心残りはあるけれど

平 遊

やっぱやめとく

「だから、わたしは【今】を大事にしたいの」


 目の前で、彼女が言った。

 俺の目を真っ直ぐに見ながら。


「いや、それはわかるけどさ」

「わかってないわ、全然!」


 彼女の大きな目には、薄っすらと涙まで浮かんでいる。


 いったいどうすりゃいいんだよ?


 と。


 完璧に俺はお手上げ状態だった。


「だって、明日にはもうこの世にいないかもしれないのよ、わたしたち。この世に【永遠】なんてものは存在しないの。あるのはただ、【刹那】という名の【今】だけ……」


 言いながら彼女は俺の方へとにじり寄ってきた。そんな彼女から逃れようとも、俺のすぐ後ろには既に壁が。


「だから……ね?」


 彼女の美しく細い腕がゆっくりと伸ばされ、冷たい指が俺の頬へと触れる。


 参ったな。

 彼女が俺の女なら、少なくともフリーの普通の女なら、何一つためらうことなくお言葉に甘えてさっさと押し倒しているところではあるのだが、困ったことに彼女は人妻だ。しかももう、とっくに死んでいるらしい。

 ん?

 死んだら婚姻関係は無効か?

 まぁ、そんなことはこの際おいておくとして、だ。

 旦那に冷たく虐げられていた彼女は、たまたま俺が引っ越してきたこの部屋で自ら命を絶ったとのこと。

 おまけに俺は、その旦那に姿かたちがソックリなんだとか。

 そんな訳で俺は今、引っ越してからこの方、毎晩のように彼女に口説かれているというわけだ。


「わたしと結ばれましょう…


 いい加減、俺も断るのが面倒くさくなっていたし、俺だって男だ。

 この女、メチャクチャエロくていい女で、いくら幽霊だからって、我慢の限界があるってんだよ!


 幽霊の女って、抱いたらどんな感じなんだろな?


 なんて下世話なことを考えながら、体から力を抜いて女を受け入れる体制を取ると、女の目が嬉しそうに、そしてほんの一瞬だけ妖しげに光った。

 その光に何故か体が瞬時に反応し、女と壁の間から必死に逃れると、俺はキッチンに置いていたソルトケースを片手で鷲掴みにし、もう片方の手で同じく鷲掴みにした塩を一握り、女に向かって投げつけた。


「ぎゃあぁぁぁっ!」


 叫び声を上げて、女の姿が部屋の空気の中に掻き消える。


「【この世に【永遠】なんてものは存在しない】っていったじゃねぇかよ。だったらさっきの言葉は何だよ?あの世には【永遠】があるってか?あんた俺をあの世に引き摺り込むつもりだったな?」


 今更ながらに背筋がゾッとする。

 翌朝すぐ、俺が不動産屋へ向かったのは言うまでもない。

 事故物件だってのは聞いてたし、格安家賃も気に入ってはいたが、さすがにもう限界だ。害の無い霊障くらいなら、気にしなかったんだけど。


 ……本音を言えば、あの女の幽霊を抱いてみたかったな、という心残りはある。

 でも、俺はまだまだ【永遠なんてない】この世で生きていたいから。

 あの世には永遠があるみたいだからなぁ、今後俺があの世に行った時には、今度は俺から口説いてみるのも悪くはないかも、な?


 end

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心残りはあるけれど 平 遊 @taira_yuu

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