第3話 人の温もり

「また持って来たのか」

「これを褒めてくれるのは、一太郎だけだからな」

 誠之助は例の河童を足元に置き、私の隣に腰掛けた。前日と変わらぬ屈託のない笑顔で、私を見上げる。

「一太郎、一体どうした!?」

 私の顔を見るなり、誠之助は目を丸くした。

「あぁ、これか」

 私は右の頬にできた傷をさすった。昨晩、野兎を狩ろうと駆けていた時、木の枝が掠ったのだ。私としたことが、少々ぼんやりしていたらしい。

「大したことはない。すぐに治る」

「しかし、痛そうだな」

 誠之助が手を伸ばし、私の頬に触れた。誠之助の熱が、じんわりと頬に広がる。人に触れられたのは、これが初めてだった。

「可哀相に。痛むか?」

 誠之助は表情を曇らせた。

「小さな手だな」

 心配そうな誠之助をよそに、私は彼の手に自分の手を重ねてみた。小さな手だ。小さいくせに、温かい。

「一太郎?」

 誠之助が不思議そうに私を眺めていた。我に返り、私は居住まいを正す。

「なぁ、一太郎」

「何だ?」

「夜が怖いのは、なぜだ?」

 唐突に、誠之助は妙なことを口走った。

「怖い?」

「あぁ。真っ暗な中で横になっていると、この世に独りきりになったみたいだ。それが堪らなく怖い」

 心静まる夜が怖いとは。理解に苦しんだが、誠之助は私の好かぬ、怯えた目をしていた。私は誠之助の背中をぽんぽんと叩いてやった。誠之助から得た知恵だ。こうすれば、人の子は安心するらしい。

「あぁ。眠るときにも、一太郎がいてくれたらなぁ」

「誠之助・・・・・・」

 何も喰ってはいないのに、満たされた心地がした。同時に、危うさをも覚えた。これ以上ここにいれば、私はおそらく執着してしまう。妖とは決して相容れぬ、人間という生き物に。


    ***


「もう暗くなるな」

 誠之助が空を見上げた。つられて私も頭上を仰ぐ。つい先刻までは燃えるような橙色だった空が、黒みを帯び始めていた。誠之助が、すっくと腰を上げる。

「一太郎。明日も――」

「いや、明日はない」

「え?」

 誠之助が目を見開いた。

「もうここには来ない。お別れだ、誠之助」

 誠之助が無言で俯く。

「そ、そうか」

 顔を上げた誠之助は、小さく微笑んだ。その下手くそな作り笑いに、胸がちくりと痛んだ。

「なぁ、一太郎。また会えるか?」

「生きていれば、いずれ」

 私は微かに頷いた。

「そうか。だが、今度は上手くやるんだぞ」

「何のことだ?」

「これだ、これ」

 なぜか声を潜め、誠之助は自分の尻をぽんと叩いた。

「これ?」

 顔をしかめ、私は立ち上がって自分の尻に手を回す。

「これは、まさか――」

 私は絶句した。一気に血の気が引いていく。手に触れたのは紛れも無い、細い毛に覆われた狐の尻尾だった。

「一太郎、悪かった。本当は出会った時から知っていた。だが、黙っていた」

「なぜ・・・・・・」

 渇いた喉から、何とか言葉を搾り出す。

「正体がばれたと知ったら、もう来ないと思ったからだ。いきなり怒鳴られて最初は怖かったが、一太郎はやはり優しかった」

 動揺を隠せない私に、誠之助はしがみついた。

「なぁ、一太郎。どうしても行かねばならんのか? 俺はまだ、一太郎と一緒にいたい」

誠之助が、まっすぐに私を見つめた。その瞳から、涙の雫がぽろぽろと流れ落ちる。

「泣くでない」

 私はそっと誠之助の頭を撫でた。

「一太郎、一太郎」

 作り物の名を呼び、誠之助は私の胸に顔を埋めた。

 あぁ、なんと弱いのだ。

 誠之助から、人の脆さがひしひしと伝わってくるようだった。人は弱い。孤独を恐れ、独りでは生きてもいけぬ。だが――。

「それが美しくもある」

 みっともなく泣き続ける誠之助の頭を撫でてやりながら、私はそっと呟いた。

「なぁ、一太郎。俺は、一太郎の友にはなれたか?」

 涙と鼻水にまみれた顔で、誠之助は私を見上げた。私の着物を掴む手に、ぎゅっと力がこもる。そんな誠之助の手をほどき、私は無言で一歩後ずさった。

「一太郎?」

 誠之助が不安げな声で呼ぶ。

「これを見ても、そう思えるならば」

 私は静かに目を閉じた。私の妖力が風を起こし、木の葉を舞わせる。再び目を開けると、私は妖狐の姿に戻っていた。

「どうだ、誠之助。これが私だ。姿を隠したままでは、友とは言えぬ。そうだろう?」

 あんぐりと口を開けたまま、誠之助は茫然と立ち尽くしていた。

「どうした? 怖いか?」

「い、いや!」

 誠之助は大げさに首を振った。

「随分大きな友人だと、感心しておった」

「ははっ。私の友人たるもの、そうでなくてはな」

 ひどく愉快だった。誠之助の奴、人間にしては、なかなか肝が据わっている。

「一太郎、これを」

 誠之助は河童の石を抱え、私の鼻先に差し出した。

「貰ってくれ」

「しかし、これはお前の――」

「昨日、母ちゃんに聞いた。物は九十九年経たないと、つくも神にはなれんそうだ。俺には無理だが、一太郎なら見届けられる。こんなことは、信頼できる友にしか頼めん」

 誠之助は頬を赤らめ、わずかに視線をそらした。一丁前に、照れているらしい。

「承知した。しかと見届けよう」 

 私は尻尾で石を受け取った。

「元気でな」

 首元を撫でながら、誠之助が私の顔に頬を擦り寄せる。私は目を閉じ、その温もりを身に刻んだ。


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