一 夢じゃなかったので小さく謳歌してみた

 結論から言うと、夢はまだ覚めていない。5歳児に戻っていたあの日から10年。僕は高校生になっていた。

 未来に影響が出るような大きな変化を起こすことはなかった。年の功とでも言うべきか、知識は豊富になっていたので、国語や社会、英語なんかの点数を少しだけ上げることには成功した。仕事でパソコンを使用していたことと、前世?で母を見送った後の12年間は一人で生きていたので、技術・家庭科のスキルも少しだけ上がっていた。でも理数系は相変わらず、平均に満たないこともあった。得手不得手は誰にでもあるものだと、己を慰める。

 受験先の高校を変えることはしなかった。いや、できなかった。記憶にある学校生活が特別思い出深かったわけではない。むしろ青い春というよりは曇り空のような日々だった。自分がそれほど影響力を持つ人間だったとは思っていない。でも怖かった。過去を改竄すると、自分の生き方に嘘をつくような気がしてならなかった。僕は幸せに生きたという自負があるだけに、予測できない未来に向かうのが怖かったのだ。多分それはこれからも変わらない。誰かと結婚して家族になるなんて、心残りであったとしても、無理だ。

 ただ、何もかも前の人生の通りと言うのも味気なく思ったので、ある日気まぐれに図書室へ立ち入った。

 読みたかった本があったわけではない。本当にただなんとなくだった。この頃はまだ転生ものってそんなに流行じゃなかったな、なんて思いながらライトノベルの棚を見ていた時のことだ。近くの席に座っていた女子生徒が、ペンケースを落とした。半透明のプラスチック製のそれは、大きな音を立てた。


「ごめんね、申し訳ない」


 その人は冷静に音を立てたことを謝り、散ってしまったペンを拾う。上履きと名札の色から、1年上の先輩であることがわかった。名札には川西と書かれている。僕は足元に転がってきた蛍光マーカーを2本拾うと、彼女に渡した。低い位置で結った髪には、薄いピンクのリボンが結んである。


「ありがとう、新入生くん」

「どういたしまして。もう6月ですけどね」


 何が面白かったのか分からないが、彼女、川西先輩は吹き出すのを堪えるように笑った。席に着いても肩を震わせている。その机の上は本ではなく、ノートが広げられていた。付箋と色ペンでカラフルに彩られたノートはびっしりと書き込まれていて、強い熱意を感じさせる。だがそれはどうにも、授業の内容とは思えなかった。


「気になるかい?」

「すみません、まじまじと」

「いいんだよ。人目に触れる場所でやってるくらいだからさ」


 川西先輩はそう言うと、僕にノートを手渡してきた。読んでいいということなのだろう。西暦、名前と年齢、出来事。どうやら年表のようだ。だが、聞いたことのない国や文明の名称、果てはドラゴン討伐の文字。どこまで踏み込んでいいか分からず、遠慮がちに次のページをめくると、先ほどのようにびっしりと文字が書き連ねられている。


「すごい熱量だ」

「おお、わかるかい? これは川西明日香の世界の全てが書かれた、熱量MAXな創作ノートだよ」


 いずれ国の研究対象となって国立博物館に飾られるのさ、と一息で言い切った。この時点でなんとなく分かる。面白い人だ。

 全てを読み込むことはできないので、パラパラとページをめくった。年表、登場人物の詳細(あまり得意ではないのだろう、味のあるイラストも添えられている)、そして物語が所狭しと書き込まれている。


「作家さんを目指しているんですか?」

「まだまだ趣味の領域だよ。でも、そうだな。世に出せるような形として残せればいいかな」


 そしていずれは国立博物館に、と彼女は笑う。創作って、この熱量を持っていても趣味の領域なのか? かつて僕が読んでいたライトノベルの世界も、作家一人ひとりが生み出したそれぞれの世界だった。一人の人間が神となって世界を生み出すのだ。何だか途方もない話に感じてしまう。

 彼女の世界が詰まったノートを返すと、川西先輩はにんまりと笑ってこう言った。


「新入生くんには、書いた世界はないのかい?」

「僕ですか? 僕は特に、何も。でもどうして」

「君は作家さん、と言ったね。なんだか字書きに対してものすごいリスペクトを感じたからさ」


 川西先輩は隅に置いてあった綺麗な大学ノートを手渡してきた。表紙にも中にも何も書かれていない、濃いピンク色の新品のノートだ。


「親に買ってもらった物を私の一存で差し上げるのは気が引けるが、受け取ってほしい。これに君の世界を詰め込んでくれないか?」


 そしてたまにでいいから見せてほしい、と彼女は言った。既にノートを受け取ってしまっていた僕に拒否権はないだろう。


「私は放課後いつでもここにいるからさ、またね」

「はい、また」

 

