影に潜む敵
犯人を突き止めた翌日の放課後、丹恋と唄が向かったのは美術室だった。埃が湿気にのって鼻腔に入ってきそうな築年数の多い別館の二階に、美術室と、その隣に美術資料室がある。
美術室の引き戸は開け放たれていた。そこから、ぷわんと嗅ぎ慣れない画材の土と化学製品の混ざったような匂いが漂っている。
部屋の中では美術部員達が活動している最中だった。緩い校則にも拘わらず、そのまま冠婚葬祭に出られそうな髪型の生徒が多い。多いと言っても、五人ほどしか部員はいないようだが。
その中に一人だけ、男子生徒がいた。室内履きの色からするに、二年生。室内履きのラバーソールが黒ずみ、メッシュ生地が毛羽立っているのが気になった。背を向けていて顔はわからない。野球部のような坊主頭だが、体格は良くなく百六十センチほどしか身長はないようだ。
入り口に、珍客が立っているのに気づいた何人かが、不審者を見るような目で丹恋を警戒していた。
――カツアゲでもしにきたと思われてるのかな。
金髪に染めてはいるが、一日一善ではなく三善を心掛けている丹恋は少し傷ついた。とはいえ、荒らしに来たといえば、そうだ。今から、美術部員の一人が停学になるのだから。
「
唄が丹恋の背中をつんつん突いているので、丹恋は声をかけた。
そして、美術部唯一の男子生徒がキャンバスから目を離し、丹恋の方を向いた。遠山先生から借りた写真の彼は無造作に伸びた頭髪を持て余しているような髪型だったので、一瞬同じ人物なのかわからなかった。
「何? 誰、君?」
「一年の長慶寺です」
「ふうん。で、何の用? 出展用の絵を仕上げなきゃいけないんだけど」
手を伸ばして指をさすと、春川の腕が袖口から少し露出した。腕の手首に近い部分には、青い痣があった。
「避難訓練のあった日のこと、覚えてますか?」春川の眉がぴくりと上がった。
「その日の出来事について、訊きたいことがあるんです」
「僕は何もしてないよ」
「知らないじゃなくて、してない、ですか」
丹恋の背中から少しだけ顔を出した唄が、ぼそりと指摘した。
もう一度、春川の眉が動く。片手に持っていた絵筆をイーゼルに乱暴に置いて、近づいてくる。小柄な少年でもこんなに大きな足音を鳴らせられるんだと、丹恋は驚いた。
「場所を変えよう。他の部員の迷惑になるから」
春川は一方的に言って、廊下の人気のない場所で立ち止まった。
「何しに来た? 知り合いでもないのに」
「問題用紙を盗んだのはあなたですよね?」
「そんなことがあったなんて今初めて知ったよ」
欧米人のようなジェスチャーで肩をすくめる。先ほどの失言から、言葉の細部にまで油断してはならないと学んだようだ。
「そうですか。じゃあ、知ってるでしょうけど、説明します」
名前は伏せて、二十五日に忘れ物を取りに行った一人の女子生徒が問題用紙の窃盗の濡れ衣を着せられていることを告げると、春川は目を見開いて「えっ」と声を漏らした。
なかなか真に迫った演技だ。
「……それで、どうして僕が犯人だなんて酷いことを言うんだい? 話を聞けば、夜しか犯行は不可能じゃないか」
「避難訓練のときに、盗んだんです」
「僕が脱出訓練のときに校舎に入ったからか。確かに一瞬、トイレには寄ったけどね、僕だけじゃない。それにあんな短時間で職員室まで盗みに行くことは無理だ」
「双子の入れ替わりトリックを使ったんですよね?」
「……おかしなことを言うね。僕は、一人っ子だよ。まったく、何の根拠があってそんなことを言い出したのか。刑事にでもなったつもりかい? このことは先生にも報告させてもらう」
早口で言って、春川はその場から退散しようと背を向けた。
「ブレザーまでは用意できなかったんですね」唄が言うと、春川の足が止まった。
「え?」
「入れ替わるには顔が似ているだけでは足りません。同じ格好をしなければいけない。スラックスと室内履きは代替のものを用意することができても、刺繍の特徴的なブレザーはみんな一着しか持っていないですから、誰かから借りることも難しい。ましてや買うなんて、学生の身分では不可能です。
だから、入れ替わるとき、片方はブレザーを脱いでいる状態だった。脱出袋から出てきた生徒は全員ブレザーを着ていたということは、二十六日に下校した双子の片方はブレザーを脱いでいたはずです。裏門に立っていた警備員が、あなたが二十六日にブレザーを脱いだYシャツ姿でいるところを見ていました。あの日は寒かったので、良く覚えていたそうですよ」
