二 拝啓2006年のあなたへ

 それからというもの、僕は毎日、放課後に図書室へと通った。テストの前日だって顔を出した。定期テストで成績不振になるわけにはいかないので、家では必死に勉強した。それは家族と、そして川西先輩との約束でもあった。両親からは創作をする以上、国語だけはどうしても食らいつけと言われていたので、上位に食い込めるよう頑張った。苦手な教科も置いてけぼりにせず、創作に打ち込む許しは出るだろうと思われる。


「副教科ごと、全教科で平均より上を目指すんだよ、平野少年」


 先輩の口癖だった。創作だけじゃなく勉強の面倒も見てくれていたので、両親は家庭教師代を出したいくらいだと言っていた。それを伝えると先輩は笑いながら、創作仲間でいてくれたらそれでいいと言った。

 甲斐あって、1学期期末テストは全教科平均超えをたたき出した。僕の今までを考えると驚きの結果だったと言える。自分の歴史、変えてしまっているけれど大丈夫だろうか。なんだかズルをしているようにも感じられたが、これも創作のためだと割り切ることにした。


「長期休暇は憂鬱だなあ」

「夏休みのこと言ってます?」


 通知表を発表しあいながら、僕たちはいつも通り、図書室の一角を借りていた。今日は終業式。昼を回ると図書室にいるのは司書の先生くらいで、一般生徒は僕たち以外いなかった。この頃には司書の先生とも顔なじみになっていたので、生徒がいない時には多少盛り上がっても大目に見てくれていた。僕も先輩もハメを外すタイプではなかったので、そんな機会はほとんどなかったが。


「家にいても退屈だからねえ。去年は図書室皆勤賞だよ」


 ここにいたら電気代はかからないしね、と先輩は笑う。

 6月から一緒に過ごすようになってなんとなく察してはいたが、僕と同じで彼女には友人が少ない。一度、賑やかな校内食堂に、一人でいるところを見かけた。その小さく影の薄い姿は、ここでの彼女からは想像ができないくらい弱々しく見えた。

 そういえば、と気がつく。彼女は僕が図書室に来る時間、既に必ずいた。図書室から一番近い階層の1年生である僕が、放課後真っ先に向かっても、だ。心臓が冷える感覚がする。教室に、通えていないんだ。


「平野くんは夏休み、どう過ごすのかい?」

「え、と……」

「何かいい案ないかな、家で過ごす以外に。できれば冷房が効いていて無料で使える場所がいい」


 くらくらしてきた。この人に居場所はあるのだろうか。よく事情を知りもしないで、憶測で判断するのはよくないことだ。それに、そんなプライベートまで踏み込んでいいのだろうか。出会って1ヶ月ちょっとしか経っていないのに。勝手に焦るのはやめよう。僕は62歳。少し落ち着け。


「市の図書館とかどうです? 学校と最寄り駅同じだし、定期の圏内ですよね」

「おや、知らないのかい? 移転作業とやらでしばし休館だよ」

「なんですと」


 先輩の話では、駅前の商業ビルの中に入ってしまうらしい。便利にはなるが規模が随分縮小されるのだそうだ。その移転工事が夏休み期間にぶち当たり、市民からは苦情が寄せられているが、今さら変更もできないらしい。

 そうなると、やはり。


「学校しかなさそうですね」

「開拓は諦めるかあ。じゃあ、質問を変えるよ」


 川西先輩は立ち上がると伸びをしながら言った。


「そろそろお腹空かないかい?」


 司書の先生に明日も来ると伝え、僕たちは学校を後にした。蝉が鳴いていて、日差しが強い。ただでさえ暑いのに体感温度はもっと高く感じられた。駅までは近いが辿り着いた時、額には汗が滲んだ。

 駅で解散かと思ったが、先輩は駅ビルに入っていく。挨拶もないまま別れるのは道徳的にどうかと思ったので、そのまま着いていくことにした。空腹なこと以外は特に問題ない。フードコートに着いたところで、彼女は振り返った。