 僕は極力曖昧に頷いて、それではと言って図書室を出た。

 こんな記憶は間違ってもどこにもない。川西明日香、という名前に聞き覚えもなかった。つまりこれは、完全に歴史の改変だ。まあ未来に対して影響力があるとはあまり思えないが。

 でも、創作か。やってみてもいいんじゃないかと、漠然とそう思う。彼女が言ったように、無意識だったとは言え僕は作家という職業に対して、尊敬の念があったのだろう。重厚な文学にはあまり触れてこなかったが、ライトノベルや漫画といったサブカルチャーは大好きだった。年齢を重ねてからはさっぱりだったが、今の僕は高校生だ。生きた道を外れさえしなければ、遊びの部分があったっていいはずだ。曇り空のように灰色だった、生産性も何もなかった学生時代を、少しでも彩ってみたい。川西先輩のノートほどカラフルにできたら、それはとても幸せなのではないだろうか。と、思っていた。


「全然浮かばない……」


 家に帰り、もらったばかりのノートを開いて30分。僕は打ちのめされていた。なんでも書けばいい、そう思っているのに手が動かない。何をどうすれば、ノートがあんなに埋まるのだろう。僕の思うとおりにすればいいのに、さっき読ませてもらったノートの世界観がチラついて、ただただパクってるようにしか感じられなくなるのだった。自分がこんなに影響されやすいタイプだとは思わなかった。いや、死ぬ間際に、30年前読んだ異世界転生のことを考えるくらいには影響を受けていたのだが。

 とにかく単語だけでもと、思い浮かんだ言葉を書いてみた。

 ドラゴン……僕にとってファンタジーと言えばこの存在は欠かせないな。

 魔法……詠唱して発動するのか、それとも杖や魔法陣を使うのかも考えどころだ。

 冒険……それらしくなってきた。ダンジョン攻略か、それとも世界を冒険するのか。

 そしてひと際大きく書かれたのが、異世界転生の文字。僕の心残りって、やっぱりこれなのだろうか。異世界に転生どころか、そもそも異世界が存在するなんてこと自体、本当には信じてない。でも、大好きだった。あの数ある作品たちが、世界観が、本当に大好きだった。でもその時僕は、大人にならなければいけなかった。仕事では一人前になっていく時期で、少ないながらも家族を支える準備だってしていた。言い訳にしかならないけれど、想像の世界に熱を注ぎ込めるほど若くなかった。それに自分で生み出すことなんて考えなかった。今ならできるだろうか。作家にならなくてもいい。僕は辿った人生をもう一度歩んでいけたらそれでいい。でも、学生の間だけでももう少し彩ることができたら、僕はより満足できるのではないか。


「何を考えこんでるの?」

「勉強の分からないところは早めに解消しておけよ」


 いつの間にか背後にいた父と母にまったく気づかず、僕は声にならない悲鳴を上げそうだった。


「……ノック、してくれた?」

「何回かしたけど返事がなくて」

「居眠りかと思って入ったんだ」


 全然気づかなかった。僕ってそんなに集中できたのか。これが勉強じゃなくて申し訳ない気持ちだ。

 僕は今日あったことを正直に話した。何故だか話しておきたくなった。川西明日香という女子生徒に会ったこと、ものすごい熱量を持ったノートを見せてもらったこと、そして新品のノートをもらったことだ。父は母に目配せして、母は財布を持ってきた。200円を僕に差し出すので受け取る。


「近々ノートは買ってお返ししなさい。現金で返すんじゃないぞ、失礼だから」

「ありがとう、そうします」

「仲良くできたらいいね。せっかくだから書いたノートも見てもらったら?」

「根詰めすぎるなよ」


 そう言うと、父と母は部屋から出ていった。どうして話したくなったのかは分からない。でも、ほとんど初めての知らない出来事だったから、共有したくなった。僕にとって今日の出来事は、やっぱり嬉しかったのだ。

 今日は金曜日。土日は大した用事がないので、宿題さえ済ませればこの作業にしっかりと充てられそうだ。ノートは明日、近くの文房具屋で買って月曜日に返そう。それまでに単語だけではなく、ノートを彩ってあげたい。あんなにびっしり埋めることはまだできないだろうけど。

 僕は書いた。僕だったらどうやって書くか、あの頃思い描こうとした世界を。箇条書きではあったけれど、話の世界観と流れだけでも書こうとした。マーカーや赤ペンも使ってみた。なんだか照れくさかったが、楽しかった。同時に苦しかった。生み出すってこんなに大変だったのかと実感する。ものすごく体力を持っていかれるのだ。頭の疲れが全身に及ぶ、そんな感覚だった。脳は体の中でもっとも大食いだと、何かで聞いたことがある。母に言うと、夕方にはラムネ菓子を買ってきてくれた。ラムネ飲料のボトルを模した、子供の頃からあるものだった。ノートと向き合いながら一粒口に入れると、じゅわっと脳まで染み渡るようだった。

