【篤斗】
望まない朝が、またやってきた。
時計の針は壊せても、朝の訪れを止めることはできない。
外は晴れ間が広がっているのだろうか。カーテンを閉め切っているものの、部屋の輪郭が、徐々に浮き彫りになっていく。
ガラスやプラスチックの破片。ありとあらゆる物が散乱し、足の踏み場を埋め尽くした部屋の中、俺は離島に取り残されたような状態で座り込んでいた。
赤黒く染められたソファの上。光りを嫌った俺は、瞼を閉じ、暗闇の中へ意識を溶け込ませていく。
遥希を感じられるこの場所で、思い出と呼ぶには早過ぎる記憶を、巻き戻していく。
そうだよ。
遥希に会えるなら、俺は何度だって再生を繰り返そう。
俺だけが進む時間に、意味なんて、ない。
ふと俺は、玄関先に人の気配を感じ取った。
生活音を排除した空間にいるせいか、些細な足音も、耳が過敏に拾い取ってくれる。
ああ、またか。と思う。
今日は比較的、静かな日だと思っていれば、これだ。
性懲りもなく、いつまで続けるつもりなのか。
姑息な奴らだ。
さっさと消えちまえよ。遥希との時間を邪魔しやがって。
顔を歪ませると、案の定、ガサゴソと擦れるビニールの音がする。
それがドアノブにかけられる音。
俺は敵意だけを外に向けながら、四角い箱に目を落とす。
音はすぐに消え、また静寂が訪れた。
陽は既に、高くまで上がっているようだった。
遥希を失った後。
抜けがらとなった俺の心を埋めたのは、怒りの感情だった。
あの日以降、この家には、連日大勢のマスコミが押しかけてきた。
世間様が言うところの事件であり惨劇。その渦中に俺はいた。
事件の真相を知る生き証人として、奴らは俺に的を絞りこんできたのだ。
わかってはいたが、本当にマスコミの力は怖ろしい。
どこをどうやって嗅ぎつけたのか、遥希の死は、今やこの国の、否、世界中の人間が知り得る情報となってしまった。
発端は翌日のテレビである。それを皮切りに、新聞やネットから情報は拡散していった。
病気や自然死であれば、新聞のお悔やみ欄に細々とした記事で済まされるはずが、怪異な事件性に絶好のネタを見出した記者らの手にかかり、事態はたちまち肥大化させられてしまった。
遥希の死は、世間の注目を一手に集める話題に成り変わったのだ。
プライバシーの欠片もない。
「頼むからそっとしておいてくれ」
いの一番に押しかけたマスコミに告げた俺の訴えは、何のブレーキにもならなかった。
無言を貫き通せば、一方的に父としての責任を問われる。
それでも対応を拒めば、ご近所の迷惑になるからひと言でもコメントしてください、なんて突拍子もない調子でレコーダーが伸びてくる。
だったらお前らが失せればいいだけの話だろ。
怒りを込めて睨みつけた俺の顏は、当日の夜になると、ネット中にごろごろと転がっていた。
――憎しみに歪む父の表情は誰に向けられているのか。
さもそれが、事件の真相に連動しているような演出付きで、だ。
極めつけは、ある新聞社が名付けたキャッチコピーである。
一昔前の映画になぞった『噛み切りアンナの再来』は、物の見事に、世間の興味を煽ることに成功した。付け合せのパセリさながらに、歪んだ俺の顔を張り付けるオマケ付きで、だ。
頭にきた俺は、その新聞社に怒鳴り込んでいったが、ご丁寧なことに、その様子が、翌日の新聞紙を飾りたてていた。
おかげで近隣に暮らす分別ないガキどもが、「ここが噛み切り女の家だ」「股間を隠せよ」などとほざきながら、家の前を通り過ぎていくようになった。
また俺から情報を引き出せないとみたリポーター陣は、近隣住民に触手を伸ばしていた。
お決まりのモザイクに守られた住民たちが、愁傷なコメントを口にしていくなかで、「寒空の中をひどい薄着のまま公園で遊ばせていた」「子供は嫌がっていたようにも見えた」「思えば、あれは虐待だったのかもしない」「旦那さんの帰りも遅かったし、夫婦仲は冷え切ってたのかもしれない」と答えた女に、俺の目が釘づけとなった。
モザイクに加え、声質にまで手を加える配慮は万全であったのかもしれないが、俺にはそれが、誰であるかがわかってしまった。
あのキャバ嬢である。
すぐさま俺は、玄関を飛び出した。
隣室のドアまで駆け寄り、何度もチャイムを鳴らし、ドアを蹴飛ばした。
