名探偵は保健室にいる

 皺くちゃのお婆ちゃんになったときにも憶えたままでいられるはずだと、根拠もなく確信することがこれまでの人生で何度かあった。

 滑り台から落下してなぜか無傷で済んだときや、自転車で角を曲がるタイミングで車に轢かれそうになったとき。

 たいていは冷やっとしたときだから、思い出すと寝覚めに青汁を飲まされたみたいな気持ちになる。

 でも、昨日は違う。

 自分も一歩間違えたら被害に遭っていたかもしれないという事実は、胸にざわつきを残したままだ。でも、それ以上に……。

 丹恋の足は保健室に向いていた。今度は放課後ではなく、昼休み。放課後だと、彼女がさっさと帰ってしまうことを学んだからだ。

 保健室に入ると、神野先生が笑顔で出迎えてくれた。こっちよ、と小声でカーテンで間仕切られた空間を指さす。他に休んでいる生徒はいなかった。


「剣持さーん?」


 がさこそと布の擦れる音はしているので起きてはいるようだ。入るからね、とひと声かけてカーテンを開けると、ベッドの上でヘッドホンをしてゲームに勤しんでいる剣持がいた。相変わらず、体調は万全のようだ。

 呼び掛けはヘッドホンに阻まれ、耳に届いていなかったらしい。丹恋が近くまで接近して、大きく手を振ってようやく気づいたのだ。

 びくっと肩を震えさせてから、片耳だけヘッドホンを外した。


「何、ですか?」

「ちゃんとお礼言えてなかったから。ありがとう、ほんとに。剣持さんが来てくれなかったら、私……どうなってたか」

「たまたまわかっただけです。別にお礼なんていりませんよ」

「あ……うん」

「では、もういいですか? 私はもっと街を塗り潰さないといけないので」


 やはり、今までに出会ったことのないタイプだ。

 何を考えて、何を思うのか想像ができない。

 だからこそ、丹恋の胸にあんな気持ちが湧いたのだろう。


「あと、この前、嘘ついたことも謝りたかったんだ。私、剣持さんと、最初は変な義務感で話そうとしてた。ほんと、ごめんね」

「もう怒ってませんって。今度こそ、用は終わりましたよね?」

「いや、まだ」

「今度は何です?」

「私をさ、


 剣持がぽかんとした表情で、くるんと上がった睫毛の生えた目をぱちくりと瞬かせている。


「聞き間違いですよね? 今、助手とかなんとか」

「ううん、合ってる」

「マジで、何言ってるんですか?」

「剣持さん、マジとか使うんだ? てか、唄って呼んでいい?」

「それは……好きにしていいのでとにかく話を聞いてくださいよ」

「唄?」


 唄は顔を赤らめて、丹恋から視線を逸らした。


「照れてんの? 可愛いなぁ、唄は」

「て、照れてないです。それよりも、助手って何です? 私はただの高校生なんですが」

「いや、そんなことない。唄は名探偵になれる」

「はい?」

「昨日から私、何ていうのかな? あ、そう……滾っててさ。私、子供の頃からミステリーが好きでさ、読んだり観たりしてきたんだけど、やっぱり、探偵には助手が必要じゃん? 助手のいない探偵って私はどうにも味気なくて」

「捲し立てないでください。私は探偵なんてやらないですよ」

「そんなこと言わずにさ、探偵活動と青春っぽいこと、どっちも楽しもーよ。今まで誰もしたことない高校生活が唄を待ってるさ」


 丹恋は唄の両肩を揺さぶり、熱心に説得を試みた。新型エアコンを薦める通販番組の出演者のように、悪く言うなら喫茶店で大学生相手に説くマルチ商法の講師のように、矢継ぎ早に言葉を並べ立てる自分に内心驚愕した。


「……謎を解くなんて、積極的にするべきではないです」

「え、何で?」

「謎なんて、大概が誰かが意図して、何かを謎にして曖昧にしておきたいからこの世に生まれるんです。それを紐解いたとき、必ず誰かが救われるとは限らない」


 探偵から出たみたいな言葉だ。

 今まで、いくつも謎を解いてきたような。

 漏れ聞こえた会話を聞いて、真相を導き出した唄なのだから、これまでも謎を解いてきたとしても不思議ではない、というより、その方が腑に落ちる。その中でどんな経験をしてきたのか。

