雪の日のこと

 時計の針を少し遡った冬の日。


 雪が降りしきる日だった。空からの白い雪が音を吸い込んでいくように静かな夜。


 都会の片隅。雑居ビルの地下にある小さなバーで店主の男は一人店の掃除をしていた。バーテンダーを兼ねた彼は精悍な顔つきをした男だった。こんな日はあまり客は来ないかもしれない、それでも黙々と仕事をしている。


 バー店内にはジャズが流れている。客はいない。店主が一人だった。


 からんからん。


 ドアの鈴が鳴る。見ればひとりの女性が入ってくる。頭に乗った雪を払いながら「さむいさむい」と言いながら入ってくる彼女。店主は生真面目な声音でいらっしゃいませといい店の奥にいざなった。


 

 店主と客は向かい合う。その間には琥珀色のウイスキーの揺れるグラスが一つ。互いに特に会話がない。店主は実直ではあるが反面で寡黙であった。ある意味こんな繁華街のはずれに店を出すにはこの性格がないとできなかったかもしれない。


「バーテンダーさん、お名前、なんていうんですか?」


 女性が聞いた、いたずらっぽく笑う姿。バーの明かりに照らされた彼女の姿はどことなく吸い込まれそうな魅力があった。


「天野(あまの)です」


 しかし店主には通じない。彼は短く答えるが、そのあとに「お客様はなにをされておられるのですか?」と聞いた。


「私ですか? ふふ。なんだと思いますか?」


 金髪を指でくるくるともてあそびながら言う。彼女の瞳は紅い。不思議な色だった。


「さあ……どうでしょうか」


 天野はにこにこと笑う目の前の女性を見ながら少し考えて、昨日見たドラマをなんとなく思い出した。冗談は苦手だがたまにはと思い口を開く。


「探偵……などですか?」


 それを聞いて女性はびくっと驚いたように目を見開いた。


「え、え? なんでわかったのですか?」


 彼女はポケットから名刺入れをだして天野に出す。そこには「香華探偵事務所 香華カリュー」と書いてあった。天野は冗談が本当になって難しい顔をした。まさかたまたま見たテレビ番組を言ったとは気恥ずかしく口に出せなかった。


「なんで? なんでですか?」


 逆にカリューは身を乗り出して聞いてきた。さっきまでの余裕のある態度ではなく好奇心が前面に出ていた。


「……秘密としておきましょう」

「……えー」


 心底残念そうにカリューは体をのけぞらせた。オーバーなアクションに天野は少しほほ笑んだ。


 次に彼を見たカリューはにやりとした。


「そう、私これでも探偵しているのですよ。バーテンダーさんも探し人とか……彼女さんの浮気調査とかあったら有料ですけど請け負いますよ」


 天野は一度目を閉じた。


「探し人?」

「ええ……あれ? もしかして本当にいますか?」

「……そうですね。何年も探している人はいます」

「おっ、よかったら私に依頼をしません? 10万で請け負いますよ」

「それはなかなか安いのでは」

「リーズナブルが私の売りですから」


 頬杖をつきながらにっとカリューは笑った。天野は妙なこともあるものだと考え、ほかの客がいればこんな話にはならないだろう。そしてふうと息を吐く。天野とカリューが口を閉ざせばただジャズの流れる静寂があった。


「私の探しているのは……母です」



 天野 圭介(けいすけ) には生き別れの母親がいる。


 彼自身はうっすらとした記憶しかないが、父親の暴力に嫌気さしてどこかにいったとどこからで聞いていた。彼自身は紆余曲折があり施設で育てられた。


 彼の手元には数枚の写真があった。それは子供のころの天野をただ愛おしそうに抱きしめてくれる姿だった。彼はいつか母親と会ってみたいと願っていた。


 怪しげな探偵が目の前に現れるまでそれはいつか、という程度でしかなかった。しかしそのことを淡々と彼はカリューへ語り終えると金髪の探偵は両手を組んでにこっと笑う。


「いいじゃないですか。お母さん探しましょうよ」


 明るい声だがそんなに大きくはない。それでも天野の中に彼女の声は響いた。


 カリューに天野は知りうることをできるだけ話をした。子供のころ住んでいた土地や父親の名前、母親は苗字しか知らなかった。カリューに聞かれるままに天野は簡潔に話をした。


