【梨佳子】

 西日が差しこむ窓辺を、漫然と眺めていた。

 レースの遮光カーテン越しに覗く景色は朧げで、どことなく私の胸の内を投影しているかのようだった。

 今は何もしたくない。

 ただじっと、英気を養うように、与えられた時間に身を委ねる。

 どうせこの後は、主婦としての鎖が私を縛りつけるのだ。この時くらいは、解き放たれていたかった。

 お昼ご飯を平らげた遥希は、ぐっすりと眠っていた。

 無防備な寝顔は、心を癒す良薬になる。

 が、それでも私は遥希から目を逸らしてしまう。そこに宇津木の影を重ねてしまうから。

 今朝の一件で、宇津木が篤斗を殺そうとしていることに、疑いの余地はなくなった。

 嫉妬深く、姑息な男。

 口では生かしておくようなことを並べても、隙あらばのタイミングを狙っていたのだろう。

 あの後、病室を飛び出した宇津木を追いかけた私は、建物を出たところでその姿を捕まえた。後ろから羽交い絞めするように抱きかかえ、強引に駐車場まで連れて行く。

 宇津木は手足をバタつかせながら「はなして!」「たすけて!」と喚いていたが、私は構わず車の後部座席に押し込んだ。

 両頬を手の平で挟み込む。

「絶対に許さないから」

 視線を捕えた私は、高圧的に言い放った。

 許さない。あんな真似をして、絶対に許せるはずがない。

 しかし、私の怒りが右手を振り上げさせた途端、またしても目の前の現実が掏りかえられた。

 手の中にいたのは、私の息子。遥希だったのだ。

「ママ、おうちにかえるの?」

 もう何度目かの化かされた気分。私はぐったりと肩を落とした。言葉もない。頷き返すのがやっとだった。

 正と負の現実が、手のひらを返すように入れ替わる。

 私はただ、翻弄されるだけ。シートに凭れかかり、糸が切れたように後頭部をあずけると、頭のてっぺんから、血の気が引いていく思いだった。

 もう、嫌だ。

 考えることを放棄した私は、瞼を閉じる。胸の内で嫌気とうんざり感を丹念に練り込んでから、ありったけの息を吐き出した。それで気持ちがリセットされることを願って。

 ところが次に息を吸おうとした時、私は口元をテープで塞がれたような苦しさに見舞われた。

 予期せぬ事態に目を剥けば、眼前には、卑しげな笑みを浮かべる遥希の顔があった。

 そこで瞬時に悟ったのは、再び宇津木が現れたという事実。

 度重なる暗転に、憎しみが沸き上がる。けれども私は、それ以上に、唇に残された感覚に気を奪われてしまう。

 小さくとも軟らかな弾力。その感触を、母である私が忘れるはずがない。大小の不揃いな唇が重なり合う、感触を――。

 つまり宇津木は、遥希の唇を用いて、私の口を塞いだのだ。

 いや、まさか。

 過った疑問符が怒りの導線を引き出した。が、火を点けるタイミングを見透かしたように、宇津木は消えてしまった。

「またな、梨佳子」という台詞。不敵な笑みを残して。

 私は動揺から目が眩んだ。と同時に、背筋が総毛立ってくる。

 小刻みに頭を震わせ、だけど違う、と否定した。一瞬でもいい、夢であって欲しいと願った。幻でいい。今は幻影であったとしても歓迎しよう。だからこれは違う、と。

 じゃなければ、私はあれをキスだと認めなくてはならなくなる。

「ねぇママ、なにかあったの?」

 その声に、悪意は感じられない。

 しかし私には、遥希に構っている余裕がなかった。心の余白は全て、あの男によって埋め尽くされていた。

 ふざけるのもいい加減にしてほしい。

 よもや恋人が去り際にかわす、くちづけだと言うのか。だとすれば、私は尚のこと認められない。認められるはずがない。

 上着の袖口で、唇を擦り上げた。袖に付着したグロスが、酷く不潔なものに見えてならない。悍ましき残痕。私はそれを、薄皮一枚剥ぐような思いで拭い取った。

 それでも、そこまでしても、唇が記憶した感触までは落とすことができなかった。逃れられない事実が、私をまた、苛立たせた。

「ママ、こわい顔してどうしたの?」

 反応のない私を気に掛けてか、遥希が不安げに声を落とした。

 横から私の顔を覗き込んでいる。その目は、怯えと気遣いを織り交ぜた、健気な光りに揺れていた。

 ああ、と嘆息し、心が軋むように締め付けられる。

 駄目な母親だ。こんな小さな子に、私はいったい、何を背負わせているのだろうか。

 苦しいよ、ママ。早く僕を助けてよ!

