【篤斗】

 梨佳子の声がする。

 だがこれは、夢だろうか。

 俺は深い眠りの中に、自分の居場所を確認する。ベッドに沈み込む感覚が、まだ眠りの最中にいることを教えてくれた。

 やはり現実ではない。

 思った俺が意識を遮断しかけた時、今度は紛れもない妻の声が頭の中に鳴り響いた。

 寝坊した瞬間を悟った朝さながらに跳ね起きた俺は、目の中に飛び込んできた現実に視線を泳がせる。

 病室には、梨佳子、遥希、看護師の姿があった。

 三者三様の表情の中、梨佳子の顔色だけが、切迫した様相に塗られている。

 茫然と、何があったのだろうか、と問う。

 ふと目に止まった腕からは、点滴針が抜かれていた。

 いつの間にか、終わっていたのだろうか?

 それにしては、垂れ下がっているチューブに違和感があった。まるで無造作に投げ捨てられたかのようである。

「これ、なんだ。もう終わったのか?」

 目の前の現実に、意識が追いつかない。無理に起きた倦怠感が、思考速度を鈍らせていた。

 すると突然、椅子に座っていた遥希が病室の外に駆け出して行った。

「おい、遥希はどうしたんだよ」

 二人の間に、また何かがあったのだろうか。

 とにかく後を追うべきだ。俺が口にしようとした瞬間、梨佳子がけたたましい声で言い放った。

「なに寝ぼけたこと言ってんのよ! あれは遥希じゃない。宇津木なのっ」

 その声量に気圧される。が、それ以上に、梨佳子の口を抜けでた言葉に耳を疑った。

 ――遥希じゃない。宇津木なの。

 脳裏にこだます声に、意識がぐっと引き寄せられる。

 それがどういう意味なのか、答えに行きあたる前に、梨佳子が病室を飛び出していく。 

「ちょ、待てよ。おい、梨佳子っ」

 手を伸ばし、叫ぶものの、梨佳子は振り返ることなく姿を消した。

 焦った俺は、後を追うように立ちあがる。

「駄目です! 急に動かないでください」

 看護師が叫ぶと、慌てた様子で俺の前に立ち塞がった。

「点滴も終わってませんから」

 毅然とした態度を前に、仕方なく、ベッドに腰を下ろした。俺は苦虫を噛み潰す。畠中先生に無理を言ってる手前、あまり迷惑を掛けるわけにもいかない。

「何があったのかわかりますか?」

 ならば俺が眠っている間の状況を知れれば、と訊ねたが、看護師は、さあ、と首を捻るだけ。その話題に触れられることを避けるように背を向けてしまう。

 それでも点滴を手に取りながら、「たぶん、お子さんが誤って点滴針を抜いちゃったのかもしれませんね」と答える。

 稀に、お父さんに痛いことするな、とか言って喚く子供がいるらしく、勢いで外してしまったのかもしれない、という推測を付け加えた。

「まだ半分は残ってますね。今、新しい針の替えを持ってきますから、少しの間、このままで待っていてください」

 終わりにそう告げると、看護師はそそくさと病室を出ていった。

 取り残された俺は、ひとり逡巡する。

 あの梨佳子の様子から察するに、由々しき事態が起きたことは間違いない。考えたくはないが、また梨佳子と遥希の間で、問題が発生したのだ。

 しかし、それ以上に、あの『宇津木』の名前が出てきたことに対して、俺は驚きを隠せなかった。

 俺と梨佳子を繋いだきっかけであり、だけど禍々しい接続詞。

 それがどうして今頃になって、それも梨佳子は、遥希が宇津木であると錯覚しているような言い方をしていた。

 梨佳子の心に深い傷を負わせた名前を、どうして実の息子に重ねるのか。

 ……嫌な予感が膨らんでいく。

 理由はともかく、梨佳子があの名前を口にするには、余程の事情があったのだ。けして軽々しく口にするような名前ではない。梨佳子が胸の奥深くに封印してきた男の名前。とかく俺の前では、その名を口にすることを避け続けていた感がある。それが表に出るということは、相応の理由があると考えるのが妥当だろう。

