第3話

「兄から受け取ったタクシー代は、そっくりそのまま、財布にありました。もしかすると、わずかでも金を節約しようとしたのかもしれないが、何だかおかしい。実を言うと、真理夫の言っていた仕事上の手を打つべきことというのも、はっきりしていない。あったかどうかすら怪しいもんだ」

「警察は、逆紅三太郎氏に疑いを向けているんでしょう?」

 地天馬が言った。公式に発表された訳ではないが、芸能誌やスポーツ新聞の類には、ちらほらと噂の形で載っている。

「ええ、まあ。動機のある人物が、逆紅ぐらいしか見当たらない。ああ、あの夜、逆紅の家にいた人物の中ではという意味ですがね」

「真理夫が逆紅を殺して金を奪うなら分かり易いが、その逆というのはいかなる動機を想定しているんだろう?」

「逆紅は弟に対し、融資とは言えない程度の少額の金を、毎月振り込んでいる。漫画家で成功した兄が苦しんでいる弟に恵んでやっているのかもしれないし、実際、本人はそう説明した。だが、期間が長きに渡っているのが、こっちとしちゃあ気に入らない」

「なるほど。脅迫していたんじゃないかと」

「その通り。店の窮状を救うための融資として、大金が必要になった真理夫は兄に、大幅な増額を要求した。逆紅はここで切らないと死ぬまでしゃぶられると感じ、真理夫殺害を決意したのではないかと」

 物語を創るのに向いているんじゃないかと思わせるくらい、花畑刑事は想像力豊かに語る。ところが次の瞬間には一転してトーンダウン。

「脅迫の材料が見つからないんじゃあ、仮説に過ぎん」

「いや、いい線を行っているとは思いますよ」

 地天馬が珍しく誉めた。花畑刑事はよほど驚いたのか、俯き気味だった顔を起こし、真ん丸にした眼で地天馬をじっと見た。

「動機はひとまず、棚上げにしましょう。警察が逆紅を引っ張って自白を迫るという手に打って出ないのは、相手が著名人だからですか」

「それもないとは言わんが、もう一つ問題が。アリバイがあるんでね」

「真夜中にアリバイが。ふん、興味深い」

「さっき話した通り、逆紅は北田と仕事のことで話し込んでいたんですが、そろそろ切り上げようかという頃になって、酔いから復活した浪川が加わり、結局、徹夜になったと言っています」

「クリスマスにそんなに働くとは、よほどいいアイディアが浮かんだのかな」

 作家として私が皮肉を込めて言うと、花畑刑事はその通りと首肯した。

「俺にはよく分からんが、逆紅の出したアイディアがなかなか優れているというか、転がし甲斐のあるものだったとか言っていたな」

「朝までずっと、三人一緒だったのかな?」

 地天馬の質問には、首を横に振る刑事。

「無論、厳密にずっと一緒ってことはありませんや。トイレに立ったり、飲み物を取りに行ったりで席を外している」

「当然、漫画家先生も外したと」

「三人の証言を総合すると、記憶が定かではないが、四度は席を外したはずだということで一致を見てますな。用足しが三度、飲み物が一度。残る二人も似たようなもんです。それぞれ席を外した時間は、一度につき長くて三分ほど。これじゃあ、川の近くで真理夫を殺して、戻るなんてできっこない、車を使っても無理だ」

 花畑刑事が言葉を区切ると、しばらく静かに聞いてた地天馬が口を開いた。

「先に、真理夫の行動について想像を巡らせてみるべきだと思う」

「というと?」

「花畑刑事。あなたが最前話した通りだとすると、真理夫は金を受け取ったあと、電話でタクシーを呼び、家で待つのが普通だ。ところが、遺体は川縁で発見された。タクシーを呼んだ形跡もない。金だけ受け取って使うのが惜しいから、駅まで歩こうとしたのか。厳寒の夜に? 僕は真理夫が芝居を打ったような気がしてならない」