だが熱り立つ俺は、格好のネタだったのだろう。
「お前に何がわかってんだよ!」「ふざけんなよ、こら。でてこいよ!」
キレまくる俺。一部始終の映像が、後のニュースで流されていた。
ネットもさることながら、テレビは本当に厄介な存在だった。
事件の特集はどの局でも組まれ、虐待や猟奇殺人をテーマに、お馴染みのコメンテーターや著名人、どこそこのお偉いさんを引っ張り出しては、不毛な議論を繰り返す。
主婦の苦労や子育ての難しさを訴え、意図して当事者心理を慮るような発言を選ぶ者。
それに反して、徹底的な非難を貫く者。
水と油の組み合わせ。実に見事なキャスティングの妙である。
が、行き着くところ、結末はどれも変わらない。
時間いっぱいになると、ニュースキャスターの声が「議論は尽きませんが――」と次回を臭わせながら締めくくる。
当たり前だ。
いくら事件が公になったといえ、全容が明かされたわけではない。
ましてや事の真相は誰にも伝えられていない。当事者である俺でさえ、未だに何が起きたのかを理解してないのだ。それがどうして、他人なんぞにわかるものか。
憶測だけで賑やかすのはもっての外。
報道は真実を伝える場ではないのか。
それを知った顔で「凄惨な結末」と言ったアイツ。
梨佳子を指して「悪魔の所業」と罵ったアイツ。
俺たちの夫婦仲にまで言及してきたアイツ。
どいつもこいつも偉そうに決めつけて、いったい何がわかってるっていうんだ。
お前らが好き勝手な持論を喚くばかりで、誰も真実なんて語っちゃいない。所詮は世間の認知獲得を狙った猛烈な自己アピールか、はたまた好感度狙いのコメントか。
他人事でしかない。当事者でないから、いけしゃあしゃあと物を言う。
まるで茶番だ。
叶うなら、ひとり残らず殴り倒してやりたいと思った。
またそれができない分、怒りに震わせた鉄槌が、目に止まったものを手当たり次第に破壊していった。
グラスを壁に弾き飛ばし、ゴミ箱を蹴り飛ばす。電話機を叩き潰し、椅子やテーブルを薙ぎ倒した。
奴らの声が脳に刺さる度、猛り狂った怒りが、俺をどこまでもヒートアップさせていった。
遂には床にテレビを放り投げ、中身が飛び出すまで踏みつけた。
パソコンのモニターには、こぶし大の穴が空いている。
そんな俺に歯止めをかけたのは、仮面ライダーの変身ベルトだった。
それを振り上げた途端。遥希の笑顔が胸中に流れ込んできたのだ。
仮面ライダーごっこをしながら元気に跳ね回る。その顔が胸いっぱいに広がると、俺はその場に崩れ落ちた。
以来、部屋の中には、俺のすすり泣く以外の音は、何ひとつ聞こえなくなった。
結果として、外部からの雑音を遮断したことが、俺に冷静さを取り戻させていった。また冷静になれたことで、現実の直視を避けられなくもなった。
遥希の死と、向き合わなければならなくなったのだ。
俺は今となっても、遥希が死んだことを認めたくはなかった。
この瞬間も、息子は生きていると信じたい。
なのに俺は、どうして金襴張箱なんてものを後生大事に抱え込んでいるのだろうか。これは遺骨を納めた骨壺を入れるための箱。何故、こんなものが手元にあるのか。
……わかっている。
現実が何ひとつ変わらないことを。
理解している。遥希が二度と帰ってこないことを。
だけど。それでも俺は、首を振る。
これは遥希じゃないと、頭を振り乱す。
だって、背丈も重さもまるで違うじゃないか。これが遥希であるはずがないんだよ。
こんなちっぽけな箱に、遥希の全てを、遥希の未来を詰め込むことなんてできやしないのに、そう否定したいのに……。
どうして俺は、涙を流しているのだろうか。
ああ、遥希。
苦しいよ。
悔しいよ、遥希。
目の中の遥希は、いつだって笑っている。
だけど思う。笑わないでくれ、と。
守ることができなかった。俺が悪かったんだ。
遥希を助けることができなかったのは俺だ。だから俺に、俺にそんな無邪気な笑顔を向けないでくれ。
間に合わなかった。
遥希……パパは、間に合わなかったんだよ。
助けられる可能性はあったのに、それができなかったんだ。
……ごめん。ごめんよ、遥希。
苦しかっただろ。辛かっただろ。
なあ、遥希。答えてくれよ。
教えてくれよ、遥希。
これからパパは、どうしたらいい。
どうやって生きればいい。
遥希はどうだ?