 このまま放置できるような問題ではない。

 だが俺は、事態が急を要する状況にありながら、二の足を踏まずにはいられぬもう一つの現実に、歯噛みをした。

 締め切りまでは、あと二日。

 この後、予定している分刻みのスケジュールに、私的な時間を割くだけのゆとりはない。そもそもが、この点滴を受けにきたのだって、今日を乗り切る活力補給だったのだから、この先の俺は、何が何でも仕事に集中しなければならない。

 そう。わかってはいるが、今この瞬間も、二本の足は、梨佳子たちを追跡せよと騒ぎ立てるように疼いていた。

 直面した異なる問題が、俺を板挟みにする。

 理性は仕事への責務感を訴え、感性は家庭への危機感に警鐘を響かせる。

 仕事と家庭。部長と父親という立場が、時の権利を争うようにせめぎあっていた。

 

 結局のところ、俺は最終の打ち合わせが終わるまで、仕事を優先させることになった。無論、合間の移動時間を利用して、何度も梨佳子の携帯や家電に連絡を試みたが、一度として連絡がつくことはなかった。

 不安は膨れる一方で、身動きの取れないジレンマに苛々を募らせたが、昨日の二の舞にだけはなるなよ、と心に鞭を入れながら、最後まで緊張感と集中力を持続させることに努めた。

 だがそれも、いよいよ限界が近づいていることを感じていた。

 神経が、酷くささくれ立っているのを実感する。

 だからこそ俺は、帰社する前にもう一度、緊張の糸を貼り直す必要があったのだが、よもやその糸が、津久井と石本によって、早々に切断されることになろうとは――。


「……部長」

 津久井が伏し目がちな面持ちで俺を呼ぶ時は、十中八九、良い知らせにはならない。帰社して早々に訊きたい話ではないと、腹の内で舌を打つ。

 事前に用件を聞かされているのか、傍観する坂口にしても、重苦しい表情を覗かせていた。

「どうした、津久井」それとない風を装ってみるが、我ながら、芝居がかった感が否めない。

「実は、戸塚でオープンした住宅展示場の広告が、掲載できなくなりまして」

 ――なんだと? 

 俺は思いがけず目を瞬かせる。それは只事でないぞ、と。

 件の広告は、今月のはじめに、津久井がとってきた見開きの大口契約だ。それが掲載できなくなったとなれば、かなりの痛手となる。

 俺は急いで頭を働かせた。

 営業部としての損失は、売上そのものであったが、それでも差し引き、今月の目標はクリアしているだろうと目算する。とはいえ、仕方ないか、と軽々しく首肯できるような話ではない。

 しかしそれ以上に、このタイミングで二ページ分の穴を空けたことは、編集部にとって大きな負担を背負わせることになる。今回の場合、打撃を受けるのは、圧倒的に後者なのだ。

「どうしてそうなった」

 威圧的に抜け出てしまった声に、津久井の表情が強張る。

 まだ津久井に非があると決まったわけではない。仕事に私情は持ち込むなよ、と心の内で言い聞かせた。

「その……社長から鶴のひと声がかかったみたいなんです」

「なんだよそれ。たしか、先方の営業部長が窓口とかで、契約書ももらってたよな」

「はい。先方の部長曰く、契約時には社内でも異論なかったんですが、今になって社長がノーと言っているらしいんです。やっぱり新聞の折り込みチラシにしろって話みたいです」

 俺は溜息を呑み込んだ。

 津久井の言い分が本当なら、頭ごなしに責めるわけにはいかない。

 事実、過去の歴史を振り返ってみれば、この程度のドタキャンがなかったわけでもなく、新聞の折り込みを引き合いに断られたケースだって、珍しくはない。

 ましてや先方にだって事情がある。ただタイミングが悪かっただけ、と割り切る以外に納得する手立てはないだろう。しかし――。

「お前それ、いつわかってたのか、正直に言ってみろ」

 俺は睨みを利かせ、今度は意図して語気を強めた。

 何故そうしたかと言えば、俺自身、津久井に対して思うところがあったからだ。

 そして言いよどむ津久井の目を見て、確信する。

「その……先週末には、わかっていました」

 ――だと思ったよ。

 俺はこのうんざり感が存分に伝わるよう、大袈裟な溜息を見せつけた。

 もう、この先は訊かなくてもわかる。

 コイツはあらかじめ、誌面の予算が割れないことを計算していたはずだ。

 その上で、このタイミングまで報告を先延ばしにした。何故か?