 長いようで短い土日の休みを終え、月曜日になる。いつもならあまり嬉しくない曜日だが、今日は違った。放課後になるのが待ち遠しく、苦手な理数系の授業すらも楽しく感じられる程だった。こういう感覚は前世も合わせてあまり味わったことがない。

 放課後になり、図書室に近づくごとに、段々と緊張してきた。意を決して扉を開ける。少し奥の席、ライトノベルの棚の近くに彼女はいた。あのノートに向かい集中しているようだった。今日も髪型は同じで、低い位置に結わえた髪に薄ピンクのリボンが揺れていた。


「川西先輩、こんにちは」

「やあ、平野くんだったかな?」


 座るよう促され、正面の席に着いた。僕は2冊のノートをカバンから取り出す。そのうち、薄いピンク色のノートを差し出した。川西先輩は目を丸くし、受け取ってよいのか考えているように見える。


「すみません、何も考えずに使ってしまって。まったく同じではないのですが……」

「えっ、くれるのかい? 押し付けてしまったのに悪いね」

「紙質にこだわりがあるかと思ったので悩みましたが、一応同じメーカーのものを」


 何が面白かったのか、彼女はまた肩を震わせている。ひとしきり笑ってから、ありがとうと言って受け取ってくれた。


「君はなかなか愉快なことをする。偶然とは思えないが、私はこの色が好きなんだ」


 リボンの色、散らばったボールペンの軸の色、それらから薄いピンクが好みなのは分かった。彼女がくれたノートも本当は3冊組のもので、薄いピンク、白地にピンクの文字、そして濃いピンクの3冊だった。より好みのものを先に使い始めたのだろう。僕だってそうすると思う。


「さて、用事はこれだけじゃないんだろう?」

「はい。先輩に倣って、僕も書いてみました」


 濃いピンクの、もらったノートを差し出した。一度書き始めると止まらなくなって、10ページほどを埋めていた。まだまだ本文を書き始めるには至っていないが、設定や、用語の覚え書きでそれだけが埋まったのだ。

 川西先輩は真剣な眼差しで、僕のノートに向かう。僕は緊張しながら、彼女が何か言ってくれるのを待っていた。5分経っただろうか。先輩は顔をあげ、にんまりと笑った。


「おもしろい、おもしろいよ」

「本当ですか!」

「わくわくする。私も好きな世界観だ。ただ」


 言っていいのか悩むように、彼女は一度顔を伏せた。そして悩んだ視線のまま、口を開いた。


「これは本当に、君が書きたい世界なのかな?」


 気まずい空気と時間が流れる。金曜日の晩から、こんなに書き続けた世界なのに、どうして。

 彼女は困ったように笑いながら、ノートに目を落とした。そしてあるページを開いて言った。


「この付箋に、他とかぶらないように、とあるね。素晴らしい心がけだと思う。でも、抑止力になりすぎていないかと思ったんだ」


 異世界転生ファンタジー作品はとても豊富に、悪く言えば飽和状態にあった。人気ランキングが発表されても、次期のアニメが決定しても、必ず数本の異世界ファンタジーが名を連ねた。今の僕から見て将来出てくる作品と、同じものになってはいけない。僕が読んだ、見たそれぞれの世界を真似してはいけない。だってそれらは、僕が憧れたものだから。僕が盗んでいいものではないからだ。僕には思いつけなかった。憧れた世界を作るのは、無理だと気づいた。それからは無難な単語を記憶から拾っては書いた。彼女の言う通り、本当に書きたかった世界とは程遠いものが出来上がっていたのだ。


「きついことを言ってすまない。編集者でもないのに、偉そうに」

「いえ、ありがとうございます」


 僕が落ち込んでいるように見えたのか、先輩は頭を下げる。僕がお礼を言ったことが意外だったのか、驚いているようだった。


「苦しかったんです。僕は生みの苦しみだと思っていたけれど、そうではなかった。書きたい世界を探してみます。設定を書けたら、また読んでくれますか?」


 彼女はまたにんまりと笑ってくれた。そして、もちろんだよと言った。

 それにしても変わった空気感の人だ。中身がオッサンの僕が言うのもあれだが、なんと言うか、おじさんぽい。僕が枯れたオッサンなら、彼女は上品な……、と失礼なことを思い浮かべた。そう言えば彼女の作った世界には、おじさん口調のキャラクターがいたような。


「ああ、これか。好きな男の真似だよ」


 二次元だけどね、と彼女はまた笑った。

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