パパにどうしてもらいたい。
なあ……遥希。答えてくれよ、遥希……。
遥希の葬儀があった日のことを、俺はほとんど記憶していない。
覚えているのは、久方振りに見た梨佳子の両親と一緒に、俺の親父とおふくろが顔を揃えていたこと。それに、見知らぬ男たちと会話する黒木さんの姿。その時の目が、真っ赤になっていることが印象的だったことくらいだ。
思えば黒木さんは、葬儀屋との段取りをフォローしてくれたのかもしれない。
「お前は何もしなくていい。遥希くんの傍にだけいてやってくれ」
その声が、今も耳に残っている。
葬儀は密葬扱いとなり、家族だけが参列した。
けれども朧げながら、そこに、銀と千尋ちゃんの姿を見たような気もする。
俺はひとつの絵を眺めていた。
全てがモノクロで描かれ、雨に濡れた世界。
そこには数多くの花が描かれていた。
雨粒がしとしと落ちる中を、黒い衣をまとった人間が出入りする、奇妙な絵だった。誰もが傘を差すことなく、全身をびっしょりと濡らしていた。
時に煙が立ち上り、時に人のすすり泣く声が聞こえる。
しかし、絵の中心だけは、動くことをしなかった。
そこに描かれた遥希の顔だけは、微動だにせず、表情を変えない。
じっと俺に微笑みかけていた。
いつまでも俺は、その顔を眺めつづけていた。
その後はずっと、映画のシーンを眺めているような感覚だった。
現実味なんてどこにもない。
気付けば赤い金襴張箱を抱えた梨佳子の父が、大粒の涙を流しながら、俺に頭を下げ続けていた。傍らに立つ母もまた、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、「ごめんなさい」「ごめんなさい」と言い続けた。
俺の両親は、何も口にしなかった。
ただ肩にがっしり食い込んだ親父の手の感触と、俯いたおふくろが、唇を噛み続けていたのを記憶している。
雨は結局、最後まで止むことは無かった。
遥希は死んだのだ。
事実は決して俺を逃がしてはくれない。目を背けさせてくれない。
前に進めと、訴えかけてくる。
あの時、帰宅した俺に向かい梨佳子はこう言った。
「もう大丈夫だから」と。
喜怒哀楽を放棄した能面のような顔で、そう口にしたのだ。
そして続けた。血みどろの唇を開き、
「終わった。全部終わったの」「私が終わらせた。私が宇津木を殺したの」と。
遥希ではなく、宇津木を殺したのだと告げた。
けれど現実は異なり、俺の目には股の間からおびただしい血を流す遥希が、全裸のままで、ソファに倒れている姿が飛び込んだ。
目を疑いたくなる光景の中、無我夢中に駆け出した俺は、遥希を抱え上げた。力なく首を垂らし、呼吸が途切れていることは一目瞭然だった。青ざめた俺は、すぐさま救急車を呼び、止血と人工呼吸を試みた。
その間も、梨佳子は棒のように立ち尽くしていた。
手を貸す素振りもない。
表情を奪われたマネキンのように、俺たちを見下ろしていた。
俺の呼び掛けにも反応しない。救急隊が到着した後も、梨佳子が同乗することはなかった。
その後しばらくして、医師の口から息子の死を宣告された。
後に警察から聞かされた話だが、直接の死因は出血によるものではなく、首を絞めたことによる絞殺であることがわかった。
俺が見たままの状況を鑑みれば、梨佳子が手を下したことに疑いの余地はない。が、それも今の段階では、状況証拠に過ぎない。
当の梨佳子は、実況見分後の聴取でも「宇津木を殺した」と自供し続けている。
私が終わらせたのだと、言い続けている。
俺の声や、遥希の名前に眉を動かすこともない。
警察や医師。誰に対しても一貫した姿勢のまま、それ以外の言葉を忘れてしまっているようだと聞かされている。
