【エピローグ】

 お見舞いという表現は、この病院には似つかわしくない。

 まさに面会である。それも、意識の上では刑務所や拘置所を想起させられる。

 とりわけ梨佳子が隔離されている閉鎖病棟に於いては、男女別、各個室に備え付けられた鍵が、並みの病院から逸脱した意味合いを誇示しているかのようである。

 来る途中に通り抜けた、重々しい鉄製の二重扉にしても同じ。格子で遮られた窓は、セキュリティといった近代的な防犯システムよりも古風であり、堅牢なイメージだけを植え付ける。

 そのせいか、院内を歩いているだけで、頭部が重々しさを帯びてくるようだ。警鐘を鳴らすかのような鈍痛。この独特な雰囲気が影響しているのかもしれない。じゃなければここ数日の間、ろくな食事をしていなかった影響が、体を動かしたことで露呈しはじめたのだろう。

 どちらにせよ、梨佳子に会う目的がなかったら、とてもじゃないが、長居するような場所ではなかった。

 だからこそ、思う。

 早くここから連れ出してやりたい、と。

 しかしそれには、梨佳子の明確な意思の復活が不可欠だった。

 担当医に訊ねたところ、相変わらず、梨佳子は同じ言葉だけを発しているという。

 けれどもひとつだけ。寝耳に水の話が舞い込んできた。

 まさか、と俺は訊き返すも、医師の診断に間違いはないらしい。

 梨佳子は妊娠をしていたのだ。

 それも、既に二ヶ月を経過しているという。

 無論、俺の子であることに間違いはない。しかし俺は、何も知らされてなかった。梨佳子はどうして黙っていたのだろうか。

 その梨佳子は、精神状態にこそ改善傾向はみられないものの、食事は少量ながら、欠かさず摂取しているようで、あらたな命を宿した本能が、そうさせているのかもしれないと教えられた。

 それらの事実を知らされた俺は、複雑な思いに駆られていた。

 病室に向けた足を止め、面会の予定をずらせるかと頼みでた。了承を得た俺は、待合室の片隅で頬杖をつく。

 吉報を前に溜息なんて縁起でもないが、これも仕方ない。

 心の整理を付けない内は、梨佳子にどんな顔を見せればいいのかもわからなかった。

 本来、第二子の誕生となれば、大手を振って喜ぶべき話なのに、それができない。心が自制を促すのだ。

 邪念がつっつきもする。違うと頭で割り切っても、それが亡くなった息子の身代わりのように錯覚してしまう。だからこそ、辛い。

 紛れもなく存在した遥希の人生を否定しているようで、心憂い。

 遥希の弟か、妹か……。

 この事実を、俺はどんな顔で遥希に報告すればいいのだろう。

 遥希は喜んでくれるのだろうか。

 いや、問題それだけじゃない。

 その命には、酷な現状が突き付けられるかもしれないのだ。

 自分の兄を殺害した母の子としてあげる産声。

 果たしてそれは、幸せな人生の始まりになるのだろうか。

 俺は頭を抱えた。答えを導き出そうと試みるが、どうしたって、この場で考えがまとまるとも思えなかった。

 それでも、だ。

 新しい命に罪はない。

 そこだけは履き違いようがなかった。

 未だ煮え切らない自分を否定できないが、だとして、ここで俺が舵を切らなければ、梨佳子の負担は増す一方となる。

 遥希には申し訳ないが、切り分けて考えるしかないだろう。

 そして俺が、梨佳子を導いてやるしかない。

 ともすれば息子を死にいざなったその手で、あらたな命を抱きかかえ、撫でるのだ。そこにどれほどの苦痛と葛藤があるのかは、想像するに堪えがたい。

 なによりも、梨佳子が心を取り戻したその時に、この現実に向き合い、耐えうることができるのか。

 その時、梨佳子の心の支えになることが、俺の使命。

 夫としての責務であると考えた。

 俺は天井を見上げた。胸いっぱいに吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出していく。

 そして自問した。

 梨佳子の一生を支え、背負う覚悟があるのか、と。

 あの時と同じ。この先もなんら変わらぬ想いのまま、梨佳子の傍にいてやれるのかと、一言一句、噛みしめるように問い掛けた。

 妻の懊悩をわかち合い、苦難を共に乗り越える。

 その覚悟が、本気でお前にあるのかと投げ掛けたのだ。

 無論、迷いなんて、ない。

 あるはずがない。

 たとえ梨佳子が、どれほどの十字架を背負うことになろうとも。

 

 ――俺には梨佳子の一生を支え、背負う覚悟が、ある。


 歩みを再開した俺は、看護師とも看守とも見受けられる男に連れられて、病室の入り口に立った。

 男が鍵を回す動きに合せ、小さく息を洩らす。この先も、この雰囲気に慣れることはないだろう。面会にしては、重々し過ぎる段取りである。

 視界が開けたところで男に一礼し、ドアの向こうに足を踏み入れる。

 相変わらず、殺風景な部屋だった。

 梨佳子はベッドから上半身を起こした姿で、窓の外を眺めていた。

 なぜだろう。随分と清々しい顔をしている。

 まるで、あるはずのないカーテンが揺らめき、そこから流れる心地よい風を頬に受けているような、柔らかな表情を湛えていた。

 歩みを進めた俺は、梨佳子の視線を遮るかたちで向き直り、目を合わせた。

 頭の中は、先刻よりも強い疼きを帯びていたが、それでも俺は、努めて作った表情で、穏やかに微笑みかける。


 そして言った。

 俺の声が。俺の意思とは関係なく言った。


「リカ、続きをしにきたよ」

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