「何も聞かずに連れてきてしまった……。食事、するかい?」

「ご一緒していいですか?」

「君さ、本当に同年代? 礼儀正しいと言うか、ね」

「オッサンくさいはよく言われますよ」

「そこまで言ってない」


 先輩は初めて、腹を抱えて笑った。今までずっと図書室だったから、堪えたような笑い方をしていたのだろう。それでも公共の場で騒いではいけないという認識がしっかりあるようで、周囲の雑音に比べたら静かな方だった。

 食事は、日本で一番有名なハンバーガーチェーン店が選ばれた。以前の僕がよく食べていたメニューは、2006年7月現在ではまだレギュラー化していないらしい。メニュー表を見て動揺してしまった。先輩は隣のレジに呼ばれ、100円で買える商品を組み合わせて300円程度の支払いで押さえている。消費者目線だけで考えると、この頃は安くてよかったなと懐かしくなってしまった。


「賑やかな場所もたまにはいいねえ」

「図書室は静かですからね」


 どこにいても話すことは変わらない。あの設定がいい、年表の内容が好みだ、なんて感じに褒め合いながらお互いノートと向き合う。悩んでいた内容もアイデアをもらうと、驚くほど綺麗にまとまることがあった。


「文芸部がまだあったらよかったんだけどね」

「あったんですか?」

「昨年度まで。私以外が全員3年生だったのさ。歴史は長かったみたいだよ」


 部誌作成やコンテスト応募に力を入れていたが、部員がいなくなり廃部。新入部員が2人いたら存続できたらしいのだが、時すでに遅し。仮入部期間が終わった時に廃部を言い渡されたそうだ。部室もなくなってしまったが、創作は一人でもできるからと、図書室を間借りし続けていたところに僕が来た。

 過去の僕は部活動に参加していなかった。だから今回も仮入部の期間中、毎日定時で帰宅していた。記憶にある学校生活を辿っていたからだ。でもこういう話を聞くと、もう少し積極的になっていれば何かが違っていたかもしれないと思う。


「そこで、だ」


 先輩は僕が渡した薄いピンクの表紙のノートを取り出す。最初のページを開くと、僕に見せてくれた。そこには、部誌改め合同誌計画、と書かれている。ざっくりとしたスケジュールの下には、川西明日香だけでなく、平野恭太と僕の名前まで記されていた。


「私と合同誌を作ってほしい」


 部活動が無くなってしまったので、大学受験の際のアピールできる実績が足りなくなってしまった。個人でできるコンテスト応募はこれからも続けていくが、入賞というのは狭き門だ。ポートフォリオの代わりとして個人で小説同人誌を作ることを考えていた時に、僕が現れた。


「主観だけどね、学校生活は個より集団が尊重されるのが常なのさ。君に利点が全くないわけでもない、と思う」


 彼女にしては歯切れの悪い言い方だった。勝手に巻き込もうとしていることに関して負い目を感じているのだと語ってくれた。大学の推薦入試では、学業だけでなく部活動やボランティアといった課外活動が重視されることも多い。放課後にふらっと図書室に現れる生徒は大抵、部活動をしていない。それも毎日顔を出すのだ、よほどの幽霊部員か帰宅部かのどちらかだと予想した。


「それに君はノートを受け取ってくれたからね」


 僕がノートに記入して持ってくるかどうかは賭けだったらしい。それでも切羽詰まった思いではなく、楽しみだったという。月曜日を待ち遠しく思っていたのは僕だけではなく、彼女も同じだったのだ。

 あの日図書室に行かなければ、僕の学校生活は元のように灰色だった。それでいいと思っていたが、今ではもう、そうは思えない。僕の心残りは結婚ではなく、靄がかかったような学生時代、つまり青春だったのだ。未来にどう影響するかは分からない。けれど、差し出された手を取ってみたくなった。


「まだ設定しか書けてないけど、やらせてください」

「そう言ってくれると思っていたよ」


 先輩はいつものように、にんまりと笑った。




 僕の通う学校では、文化祭が11月の初週に2日間開催される。基本的にはクラスでの活動に何らかの形で参加することになっているのだが、部活動で出し物をしたり、友人同士でユニットを組んで歌ったりすることが認められている。つまり文芸部はなくてもサークル参加ができるということだ。

