剣持唄というクラスメイトは
生徒を気にかけるなら担任がやればいいのに、というのが丹恋の本音だった。が、直球な言葉をぶつけられるほど強気な性格ではなかった。
放課後、結莉からお茶に誘われたのを理由も言えないままに断ったことで、重い気持ちを抱えながら丹恋は校舎の階段を降りた。
「すまんが、頼んだ。俺よりも同級生が様子見るほうがいいと思うんだ。剣持は保健室にいるからさ、放課後にでも顔見てやってくれ」
その言葉の通り、足は保健室に向いている。
剣持という女子生徒のことは鮮明に憶えている部分と、あやふやな部分に二分されていた。
鮮明に憶えているのは、あの強烈な自己紹介だ。クラスメイト全員が順々に教壇に上がり、氏名や趣味等を話す通過儀礼である。第一印象が大きく左右されるわけだから誰だって話し始めるときは緊張するし、それは恐ろしさに近い。ただし、剣持は一味違っていた。
剣持の様子ははじめから異様ではあった。両肩が上から紐で操作されているみたいにぎゅんと上がり、呼吸が浅いせいか顔色が悪かった。
ただの自己紹介だよ、と声をかけてあげたくなったものの、クラスの中のポジションを全員探り合っているようなタイミングでは勇気が出なかった。しかし、一分後、その選択を後悔した。
『わ、私は剣持
す、を言う前に剣持は気絶してしまった。
床に倒れる既のところで遠山が身体をキャッチして事なきを得たものの、精神的なショックがあったのだろう。それ以来、教室に姿を見せることはなかった。丹恋はてっきり、不登校になってしまったのだと考えていたので、保健室に登校していると知って安心した。
とはいえ、面識のないクラスメイトがいきなり押しかけてどんな反応をするのか予想がつかない。私だったら、と考えて、頭を子犬のようにぶるぶると振るった。剣持という生徒とは全く別の存在なんだから、考えても無駄だ。
そうだ、偶然を装うのはどうだろう?
頭が痛いふりをして保健室に行き、剣持と会話を続ける。そうすれば、彼女も警戒しないのではないか。
我ながら良い作戦を思いついた、と丹恋は自画自賛をした。嘘をつくのは好きじゃないが、誰かを思ってのことなら許されるはずだ。
保健室の場所は入学式の日に配布された校内マップを暇を持て余していたときに熟読したので、丹恋は把握していた。本館一階の、この廊下を西から東に進むと、左手に備品室が見えてきて、その隣に備品室ある。シミュレーション通りに歩くと、壁に対して垂直に飛び出している札に『保健室』と書いてある。
保健室に入るときにノックをするべきなのか迷い、結局は丹恋は引き戸を開けた。
「すみませーん、頭痛くて――」
と、頭に片手を当て、目を伏せながら訪問の意図を告げた。視線を上げたとき、丹恋は慌てて引き戸を閉めた。
――もしかして、隣の部屋?
確認してみるが、やはり保健室に間違いない。しかし、目にした光景は誰もが連想する病院の待合室のような雰囲気とはかけ離れていた。
丹恋は息を整えて、再び戸を開けた。
やはり妙な光景が目の前にあった。
大型の液晶テレビが置かれ、その前に三十半ばに見えるふくよかな白衣姿の女性と、毛羽立ちの微塵もない真新しい制服を着た女子生徒が、丹恋に背を向けて椅子に腰掛けている。
テレビには端正な顔をした男女がリビングらしき場所で起こる怪奇現象に恐れ慄いている場面が映し出されていた。男女とも知名度の高い俳優で男性の方は元アイドルではなかったか。この俳優の組み合わせは展開の予測できなさが話題になり、ヒットしたホラー映画だ。
問題はホラー映画を大音量で再生して、保健室で鑑賞していることだ。微かに漂う消毒液の臭いと、映画鑑賞は相容れないものに思えた。その音量のせいで丹恋が彼女らの背後にいることにも気づいていない。
「あの!」
声を張り上げて呼びかけてみると、二人は肩をびくっと上げて、画面の俳優顔負けの恐れに満ちた表情で振り返った。
「なんだぁ、人間か」
女子生徒が心底安堵した表情で胸を撫で下ろした。
そりゃ人間でしょ、と丹恋は心の中で突っ込みながらあることに気づいた。ホラー映画を楽しんでいた彼女こそ、クラス全員の前で気絶して以降、姿を見ることのなかった剣持唄だ。
頭頂部に寝癖の付いたボブカットの黒髪。眠たげな猫目の右側が前髪で隠れている。肩に父親を乗せた幽霊族の子供を思わせる。その子供が女の子にして、仕上げにニヒルさを少々まぶした感じだろうか。
しかし、失態から精神的苦痛を味わい、教室に戻れなくなっているという担任の話とは随分違う印象を受けた。元気溌剌とまではいかないが、保健室という空間を最大限に満喫しているではないか。
「ごめんなさいね、体調崩しちゃったのかしら?」
「あ、はい、そうなんです。頭が痛くなってしまったので、頭痛薬をもらえないかなって。あと、少しここで休ませてもらえたら嬉しいです」
「わかったわ。ちょっと待ってて」
養護教諭が膝に手を当てて立ち上がり、右手にある棚から頭痛薬を取り出すと、一錠だけパックからハサミで切り取って丹恋に手渡した。
「お水はいる?」
「あ、大丈夫です。水筒に残ってるので」
そう、と微笑むと養護教諭は剣持に何かを耳打ちしてから映画を停止して、キャスター付きの薄いテレビ台を壁際に寄せた。