「芝居って、そりゃあ、タクシーを呼ぶと言ってたのに呼んでないのは、確かに芝居だが」

「それだけじゃありませんよ。タクシーを呼んだと見せ掛けて呼んでいないのなら、兄の家にとどまっていたんじゃないかな。寒さをしのぐには、それが一番簡単で自然だ」

「そうだな、逆紅犯人説を採るのなら、弟が家に留まってくれてないと、席を外した僅かな時間に殺すこと自体が不可能になる」

 私は同意した。地天馬は満足げに頷くと、花畑刑事に言った。

「真理夫は逆紅の家を出ることなく、どこかに身を潜めていた、まずはこれを大前提としたいが、いかがかな」

「……悪くありませんな。新しい見方だ」

 そこまで言ってから、刑事は大きく首を傾げた。

「でも、事態が好転するとは思えん。被害者が家に留まっていたとして、何が変わるんだか」

「少なくとも、家にいる者には真理夫を殺す機会が確実にあったことになる」

「それくらい分かってますよ、地天馬さん。だが、殺したあと、遺体を川の近くまで運ばないとだめだ。有力容疑者である逆紅に、そうする時間があったか? ないと思うんですがね、俺は」

 花畑刑事の言う通り、席を外した三分で殺人を犯せても、遺体を下まで運び、また家に戻ってくるのは至難の業だ。

「困難は分割しろと言いますが」

 私は先達の至言を思い出しつつ、言ってみた。

「最初の三分で殺し、次の三分で車に積み込み、そのまた次の三分で川まで行って戻るというのはどうですか」

 私の意見に対し、刑事は唇を歪め、否定的な返事をよこした。

「一応、検討してみますが、無理でしょうな。遺体を車に積むのは何とかなったとしても、家と川の間を車で往復するのが難しい。真理夫を追い掛けて殺した場合を想定して、車での移動時間を計測したんだが、三分では行くのがせいぜい。遺体を降ろし、また戻るにはあと……六分は最低でも必要じゃないかと。これは分割できない、三分と六分で、連続した九分がいるって計算だ」

「そうですか。実地検証待ちだが、恐らくだめでしょうね」

 私はしばし考え、次の思い付きを口にした。

「共犯者は?」

「今のところ、影も形も。強いて挙げると奥さんだが、運転が皆目できない。遺体を担いで、えっちらおっちら運んだとも考えられんし」

「信子夫人の兄という人はどうです? 運転はできるんでしょう?」

「もちろん。でも、逆紅と仲が悪い訳じゃないが、犯罪を手伝うことはまずない。メリットが皆無だ」

 捜査関係者が断言するのなら、確かなのであろう。

「じゃあ、北田と浪川が共犯というのはどうですか。この二人が共犯なら、アリバイ自体が無意味になりますし、漫画家を守るという動機が一応ある」

下田しもだ警部も同じことを言ってましたよ。ベテラン漫画家を守るため、協力することはあるかもしれんと。だが、聞き込みをしてみると、浪川が当夜、間違いなくひどく酔っぱらっており、夜中になって起き出せたのはたまたまだということが分かった。言うなれば、浪川が加わったのは偶然だ。北田にしても、現在は逆紅と直接関係のある仕事をしている訳じゃなし、逆紅が人気絶頂の頃ならともかく、人生を棒に振るかもしれん危ない橋を渡ってまで、今の逆紅を助けるのは考えにくい。そんな結論がすでに下された」

「直接捜査した人が言うのなら、そうなんでしょう」

 私は共犯説の列挙を止め、黙した。手詰まり感が漂う中、花畑刑事が改めて地天馬に噛みついた。

「どうなんです、地天馬さん。前提を決めても、何の進展もないんじゃありませんかね」

「やれやれ、だね。二人とも先走っているよ」

 いらいらが口調にも露わな刑事とは対照的に、地天馬は悠然と言い放った。

「真理夫が家のどこかに潜んでいたとするなら、それが家主である逆紅の許可を得ている可能性に言及しなければならないだろう。言い換えれば、真理夫の芝居は逆紅も承知、いや、むしろ逆紅の主導で行われたんじゃないかと疑ってみるべきだ」


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