トールサイズの追憶

大巴旦(おおば たん)

トールサイズの追憶

 地下鉄はかなりの混雑で、日岡ひおか玲野れのは吊り革の上のバーをつかんでなんとか体を支えていた。目の前の窓ガラスに映るのは、リュックを抱えた窮屈な姿勢の自分だ。今日の仕事は久々にちょっと楽しみなものだったはずが、満員電車に耐えるうちにその気持ちも怪しくなってきていた。

 日々をなんとか無事にこなせればいい。玲野の入社5年目の日々は、そんなレベルに陥っていた。


   *


 県立大学を出て上京した玲野れのは、編集プロダクション入社4ヶ月で大手ゼネコンへの出向となった。担当は広報誌と社内報の制作編集。年間4冊の広報誌と5つの支社の月報の制作を、広報担当の社員とともに進めている。

 目指していたのは文芸書の編集者だったが、企画やデザインのディレクションまで若手の裁量でやらせてもらえるのはありがたく、ものを作り上げる楽しさも感じている。

 事情が変わったのは出向して半年を迎えた頃。新型コロナウイルス蔓延で、玲野の仕事もほぼ在宅となった。打ち合わせはリモートで、原稿依頼も校正指示もデザインのチェックもメールとクラウドサービスでなんとかなる。業務に特段の支障はなく、従来の発行ペースとクオリティは守られた。

 一方で業務環境の変化は止まらなかった。広報部は異動が多く、制作編集チームはメンバーがどんどん入れ替わるのだが、在宅勤務のせいで引き継ぎがおざなりになってきた。そのため社員の業務が玲野にスライドするパターンが続出。年間計画の作成や社員への原稿依頼といった、社内コンプライアンス関連で広報部の社員が担ってきた業務までが、当然のように出向社員の玲野の担当になった。なにかと玲野を頼る風潮は、経費を通し忘れたりといったミスの増加の一因にもなっている。

 それでも仕事そのものは面白かったのでなんとかくじけずにいたが、状況はさらに悪化した。

 業績不振で広報部も予算減となり、2人だった編プロからの出向が玲野だけになった。広報誌も社内報もページ減、広報部の社員たちはあからさまにやる気のない態度を見せ、玲野への業務の押しつけも恒常化した。

 遠からず出向社員は不要となるかも。そんな未来が見えた状況で、環境の悪化に抗う気力をキャリアの浅い玲野が維持できるはずもなく、コロナ禍3年目に及んで諦めの境地に至ったのも無理からぬところなのである。

 ようやくコロナ禍にひと区切りがつき、世間に活気が戻りつつある現在も、玲野の鬱屈は晴れてはいない。感染症が去っても、減った予算はおそらく戻らないし、広報部の連中の姿勢が改善する可能性は低い。だから期待はせず淡々と目の前の仕事をこなそう。これが玲野の正直な心境だ。

 それでも幾分の光明はある。出社業務の常態化に伴い、対面での取材活動が解禁になったのだ。さまざまな部署の業務紹介や社員インタビューなどは、コロナ禍のもとでは見送られてきた企画だ。人に会うことの好きな玲野には嬉しい報せだった。

 だから今日は背筋もやや伸びている玲野である。なんとなく伸ばしていた髪をまとめ、残業して作成した資料を携えて、3年ぶりの対面インタビューに臨む。勝どき駅のホームに降り立つ足取りも昨日より軽い。


〈水泳部、最近取り上げてなかったな……〉


 玲野が向かっているのは、ゼネコンの系列会社経営のスポーツクラブである。水泳部は本社所属だが、練習場所と事務局は系列会社ビル併設のスポーツアネックスにあった。

 水泳部の連載ページは3年前のページ減の際になくなっていて、今はたまに活動報告が載る程度だ。大会での成績が振るわないといった事情があるとしても、スポーツを通じて企業を代表している人たちのページをすぱっと切れるのは、玲野には理解しがたい感覚だ。