 そういって糾弾してくれていい。罵って構わない。

 だって遥希は被害者だ。何も悪くない。

 それなのに、私の弱さが招いてしまったツケを代わりに払わされているなんて、当人にすれば理不尽も甚だしすぎるだろうに。

 ああ、と重ねるように深い溜息が洩れる。

 私がもっとしっかりしなければ、そう思えば思うほど、自分の不甲斐無さに打ちひしがれそうになる。無力な自分に爪を立てたい気持ちになる。

「ゴメンね、遥希」

 そう返すのが精一杯。本当にゴメン。

 首を垂らした私は、助手席のシートに頭をぶつける。何度も、何度でも、溜めこんだ煩悩を打ち消す鐘のように、コツ、コツ、コツ、と繰り返し額を打ち続けた。


 その後はもう、ただ事務的な作業を熟すように、漫然と時間を消化させるよう努めた。

 三度宇津木が出現することを警戒するあまり、母と子の健全な接し方には程遠い溝が、不自然な距離を取らせていた。

 遊ぼうとせがむ遥希の気が向くように、録り溜めているテレビ番組を、延々と流し続ける。息子の要望を先回りすることで、接点を極力抑え、顔を見る機会さえ遠ざけていく。

 ――お願いだから、私に構わないで。

 無言のメッセージで身を包みながら、頭を抱え続けた。

 遥希を遥希として見られなくなっている自分が、恐ろしくてたまらなかった。

 胸から抜け落ちてしまった感情。私は、我が子への愛情さえ、拾い上げることができないでいた。ほんの数センチ、数ミリ先にあるはずの愛情を――。

 混沌に振り回される二重生活は、私に自分の限界を感じとらせていた。心の弱さを認めれば体が正直に反応する。見計らったように吐き気が押し寄せてくる。

 何をやっても無駄。

 成す術なく後手に回る私に、勝ち目はない。現実はどこまでも暗く、刻々と沈んでいく。深みへと、飲み込まれていく。

 宇津木のいいように振り回される今昔。断ち切ることは叶わない。

 私はあの男の前で、ただ自分の無力さを思い知らされるだけ……。


 篤斗はいま、何を考えているだろうか。

 病院を飛び出した後から不定期に鳴らされる電話やメール。私はそれらに一切手を付けてない。けれど明け透けな拒否は、都合の悪さや、隠し事をしている事実を知らせているようなもの。

 夫が向ける疑いの眼差しは、色濃いものに変わっているだろうし、ましてや私は、感情任せにあの男の名を口走っている。勘の利く篤斗のこと、到底、聞き流しているとは思えない。

とはいえ、今更後悔したところで、どうにもならないことはわかっている。

 だから私はまた、夫に嘘をつかなければならない。

 幸いにして、今夜中に篤斗が帰宅してくる可能性は低い。

 あったとしても、朝方帰ってくる程度で、余程のことがない限り、寝ている私を起こしてまで詰問するような真似はしないだろう。

 確実な帰宅は、明日の夜。

 除霊師がやってくるのは明日の十三時。

 私の思惑通りに事が運べば、篤斗は真実に触れることなく、いつも通りの遥希に出迎えられるはずだから。

 私が口にしたことなんて、また適当に誤魔化せばいい。


 どれくらいの時間、こうしてたのか。

 気が付けば、私は薄闇の中に身を溶け込ませていた。

 椅子から音を立てぬように立ち上がり、西日の落ちきった窓にカーテンを引く。部屋の明かりを点けた後で、寝ている遥希の様子を窺った。時計を見れば、そろそろ起き出してもいい頃合いである。

 と、思い出したように心の底がざわつき始めた。できるなら、永遠に眠ってくれやしないかと願う自分がいたが、唇を噛み、自らを戒めるように首を振る。

 そこで携帯電話が発している光に目が止まった。

 テーブルから携帯を拾い上げ、表示された着信履歴の山に息を洩らす。見ればつい先刻も、夫から着信があったことを知るが、折り返しの電話をする意欲はない。せめてサイレントモードの設定だけでも解除しようかと思ったが、短い逡巡の末、携帯をテーブルの上に戻した。

 どうせ意識から完全に断ち切ることはできないのだし、このままでいい。幸い、今朝は病院に出向いている。サイレントのままだった。気付かなかったで済む話だ。

 篤斗は今まさに、明日に控えた締め切りに向かい、戦っている最中だろう。月曜日の朝一には、印刷所へ誌面のデータを入稿しなければならない。そう話していたことを記憶している。つまりは前々日の今晩が、山場というわけだ。

