破滅の値段

 人の集中する都市圏は網の目のように鉄道網が張り巡らされている。そこを通る電車は数万の人々を毎日送り、そして家に帰す。現代の生活にあって必要不可欠なものである。


 だからこそ一度それを利用したら簡単にやめることはできない。たとえそこでどんなことがあったとしても。


 夜の帰宅時間に人を満載した電車が走る。車内は足の踏み場のないほどに人が詰め込まれ、多くの人がたいてい自分のスマートフォンに視線を落としている。


 倉敷 セナは大学であった。アルバイトの帰りによくこの時間の電車に乗る。彼女は黒い髪を伸ばしたおとなしそうな見た目をした女性である。彼女は壁際で泣きそうな顔をしている。


 その後ろには彼女に被さるように体を密着させた男性がいた。コートを着込んだマスクをつけた男であった。彼の手は倉敷のスカートの上にあった。


(来た……)


 倉敷は恐怖に固まりながらおもう。ここ数日多少時間をずらしても、この男はいた。駅で待ち伏せされているのかもしれない。彼女は自分の肩にかけたバッグを手でぎゅっと握る。


 わずかな時間が永く感じる。その不快感を抑えて唇を噛む。


 電車が次の駅に到着した時に男は軽く彼女のおしりをたたいて電車から降りていく。屈辱に倉敷は泣きそうになりながら電車を降りた。


 男は改札を出て軽快な足取りで駅の外に出た。すでに暗い空を一度見る、曇り模様だった。彼はタクシーの光りが行きかう中を帰宅の途に就く。その帰り道には歩道橋があった。彼はその階段を上ったところで歩道橋の手すりに背を預けている女性を見た。


 その女性は紺色のタートルネックに細いジーンズに身を包み、ハンチング帽から艶やかな金髪がでている。その瞳はサングラスで隠れていた。


「どーも」

「……?」


 明るい挨拶に男はいぶかしんだ。宗教の勧誘か? と怪しんだがそんな様子もない。女性はとてとてと近寄ってきた。


「あ、私は香華カリューといいます。しがない探偵をやってます。今日だけでいいのでお見知りおきを」

「はあ」


 男は気のない返事をする。


「早速本題なんですが」


 カリューはポケットからスマートフォンを取り出してそこに動画を流す。そこには男が痴漢をする場面が映っていた。男は反射的にカリューからそのスマートフォンを奪おうとするがひょいとカリューがよける。


「とりあえず警察ですかね」

「ま、待ってくれ誤解だ!」

「誤解? そうですか。彼女とはどんな関係なんですか?」

「……あ、あいつは俺の女だ。金を払ってそういうことをしてんだ」

「ふーん。だ、そうですけど、どうですかね」

「は?」


 男が振り向くとそこには倉敷がいた。彼女は強い眼光で彼をにらみつけている。


「ひっ」


 男は悲鳴を上げた。


 歩道橋は別の人々も通る。二人の女性に挟まれた男を奇異な目で見る通行人が通っていく。カリューは気にせずいう。


「どうやらそんな関係はなさそうですね。ま、とりあえず穏便に話し合うためにけーさついきましょうか? ちなみに私はその女性に雇われているのでここにいたのは偶然でも何でもありません。駅から降りてタクシーで先回りしただけですよ」