 駅を出て清澄通りへ。久々に袖を通した夏のジャケットも、出番の激減したパンプスも、案外しっくりと身に馴染んでいる。大丈夫、と玲野は努めて顔を上げて歩く。

 大きなロゴが目立つスポーツアネックスの建物が見えて記憶がよみがえる。先輩編集者に連れられて訪れ、初めてのインタビューをさせてもらった場所。思えば4年近く前のことだ。

 今回の取材は先日の大会で5位入賞した選手へのインタビューで、ウェブに動画も上げる予定だ。建物正面へ回ると、エントランス前で待ち合わせていた撮影担当の市山直也が小さく手を上げるのが見えた。


「お待たせしました」

「私も今」広報部の社員である市山はネクタイもマスクもゆるめた暑そうな様子で、こちらを見上げて頷いた。「ちょい早めだけど、行きますか」


 さっさと踏み込む市山に玲野も続く。そこはジムの利用者も行き交うロビーだった。フロントへ来訪を告げると、アクリルのフェイスシールドを着けた女性が応対する。


「すぐに橋本がまいります。そちらにかけてお待ちください」

「取材用の部屋ってどうなってます?」


 カウンターに乗り出して尋ねる市山に、受付の女性はやや怯んだ様子だったが、すぐに手元の書類をめくる。


「……3階ラウンジとなっております」

「それじゃ日岡さん、私セッティングあるんで先に」

「あ、よろしくお願いします」


 予定時刻までかなり余裕があるのに、市山はばたばたとエレベータに消えた。玲野と話すのが面倒なのか気まずいのか、いつもこんな感じだ。広報部に来て3年と長く在籍している方になる市山だが、それでもこうした対面のインタビューは初めてのはずである。

 市山はカメラが趣味らしいが、人物を撮るのはあまり上手くない。こういう取材はプロの手を借りた方がいいに決まっているけれど、市山にそう提案するわけにもいかないのが辛いところだ。

 十時を回ったばかりのロビーには利用者が続々と現れ、ジムフロア入口にスマホをかざしてチェックインを済ませていく。ロビーから窺えるフロアの設備は玲野には目新しく、にわかに興味を覚えた。


〈こういうとこに通うのも手かな。運動不足はわかってるけど億劫おっくうで……〉


 ソファを立ってロビーを横切る玲野を、受付の女性は眉を上げて目で追い、フロント脇のエレベータが開くのを見て再び書類に目を落とす。エレベータからはポロシャツ姿にクリップボードを携えた女性が現れて、ロビーを見回した。


〈ジムは面倒なイメージあったけど、黙々とやるこの感じは悪くないかも〉


「えっ、うそ。……玲野れの先輩?」


 ガラス越しにジムフロアを眺めていた玲野ははっとしたが、振り向くことはできなかった。それはあまり思い出したくない時代の呼び名だった。


   *


「まさか本当に先輩だったなんて! どうしよう、すみません私ちょっとびっくりしちゃって」


 ポロシャツの女性・橋本薫はしもとかおるは、玲野れのにソファを勧めてから意味なくうろうろした後、ロビーを行く利用者の視線に気づいてようやく腰を落ち着けた。スポーツアネックスのロゴ入りの名刺にはアルファ建設水泳部事務局付とあり、マネージャーも兼ねているらしい。

 彼女もフェイスシールドを着けているところを見ると、ここのスタッフはそういう決まりのようだ。おかげで嬉しさを隠しきれない彼女の表情がつぶさに見えて、玲野はいたたまれない気持ちになっていた。


「市山さんからのメールに『日岡』ってあるのを見て、もしかして……なんて思ったんですけど、連絡取れなくなってずいぶん経つし、私のことなんて忘れてらっしゃるだろうななんて」

「橋本さん」

「はい、玲野先輩」

「その呼び方はやめましょう。北林選手のインタビュー、よろしくご対応のほどお願いいたします」


 我に返った薫の笑みがすっと消えるのを、玲野は冷静に眺めた。この笑顔を毎日見ていた季節がたしかにあった。でもそれだけだ。


〈忘れるわけない。……でも正直、会いたくはなかったなあ〉


 薫は玲野の名刺を手に取ると、丁寧に頭を下げた。


「失礼いたしました。上のラウンジにおりますのでご案内します」


 その後はいたって順調で、和やかにインタビューは進み、動画もスチルも無事に撮了した。薫は事務局員としてこまごまとした対応に回り、マネージャーの立場でインタビューにも答えた。手早く片付けを終えた市山は「動画の編集進めておくんで」と消える。