 今月の個人目標が割れてしまうからだ。

 それによって、追加の広告取りをさせられることを避けたかったのだろう。津久井らしい、浅はかな計略だ。

 但し実際は、営業部全体の目標が達成されていることからも、残り一週間で、俺が無理な広告を取ってこいと強要することはない。

 あるとしても、次号を見越した上での契約になる。目標割れした分は、次月に上乗せするが営業部の習わし。つまりコイツは、それさえも嫌がったのだ。

 どうせ今月は早い段階で目標を達成していた分、のんびりを決め込んでいたのだろう。コイツのことだ。再びエンジンに火を入れるのが面倒くさかったとかなんとか、その程度の理由のはずだ。

 相変わらずというか、小狡いところに向かっ腹が立つが、俺が本当に腹を立てているのは、そんなことじゃない。

「津久井。俺が今、怒ってる理由がわかるよな」

 すでに俺のスイッチは押されている。

「……はい」

「はいじゃねえだろっ!」

 一喝した瞬間、社内の空気が一変した。

 キーボードを叩く音。平松と花村が交わす声。それら業務上、奏でられていた全ての音が鳴りやんだ。

 と同時に、社内の視線が一斉に注がれているのを感じ取った。それでも俺は、構わず続ける。

「お前よう。このタイミングで二ページも穴を空けといて、そのケツを誰に拭かせるつもりなんだよ」

 津久井をきつく睨みつける。手の中のボールペンが、きしむような音を立てた。

 津久井は言葉が出ないのか、困窮したように視線を泳がせた。

 だけど俺は逃がさない。

 逃げ腰の視線を絡め捕り、なあ、と詰め寄るようにもう一喝、デスクを拳で震わせた。

 完全なる確信犯。津久井に弁解の余地はない。

 一週間前に報告していれば、編集部の負担が軽減されることをわかっていながらも、その上で、秤を自分に向けた甘え。

 俺が許せなかったのは、そこだ。

 コイツの最大の欠点は、他人に負担を掛けさせることを厭わないこと。何よりも、自分を優先してしまう悪癖。他人の気持ちを思いやる心遣い。ワンフォアオール・オールフォアワンの精神が欠けてしまっている。

「わかっててやったんだろ」

 溜めこんだ怒りを絞り出しながら、声に変換する。

 津久井は口元を真一文字にし、表情を震わせるようにして、頷いた。

 申し訳ございません、とひと言、弱弱しい声を洩らした。

 俺の落胆ぶりを感じたのか、隣に座る坂口までが頭を下げていた。

 お前は悪くないだろ、と声を掛けてやりたかったが、俺にそこまでの余裕はない。

 正直、俺の気は全く収まらない。が、こうなってしまったら、くどくどと津久井を責め続けることに意味はない。

 なによりも俺が優先すべきことは、穴の空いた二ページを、何かしらの企画で埋める算段をつけること。津久井を締め上げるのは、二の次だ。

 しかしながら、差し迫った課題は容易ではない。

ページの一/六サイズ程度なら、埋め合わせ用の替え玉はいくつかある。けれど二ページ分の穴埋めなんてものはない。

 二ページ、二ページ、と頭の中で連呼する。

 このタイミングから何ができるか?

 あからさまな『やっつけ企画』ではない質と、内容の充実。さらに求められる可及的迅速な措置とくれば、決して簡単な話ではない。

 津久井は当然強制だとしても、最悪の場合、坂口や石本も巻き添えになってしまうだろう。抱えている 仕事をこなし、その上で、追加の作業が発生するのだから、昨夜に続き、家に帰れないことは覚悟しておいた方がいい。

 とり急ぎ俺は、編集長に謝罪すべく席を立った。

 津久井のおかげで、かなりの被害者意識が芽生えていたが、最大の被害者は他でもない。編集部の面々なのだ。彼らに頭を下げることを忘れてはならない。

 が、歩を向けた俺を、石本の声が引き留める。

「あの、部長。まだあるんですが」

 背後から弾丸を撃ち込まれたような衝撃。

 まさか、と思ったが、まだってなんだよ――と振り返った先で、石本が「スイマセン」と低頭した。第二波が確定した合図。これでいい話を聞けるはずがない。弱り目に祟り目とは、このことだ。