 仕事人間を自称する篤斗のこと。今頃は家庭と仕事とを秤にかけて、葛藤に喘いでいるかもしれない。

瞼を閉じ、そうこう奮闘する夫の姿を想像していると、不意に妻としての良心が顔を覗かせた。

 ここ数日、その場しのぎの嘘で、偽りのヒロインを演じた私は、夫の優しさに甘え、またそれを利用している。確信犯、腹黒い女と非難されても已む無しと思える程に、嘘を吐くことへの罪の意識が、欠乏してしまっていた。

 だけどもし、言い訳が許されるなら。これは必要悪だったと伝えたい。秘密裏に事を進めていくためには、どれも仕方のないことだった、と。

 だって、今回ばかりは、篤斗の力に頼ることはできない。できるわけがない。自分の力でどうにかするしかない。だからこその必然悪だったのだ、と。

 振り返ってみれば、いつも同じ。

 私は篤斗の優しさに助けられているだけの女だった。直面する問題を棚上げするばかりで、自己解決に導くような力なんて、これっぽっちも持ち合わせていない。問題の自然消滅を祈るように待ち続け、変わらぬ現実に悲観する。

 過去どの場面を顧みても、私は変わらず、同じ顔をしていたはずだ。

 そんな私を救ってくれたのが、篤斗の前向きな力強さだった。

 彼がいたからこそ、今の私が存在する。

 大袈裟な例えでもなんでもなく、篤斗の存在こそが、私に未来を生きる権利を与えてくれたのだ。

 宇津木の呪縛から私を連れ出してくれたこと。

 さらには、親に内緒で退職してしまった仕事の話を、いつまでも打ち明けられずにいた私を助けてくれた日のこともそう。

 あの日の出来事は、数年の月日が経った現在も、色褪せることはない。

 篤斗を連れて、初めて帰省した年の瀬。

 父と母を前に、事の成り行きを告げられず俯いたままの私を通り越し、「梨佳子さんと結婚させてください」と口火を切った篤斗は、両親だけでなく、私までもを仰天させた。

 父と母に、生まれて初めて引き合わせた彼氏である。

 その自己紹介の場で、「梨佳子さんとお付き合いをさせていただいてます」と告げられることを予測していたであろうに、声を受けた両親は表情を繕いかねていた。そんな不器用な二人である。

 それが数分の後には結婚話へと飛躍してしまったのだ。

 ようやく繕った平常心を瞬く間に剥がされてしまった二人は、酷く狼狽した挙句、娘に助けを求める始末だった。

 だが私にしても同じこと。まさかあのタイミングで結婚の許しを申し出るとは、想定外の出来事だったのだから。

 台本のない演劇会。幕開けの先は、篤斗の独壇場だった。

 全てがアドリブなのか、はたまた始めから、自分だけのシナリオを用意してたのか。どちらにせよ、私たち三人は、ただ息を飲み、相槌を打つことが与えられた役回りであるように、主役の声を耳に受けていた。

 それでも篤斗が口にするひとつひとつの台詞には、偽りのない熱意が込められていた。

 だからだろう。私は自分の両親が、次第に篤斗の熱に呑み込まれていく様を、目を潤ませながら眺めていた。

 結局、篤斗のペースに乗せられたかたちで、私の打ち明け話は二の次となり、お咎めも有耶無耶となった。

 ――あのタイミングしかないって思ったんだ。

 狙ってか、狙わずか。篤斗の型破りな奔放さには驚かされるばかりだが、そこでも篤斗が私を守ってくれたことに違いはない。

 いつだってそう。

 篤斗は私に超えられぬ壁を、いとも容易く超えていく。

 その姿は私の憧れであり、自分にはどうやっても手に入れることのできない眩さ。

 誰だって、他人の領域に足を踏み入れることは容易ではないはずなのに。躊躇したり、見過ごすことは、必ずしも誤った選択ではないはずなのに。篤斗は素通りせず、手を差し伸べてくれる。