警察はこれを殺人事件として扱い、梨佳子は限りなくクロに近い、重要参考人となった。
無論、俺も聴取を受けはしたが、古館との制約に縛られている手前、必要以上の言及は避けた。警察のことだ。調べる気になれば、いくらでも調べることはできるだろう。宇津木の経歴にだって辿り着く。けれどもきっと、梨佳子のところで行き詰まる。そんな気がしていた。
その梨佳子は現在、県立の精神医療センターに身を置いている。
精神の破綻。今後は心神喪失の可能性を探りながら、罪の是非を問われることになる。
故に、梨佳子の回復なくして、真相が解明されることはない。
しかしながら、俺は梨佳子が「宇津木を殺した」と繰り返す意図について、思い当たる節があった。
事件の翌日、家の留守電に、除霊師を名乗る女の声が残されていたのだ。
何やら困った様子の声色で、除霊のキャンセル料が発生するだとか、至急連絡をもらいたいだのといった旨が、早口に録音されていた。
その内容が何を意味するか、あの時の俺は考える余裕がなかったのだが、今となってみれば思いを巡らせることはできる。
本当に梨佳子が除霊を依頼していたのだとすれば、それは古館に殺された宇津木の霊が関係するのではないか、と。
けれどあまりに突飛な想像で、だから、あくまでも可能性の範疇ではあるが、俺は梨佳子が、遥希に宇津木の霊が憑りついているような錯覚を抱いていたのかもしれないと、考えていた。
しかしそうなってくると、遥希を殺してしまったことに対しての理由がなくなってしまう。正式な依頼までしていたのだから、翌日の除霊を待つことができたはずだ。それがどうして、あんな結末を迎えてしまうのか。
梨佳子が口を閉ざしてしまった現在、この先の答えが、俺にはどうしても導くことができなかった。
それでも、梨佳子が俺の知らぬ場所で苦しみに喘いでいたことの証明にはなった。俺に内緒で除霊を頼むくらいだ。その神経は相当病んでいたに違いない。
俺が虐待をチラつかせた梨佳子の行動は、それらの苦しみによって生み出されていた。
そう。こうなる予兆はあったのだ。
もっと早く、俺が手を差し伸べることができたら、結果はきっと違っていた。
だからこそ俺は、梨佳子を責める気にはなれなかった。
本当に、梨佳子が遥希を殺したのだとしても、だ。
無論、何故だ、という思いはある。
それでも俺は、梨佳子を恨む気になれない。
庇いたいとか、守りたいでもなく、ただひたすらに、無能な自分が情けなかったのだ。
一家の大黒柱を気取っておきながら、この有様である。
実に不甲斐無く、俺はこんな自分が、ほとほと嫌になる。
梨佳子の苦悩を見過ごし、狂気に走らせてしまったのは俺の責任だ。
だって俺は、とっくに気付いていたじゃないか。
信号は何度も送られていた。梨佳子が何かを抱え、もがいていることを知っていたはずだ。なのに、それを先送りにし、仕事に託けて、自分に都合のいい解釈をしていただけのこと。
俺がこんなだから、最悪のツケが回ってくる。
最初からそう。俺には、梨佳子を責める権利なんてなかった。
全ては自分のうぬぼれが招いたこと。
遥希の未来を断ち切ってしまったのは、俺の責任だ――。
どれだけ陽が傾こうとも、俺の時計は、一秒たりとも先に進まない。
後悔にまみれるだけの一日がまた、日暮れを迎えようとしていた。
部屋の明かりは必要ない。俺が遥希を抱えたまま、闇の侵食に身を委ねようとしていた、その時――。
突然、玄関のドアがノックされた。
またどこかの無神経な記者がやってきたのだろうか。
続けざまに二度、ドアが叩かれる。
