三 川西明日香という物語
母親を看取った。父親が不倫相手の元へ逃げてからというもの、男遊びに育児放棄。挙句の果てには万引きの常習化と、散々迷惑をかけ倒してくれた人だった。早死にと言われる年齢でこの世を去ってくれたのが唯一の救いだった。
親ガチャ失敗、そんな暴力的な言葉に、共感してしまったのがつらかった。でも、実際そうだろう。
いつ金が尽きるかと怯えながら過ごす日々の中で、授業のノートの端に知らない世界を書き溜めた。夢のような魔法や生き物がいる世界を思い浮かべるだけで、現実のつらさを忘れることができた。食事代として置かれていた500円を、無い頭で節約しながら少しずつ貯めた。専用のノートを買えるようになった時は、もっと世界を広げた。金がなくても、居場所がなくても、この世界だけは私が操作できた。
私の全てとも言えるノートを目の前で引き裂かれたのは、高校1年生の時だ。友人は一人もいなかった。休み時間の度に、一人でノートを広げる姿は、悪目立ちしていたのだろう。ある生徒が私を茶化した。突然声を掛けられたのが怖くて、何も言えなかった。呆然としていると、内容を音読され、そして、気持ち悪いと投げつけられた。こんな鬱蒼とした女が変な妄想を書き連ねているなんて、言われなくても自分が一番よく分かっていた。気持ち悪いと。誰も放っておくことをしてくれなかった。一度点いた火種は燃え広がり、なかなか消えなかった。数日経って、その生徒がまた音読しようと手を掛けてきた。私はノートの片側を掴んで、渡さなかった。双方から力が加わったノートは、真っ二つに裂けていた。家にも学校にも、そして自分が思い描いた世界にすら、拒絶されたような感覚だった。学校には行かなくなり、家からも学校からも遠いコンビニで細々とアルバイトをした。引きこもる部屋すら、私は持っていなかったからだ。
そのコンビニが再開発の立ち退きで閉店するまで、20年近くアルバイトを続けた。金に困ることは減っていたが、一人暮らしができる稼ぎではなかった。中卒でアルバイト歴しかない40歳間近の女が上を目指した転職なんてできるはずもなく、家に少しだけ近づいたコンビニに転籍した。楽しみなんて持ち合わせていなかった。勤め先の店舗との連絡用に持った格安スマホで、動きの悪いゲームを少しだけやった。顔の整った綺麗な男性が、歴史を守るために戦うゲームだけ、他より続いた。子供の頃、母親の帰りを待ちながら見ていたテレビアニメに出てきた男性と、声が同じだった。それよりは随分おじさんっぽい喋り方をしていたが。
母親の認知機能の衰えが著しくなったのはこの頃だ。該当する症例と年齢が噛み合わなかったので、甘く見ていた。少ししたら認知機能だけでなく社会性を失い、万引きを繰り返すようになった。母親からいずれ逃げるために貯めていた資金で、引っ越しを余儀なくされた。知っている人がいない土地で、今度こそやり直せると思った時、母親は死んだ。見つけられないところに大量の負の遺産を残して。
生きていくのはもう無理だった。どこに行っても母親の影が追いかけてくる。追いつめてくる。
せめてかける迷惑を最低限にできるよう、身辺整理はできるだけしてから逝こうと思った。裂けたノートが出てきたのはその時だ。あの日から一切やらなくなった創作。作らなくなった世界には、住民たちが紡がれるのをずっと待っていた。あなたたちの一員になりたい。ありったけの思いを込めて、この世界への転生を願い、遺書にした。
「明日香、朝だぞ」
「起きて、ホットケーキ焼くよ」
天からの迎えは、仲が良かった頃の両親か。
いや、違う。これは記憶だ。私はこの日、ホットプレートで軽い火傷をするのだ。それを見た父親が母親を罵る。女の子に火傷を負わせるなんて。母親は逆上する。あなたが見ていたらこうならなかった。水で冷やしながら私は、二人を見ていた。私を引き合いにして口論する、大嫌いな二人。仲がいい時間なんてあっただろうか、まったく記憶にない。
ああ、そうか。あの世界に行けなかったんだ。私は泣いた。そして恨んだ。私を迎え入れてくれなかった世界を。
あんな地獄を繰り返すのはごめんだ。全て回避してやる。私は私の歴史を、思うまま、改変してやる。でも、あまり上手く運ばなかった。父親は不倫相手の元へ行ってしまったし、母親は男遊びに育児放棄。学校から帰ると、机の上に置かれている、食事代わりの500円玉。このままだと繰り返すことになると恐れた私は、父親を強請った。高校から一人暮らしをさせろ、養育費は私の口座に振り込め、と。最初は渋った父親だったが、私が転がり込んでやってもいいと脅したら、受け入れざるを得なかったようだ。母親に関しては育児放棄を訴え出たら親権が移ったので、晴れて私の関知するところではなくなった。
誰も知っている人がいない土地の高校を選び、入学した。できるだけ身綺麗にし、できるだけ社交的に振る舞った。だが前回45歳まで生きたためか、ばばくさいと弄られるようになる。それならばと、今はまだないゲームのキャラクターを演じ、わざとおじさん口調になった。髪型も少し真似てみた。低い位置で一つに束ね、薄いピンクのリボンの髪飾りをした。私なんてもういらない、心からそう思った。それに歴史を守るために来てくれるのではないかと、世界に裏切られたくせにまだ希望を持っていた。