 もう謎を解かないと決めても、彼女の頭脳が勝手に機能してしまうのだろう。だから、丹恋は助けられた。辛い思いをしたとき、唄の隣には誰かいたのだろうか。


「唄はさ、何でこの高校に来たの? 私らと全然、学力、差があるでしょ?」

「……つまらない話です」


 うんとこしょ、と昔話のようなかけ声を出して、唄は傍らの通学鞄から分厚くて真っ赤な書籍を取り出し、背表紙を丹恋に見せた。簡潔に『東京大学 文科』とだけ記載のある、丹恋にとって一番縁遠そうなもの。


「父と理事長が旧来の知人で、この高校から初の東大合格者を輩出したいという理由で、成績のいい私を入学させたというわけです」


 この学校の偏差値を考えると、東大には到底手が届かない。それなら、チートのような手を使ってでも一人は合格者を出せば実績を作ることができる。しかし、利用される唄の気持ちはどうなのだろう。


「それ、唄は納得したの?」

「私、高校はどこでも良かったんです。どこに行ったって、私は馴染めない。原因はわかりますよね?」

「気絶?」

「うっ……改めて言われると、心の傷が」


 唄は胸を抑えて深呼吸をしている。


「対人恐怖症みたいなもの?」

「そんな感じですね」

「でも、私とは普通に喋れてない?」

「確かにそうなんですよね。多分、家族に似てるからだと思います」

「家族って、お姉さんか妹さんいるの?」

「いえ、一人っ子です」

「じゃあ、お母さん?」

「飼ってるシベリアンハスキーです」

「人じゃないんかい! せめて小型犬!」


 ツッコむと、唄は感心した様子で手を叩いた。


「探偵の助手よりもお笑い芸人の方が向いてますよ」

「ならないし、なれないから」

「そうですかね?」

「そうそう。お笑いの世界はとんでもない過酷な世界なんだよ」


 唄はくすくす笑いながら小首を傾げた。

 まだお互い腹の探り合いをしているクラスメイトよりも、よっぽど人間味があって面白い。もしも、唄の〝本性〟をみんなが理解してくれたら、唄も楽しめるのに。


「ねえ、高校三年間、ほんとに保健室で過ごすつもり?」

「試験の点数さえ良ければ単位はもらえるそうなので、もういいんですよ。神野先生も良い人ですし、暇を潰すためのものは家から持ってくるようにしてるので、それなりに楽しいんです」

「その言い方だと、まだ未練があるみたいだけど?」

「……それは、まあ、少しはありますよ? でも、叶わない夢を見ることは愚かじゃないですか?」

 丹恋はわざとらしく大きな溜息をついた。

「自己評価、低すぎ」

「え?」

「自己紹介で何の印象も残せない人がいる中で、唄はある意味一番みんなの記憶に残ってる。俗に言う、おもしれー女なわけよ」

「ほ、ほう」

「それはつまり一発逆転があり得るってこと。そしたら、友達だってできるって」

「友達、パラダイス」

「そんなこと言ってないけど」

「いやでも、私、友情だとか恋愛に生きる同級生を鼻で笑ってきたので」

「拗らせてるなー。でも、それはさ、自分を守るために、自分にまで本心を隠してただけじゃないの?」

「けっこう言いますね……。それは、そうなのかも、しれません」


 あんなに頭が切れるのに、自分のこととなると、歯切れが悪くなる。勿体ないというのが丹恋の率直な感想だった。


「じゃあまずは、私と友達になってみない? それで、段々と輪を広げていけばいい。今度は私の友達も連れて保健室来るし」

「今度っていうのは心の準備が……。というか、その前、友達にならないか、って言いました?」

「言いましたよ。嫌だった?」

「いえ、ただ、友達になろうって言って、友達になったこと今まで一度もなかったので」


 もじもじとした唄は、丹恋よりもずっと告白された乙女みたいだ。


「なる? ならない?」

「なります、なります。最初で最後の友達です」

「最後の友達は重いって……。あと、長慶寺じゃなくて丹恋って呼んで。仰々しくて自分の苗字そんなに好きじゃなくてさ」

「わかりました」

「あ、助手としてもよろしく」

「そっちは駄目です。あ、今、舌打ちしましたよね? そういう態度はどうかと思います」


 等身大の女の子かと思えば、抜け目のなさも垣間見える。

 やはり、只者じゃない。観察眼、思考、冷静さ、という名探偵の必須要素を持っている。彼女の才能をもっと多くの人に知ってほしい。けれど、只者としての高校生活を送ってほしい気もした。

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