 からんとウイスキーの中の氷が融けて音をたてる程度の時間がたった。


「わかりました。それじゃあ前金を取りに来ますから」


 カリューはそれだけ言うと会計をして出ていく。



 一か月がたった。天野のバーはいつも通りの日々が過ぎていく。


 カリューは姿を見せない、天野はむりだったのだろうかと考えた。10万については惜しいともなんとも思っていなかった。ただ、また雪の降る日に彼女はやってきた。


 からんからんとドアの鈴が鳴る。


 ハンチング帽に丸サングラスとトレンチ風のピーコートを着た香華カリューがいた。肩からカバンをかけている。


 天野の心臓が鳴った。だが彼の表情は動かなかった。


「お待たせしました」


 サングラスを指で下げて上目遣いでカリューは言った。彼女はカウンターに座るとロックのウイスキーを頼んだ。客は彼女以外にいない。偶然なのかその時間帯を狙ったのかは天野にはわからなかった。


 天野はウイスキーをして恐る恐る聞いた。ただ彼の聞き方は単刀直入のように他人には見えた。


「どうでしたか?」

「……」


 カリューはサングラスを取って帽子を取る。紅い瞳で天野を見た。どこか妖艶さのある彼女の表情。


「いましたよ」


 もう一度天野の心臓が鳴った。


 カリューはカバンから封筒を取り出してカウンターに置く。ただ目線は天野に向けていた。


「木戸愛理(きどあいり)さんという方が、千葉のA市に住んでいるようですね。住所もこの封筒の中に入っています」

「……見てもよろしいですか?」


 言いながら天野は封筒をとろうとしてカリューは逆に封筒を抑えた。彼女は近寄った彼の耳元にささやく。


「ねえ、天野さん。取引しませんか?」


 それは甘い声だった。天使のような、悪魔のような音だった。


「とりひき……?」

「ええ、これ調べるのに結構経費が掛かっちゃって、正直10万じゃわりに合わないんですよ」

「ああ、経費の話ですか。いいですよ。いくらですか?」

「300万」


 天野は一歩下がった。驚愕に声を失った。その様子をうっすらと笑いながらじっとカリューは見ている。


 ジャズが流れている。


「300万……?」

「ええ。この封筒と情報をそれだけでお譲りします」


 封筒にその細い指を這わせるカリュー。


「……いいですか? 私にも生活があるのでまあ、これくらいは。天野さんはお店をしているくらいですからあるでしょう? その程度」

「……」


 カリューは続ける。


「いいんですよ。買わなければ持ち帰るだけです。私の探偵事務所はそんなに大きくはないから無駄な資料を置いておく場所はないので処分しますけどね」

「……」

「どうしますか? 天野さん」


 カリューの言葉に天野はじっと聞いている。ふわふわとした夢のような感覚がだんだんと現実味を帯びてきている。


「その中身が本当の保証はあるのですか?」

「あ、疑っちゃいます? だめですねー。もちろん本当ですね。でも、つまみ食いで見せたりしませんよ」

「確認する方法はないということですか?」

「ええ、貴方は私に300万払うか、払わないかだけです」


 天野は無言で背を向けた。


 カリューは「あーあ。商談失敗」と残念そうに言ってウイスキーを口に含んだ。


 静かにジャズが流れているそれを聞いていると、天野が戻ってきた。そしてカリューの前に札束を3つ置いた。


「300万あります」

「……へえ」

「封筒をもらいますよ」

「いいですか? 私の情報が正しいかどうかなんて何の保証もないですよ。それにもうお金は返しませんよ……それに」

「…………」


 カリューの言葉には答えず天野は封筒を開けた。



 雪が降っていた。


 天野は駅で降りると白い息を吐いた。探偵から得た住所の近くまでタクシーで向かう。住宅街で降りて、腕時計を見る。


 探偵の資料には朝8時ごろに自宅前に行けば「見れる」ということが書いてあった。


 その家は一軒家だった。ただ表札は「木戸」ではなく、「谷口」とあった。その入り口を見ながら彼は待った。


 きいと玄関が開いた。


 そこから出てきたのは一人の女性だった。その姿に天野は息をのんだ。少し年を取っているが写真の姿の女性がそこにいた。その瞬間どうすればいいのかわからなくなった。駆けだして声をかければいいのか、むしろこの場に立ち尽くしていればいいのだろうか。