文芸部があるうちはよかった。そういうノリが通じる、個性派が揃っていたからだ。まったく同じとはいかないが、引き裂かれたノートに描いた世界を復元してみたりもした。かなり忘れている部分が多かったので、大幅に修正した。話の触りだけを部誌に載せてもらった。
1年生は乗り越えたが、2年生になり文芸部が廃止されると、急に引き裂かれたノートを思い出した。教室に行けなくなり、保健室登校ならぬ図書室登校の許可を得た。生徒の機微に敏感な学校でよかったと思う。教室に行けなくなって2か月が経った6月、放課後に見慣れない男子生徒がやってきた。上履きと名札の色から、彼が1年生だということがわかった。彼は私のいるテーブルの近く、ライトノベルの棚の前でこう呟いた。
「この頃はまだ転生ものって、そんなに流行じゃなかったな……」
勝手に、仲間を見つけたと思った。彼とどうしても話がしたくなった。接点がほしくなった。まるで過去を懐かしむ未来人のような言葉。
今を逃すと、次に接触を図ることはできないかもしれない。私はペンケースを机から押し出した。半透明のプラスチック製のそれは、大きな音を立てた。ペンは転がり、目論見通り、彼の足元にも落ちた。
「ごめんね、申し訳ない」
彼は2本のペンを拾い上げると、こちらに両手で差し出してくれた。なんてちゃんとした人なんだろう。きっと丁寧に人生を過ごした人なんだ。私と違って、素敵な人なんだ。
「ありがとう、新入生くん」
声が上ずったのが、バレてはいないだろうか。高揚感が先走って、変な言動をしないだろうか。とにかく心配だった。不審な動きをして避けられたら、もう話を続けられない。一言一言に緊張が走る。
「どういたしまして。もう6月ですけどね」
初めて聞いた彼の声は、穏やかで優しいものだった。
「これより後は、君が知っている通りだよ、平野くん」
川西先輩は伸びをした。その顔から戸惑いは消え、むしろすっきりした様子だった。
僕は、話を消化しきれないでいた。僕と全然違う彼女の物語。自ら開放を選んだのに、なぜか生き直しが始まってしまった。どれだけ苦痛だったことだろう。僕なら発狂してしまうかもしれない。それだけ、彼女は強い人なのだ。
「……、先輩は、これからどうしたいですか?」
僕は思い切って訊ねてみた。僕にできることを改めて確認しておきたかったからだ。
「合同誌は完成させたい。それから、大学に通ってみたい」
彼女はいつものように、にんまりと笑って見せた。僕は心の底から安心していた。前向きな話が一つも出てこない過去だったので、笑顔が見れたことに安堵したのだ。そして彼女は確かに、未来に希望を持っている。だったら、僕ができることは一つだけだ。
「分かりました。文化祭、なんとしても出ましょう。それから」
「それから?」
「い、一緒にオープンキャンパスに行きましょう!」
先輩は口を開けたまま、ぽかんとした。僕は恥ずかしくなって顔を伏せる。
「先輩は、2年生だし、僕は1年だし、まだ、まだ間に合うと思うんです、大学選び」
何を慌てているんだろう、落ち着け62歳。
すると先輩は、ここが図書室だと忘れてしまったのか、声を出して笑い始めた。二人で人差し指を口に当て、顔を見合わせ、今度は静かに笑い合った。
「そうだね、オープンキャンパスか。行ったことなかったな」
「お盆の頃に開催する学校が多かったはずです。それまでに学部とか偏差値とか、調べましょう」
僕が早速と言わんばかりに携帯電話を取り出すと、先輩はそれを窘めた。ああ、ここは図書室だった。すると先輩は同じように携帯電話を取り出し、赤外線の送受信器をこちらに向けた。
「ほら、君も向けて。メアド交換しておこう」
実は新品なんだよ、と先輩は笑う。僕は慌てて、受信機能をオンにした。川西明日香を登録しますか? 答えはもちろん、はい、だ。
僕たちの歴史は、ここから大きく変わっていくことになる。僕と彼女がお互いに、それぞれ作用しあって、影響しあっていく。この時の僕たちはそんなことは知らないし、想像すらしていなかった。でもこれが、今この瞬間があまりに大切で、かけがえのないものになっていくのは、なんとなく分かった。
これからもよろしく、と差し出された手を握った時、初めて彼女と、本当の意味で近づけた気がした。緊張していたのが、ようやく解けた気がする。6月のあの日、勇気を出してよかった。少しだけ抗ってみようと、思わなかったら彼女と出会えなかったのだ。
彼女は悪戯っぽく笑うと、小さな声で言った。
「今度君の前世も教えておくれよ?」
「えーっと、考えておきます」
また僕になる‐転生を夢見ていたのに生まれ変わったら僕だった‐ Ryoh @Ryoh73118sh
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