り混じった空気が部屋の中で滞留していた。丹恋が通っていた武道場よりはフローラルだけれど、自分が部屋の主だったらくんくんと鼻を動かしてまで嗅がれたくはないだろうと思った。
部室は十畳くらいはありそうだが、ロッカーやラック、ベンチなどが置かれているせいで窮屈な印象だった。先ほど旧体育館の方から見たときの横長の窓がドアと反対側の壁の上部についていた。天井に近い位置にあって、採光や通気を良くするためのものだろう。
『そもそも、部室棟から旧体育館側を見ていた生徒はいなかったのではありませんか?』
「その通り。部室棟からに限らず、目撃者なんて一人もいなかった」
だから、今に至るまで犯人が見つかっていない。
『先輩は昨日容疑者生徒をある程度絞り込めたんですか?』
「五人までは」
『カメラの映像から犯行時刻の前後で部室棟にいた人物の中で、足跡の靴のサイズが一致もしくは下回る人物を絞り込んだというところですかね?』
「……すごい。本当に頭の回転が速いんだ。それに辿り着くのも、副顧問の宮城先生と二人がかりでも時間がかかったのに」
『そもそも手がかりが少ないですから。そのくらいでしか、絞り込めなかっただろうと予測したまでですよ。それで、該当した生徒はどういう方だったんですか?』
「陸上部の女子生徒が二人、バスケ部女子が一人ら卓球部女子が二人。落研の生徒にも該当する子はいたけど、一年で鍵のことは知らなかったみたいだから候補からは外したよ」
『そうですか。全員女性ということは、さっきの足跡は、小さかったんですね』
「そう。二十二センチしかなかった泥のついた靴を履いていたか、持っていた生徒がいないかも確認したけど、そんな人はいなかった。まあ、ウェットシートで拭かれたりしたら意味ないしね。剣持さんなら、本当にこの五人の中の誰が犯人なのかわかっちゃいそう」
『善処します。……少し、そうですね、数分でいいので時間をください。考えをまとめたいのと、ちょうど家に着いたところなので。では』
言うと、電話が切られてしまった。
「数分って、そんな時間で?」
あかりは突然に待たされる羽目になったことよりも、数分しか猶予を必要としなかったことに驚いていた。
あかりは昨日教師と一緒に時間をかけて犯人を特定できなかった。それが唄は話を少し聞いただけで何かを導き出しそうなのだから、困惑するのも無理はない。
いちいち、校舎に戻るのも面倒だということで涼しい部室棟に留まらせてもらうことになった。
ベンチに三人並んで腰掛けても安らぐことはできなかった。端に座る結莉がヒヤッとする疑問を投げかけた。
「今回の事件が起きた原因に、心当たりはないんですか?」
見た目から結莉はさばさばした性格だと思われることが多いが、思いやりのあるタイプだと丹恋は知っている。結莉は面識のない丹恋よりも自分の方が聞きやすいだろうと気遣ってくれたのだろう。
「手が込んでますし、誰でも良かったというよりは、特定の相手を狙っていた感じがします」
「……心当たりなんてないよ」
あかりは初めて笑顔をする真似をしてみたようなぎこちない笑顔を見せた。
「そうですよね。ごめんなさい、変なこと訊いてしまって」
結莉は謝ったあと、あかりに気づかれないようにさっと丹恋にアイコンタクトをとった。
心当たりは、ある。
丹恋も同感だった。あの妙に空いた間。口に出すか迷って、結局誤魔化したみたいだった。
妙、といえば丹恋は頭に引っ掛かっていたことを思い出した。
「今回って、足跡が事件の唯一の手がかりだと言えますけど、なんか不思議じゃないです?」
「一人の犯人が部室棟から旧体育館に歩いてまた戻ってきた。それの何がおかしいの?」
「もし、私が犯人ならそもそも足跡を残さないように工夫すると思うんですよね。たとえば、薄いベニヤ板を二枚用意して、一枚を敷き、それを踏み、もう一枚を敷いてある板の前に敷く。それを繰り返していけば足跡を残さずに旧体育館まで辿り着くことはできたと思うんです。そうすれば、部室棟のいる人間が犯人だとは思われなかった」
「そのやり方が面倒だったんじゃない?」
あかりが駄々をこねる子供を相手にするみたいに言った。
「でも、ミステリ小説にはもっと単純で、簡単な足跡にまつわるトリックは既に数多くあります」
「あー、丹恋ってミステリー好きだったよね」
「うん。でも、ミステリー好きじゃなくても、ネットで検索すればネタバレサイトを見つけられちゃう時代だし」
「うーん。一理あるけど、防犯カメラのケーブルを切っていたし、犯人としては問題ないと思ってたんじゃない? どこから体育館に歩いてきたか知られても、その姿は映らないわけだから」
丹恋自身も同じ観点で躓き、そこから先にアイデアを膨らませることができないでいた。しかし、自分の直感はさして鈍くない自負のあった丹恋としては足跡に関する疑問は答えを導く上で無視してはいけないことに思えていた。
ここで思考がストップするから、探偵になれないんだろう、と丹恋は思った。
何かおかしいな、と感じるセンサーは誰しも搭載している。しかし、答えに辿り着くには、違和感を覚えた理由を明確化して、他の違和感と論理で結び付けなければいけない。これが凡人には困難だ。
だからこそ、現代社会は科学捜査という手段で犯人に辿り着くための手がかりを、ひと昔前とは段違いに増やして対処している。
しかし、母からたまに溢れる仕事の愚痴などを聞いていると、警察が介入することができなかったり、介入が望ましくないケースは少なくない。そんなときこそ、名探偵が必要だと丹恋は思っていたが、現実離れした存在であることも理解していた。
そのはずが、名探偵が目の前に現れ、友達にだってなれた。案外に現実は奇縁で結びついている、と丹恋はしみじみ思った。
もし、と丹恋は思いを巡らせた。いつか唄が解決できない謎に遭遇したとき、自分は何ができるだろうか。完全性の欠陥に落胆して、唄から距離を置くのか。
あの日、助手になっていたらそんな判断をくだすのかもしれない。
丹恋は唄の友人だ。何ができるかは不明なままだけれど、離れたりはしない。離れたりするもんか。
心の内でひっそりと決心を固めたとき、スマホが胸ポケットで振動した。
宣言通り、唄はものの五、六分で何か見当をつけたようだった。
丹恋はメッセージを一言一句違わずに読み上げる。
「五人の中に犯人はいません。誰が犯人なのか、日比先輩には心当たりがあるのではないですか?」
馬鹿にしているのか、と憤慨しているのでないかと、隣に座る彼女をちらりと見た。あかりは茶色がかった瞳を小刻みに左右に揺らし、狼狽えていた。加えて、僅かに薄皮のむけてしまった唇が「そんなはず」と、動いた。
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