俺は音の方向に視線を向け、耳を澄ませた。
幸いにして、外のチャイムは機能していない。俺がドアホンのモニターごと破壊してしまったからだ。おかげで小煩い音を苛立たしく感じることはなくなった。
あの音の主も、すぐに去っていくだろう。そう思った矢先だった。
「俺だ。登坂、聞こえるか」
聞き覚えのある声に顎が持ち上がる。
もしや、と俺はソファから身を起こした。
「おい、登坂。俺だ。黒木だ」
思った通り、声の主は黒木さんだった。
そろそろと足運びに気を配りながら玄関まで辿り着いた俺は、そこで呼吸を整えた。
このドアの向こう側に黒木さんがいる。
顏を合わすのは葬儀の日以来だが、果たして俺は、どんな顔で出迎えればいいか。頬を摩ってみる。カサカサの肌に伸び放題の髭。
ああ。きっと甚だしいくらい酷い顔をしているに違いない。
いや。なにより一番の問題は、客人を部屋の中に招き入れることができない状況にある。まともな足の踏み場がないのだ。そのうえ三和土には飛散した土と鉢植えの残骸。サンセベリアが無残に横たわっている。掃除したところで焼け石に水。相手が黒木さんでなければ、間違いなく居留守を使っている場面だった。
とりあえずはチェーン越しの対応で、どうにか誤魔化せるだろうか。逡巡していると、そこでもう一度ドアが叩かれた。咄嗟に声が出る。
「はい。あの、今、開けますから、ちょっとだけ待ってもらますか」
言ってから咳き込む。久しぶりに出したせいか、声が掠れていた。
「おお、いたのか。いや、いいぞ。このままでいい。開けなくていいからな」
「あっ、……はい」
その反応を妙に感じた。
あえて先回りをされているような気がしたからだ。まさかこの部屋の惨状を透かし見ているわけでもあるまいに。
と、そこで気付いた。よからぬ話になるのではないかと。
ならば、思い当たることはひとつしかない。
クビだ。
もちろん、クビといえば聞こえも悪くなるが、俺を取り巻く状況を考えれば、今ここで自主的な退職を促がされても無理はない。
ましてや俺は、外回りの長である。クライアントへの影響を考えれば、業務にだって支障をきたすだろう。いや、すでに部下たちはその余波を受けているのかもしれない。
社のイメージダウンは必至。
その元凶である厄介者は、お払い箱って訳だ。
とはいえ、思いのほか俺は冷静でいられた。
何故か。――こうなる可能性を充分に予知し、また受け入れる覚悟ができていたからだ。
「なあ、登坂」
「はい」
「飯はちゃんと食えてるか」
「まぁ、それなりに」
嘘である。まともな食事なんて、何日も前から忘れてしまっている。
「そうか。こんな時だからこそ、しっかり食わなきゃ駄目だからな」
「はい。あの、ご心配かけて申し訳ありません。それから……葬儀の時は、ありがとうございました」
「ああ。まあ気にするな。他人事ってわけじゃないしな」
ドア一枚を挟んで交わされるやりとり。
俺は玄関の壁に背をあずけていたが、ドア越しに外気の冷たさが伝わってくる。陽も落ちているし、外はだいぶ冷え込んでいるのではないだろうか。先程から黒木さんの声に微かな震えを感じるのは、そのせいかもしれない。
「あのな、登坂」
「はい」
「お前、気持ちの整理がつくまではゆっくり休んでろよ。忌引き休暇の制限なんてとっぱらっておくから。無理して仕事に復帰しようだなんて、考えなくていいからな」
やっぱりか、と思う。
俺はこのままフェードアウトしていくのだろう。
これは黒木さん流の優しさだ。即座にクビを宣告するのではなく、一呼吸、間を置いてくれているのかもしれない。
わかりました。
そう答えようとすると、黒木さんが先を続けた。