 残った玲野は薫と2人、トレーニングに向かう北林選手をジムフロアの入口で見送った。


「あの、……日岡さん」


 もじもじと、しかし待ちかねたように呼びかけてきた薫に、玲野は向き直る。


〈薫と話をせずにこのまま別れるのは簡単だけど、あとでもやもやするのも嫌だ。……仕方ない〉


「このあとご予定は? 私はこれで帰ってもいいんですが」

「はっ! ええと、では……お昼ご一緒にいかがでしょうか」

「はい」


 薫は飛び上がるようにして「ここでお待ちくださいね!」と言うとフロントへ駆け込み、カウンターの下をごそごそやってトートバッグを手に戻ってきた。


「ちょっと歩きます、5分ぐらい」


 表へ出ると薫は運河方面へと歩き始め、玲野はその背中を見下ろしつつ従った。初夏の日差しの下でショートカットの襟足の白さがまぶしい。


〈薫はもう日焼けした高校生じゃないし、私も大人だ。今ならちゃんと話ができるかも。……あまり自信はないけど〉


 玲野の逡巡をよそに薫は屈託なく喋る。

「このあたりお店が少なくて。スポーツアネックスの軽食コーナーもコロナでやめちゃってそれきりなんです」

「なるほど」

「れ……日岡さんはお昼は……?」

「私は自分の席でコンビニ食が多いかも」

「外にはあまり出ない感じですか」

「仕事しながらだったりとかするので。……なんかカッコよくない話ですが」

「そんなこと。お仕事バリバリって感じですね」

「いえ、忙しがってるだけですよ」


 社員食堂は玲野も利用できるが、今年は一度行ったきりだ。社員との交流も仕事のうちと思う気持ちを空しさが勝るようになった。かといって社外の飲食店を訪ね歩く情熱もない。


〈張り合いのない毎日も、こういう取材が増えれば少しは変わるかな……〉


 淡い潮の香を感じつつ街並みを眺めて歩くうちに、倉庫の並ぶ開けたエリアに出た。運河沿いに遊歩道が整備され、少し先に歩行者用らしい橋も見える。薫は遊歩道から脇道へ入ると、古いビルの入口にかかるカフェの看板を示した。


「ここです」


 ドアをくぐり、暖色の灯りの照らす室内を見回す。「あっちが空いてます」と勝手のわかった様子の薫を追ってフロアを突っ切ると、運河側のテラス席にはたしかにあと2つほど空きテーブルがあった。席に着くや否や店員が注文を取りに現れ、勧められるままに「本日のランチ」を頼むと再び旋風のように消える。ランチドリンクのワインも秒速でテーブルに届いて、玲野は驚く間もなく薫とグラスを合わせていた。


「おつかれさまです」

「おつかれさまです。あの、午後もお仕事では……」

「全然大丈夫です。日岡さんは?」

「まあ、仕事は終わったようなものなので」

「なるほど」

「橋本さん、お酒飲めるんですね」

「飲めますよ」得意げに言ってグラスを置くと、薫は玲野の顔を覗き込んだ。「やっとお顔がちゃんと見られました。玲野先輩、あの頃と全然変わりませんね」

「先輩はやめましょうって」

「仕事は終わったからもういいじゃないですか」頬を膨らませて薫が主張する。「先輩こそ敬語やめましょうよ。私のこともちゃんと薫って呼んでください」

「けじめは必要ですから」

「なんのけじめですか? 高校時代の先輩後輩のけじめなら私、喜んで守りますけど、お仕事のけじめなら知ったことじゃないです」

「意味がわからない……」


 首をひねる玲野の前にランチの皿が置かれた。ハンバーガーとフライドポテトが溢れんばかりに盛られ、黄金色の湯気を立てている。


「えっ」

「来たきた、いただきまーす!」


 さっそく食べ始める薫にならって、玲野もナイフとフォークを手にアメリカンサイズのハンバーガーに挑んだ。圧倒的な肉塊がチーズや香味野菜を伴って口中になだれ込んでくる。意外にさっぱりした後口で、旨みの印象のみが鮮明だ。