打ち切られた映画鑑賞に剣持は不満を漏らすこともなく、立ち上がって通学鞄に荷物をまとめ始めた。
――マズい。このままでは無駄に仮病を使ったことになる。
「剣持さん、だよね? 私、長慶寺丹恋って言って」
「クラスメイトですよね?」
「あ、うん。顔を憶えてくれてるんだ」
「すみません、憶えてません」
剣持は丹恋と目を合わせようとしないまま、荷物をまとめていく。
「だって、今、クラスメイトだって言ったよね?」
「それは、あなたのことを憶えていなくても見て、考えればわかることですから」
「どういうこと?」
「わからないですか?」
「うん……ごめん、私にはちょっと」
剣持が苛立っているのを言葉の端々に感じ、丹恋はいつの間にか謝罪の言葉を口にしていた。落ち込んでいるはずの剣持の様子を見に来ただけなのに、どうして自分は彼女に手を合わせて謝っているのか。困惑したまま、剣持の言葉を待った。
「あなたは頭痛薬をもらいに保健室に来て、休ませてほしいと言いました。おかしいですよね?」
「体調不良で保健室に行くことのどこがおかしいの?」
「正確に言えば、放課後に偏頭痛を発症したとき、帰宅せずに保健室に頭痛薬をもらいに行くのか、ということです。お腹をくだしたりした場合は切羽詰まっていますから、薬をもらうのも理解できますが」
「家まで痛みに耐えられなかったの」
「あなたの家はこの学校から二、三十分かかるだけですよね? それぐらいなら家に帰った方がいいと判断するんじゃないですか? それに頭痛薬なら友達が持っている可能性も高いですし」
丹恋は目の前の眠そうで鈍そうな女子生徒が早口で捲し立てる論理的な言葉の羅列に何も言い返せなかった。丹恋が三歳ぐらいのとき、母に隠れてチョコレートを盗み食いして怒られたのを思い出した。まさか、剣持とは大人と子供ほどに思考に差があるように思った、のだろうか。
丹恋は剣持唄という一人の少女に畏れを抱いていることに気づいた。同級生には一度も感じたことのないもので、ただ困惑していた。
「私の家の場所なんて話してないのに――」
「バッグに提げられた定期を見たからです。学校の最寄り駅から二駅しか離れていないとわかったので。余計なお世話ですが、危ないですからICカードにマスキングシールでも貼っておくのがいいのでは?」
「あ、うん。でも、どうしてクラスメイトだってわかったのかがまだ……」
「あなたが仮病を使ったことは推理できましたよね? そして、学校指定の室内シューズの色が青なので、一年生だということがわかりました。同学年の女子生徒が嘘をついて保健室に来た理由は何なのか。自意識過剰ですが、その理由は私だと考えたまでです。そして、あなたが私に声をかけてきた時点でその可能性は九割を超えた」
「あのー、何ていうか……」
「いいんです。あなたには怒っていません。私を気遣ってのことでしょうし、遠山先生があなたに頼んだからここに来たんでしょう。ですが、もう来ないでください。私の学園生活は、この保健室だけで完結させるつもりです」
「保健室だけって、どうして?」
剣持は寝心地の悪そうなベッド上の枕脇に置いていた赤く分厚い本を鞄に詰め込むと、丹恋の問いに答えないまま部屋を出て行った。
剣持との会話は短く、自分の空想だったのではという気もしたが、彼女の冷静な論理が現実だったと裏づけていた。
丹恋は我に返って、受け取った頭痛薬を養護教諭に渡そうとした。
「あのう、嘘をついてすみませんでした」
「別にいいのよ、それはビタミン剤だから」
「え?」
「だって、仮病だってことは何となくわかってたもの。最初からビタミン剤をあなたに渡したのよ。唄ちゃんほど賢くはないけど、これでも十年近く保健室の先生やってるからねぇ。仮病かどうかはわかるわ」
丹恋は途端に恥ずかしくてたまらなくなった。上手く嘘をつけたと思っていたのは自分だけで、論理だけでなく直感から、とっくに見抜かれていたわけだ。
養護教諭は丹恋に
「唄ちゃんのこと、よろしくね」
「いや、無理ですよ。剣持さんが私に抱いた第一印象、最悪だと思いますし」
「案外、そんなことないと思うわよ。あの子、まともに喋れない相手がほとんどだもの。私にだって、あんな流暢に話してくれなかった。一日中、一緒にいる私にもね。唄ちゃんにとって、長慶寺さんは特別だってこと」
剣持は丹恋と目を合わすこともなかった。さすがに神野の勘違いだろう。
神野に深々と頭を下げて再度詫びたあと、丹恋は保健室からとぼとぼと出ていった。五分ほどしかかからない最寄り駅までの道が倍以上に感じた。駅前で大きく溜息をついたとき、ジャージ姿の男から声をかけられた。ジャージにはサッカーボールのマークと『HOMEI HIGH SCHOOL』の文字がある。
頬にニキビがぽつぽつできた、刈り上げ頭の男子。いかにも思春期といった風貌だった。しかし、他校の生徒だし、丹恋がいくら記憶を辿っても面識はない。落とし物を届けに来た、という様子でもない。
思春期男子は丹恋のふんわり膨らんだ胸元に視線を送りながら、告げた。
「一目惚れしました。付き合ってください」
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