「お母さん」


 その声に天野は顔を上げた。男の子がランドセルを背に玄関から出てきた。その子の頭を女性はわしわしとして、笑う。


 どこにでもある普通の光景だった。天野はその姿をじっと見ていた。


 親子は並んでバス停まで向かっていった。その後ろを天野はふらふらとついていった。二人は仲睦まじい様子であった。


 バス停では近くに行った。自分が何をやっているのか天野はわからない。ただ二人の様子を見ていた。


 バスが来て、子供だけが乗ってどこかに向かった。土地勘のない天野にはよくわからないが学校に行くのだろう。残された女性は腕時計をバスの時刻表を見ている。別の方向に行くのだろう。


「お子さんですか?」


 声を、かけた。無意識だった。


 女性は天野を見て少しぎょっとしたようだが「ええ」と愛想笑いをした。天野はどこかぴきりと音が聞こえた気がした。


「あのくらいの子は……かわいいですよね」

「そうですね。かわいいですよ」

「……一人息子ですか?」


 女性は怪訝な顔をしながら天野に言う。


「そうです」


 ……


 ……


 ……


 天野は


「幸せですね」


 そう聞いた。女性はただ、


「はい」


 と短く答えた。天野はひびの入った笑顔を張り付けた。



 どう帰ったのか覚えていなかった。彼はいつも通り仕事に向かい、いつも通りにバーにいた。


 電気もつけずバーの中央で椅子に腰かけていた。ひび割れた表情の一部がぱきりと割れた気が彼にはした。彼は何も言わず。そのほほを一筋の涙が流れた。真っ暗な部屋にそれを見る者はいない。


 からんからんとドアが開いた。


 暗い店内に光が差し込む。ただ天野からはそのドアの前にいる女性のシルエットからは表情は見えなかった。雪が少しだけふっている。


「高い買い物でしたか?」

「…………」


 天野は立ち上がった。女性はカリューだった。


 それを見て心底から怒りがこみあげてきて両手のこぶしを握り締めた。なぜそんな気持ちになるかはわからなかった。ただ、わけのわからない感情が彼に覆った。だが、その声音はそれとは裏腹に低く、冷たい。


「何をしにこられたのですか?」

「さあ、仕事の結果を見に?」


 両掌を上にあげておどけるようにカリューは言う。その態度に天野は飛びだしそうになったが不意に彼女の前の言動を思い出した。挑発めいた、異常な要求。そもそも彼女はなんで今ここに来たのだろう。仕事の結果を見に来るなどとそのままには信じられなかった。


「……」


 天野は両手で頭を抱えた。


 カリューは言う。


「こんな時にも感情出せないなんて、お母さんから相手にされなくて当然ですね」

「…………」


 天野は顔を上げた。激情に血が沸騰しそうだった。だがその感情を、理性が邪魔をした。


 わめきちらせればどれだけいいだろう。


 すべてを恨むことができるのならばどれだけいいのだろう。


 目の前の女性のせいにできればどれだけ楽だろう。


 だが、彼の今までの境遇が彼の何かをおしとめ、カリューの表情を見た。


 紅い瞳が彼をまっすぐ見ている。


 天野に向けるその顔、その表情。まっすぐに彼を見ている。わずかに悲しそうにすら見えた。


 それをみて天野は椅子に力なく座った。


「あなたはうそつきだ」

「……あ、今頃気が付いたんですか? そうですよ私はうそつきなんです」

「……ああ」


 天野は椅子にうなだれた。だが彼は次に言った。


「お店は夜に開きます。その時来てください」



 そのバーには探偵が出入りしている。


 店主と彼女は言葉を交わすことはほとんどない。


 だが、女性はわずかに飲んでほとんどの場合会計を呼ばすにふらりと帰っていく。


 その時グラスの下に折りたたまれた万札が挟まれていることが多い。


 店主はそれを見るたびに思う。最初は止めていたが、来ては勝手に帰るので止めようがない。


 返しに来ているのだろう。


 彼にできるのは彼女へできるだけ良いお酒を出すことだけだった。

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