ブレザーを脱いでいたかどうかで犯人を断定したのはそれが理由だったのか。
丹恋は掌を拳でぽんと打った。
「僕は通学鞄にブレザーを入れていただけだ」
「入るか試してみますか? 生地の厚いブレザーは体操服よりも嵩張りますよ」
「そうか。だけど、それがどうしたんだい? そんなものが何の証拠になる?」
「証拠は実は全て揃っているんです。先生経由であなたが二十五日に家に帰っていないこと、そして、幼い頃に生き別れた双子の兄がいることをご両親に確認しています」
そう。もう、全てわかっていた。
自白したら、自首扱いにして処分を軽くするようにできないか、と唄が遠山先生に交渉していたのだ。しかし、未里が巻き込まれていることを知ってもなお罪を認めなかった。
春川が真顔で震えた手で唄に掴み掛かろうとしたところを、丹恋が肘、肩の順に極めて取り押さえた。
「暴力は止めましょうか」
「お前、なんでギャルのくせにそんな強いんだよ!」
「ギャルだからです」
「そんな理由が通るかよ!」
「というか、とりあえず落ち着いた状態で話しましょうか。疲れるんで。私も、あなたもそうでしょ?」
春川が沈黙の後、わかったと呟いた。丹恋は暴れたらまたこうなると脅してから、手を離した。
「騙すようなことしやがって」
「自分から罪を認めたら、処分を軽くしてもらえるように頼んであったんですよねー。あなたが手を上げようとした子が」
「は? 何でそんなこと?」
「あなたが問題用紙を盗んだ理由を推測できたからです」
「お前みたいな陰キャに何がわかんだよ」
「おい、調子乗んな」
丹恋は思い切り春川の足を踏んだ。
「痛っ、悪かったよ。今のは……良くなかった」
「ま、反省してるなら水に流しましょう」クリオネの鳴き声のようなボリュームで唄が言う。「実は、今回の窃盗事件はスタートからおかしいんですよ」
教師達も丹恋も、窃盗事件という事象そのものに気を取られて、大事なことを見逃していたのだ。
「いくら、盗みやすかったとしても、体育の問題用紙なんて盗む価値があるのか。しかも、武野先生は問題を例年使いまわしているそうですから、過去問は出回っているでしょう。はたから見れば、あなたは自分にとって利益になる行為でないにも拘わらず、策を講じて問題用紙を盗んだことになります。しかし、そんな馬鹿なことをするのか。
発想を変えてみました。体育の問題用紙があなたの利益になるのではなく、盗んだこと自体があなたにとって利益になったのではないか、と。しかし、思い当たることはない。
それでは、もう一段階、先へ。偶然発生した事象を取り除いたとき、犯人の本来の計画が見えてきます。
一人の女子生徒が忘れ物を取りに夜の校舎に入ったこと、武野先生が問題用紙を盗まれたのが二十五日だと断定できたことは犯人にとって予想もつかないアクシデントです。もし、これらが起きなかったのなら、武野先生は夜に問題用紙が盗まれたとしか判断できず、防犯カメラ映像を何日分か見て怪しい人物を断定しようとしたはずです。そこにはきっとあなたの望む人物が映るはずだったんですよね? あなたが濡れ衣を着せたかった人物が」
「……そうだよ。その通りだ」
春川は袖を捲くって腕を見せた。痛々しい青や黄の痣が、筆をランダムに叩きつけたように広がっていた。
「こんなのが、背中と足、ケツにもある」
「担任に相談はしなかったんですか?」
「してどうなるっていうんだよ。穏便に済ませようとして終わりだ。チクったとわかれば、苛烈な仕返しが待ってる。奴を退学なり、停学に追い込む方が確実だ。あいつが夜な夜な校舎に忍び込んでるのは聞いていた。学校の備品をばれないように盗んで、転売してるらしい。その証拠を抑えるのは難しいから、自分で危ない橋を渡って、濡れ衣を作ったわけ」
さも自分の思考が正しいかのように語る春川に丹恋は違和感があった。教師に言って、そのいじめ加害者を待ち伏せさせて捕まえてもらうのが正攻法だからだ。
「それももう全部無駄だ。俺の方が停学とは笑えてくるよ」