 ついつい夢中で食べてしまい、ふと薫と目が合った玲野は、思わず笑みをこぼしてしまった。


「おいしいでしょ、先輩」

「すごいね」薫の調子につられて、玲野も丁寧語と大人の語彙を放棄した。「いつもこんなの食べてるの?」

「たまにですよ。あ、でもこのところは週1ぐらい」

「そうなんだ」玲野ははたとフォークを止める。薫を面倒に思う気持ちが雲散するのをはっきりと感じたのだ。「……うん、いいね。元気が出る」


〈なんだろう。昔を思い出したくない気持ちを、いい雰囲気のランチが上回った? 私もたいがい単純だな……〉


「思い出しませんか先輩。部活終わりにちょいちょいマッグ行きましたよね」

「行ったねえ」

「私とあっちゃんと留美奈と芽依と、片平先輩と」

「うん」

「私や芽依が足りないって言うと、玲野先輩がメガポテトおごってくれて」

「あれは片平がいるとき限定だよ。私だけじゃ資力不足だから」


 県立高校に通っていた頃、玲野は水泳に打ち込んでいた。中学にプールがなくて競泳は初めてだったが、身長178センチの恵まれた体格と熱心な練習のおかげか、1年次の県大会で高校新記録を樹立。一躍将来を嘱望される選手となった。

 しかし、楽しく泳げた期間はわずかだった。肩に痛みが出て練習に参加できないことが多くなり、2年次のインターハイは断念。その後も肩の不調は続き、2年生の冬を前に玲野は退部を選んだ。

 1年後輩の薫は玲野に懐いていた部員の1人で、夏休みの練習帰りなどは一緒にマッグに寄ることも多かった。


「そうでしたっけ? 私、部活が楽しかったのはあの1年生のときだけだったなあ」

「ただでメガポテト食べられたもんね」

「違いますよー」軽い調子で返しつつ、薫は真剣な眼差しをみせた。「先輩をあんなかたちで辞めさせてしまって、楽しく部活なんかできるわけないじゃないですか」

「あんなかたちって……」


〈そうか、薫も知ってるんだよね〉


 肩の痛みと相談しつつ水泳を続けていた頃、玲野は上級生の女子部員から思いがけない言葉を浴びせられた。


「ねえ、コーチに申し訳ないと思わないの? 特別扱いされていい気になってるから肩なんか壊すんだよ」


 有望な選手のためにと、顧問がOBに声をかけて招聘してくれたコーチだった。水泳のコーチングを研究している大学院生で、玲野の練習をみる以外にも、各部員に的確なアドバイスを与えるなど、大変熱心だった。

 彼のおかげで部員たちの意識も変わり、記録を更新する者も増えたが、一方で雰囲気が悪くなってもいた。一部の女子部員が彼を囲んで話し込んだり、一緒に帰ったりと、取り巻きのようになっていたのだ。

 当然それは問題となり、コーチは顧問から注意を受けた。取り巻きは解散となり、コーチは玲野の練習だけをみるようになったが、それが面白くない女子部員たちが玲野に難癖をつけ始めたのだった。

 暴言の数々はなんとか受け流せたが、しばらくして今度は顧問から呼び出しを受けた。

「日岡、君がKコーチと交際しているという噂を聞いたんだが……」

 玲野はもちろん否定し、顧問も信用してくれたが、噂は知らぬ間に全校に広がった。コーチは去り、デマの出所である上級生女子部員たちの不満はさらに激しく玲野に向けられるようになる。