 私には到底無理。

 貴方のように、生きられっこない。

 そう自棄的に打ち明けたこともあるが、篤斗は実にあっけらかんとした表情でこう語った。

 ――別にいいんじゃない。真似なんてしなくても。

 他人と同じように生きられなくたっていい。それが個性ってもんじゃないの、と。

 この声に私がどれほど救われたか、篤斗は知っているだろうか。

 私の人格を決して否定することはない。一個性として、尊重してくれたのだ。ネガティブに考える必要なんて、ない、と。

 さらに篤斗はこう続けた。

 俺たちは必ずしも似た者同士ではない。それでも、互いに不足している部分を補い、支え合うことができる。人と人の繋がりなんて、ブロックみたいなもんだよ、と。

 互いの凹凸を噛み合せることでひとつになる。積み木では築くことのできない、結びつきの強さ。

 篤斗にあって私にない個性。夫になくて妻にある個性。

 ブロックの凹凸が組み合わさるようにして支え合う。それこそが、私たち夫婦のかたちだと、教えてくれたのだ。

 私は感謝している。

 絶望の淵で蹲っていた私に、生きる意味を思い出させてくれたことを。進むべき道を照らしてくれたことを。

 だからこそ、遥希の件だけは、自分の手でどうにかしたい。

 これまでの恩を返す意味でも、これ以上、夫を巻き込まない為にも、ここだけは私の意思で清算しなければならない。昔の自分に戻らないためにも。

 いらぬ雑念は捨てよう。

 不安や懐疑ばかりに捕らわれてしまうのは、私の悪い癖。縛られていては、前に進みようがない。

 不思議なもので、夫への想いを再確認したことが、私に力を与えてくれたのかもしれない。

 大丈夫。全ては明日、除霊師が来ることで決着するだろう。私が選択した道は、間違っていないはずだ。

 除霊師は言った。

 必ず息子さんを取り戻すことができますよ、と。

 だからお母さんも、信念を強くお持ちなさい。必ず息子さんは助かると、貴方が信じなくて、誰が信じるというのです。

 本音を言えば、その声を信じきれてない自分もいた。

 信じる。信じたい。信じよう。

 揺れて、揺らめいて、揺り動かされて私は、ようやく除霊が成功するイメージへと辿り着いた。

 大丈夫。決意の楔は深くまで打ち込まれている。今はもう、微塵の揺らぎも感じることはない。

「大丈夫」今度は敢えて声に出し、この身に沁みこませる。

 私は信じている。私が信じている。

 息子は必ず取り戻せると――。


 夕食をぺろりと平らげた遥希が、「ごちそうさまでした」と両手を合わせる。そこに昨日のようなふてぶてしさはない。

 いつ、また、に身構えながらの夕食であったが、これで母親としての役目をひとつ、終えることができた。あとはお風呂に入れて、寝かせてしまえば、ひと息つけるだろう。

 それでも遥希は「ママ、デザートはぁ?」と甘え声でせがんでくる。どうやら誕生日に食べたケーキ以来、食後のデザートに味をしめたらしいのだが、ここでもやはり、私は勘繰ってしまう。

 本当に、あの時のケーキがきっかけになったのだろうか、と。

 もしかするとこの変化も、宇津木の憑依が発端なのかもしれない。

 だとすれば、これは遥希の訴えでなく、宇津木の要求なのか。

 と、そこまで考えてから、心の迷いを打ち払う。

 悪く考えれば、何もかもが宇津木の支配下に置かれているように思えてならない。手の平で踊らされている自分を想像すれば、途端に腹立たしくもなる。

 とはいえ、ここで流されてはいけない。篤斗ならきっと、そんなはずはない、と笑い飛ばすはずだから。

 私は気を取り直し、冷蔵庫から取り出した蜜柑をひとつ、遥希に分け与えるようにして食べさせた。

 ひと房、ひと房と、丁寧に薄皮を取り外していく作業が待ちきれないのか、遥希は餌を待つ小鳥のように口を動かし「ねぇ、まだぁ」「もっと、はやくぅ」と催促を繰り返す。

 その汚れない無邪気さに、私は頬を緩ませる。一瞬でもいい。宇津木の顔を忘れられる瞬間があることが有り難かった。


 宇津木の姿が明確に現れるようになってから、およそ一週間が経った。その間、私は遥希をまともなお風呂に入れていない。

 今日も遥希は、シャワーだけの簡単な入浴に留めていた。

「またシャワーだけ? ハルキ、ママといっしょにおふろはいりたいのにぃ」

 そう言って拗ねる息子には申し訳ないが、私は首を横に振る。

 明日に除霊を控えているといえ、ここで警戒を解くことはできない。折り悪く、入浴中に宇津木が現れでもすれば、私はあの男の前に裸を晒すことになる。無防備な姿のまま、あの男の前に立つ自分。 