「ま、待ってくれ。出来心なんだ! わるかった。でも、ただ尻を触っただけだろ。それしかしてない」

「ふざけないで!」


 倉敷は泣きながら言う。


「それだけって、わたしが、私がどんな思いで……」


 言葉にならない。カリューは彼女に歩み寄ってその背中をぽんぽんとたたいてあげる。その隙に男は逃げ出そうとした。


「あ、待ってください。B商事の西村課長代理さん」

「なっ」


 男は驚愕した自らのことを知られていることに絶望した。


「な、なんで……。俺の」

「そういう職業ですから」


 にこにこカリューは続けた。


「最近購入された新築マンションのご自宅までもう10分もかかりませんし。お子さんも待ってるとは思いますけど。ま、ここは私にご同行お願いします」


 男の目の焦点が合わない。明らかに動揺していた。自宅すらも知られている。彼は口をパクパクさせた。何か言いたいが言葉が見つからない。


「……す、すみませんでした」


 そう言って土下座するまで1分ほどを要した。彼は地面を額にこすりつけた。


「か、家族には言わないでください」


 男の言葉に倉敷がにらみつけた。


「黙っているわけにいかないじゃない! 私の気持ちはどうなるの!?」

「す、すみませんでした。すみませんでした。すみませんでした」


 西村は必死だった。


「金なら払います! 100万……それでじ、示談にしてください」


 西村は縋りつくように、哀れな目で倉敷に訴えた。


「子供が高校に上がるんです……こ、今回のことは知られるわけには」

「……卑怯、卑怯だ。子供を持ち出すなんて!」


 倉敷は頭を抱えた。カリューは優しく言う。


「ま、今回のことは全部彼の自分でやったことですからちゃんと責任を取ってもらった方がいいですよ。できれば公的な話で。お子さんのこともあなたには関係ありませんから」

「ぶ、部外者は黙ってろ!」


 西村の叫びにカリューは赤い目を向ける。サングラスからちらりと見えたその瞳に男が息をのむ。


「なるほど部外者は黙っていろと? 勘違いしてませんか。西村さん。口止めをしないといけないのは彼女だけではありませんよ」

「は?」

「私は彼女からあなたの痴漢現場の動画の依頼を受けただけで別に独自に善良な市民としての動いても問題はありませんよ」

「……お、おまえ」

「300万」

「あ?」

「を上乗せしてしめて400万ですかねー」

「ご結婚前の貯金などあると思いますから、まあそれくらいですね。エリート社員さんですから。ほら」


 カリューは口角を釣り上げる。


「破滅するよりは安いと思いますよ」


 倉敷も西村も彼女の様子に飲まれたように黙り込んだ。だがカリューはひょうひょうと続ける。


「でもまあ、被害者の彼女の言葉が一番ですからね。どうしますか? お金で手を打ちますか? 私は個人的にうれしいですがおすすめはしませんよ、けーさつにちゃんと言った方があとくされないですよ」

「……あ。あ」


 西村が頭を下げる。


「わ、わかった。400万払う! お願いだ! 黙っててくれ、お願いします!」

「あ、……あ」


 倉敷は混乱しきったような顔だったが、いう。


「わ……かった」



 翌日には入金があった。倉敷とカリューはそれをカフェでネットバンキングの画面で確認をした。倉敷の手元に290万入っている。10万をカリューに報酬として支払い、残りをカリューの取り分になった形だった。


「…………」


 外は雨だった。カフェの暖かなランプに照らされたコーヒーが湯気を立てている。カリューはそれを口に運んで飲む。


「とりあえずこれでこの件は終わりですね。口止め料をもらったので逆にこっちからは何もしない方がいいですよ」


 倉敷は暗い顔だった。


「私、本当に怖かった。でも、あいつが子供とか言い出したから」

「…………ま。こういうこともありますよ。……ああそうだ、最後に倉敷さん」

「……」


 倉敷が顔を上げる。カリューはその彼女を赤い瞳に映しながら静かに言う。


「そのもらったお金貯金してた方がいいですよ。あと、あの男性とは二度とかかわらないように」

「……あいつとかかわることなんてない…」

「それは良かった。あ、またお仕事あったらお声がけくださいね。香華探偵事務所はリーズナブルですから」


 カリューはそういうと軽やかに立ち上がって去っていく。コーヒーカップの下に1000円札が挟んであった。



 後悔があった。金で解決をしたことに対して復讐としても中途半端だったと倉敷は思っていた。だが、何か行動をしようとは思わない。今更何かの打撃を男に与えるつもりはなかった。


 しかしそれでも毎日思うところがあった。


「ああー」


 彼女は大学から帰ってきてベッドに倒れこんだ。むしゃくしゃする気持ちを枕を殴って発散させる。むなしさがあったが、毎日ストレスを感じていた。彼女はなんとなく手元に雑誌を引き寄せてパラパラとめくる。