「デカいってだけで才能ないのに、勘違いして周りを振り回して。何様?」

「手足が長くたって、技術がなくちゃ意味ないよね」

「手足っていうか肩幅でしょあれは。ロボット兵かよ」

「ロボット兵って泳げる?」

「だからいま沈んでんじゃん」

「うわ、マジロボット兵だわ」


 聞こえよがしの陰口は水泳部の空気をさらに悪化させ、玲野は間もなく退部を決めたのだった。


〈この体格を生かせる場所をやっと見つけたと思ったんだけど、……勘違いだったな〉


 目標を失った玲野は登校できなくなった。隣県に単身赴任中の父親が玲野を呼び寄せてくれてどうにか立ち直り、高卒認定を取って隣県の大学に進んだ。故郷の知人とはそれきり誰とも連絡を取らぬまま、今に至っている。

 心の痛みは歳月を経て風化した。少女の頃の挫折をここまで引きずるほどやわではないつもりでいる。当時の水泳部員、それもよりによって橋本薫とこんなかたちで再会することは想定外だったから、少し困惑してはいるが。


「玲野先輩が部活を辞めた理由は、みんな知ってました」


 薫はフォークを置くと静かな声で話し始める。大人びた口調に違和感はあるが、懐かしい声音だった。


「なのに佐々木先輩たちと関わりたくなくて黙ってたんです。私もそうでした」

「先輩たちは関係ないよ。私の心が折れただけ」

「折ったのは佐々木先輩ですよね。私、玲野先輩が退学したって聞いて初めて、自分が保身のためにどんなひどいことをしてたのか気づいたんです」薫は唇を噛んだ。「玲野先輩には連絡つかなくなってて、もう遅いのはわかってたけど、佐々木朋香たちが知らん顔で卒業するのを見送るわけにはいかないなと」

「薫……」

「顧問の榊先生と校長に告発したんです、証拠もちゃんと揃えて。あの頃、携帯で動画録ってフォームチェックとかしてたじゃないですか。あれにたまたま暴言の音声が入ってて」


 当事者の玲野から聞き取りができず、いじめとしての認定には至らなかったが、女子部員数人は退部処分、佐々木朋香はは自主退学したという。何もかも初めて聞く話だった。


「そんな大変なことを……」

「結果はあまりすっきりしませんでしたけどね」

「ううん、充分だよ、ありがとう。私全然知らなくて……」

「いいんです、結局は私の自己満足なので。どこかで玲野先輩が聞きつけて、スカッとした気持ちになってくれたら……なんて妄想はしましたけどね」


 てへへ、と笑う薫の表情は、国道沿いのマッグでポテトをねだるときと変わらぬ無邪気なものだった。


「こうしてお知らせできてよかったです」

「佐々木先輩、退学したの」

「私立に転校して普通に卒業したそうです。あの人ほら、お父さんが県議だったりするから」薫は再びハンバーガーにナイフを入れた。「そもそも玲野先輩への暴言って、佐々木朋香がコーチに告白して断られた腹いせだったわけで、きちんと責任取らせたかったんですけどね」

「そうだったんだ……」

「知らなかったんですか?」

「う、うん」コーチに好意を寄せているのは知っていたが、そこまで想像していなかった。「わかってなかった」

「玲野先輩、けっこうお子ちゃまでしたもんね」

「否定できない……」


 玲野は苦笑いとともにハンバーガーを口に運んだ。高校時代のあれこれに蓋をしてしまい込んできたけれど、開けてみたらなんのことはない、他愛ない子どもの思い出でしかなかったような気もする。