 想像すれば、とてもじゃないが、共に湯船に浸かるような真似はできなかった。

「あしたはおふろにはいろうね。やくそくだよ」

 バスタオルの隙間から伸びる短い小指に、私は指を絡ませた。

「わかった。ママ、約束する。明日はお風呂でいっぱい遊ぼうね」

「ほんとだよ。やくそくやぶったらげんこだからね」

 遥希が振り上げた手をぎゅっと握りしめる。最近はこんな仕草までがパパそっくりだ。

 私はバスタオルでその手と頭をそっくり包み込み、「わかったよー」と、くしゃくしゃに揉んだ。

「あっ、そうだ」

 遥希の背中に残っている水滴を拭きながら、名案を思いつく。

「ねえ遥希。今度のパパのお休みには、どこか遠くまで旅行に行こうか。サファリパークなんてどうかな?」

 少し気が早いが、これはご褒美だ。遥希はもちろんのこと、篤斗が嫌というはずがない。私にしても、これまでの鬱憤を吐き出すために、開放的な場所で気分転換してみたい。

「サファリパーク……いけるかなぁ」

 心配ごとがあるのだろうか。向き直った遥希は、珍しく不安そうな声を洩らした。苦手なピーマンを前に、食べられるかなぁ、と躊躇っている時の声に似ている。

「大丈夫だよ。パパだってきっとライオンが見たいっていうに決まってる。動物好きなパパだもん。きっと喜んで連れて行ってくれるから」

 だから心配なんかしないで。と遥希の頭を撫でながら、笑顔の訪れを待った。

「だけどさぁ。その時まで、パパ、生きてるかなぁ」

 そんなの大丈夫だ……って、……な、に? 

 ……今、なんて言った。

 なんて言ったの?

 私が見つめたその先で、遥希の口角が、左右に吊り上っていく。

 隙間から覗く小さな歯。その口が続けた。

「オマエ、馬鹿だろ。俺がサファリパークなんて行くと思ってんのかよ」

 ――宇津木である。

 だけどそんなことはどうでもいい。

「今、なんて言ったのよ」

「だから、サファリパ」

「――その前よっ!」

 床にバスタオルを叩きつけた私は、浴室の壁が震えるほどに声を張り上げた。

 が、私の剣幕に宇津木が顔を怯ませたのも一瞬だけ。次の瞬間には、煙たそうに表情を変え、舌打ちする。

「ったく、ピーピーうるせえなあ」

 私の問いなんて、まるで取り合わないといった態度に、はらわたが煮えくり返る。私は剥き出しの肩をがっと鷲掴みにした。

「いい加減にしなさいよ!」

「いい加減にすんのは、てめえだろうがっ!」

 遥希の体には不釣り合いなほどの大声が跳ねかえってくる。

気圧された私は、手を引き戻した。そんなことはさせないから、と続けようとした声が、喉元で行き場を失っている。

「調子に乗ってんじゃねえぞ。てめえの旦那を殺すことなんて、今の俺にとったら他愛もねえ話なんだからなあ。言葉づかいには注意した方がいいんじゃねえのか」

 形勢があっという間に逆転していた。遥希の小さな身体が、やけに大きく感じられる。威圧的な視線。にじり寄る圧力。浴室に残る熱気に、呼吸が乱される。

「いいか、今までのことなんて、俺にしてみたらお遊びみたいなもんなんだよ。殺ろうと思えばいつでも殺れたんだ。勘違いしてんじゃねえぞ、こら」

 立て続けに捲し立てられた私は、咄嗟に宇津木から距離を取った。

 逃げ出していた。少しでも広い場所で対峙しなければ、不利な状況に追い込まれると、本能が訴えていた。

 リビングの一番奥に陣取り、窓を背に立つ。そこで大きく息をついた。心臓が早鐘を叩いている。ぴた、ぴた、ぴた、と近づく湿った足音。私に与えられた猶予は一呼吸分に過ぎなかった。

「なんだよ。可愛い息子ちゃんから逃げて、どうする気だ?」

 余裕を湛えるのは強者の笑み。それを見た私は、逃げ出したことに後悔した。劣勢だからこそ、私は毅然と振る舞うべきだった。これなら宇津木の思う壺だ。

 加えて私は、ある異変にも顔を歪めていた。首筋や手の甲。剥き出しとなった肌が、異質な冷たさを感じ取っている。背筋が震えるか否かを躊躇っているような、奇妙な冷気が肌に纏わりつく中、部屋の中央に立つ遥希は、一糸纏わぬ姿のままで、不敵な笑みを湛えていた。