「学校が駄目なら、民事や刑事で解決すべき問題でした。いじめなんて生温い言葉は世界から消してしまえばいいと私は思っています。当事者が子供だろうと法の尺度で判断するべきだと。それなのに……あなたが罪を犯してどうするんですか?」
春川は目に涙を浮かべて嘆いた。
「いじめられてるなんて言ったら、弱者に見られるじゃないか。それが耐えられなかった。声を上げることが恥ずかしかった」
唄の言うことは正論で、真っ直ぐで、反論の余地はない。ただ、皆が正論通りに動くことは難しい。これが、唄の不器用な部分を象徴しているのかもしれないと丹恋は思った。
唄は春川を傷つけてしまったと思い、あたふたするばかりだった。
「救いを求めることって、強い人の証だと思いますけどね」
「え?」
「私、大嫌いなんですけど、自立した大人じゃないと一人前として認められない空気あるじゃないですか? そんな中で助けを求めることって、何かにより掛かることなわけで。でも、救いを求めるのは皆が等しく持ってる権利です。自分でどうにもならないとき、そんな空気なんか知るか、自分は困ってんだよって言えるのは、本当に強くなきゃできないんですよ」
「強くなきゃ、できないのか……」
音を噛み殺すように喉の奥をグツグツ鳴らして春川が咽び泣いた。
彼の傷が濃縮した何かになって、彼の目や鼻や口から漏れ出しているような気がして、丹恋は気まずくなった。
自分が前から思っていたことを口にしただけ。それだけで、誰かの感情が爆ぜてしまう経験は丹恋にとって初めてだった。
「反省、してますよね?」
丹恋が問いかけると、春川が涙の隙間で頷いた。
「じゃあ、職員室に……行くのは今は無理そうなので、遠山先生を呼んできます」
「ちょっと待ってください」唄が左腕を大きく上下に動かした。「この事件は、まだ終わりじゃないはずです」
「え? だって犯人は今こうして反省されてるけど」
「実行犯はわかりました。ただ、計画したのは別の人物ですよね?」
丹恋は初耳の情報に耳を疑った。計画犯は別にいる?
「……どうして、知ってるんだ?」
春川の反応からして、唄の推測は事実だ。
「知っていたんじゃありません。恨んでいる人物に一矢報いるために自分が犯罪行為をするというのは飛躍しています。第三者によって、新たな選択肢をとるように誘導されたのではないかと思ったんです」
「何それ、全部そいつのせいじゃん!」
「そうです。ですから、春川さん、教えてください。あなたに犯罪計画を与えたのは誰ですか?」
「わからない、わからないんだ」
「庇うような相手じゃないでしょ、先輩!」
「違う、庇ってるんじゃない」春川が首を横に振った。「どこの誰だか知らないんだ。LinkyyというSNS上だけの知り合いだから」
丹恋は唖然とした。
顔もわからない人間を信用し、言いなりになったのか。
「あの人は僕の話を親身に聞いてくれてね。あのときは世界で唯一の理解者だと思ってたんだ」
「アカウント名は何です?」
「四桁の数字だった。確か、5048だったと思う。確認したらわかるよ」
春川がスマホを操作すると、さっと顔が青ざめた。
「今までのやり取りがあいつのメッセージだけ消去されてる……! 僕は、あいつに、利用されてたんだな」
春川が膝から崩れ落ち、「クソ!」と叫んだ。
心の片隅に残っていた僅かな信頼が春川の中から消え去った瞬間なのだと丹恋は思った。
「こんな適当につけたアカウント名で近づいて、高校生の信用を得るなんて、そんなの普通の人にはできないよ」
「人心掌握術に長けているようですね。ただ、アカウント名は適当につけたのではないと思います」
「犯罪コーディネーターとでもいうべき人物のアカウント名が5048。偶然ではないでしょう」
「何が?」
「小惑星に番号がつけられているのは知っていますか?」
家に望遠鏡もない丹恋が、小惑星番号なるものを知っているわけがない。
「小惑星5048の名前は〝モリアーティ〟。世界で最も有名な悪役の一人の名前から取られているんですよ」
シャーロック・ホームズに登場するモリアーティは元大学教授でありながら、犯行計画を手下に授けて自分の手を汚さずに、目的を果たす。今回の構図とそっくりだ、と丹恋は思った。
全身の毛穴が開くのを感じ、丹恋はそれにぞっとした。
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