「でも、薫が私と過ごしたのって、ほんの半年余りじゃない?」

「ですね、言われてみれば」

「そんな短い縁なのにいろいろ考えて行動してくれて、しかも私は全然知らずに過ごしてたなんて……」

「自己満足だって言ったじゃないですか」

「申し訳ないし、ほんとありがたいし」

「いいんですよ、先輩」

「……どうすればいいかな、私」


 つい思い詰めた調子になると、薫はけらけらと笑い出した。


「そんなの簡単です。ほら」とスマホを差し出しながら薫はさらに笑う。「とりあえずLIMEでつながりましょう」

「あ、うん」

「それと、……先輩、水泳は?」

「いや、あれから全然」

「そうなんですか。北林選手に『メドレーリレーは初っぱなだから緊張するでしょう?』って訊いてたから、今も続けてるのかと」

「あれはね、北林さんは、こちらにもある程度知識があるとわかった方が話しやすいタイプかなと思って」

「へえ。インタビューのノウハウってヤツですか」

「まあそんなような」

「玲野先輩、プロですね。それじゃとりあえずうちに入会しましょう。たぶん社割は利きませんけど、私の紹介なら入会金半額になりますので」

「え、こんなとこで営業?」

「私、水泳指導員の資格あるんで。スポーツアネックスのスイミングは、プライベートレッスンもありますよ、いかがです? 指名もできますよ?」

「わ、わかった、わかったから食べよう……」


   *  *  *


 運河を渡る風がやや強まるなか、穏やかな時間を過ごした玲野れのかおるは、満腹の胃袋を抱えて清澄通りへと戻ってきた。


「薫が東京に出てきてるとか考えてもみなかったよ。おうちのリンゴ園は?」

「なんかお姉ちゃんが、やっぱり継ぐって言い出して」

「そうなんだ」

「あと、東京に出れば玲野先輩と会えるかもって」

「それは嘘だな」

「嘘じゃないです、けっこう本気で思ってましたよ」


 スポーツアネックスのロゴ入りポロシャツの背中が、くるりと振り向いた。


「大学出て就職してからは、さすがにちょっとないかもなとは思ってましたけどね」

「ほんと、偶然ってあるんだね……」


 思いもよらぬところで苦い過去と向き合うことになり、なのに結果としては妙にさばさばと、気持ちも上向いているという不思議。これを偶然などと片付けていいものなのか、玲野にはわからなかったが、薫の顔を見ているとどうでもよいような気もするのだった。


「それにしても、さっきあそこのロビーで声かけられたときはほんとに驚いたよ。後ろ姿でよくわかったね」

「わかるに決まってるじゃないですか。シルエットではっと気がつきましたよ」


〈ガラスに顔が映ってたのかと思ったけど、違うんだ。となるとやっぱり、この身長と肩幅に見覚えがあったってことなのね。やれやれ……〉


「私がどれだけ玲野先輩の肩幅を好きだったか、忘れたんですか?」

「……え?」

「47センチ!」

「あのね、それは自虐ネタってヤツで……」

「ええ、人から言われるのは嫌なの! っていつも言ってましたよね」薫はくすくす笑う。「でも私、そう言って恥ずかしそうに怒るところも含めて、玲野先輩のすべてが好きなので」

「な、なにそれ」玲野は頬が熱くなるのをおぼえながら、胸のあたりにある薫の顔を見つめた。「47センチは最大値だから、今はもう少し……」

「あ、数値が好きなわけじゃないんで大丈夫です」

「……ほんと、薫は変わらないね」

「どうですかね。先輩を好きな気持ちも含めて、けっこう進化してるつもりですけど。昔のショートの先輩も素敵だったけど、今のまとめ髪の先輩も悪くないなと思ってますし」


 じゃれるように言葉を返す薫は、たしかに昔より色白にはなったけれど、玲野の鬱屈した心にためらいなく寄り添ってくるこの感じは、10年前のあの頃のままのように思える。


〈勘違いでもいいや。ちょっとだけ薫に甘えてみようかな〉


「入会手続き、していきます?」

「スポーツアネックスまで戻るの面倒だなあ」

「それならちょっと先にマッグがあるんで入りましょう。ウェブからも手続きできるんで」

「え、またハンバーガー?」

「食べませんよ。じゃ、スタパがいいかな。ラズベリーフラペチーノおごってください、トールサイズでいいんで」

「ん、わかった、いいよ」

「さ、行きますよ先輩」

「うん、わかったから薫ちょっと待って……」


 足を速める薫の耳元が午後の日差しにきらりと光るのを目に留めつつ、玲野は慌ててそのあとを追った。


〈卒業までに開けたいって騒いでたピアスホール、開けられたんだ。よかった〉


 次に会うときはピアスをプレゼントするのもいいかもしれない。どこで買おうか……。そわそわとそんな計画を立て始めている玲野だった。

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