「いい加減、自分の立場ってもんを理解した方がいいんじゃねえのか。俺に逆らえばどうなるか、まさか忘れたわけじゃねえよなあ」

 頭に突き刺さる、聞き覚えのある台詞。

 私は数年の歳月が巻戻ってしまったような錯覚に、唇を噛みしめ、抵抗を試みる。

 臆してはならない。ここで心を挫いてしまえば、今度こそ、劣勢を跳ね除けられなくなる。

「――させない」

 口にして、私は気持ちを奮い立たせた。

 実体のない姿、声に惑わされてはいけない。現実は九十センチにも満たない小さな身体。昔とは違う。恐れることはない。

「はあ?」

 予想外の抗戦だったのか、宇津木は不機嫌に小首を傾げる。

「私の夫は殺させない。そんなことはさせないって言ってるのよ」

「どうやって」

 除霊するのよ。

「どうやって俺を止めるって言うんだよ」

「止めてみせる」

 除霊してやるの。あんたなんて、悪霊として祓われるのよ。

「だから、どうやってだよ」

 その根拠のない自信はどこからくる、とでも言いたげに蔑んだ表情が神経を逆撫でする。だから私は、宇津木の余裕を根こそぎ削り取ってやるつもりで言い落した。

「除霊してやる」と――。


 瞬間、目を丸くさせた宇津木は、たじろぐように一歩、後退りした。狼狽しているのは明白。私は勝機とばかりに追い打ちをかける。

「明日、ヒロヤは除霊される。もう二度と、その身体に憑依なんてさせないから」

 宇津木が眉をひそめた。苦々しい表情は除霊を予期していなかった証。虚を突かれたことで、宇津木は返す言葉なく、立ち尽くしている。私はその沈黙に満足した。自分の優位を疑わなかった。

 だが――。

 くっくっく、とあからさまな失笑が零れる。

「なにが可笑しいのよ」

 妙な違和感が爪を立て、胸の内を引っ掻いた。

「そう。……除霊、ね」

 何故だろう。除霊を耳にした上で、この余裕。開き直っている様子はない。

「で、誰がどうやって除霊するって?」

 宇津木の声が、頭の中をかき乱す。

 私は心の動揺を悟られないように、できる限りの平静を装う。そして言った。

「その筋では高名な除霊師にお願いしてるの。先生はね、除霊は必ず成功するとおっしゃってたわ」

 あえて権威付けしてみせたのは、精神のバランスを保つため。と同時に、宇津木にプレッシャーを与える為でもあった。

「除霊師ねえ」

 宇津木が吐き捨てるように言うと、その足が、私に向けられた。

「オマエよう。映画やテレビの見過ぎなんじゃねえのか。除霊師だか霊媒師だか知らねえけど、そんなんで俺をやっつけられるとでも思ってんのかよ」

「思ってるわ」

 足元に立つ宇津木を見下ろし、私は負けじと言い切った。けれども声が掠れてしまう。唾を飲んで対処しようにも、口の中はからからに干上がっている。

 顏を歪めた先で、宇津木が笑った。

 くっくっく。

 ははは、あははは、あはははっははは――。

 堪えきれなかったとばかりの高笑いだった。

「だったらやってみろよ。その除霊ってやつを」

 何が可笑しいのか、宇津木は腹を抱え、声を震わせている。

 その様子に、虚勢を張っている節は見当たらない。自棄になっているわけでもないだろう。ただ何か、不穏な含みを仄めかしていることだけは確かだ。宇津木が続けた。

「だけどなあ。その時、コイツの中に俺がいなかったら、どうするつもりだ?」

 遥希の胸を指差しながら「できんの、除霊?」と付け加え、吹き出すように一笑した。

 言葉が切れた後、私はしばしの間、茫然としていた。

 というよりも、思考が進みゆく現実から取り残されてしまっていた。宇津木が口にした意味が飲みこめず、引っかかっている。

 コイツの中に俺がいなかったら、とは何を指しているのだろうか。

 他人を小馬鹿にした物言いは、いかにも宇津木らしい挑発のしかたではあるものの、外連味のない危うさがあるように思えてならない。

 が、そこで卒然と、頭の中に一つの仮説が芽生えた。

 と同時に、私は震えんばかりの戦慄に射抜かれる。

「……嘘、で、しょ。そんな、まさか」

 頭のてっぺんから血が一気に抜け落ちていく感覚に、視界がぐらついた。

 私は、勘違いをしていた?