「だけど間違っても、会社から自分の居場所がなくなったなんて思うんじゃないぞ。お前の居場所はある。それを絶対に忘れるなよ」
俺は自分の耳を疑った。事実、「えっ」と声を洩らしていたくらいだ。
「なんだよ。聞こえなかったんなら、もう一度言うぞ」
そう言った黒木さんが、ひときわ大きな声で続けた。
「登坂篤斗。うちの会社には、お前が必要だ」
予期せぬ声が、胸の内を震わせていた。途端に目頭が熱くなる。
「おい。今度はちゃんと聞こえたのか? 登坂、もう一度だけ言うぞ。うちの会社にはな、お前が必要なんだよ」
「……はい、ちゃんと、聞こえて、ます」
どうにか声を返すと、涙が溢れ出てきた。
「ほんとはな。今朝、俺がお前のところに行くっていったら、営業の奴らが皆、仕事をほったらかして同行するって言い出したんだ。石本に津久井。あの責任感を売り物にした坂口にしてもだぞ。だけど申し訳なかったが、俺が止めた。メールにしても、電話にしてもそう。全部、俺が止めるように指示してある。登坂の気持ちが落ち着くまでは、そっとしといてやってくれ、ってな。だから薄情だなんて思わないでくれよ。伊原や編集の奴らにしても同じだ。皆心配してんのは、一緒だからな」
もう駄目だ。涙が止まらなかった。まともな声を返すこともできない。社内のひとりひとりの顔が、入れ違いに浮かんでくる。
「会社の奴らは皆、お前のことを待ってるよ。誰ひとりとして、疑う奴はいない。皆が皆、お前が戻ってくることを、信じてる。別に俺が強制しているわけじゃない。だけど奴らは揃って口にする。部長が戻るまでの間、皆で頑張ろう。良い誌面を作って、待っていようってな。なぜだと思う?」
「……わかりま、せん」
「それはな。お前の人徳だよ。ここまで築き上げてきた、お前の功績みたいなもんだ。なあ登坂。俺は嬉しいよ。自分が育てた、大切な右腕が、多くの部下たちに、信頼されてるんだからな。社長冥利に尽きるじゃねえか」
途切れがちになった黒木さんの声。震えはさっきよりも大きくなっていた。それが寒さのせいじゃないとわかった俺は、壁に背を凭れかけたまま、ズルズル崩れ落ちていった。涙を噛みしめ、そして理解する。ドア越しを選択した、黒木さんの意図を。
「だけど、俺」
言いかけて声が詰まった。どうしたって涙に先を越されてしまう。
これでは駄目だと呼吸を整えてから、歯を食い縛った。どうしても、ここで訊いておきたかったのだ。
「迷惑かけてませんか。その、色々とニュースになってますよね」
「……そうだな。時の人になってることだけは間違いない。だけど、それがなんだってんだよ。まさかお前、うちの会社がそんなやわだなんて思ってんのか」
「そういうわけじゃないですが、でも」
「でも、なんだよ」
「頑張ってる皆に、申し訳が立ちません」
だって、どんな顔して会えばいいか。
「……申し訳が立たない、か。そんなこと、何も気にするな、って言っても、どうせお前は気にするんだろ。だったらリベンジする機会を与えてやる。無期限でな。だから四の五の言わずに戻ってこい」
ああ、そうか。
そうだった、と俺は首肯する。
この人は、こういう人だったな、と。
手厳しいが、これも黒木さんなりのエールだ。
とるべき選択は厳しい道程に違いない。
だけど、それでも逃げるなってことを、俺に伝えたいのだろう。
「それにな。登坂」
「はい」
「俺はお前に感謝してるんだよ。お前は会社の創成期からずっと、伊原と共にうちを支え続けてくれただろ。とかく営業は、出入りが多かった中で、お前だけが辛抱強く残ってくれた」
黒木さんの言う通り、営業部の入れ替えは激しかった。