 どうせだから自宅や学校で印刷したものではなく、印刷所に依頼したいという先輩の希望から、遅くても10月中旬までには発注しなくてはならない。ということは10月が始まる頃には物語が完成していなくてはならないのだ。

 夏休みは忙しくなった。学校と図書室自体は開放されているので、作業場所には困らなかった。朝9時には図書室に集まり、まず夏休みの宿題を始める。10時半には創作に切り替え、ひたすら書く。12時半に昼食休憩を挟む。図書室は飲食禁止なので、毎朝空き教室の鍵を借りた。先輩が文芸部の元顧問に話をつけていたため、すんなりと借りられた。昼食の時間の話題は、進捗のことだった。驚くほど進む時もあれば、2行埋めるので精いっぱいなときもあった。13時過ぎからは追い込みをかける。図書室の開放時間が16時までなので、20分前には片づけをした。残り10分で、図書室への感謝を込めて軽い掃除もした。僕たちのその姿勢は司書の先生がたいへん喜んでくれた。16時過ぎには学校を出て、帰路につく。駅までは同じだが行き先が反対なので、別れる直前まで創作の話をした。


「おかえりなさい。おにぎり、大丈夫だった?」

「保冷剤入ってたし、梅干しだったし、大丈夫だったよ」


 宿題を毎日やっていたので、両親から待ったがかかることはなかった。むしろ僕が休みにすら学校へ向かっていることを喜んでいるようだった。母に至っては、可能な限り昼食を用意してくれた。おにぎりは傷むのを抑えるためにラップ越しで握り、梅干しが必ず入っていた。夏休みなのに申し訳なく思う。


「でも8月はちょっとやめとこうね。駅でコンビニ寄れる?」

「寄れるよ、ありがとう」


 帰宅してからは創作からは離れるように、先輩から言われていた。飽きられても悲しいから、と。言いつけは守るようにした。だから、夕食時は両親とコミュニケーションを取るようにした。僕が今何をしようとしているのか、どういう道に進もうと考えているのか、しっかりと話した。考えてみれば前回の学生時代は、学校が退屈で話そうとも思っていなかった。今は、毎日話しても余るくらい楽しい。

 夜寝るまでの時間は、進路を考える時間にした。僕は今まで、どうにか同じ道を辿ろうとしていたけれど、そうじゃない道もあっていいのではと考え始めたからだ。せっかくのやり直しだ。今までの幸せを捨てずに、でもやりたいことも見えてきそうだった。父は進路に関して、特に口出しすることはないようだった。ただ一言、思うとおりにやりなさいと言ってくれた。勉強している姿勢を見せ続けたからか、信頼してもらえているようだ。


「聞けば聞くほど、ご両親と仲がいいようだね。君にとっては当たり前かもしれないが、大事にするんだよ」


 先輩はいつも話を聞いてくれて、そして最後には必ず言うのだった。そう言う時の先輩があまりに切なそうに笑うので、僕は話さない方がいいのではないかと思った。僕が話さなくなると、先輩の方から家庭の様子を訊ねてきたので、悩みながら僕は聞いてみることにした。


「立ち入ったことを聞きますが、先輩のご家庭は……」


 次の言葉が出てこず、後悔する。すると彼女はあっけらかんと笑うのだった。


「私の家は分かりやすく、親ガチャ失敗ってやつだよ。離婚で片親、果てにはネグレクトときた」


 どう返していいか分からなかった。これ以上立ち入るわけにはいかないだろう。僕の知っている家庭と、真逆のところにいる人だった。僕にはそのつらさを理解してあげることができない。無神経ですみません、と切り上げようとして気づいた。

 この人今、なんて言った?


「先輩、親ガチャ失敗って」

「いやー、ひどい言葉だけど実際その通りなのさ」

「違います、僕が言いたいのは」


 やめておけと、頭の中の自分が制止する。それでも確かめずにいられなかった。


「親ガチャって言葉、2006年にはないんですよ」


 声が掠れた。

 先輩は少し戸惑ったような表情を見せてから、いつものように、にんまりと笑った。


「ああ、そうだった。2020年代の言葉だったね」


 蝉がうるさく鳴いていた。僕の心臓はそれよりうるさく鳴っている。暑い、暑い8月の朝のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る