 取り返しのつかない過ちを犯していたのかもしれない。

「……自由に、出入りできるって、こと」

 声が震えた。いや、もはや全身が震えを帯びている。

 宇津木の目を見つめ、違うといって欲しい、と祈る気持ちで返事を待った。が……。

「当たり前だろ」

 耳が受け取ったのは、仮説を立証させる、絶望的な答え。

 事の有様を理解した私は、その場に崩れ落ちた。

 ああ……そうか。そうなのか。

 私は、どうして気が付かなかったのだろう。何故、もっと冷静な判断ができなかったのだろうか。

 押し寄せる後悔が、額を床に押し付ける。

「……はじめから、間違って、いた、の」

 そう。私の過ちは、当初の着眼点にあった。

 私はてっきり、宇津木の狙いが遥希の肉体を乗っ取ることにあるとばかり思っていた。手にした身体を 我が身の如く扱い、新たな生を得ようと企てている。人生をリスタートさせるには、幼い遥希の身体はうってつけであるように思えた。

 つまりターゲットは、遥希に他ならないと考えていたのだ。

 が、それこそが間違いだった。

 さらに付け加えるなら、除霊師の話が、私の判断を狂わせていた。

 憑依の時間が限られているのは、肉体の宿主である遥希が戦っている証拠。今思い返せば、あの声が余計だった。しいては私の勘違いを増長させ、誤った信憑性を高めてしまっていたのだ。

 宇津木は始めから、『自分の意思』で遥希の身体を出入りすることができた。そこに憑依時間の概念はない。

 私はいつかのやりとりを思い出した。


『まぁ、今の俺にはこの方が都合いい。なにせ、新しい体を手に入れられるんだからな』

『ふざけないで、それはヒロヤの身体じゃない。遥希のものよ』

『……そう。これは確かにリカの息子の身体だ。でも、この瞬間はオレの身体でもある』

『何よそれ。どういう意味っ――』


 ……どういう意味もない。そのままだ。

 憑くも離れるも自由自在。誤った概念に踊らされたのは私。最初から憑依に完全も不完全もなかったということだ。

 そもそもの話、自在に憑依できるのであれば、肉体に留まることに固執する意味はない。ましてや、憑依先の肉体に魂が固着しない以上、除霊のリスクから逃れることだってできるはず。

 遥希の身体はもとより、この家から姿を暗ましている内は、除霊の影響を回避することだってできるはず。

 じゃなければ、宇津木が余裕綽々に笑う理由がない。

 それともうひとつ。

 確認すべきことがある。

 私は床から額を持ち上げた。視線を合わすと、今度は私が見上げる番となった。

「もしかして、ずっと見てたの?」

「当然だろ。今のオレをなんだと思ってんだよ? 全部見てたよ。リカが息子を寝かしつけた後、パソコンの前でこそこそ企んでるところ。突然帰ってきた旦那に驚いて、車で逃げだしたこと。それと」

「――もういい!」

 私は続きを遮った。これ以上、訊く意味はなかった。

「初めから遥希の乗っ取りが目的じゃなかったってことなんでしょ。 遥希の身体は、自分に都合のいいように使える道具みたいなもの。そうなんでしょ」

「あったりぃ」宇津木は手を叩き、ひとりはしゃいでみせる。

 無邪気な遥希は、けれど小憎たらしい悪鬼のようである。

 ならば本当の目的は――などと今更訊くまでもない。

 導く答えはひとつ。

 行き着くところ、宇津木が憑りついていたのは……私。

 私への執着だったのだ。


 ――リカに教えてやるよ。

 失意のどん底で、耳がその声を拾った。

「除霊師さまがどんだけ偉いのか知らねえけどな。自慢げに知ったかぶって講釈たれたところで、所詮そいつは生きた人間だろ。死んだこともない奴にこっちのルールなんて絶対にわかりっこねえんだよ。生きてる奴らが作ったルール程度じゃ、俺たちを裁くことはできねえ。リカもせこせこ頑張ってたみたいだけど、無駄な足掻きだったってことだな。除霊ができなくって残念だろうけど、諦めな。――っていうか、成仏なんてクソ食らえだけどな」

 さながらそれは、死者の説法のようにも聞こえたが、汚い口振りは、仏のそれに値しない。

 だけどひとつだけ、聞き捨てならないことがあった。

 宇津木はさっき、『俺たち』と言っただろうか?