一年続けば上出来。半年を待たずに消えていく人間も珍しくもなかった。それがようやく落ち着いたのは、坂口と津久井が入ってからの話である。
「この会社を立ち上げた頃なんて、俺は未熟なくせに、自分の理想を求めるばかりでな。融通の利かないところも多かっただろ。正直、ついてくるのは楽じゃなかったはずだ。チャレンジとリベンジの繰り返し。開拓者の使命だなんて強がってみても、結局は身体を張る事ばかりでな。営業にはずっと酷な目をあわせてきたよな」
確かにそんな時代もあったな、と俺は懐かしさに想いを馳せる。
まだ黒木さんが、現役で営業をして回っていた頃の話だ。
「まあ、世が世ならブラック扱いされてても仕方のないような時代だったが、そんな営業をここまで安定させてくれたのは、登坂。お前だよ。お前がいたから、今の会社がある。お前がいたから、俺も頑張れたんだ」
「そんなこと、ないですよ」
本当だ。決して謙遜なんかじゃない。
俺は単純に黒木さんが好きだっただけのこと。この人にずっと、憧れてたんだ。黒木さんに認めてもらいたいが故に努力を重ねていたに過ぎない。
「ほんとはな。功労者でもあるお前に、こっちの都合を押し付けるのもどうかと思うんだが、ここは社長命令を発動させてでも、社内の総意を伝えなくちゃならんからな」
……功労者だなんて。今の俺には勿体無さすぎる台詞だ。
「だから最後にもう一度だけ言うぞ。何時になってもいい。絶対に帰ってこいよ。俺だけじゃない。皆がお前を待ってるからな」
本当に有り難い話だと思う。
今の俺に、これ以上の言葉なんてあるだろうか。
こんな俺を、今でも必要としてくれる仲間がいるなんて……。
俺は馬鹿だ。この人たちとの関係を、一時でも断とうとしていたなんて。さらなる後悔を、重ねようとしていたなんて。
だけど、どれだけ心根を隠そうが、これだけは偽りようがない。
やっぱり俺は、この先もこの人と戦い続けたい。
「戻ります……必ず、戻ります」
だから黒木さん。また一緒に、仕事してください――。
昔話ついでに、黒木さんのことを話そう。
その昔、仕事中の事故で首に大怪我を負った黒木さんは、一年後、誰もが想像し得なかった転身を遂げた。
――自分を育ててくれた街に恩を返したい。
その為の誌面を立ち上げようと決意したのだ。
市内の商店街で生まれ育った黒木さんは、都市再開発の進むウォーターフロントばかりが注目される昨今が、心底歯痒かったという。
とりわけ大手の出版社は、こぞって中華街やみなとみらいなど、海沿いの華やかなスポットばかりをクローズアップしていく。
それを『横浜』と一括りに扱われてしまうことが許せなかった。
横浜の魅力を謳うなら、市内各地の商店街や目抜き通りにだって目を向けるべきだと考えたのだ。
衰退が騒がれる商店街には活力とアイディアを注入し、良質な商品とサービスを掘り起こしていく。古き良き時代の名残と新時代の融合。その確立を自らの使命と課し、戦いのステージをこの街に移した。
だが、その船出は困難の連続だった。
まさにチャレンジとリベンジの繰り返し。それがようやく地域に認知されるようになり、また頼りにされるようにもなってきたのはここ数年の話である。俺たちはずっと戦い続けてきた。ファイターズの歴史。
「ああ、そうだ。お前、俺が帰った後で、このドアノブにぶら下がってる食いもんを回収しておけよ。ったく、坂口の奴。急ぎのアポがあるとかなんとかぬかしやがって、俺を出し抜きやがったな」
その声に首を傾げる。言葉の意味が理解できなかったからだ。
確かにここ数日の間、ドアノブにコンビニ袋がぶらさげられるようになった。中身はいずれも食料品の類である。