 新作のバッグが並んでいる。値段は10万以上するものもあった。


「高いなぁ……。あれ」


 違和感があった。それはすぐに何かわかる。


「買えるじゃん。私」


 倉敷は思い当たった時通帳に入っている金額を思い出した。数日実感がなかったが彼女の手元には大金があった。そう思うと少しくらいと思い、倉敷はノートPCを開いて通販サイトでいくつかの買い物をした。


 数日後に気が付いた。毎月悩んでいた光熱費も家賃も大したことはない。親からの仕送りをそのまま好きなことに使うことができる。


 ストレスを発散するように倉敷はいままで我慢していたものを買ったり遊んだりした。彼女の友達と遊ぶ時も自分が率先して支払った。


 楽しかった。途中でアルバイトもやめた。


「旅行いこっかなぁー」


 倉敷は毎日が飛ぶように過ぎていくように感じた。我慢することない日々の甘さに少しずつ溶けていった。いろんなところに遊びに行き、彼氏もできた。どうせ慰謝料でもらったあぶく銭ではあるからけちけちはしなかった。


 そうして、


 ある日残高の減った通帳に彼女は思い至った。


(まずい)


 彼氏とのデートがある。お金が必要だった。食事代や彼氏へのプレゼント代それに友達との遊びの時のお金も必要だった。


 久しぶりに求人雑誌を開くと時給数百円のバイトが並んでいる。彼女はそれを少ないと思い読み飛ばす。


(どうしよ、どうしよ)


全ての思考が「奢る」ことを前提になっていた。だからこそ誰にも相談はできなかった。親の仕送りはもらったらすぐに使う。生活費は貯金から出していた。


「あ」


 何かに気が付いたように倉敷は笑った。



 ジャズの流れるバーでウイスキーを片手に女性が座っていた。香華カリューだった。彼女は手元のノートPCをたたきながらジャズを聴いている。


 ヴーヴー


 手元のスマートフォンが鳴った。そこには「倉敷さん」と映っていた。カリューは電話を取る。


「はいはーい。香華です」

『……はあ、はあ。た、探偵さん?』

「はい、そうですお久しぶりですね」

『助けて!』

「はあ?」

『追われてるの、今、はあはあ、助けて』

「落ち着いてください、追われてるって誰にですか?」

『あいつ! あいつだよ。痴漢やろう!』

「……あー」


 カリューの目が静かに冷たくなっていく。


「倉敷さん。何かやりました?」

『……な、なにもしてない!』

「本当ですか?」

『……あ、あいつに会って』


 がちゃんと閉まる音がした。電話の向こうではどこかに逃げ込んだようだった。


「今どこにいるんですか?」

『駅前の……はあはあ、こ、公園の、トイレの中……』

「とりあえず警察に言った方がいいですよ。私なんかより」

『……他人事みたいに言わないで! あなたの真似をしただけなんだから! あいつにお金をくれなきゃ家族にばらすって言っただけ! ……お金渡さなかったから、会社に電話してやったの……! それから家族に言うってもう一度言うつもりだったの!』


 泣き声が響く。


『会社から全部ばれた! それから家族にもばれてあいつ、首になって離婚したの!』

「なるほど」


 カリューは言った。


「ねえ、倉敷さん。私の真似をしたのなら覚えていると思いますが、破滅するより安い金額をあの人からもらっただけなんですよ。でもあなたは――破滅させちゃったんですね」

『は!? 私はこんなつもりじゃなかった。ただ、彼氏との付き合うにはお金がいるだけだったし、全部ばらすつもりなんてなかった少し脅せばまたもらえると思っただけでそんなことは』


 がんがんがんがんがんがんがんがん


 獣のような声と何かをたたく音が電話口からする。


『ひぃいい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。たすけてたすけてたすけて助け――』


 ぴっと電話が切れた。カリューはぽんと着信拒否にしてから、110に電話する。


「あー。もしもし、善良な市民です。駅前の公園のトイレで事件があってます。信じなくてもいいですけど、信じたほうがいいと思いますよ、それじゃ」


 それだけ言って電話を切る。何事もなかったように店にはジャズが流れている。

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