 俺ではなく、俺たち、と。

 あれが私の聞き間違いでないのなら、この世界には、宇津木のような邪悪に染まりきった悪霊が、そこらじゅうに存在してるということなのだろうか。

 それこそ映画やテレビの中の話だが、この場の私に限っては、それを否定する権利が与えられていない。

 悔しいが、私は既に信じてしまっている。

 霊の存在を。悪霊と呼ぶべき者が、実在することを――。


 これ以上の絶望があるだろうか。

 現世のことわりから放たれた悪意の塊は、無制限に欲望を手に入れられる特権を得て、蘇る。宇津木もまた、その一人。

 これなら明日の除霊だって、成功する筈がない。

 わかってる。

 いや、違う。

 今なら素直に、わかっていた、と言える。

 息子を守りたい一心が、除霊なんて不可視化な儀式の成功を、盲信させていたことを。

 私は始めから見えないふりをしてただけのこと。

 篤斗だって言っていた。除霊師を指して――どうしたって怪しくみえるよな、と。

 ネットの住人にしてもそう。除霊や浄化についての批判的見解を、私はいくつ頭に流し込んだだろう。連なる中傷の山。否定派たちのもっともらしい抗弁。霊感商法の犠牲者となった者たちの訴えが、この眼に焼き付いているはずなのに、心根を偽った。

 そして私は、ネットから自分に都合の良い情報だけを拾い上げ、除霊を学んだ気になって、知った気になって、達観したつもりになった。除霊はできるのだと言い聞かせた。

 私は酷く滑稽だ。

 無駄に叩いた労力は、絶望の重ね塗りに過ぎなかったのだから。


「――なあ、こんな話どうでもいいからよう。もっといいことしようぜ」

 宇津木の手が、私の顎先を持ち上げる。

 起き上がった私の上半身に張り付くように立ち、厭らしく笑った。

 私は咄嗟に仰け反るも、その瞬間、か細い五本の指が、私の胸を鷲掴みにした。

「ちょっ、ふざけないでよ」

 その手を払い除ける。

「おい、まさか拒否できるなんて思ってねえよなあ。別にいいんだぜ。リカが拒否するなら、それ相応の罰を与えるだけだからな」

 言い捨てた宇津木が、遥希の首を掻っ切るような真似をする。

「ふざけないで! そんなこと――」

「できるのか?」

 声を重ねられた私は、凍りついた。

 ……できるわけがない。私にはもう、成す術がなかった。

「できねえだろ。リカ。お前にはできっこねえんだよ。大事な息子だもんな。傷つけるわけにはいかねえだろ。除霊もできないとわかった以上、リカにはどうすることもできねえんだよ。いい加減、諦めな」

 無情な宣告は、私の闘争心を丸ごと剥ぎ取っていった。

 宇津木の言う通りである。もはや何も手立てはない。

 支配の鎖を断ち切ることは、叶わなかったのだ……。

 すると背を向けた宇津木がソファによじ登り、腰を下ろすと、私に見せつけるように開脚した。左右に広げられた足。その中央に備えられた小さな性器をつまんだ。

「まあ、こんな小せえ身体でも、ちゃんとした感覚があるから大丈夫だろ」

 そう語った口が、淫靡に歪む。

 その姿に、私の心臓が飛び出さんばかりの勢いでせり上がった。

 背中が疼き、過去数多の映像をフラッシュバックさせる。

「やめて!」

 悲鳴を上げた私は、両手で耳を押さえつけた。

「なんだよ。何もそんなに嫌がることねえだろ」

 それでも宇津木の声が、指の隙間をすり抜けてくる。

 お願い。お願いだから、それ以上は、何も言わないで。

「おい、リカ」

 その先は……。

「くわえろよ」

 言わないで――。


 ……。

 紛れもない。それは私の精神が破たんする音だった。

 宇津木の声が先か、僅かに私の声が先だったろうか。

 けれども互いの声が混ざり合い、頭の中をぐちゃぐちゃにかき回した末に、爆ぜた。

 私はしばしの間、残煙が白く染め上げた世界に佇んでいた気がする。

 私の意思は消し飛んだ。代わりに、操り人形として生きていた頃の記憶が、明確によみがえった。

 再び性の道具として繋がれた鎖が、私の体を操作する。

 私は宇津木の股間に顏を潜りこませていた。

 宇津木の手が、頭頂部の髪の毛を押さえつけている。目と鼻の先、私の小指にも満たない矮小な突起物が、その時を待ち侘びていた。

「なあ、焦らさねえでさっさとくわえろよ」

 待ちきれないのか、手の隙間ほど持ち上がった腰が、突起物の先端を、唇の先に触れさせた。

 と、その瞬間、芥子粒ほどに残された自我が語りかけた。


 私は生涯、この男の奴隷となって生き続ける。

 恥辱と屈辱にまみれる日々がほら、口を開けている。

 私の遥希はもういない。

 いずれ篤斗もいなくなるだろう。

 これ以上、私に生きる意味などあるのだろうか。

 意味などない。ある訳がない。

 ならば……。


 私はそれを口に含み、ひと舐めする。

 そして。

 喰いちぎった。

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