しかしそれは、マスコミが俺を部屋からおびき出すための餌だとばかり思っていたのだが……。
事実、はじめの一つに気付いた時は、ドアを開けた途端、カメラとボイスレコーダーの攻撃が俺を待ち構えていた。以来、日に一度のペースで今日まで続けられているのだが、俺はそのどれにも手を付けることなく、袋ごと部屋の壁に投げつけていた。中にある食品に、自白剤でも混入してるんじゃないかと疑ってたくらいだ。
それが坂口となんの関係があるだろうか。
「なんにせよ。しっかり栄養だけは摂っておけよ。お前さえよければ、いつでも飯に連れてってやるからな。気兼ねなく電話してこい」
「はい。ありがとうございます」
「それと外は静かなもんだぞ。昨日、都内で政治家が射殺されたせいで、マスコミの興味は向こうに流れたんだろ。ったく、あいつらはやりっぱなしだからタチが悪いわな。まあなんだ。そんな感じだから、安心して外の空気でも吸ってみるんだな」
なるほど、今朝になって外が妙に静かになっていたのはそういう理由だったのか。奴らの掌返しには反吐もでるが、好き勝手にかき回されなくて済むと思えばせいせいもする。これで少しは、平穏な日常が戻ってくるだろうか。
黒木さんが帰った後、俺は件のコンビニ袋を手にとった。
が、中身を取り出してみて、驚く。そこに、よもやのサプライズが隠されていたからだ。
パンにヨーグルト、栄養ドリンクにカロリーメイトが入れられた袋には、もうひとつ。坂口の名刺が差し込まれていた。
名刺を手に取ると、裏側には、俺に宛てたメッセージが書かれていた。
『部長のお戻りを心からお待ちしております。それまでの間、営業は僕たちに任せてください』
読み上げた途端、再び俺の目元が潤みはじめた。
まさか、今朝のあれが坂口だったとは……。
だから黒木さんは、坂口が出し抜いたとかなんとか、言っていたのだろう。
が、そこでふと、思い当たった。
だとしたら、他の袋には何が入っていたのだろうか。
立ち上がった俺は、壁際に落ちているコンビニ袋を、ひとつひとつ拾い上げる。袋は全部で三つあった。中身は全て、似たような食べ物と栄養ドリンクの類であったが、やはり、どの袋にも名刺が差し込まれていた。
『会社のことは気にしないで、ゆっくり休んでよ。いつまでも待ってるからね。伊原 編集部一同』
そう書かれているのは、伊原さんの名刺だった。
『部長の隣に住んでる女をぶっ飛ばそうかと思ったんですが、黒木さんに止められました……』
これは津久井の名刺である。
『僕にできることはなんでも言ってください。掃除、洗濯、食事の世話までなんでも承ります!』
最後に出てきたのは、石本の名刺だった。
石本のメッセージを読み終えた途端、俺は膝を落とし、声をあげて泣き出した。
嬉しかった。ただひたすらに有り難いと思った。
音頭をとったのは編集長か、坂口か。どちらにせよ、これらを逆算すると、葬儀の翌日から届けられていたことになる。
……なんだよ。
諦めてたのは、俺だけだったんだな。
涙をぬぐいながら俺は、それぞれの名刺に残された文字を、何度でも読み返した。編集長と坂口の気遣いに感謝し、調子こきの津久井と、相変わらずの石本に心を和ませる。
本当に感謝しないとな。
手の中の名刺を眺め、それぞれの顔を思い浮かべる。
「……ありがとう。……ありがとう、……皆」
その夜、俺は久々にリビングのカーテンに手を掛けた。
ソファで眠る遥希を一瞥し、「いいよな」と伝える。
俺の時間が、再び動き出すのだ。
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