「なんだよ、言ってみろ」

 ほとんど八つ当たり気味に声を荒げてしまったことを後悔し、咄嗟の咳払いで誤魔化す。いくらなんでも、別々に対応してやらなければ、石本だってババを引かされた気分になるはずだ。

「いいぞ。言ってみろよ」

 椅子にどっしりと腰を落ち着け、直立不動に固まっている石本を促がした。

「実は、響モータースの広告なんですが……」

 響モータースといえば、磯子にある自動車整備工場だ。アメ車を中心としたカスタムを手掛けていることでも有名な会社である。

「それがどうした」

「今月分の校了がまだなんです」

 そう告げた石本の表情が硬くなる。

 代わりに俺は、頬杖をつきながら、げんなり感をこれ見よがしにアピールした。本当にいい加減にしてほしい、と首を垂らす。

 間違いなく、石本はこう続けるはずだ。

 明日は日曜日で、響モータースは定休日。

 つまり、今日の段階で済ませるはずの校正確認が、何かしらの理由によって終わらなかった、と。

 案の定、石本を問い質せば、忙しいから後で来てくれよ、と言われたまま、再訪問を忘れてしまったというのだから、非は完全にこちら側にある。

 もちろん、校正の終わっていない広告は掲載することができない。

ではどうするのか。

「会社に電話したのか?」

「それが、ずっと掛けているんですが、誰も出てくれないんです」

「社長の携帯は」

「同じく、出てくれません」

「出てくれませんって、なんだよ。だったら直接行けば良かったろ」

「あの、本当にスイマセン! その。気が付いたのは、さっきなんです」

 もう駄目だ、と俺は怒りに胸を膨らませる。

 我慢がならない。これ以上、神経の摩耗を許さないタイミングで、この話。

 おかげさまで、俺の理性が完全に吹き飛んだ。

「――ったくよう。お前らいい加減にしろよ!」

 先程から、社内中の視線が俺一人に注がれていることはわかっていたが、それでも俺は、平静さを繕うことができなかった。それに、一度こうなってしまえば、体面もへったくれもない。

 席を立った俺は、力いっぱいに椅子を蹴り飛ばした。

 盛大な衝撃音と共に、倒れた椅子がリノリウムの床を横滑りしていく。

 お前ら、本当に馬鹿野郎だなっ――。

 床に向かって唾を吐きつけたくなる思いだった。

 頭を掻きむしれば、ふと眼のあった市倉が、表情を凍りつかせている。

 限界だ。これ以上、この場に居続けたら気が狂ってしまう。とにもかくも、一旦外に出ることで、頭を冷やしてきた方がいい。

 思った俺が部下たちに背を向けると、いつの間に立っていたのか、背後には、俺を見つめる黒木さんの姿があった。


 無言で手招きする黒木さんは別段怒っている風でもなく、普段通りの調子で俺を呼び寄せた。

 けれども俺は確信する。説教部屋行きか、と。

 必然と皆の視線は痛々しいものに変わっていたが、俺は悠然と闊歩していく。いいさ、怒るなら怒れよ、と腹は括っていた。

 が、意外にも俺の予想は外れる。

 椅子に腰かけた黒木さんの第一声が、状況報告を促がすものではなかったからだ。

「どうしたんだよ。お前、随分と情けない顔してるじゃないか」

 一瞬、呆気にとられたが、「そうですか」と声を返してみる。

 そんなに情けない顔をしているのだろうか。自覚はない。思えば、鏡で自分の顔を眺めたのだって、時間をかなり遡る。

「ああ、そうだな。砂漠で命からがら辿り着いたオアシスに、水が一滴もなかったって顔をしてるよ」

 つまりは死にそうだってことか?

「それは酷い顔ですね」俺は他人事のように答えた。

 しかし黒木さんの喩は、あながち外れでもない。やっとのことで探し当てた水を、津久井と石本に横取りされた、と言い換えればしっくりもくる。

「まあ細かな経緯はさておき、お前があれだけ怒鳴り散らすんだから、それなりの理由があったんだろ」

 そうですね、と返した俺は、あらためて事の顛末を報告した。この後の展開が長引くと厄介なので、手短に説明する。

 一部始終を聞き終えた黒木さんは、ふうん、と鼻を鳴らした。

「なあ」

「はい」

「それって、そんなに怒るほどのことか?」

 そんなに、と言われれば、そうです、と言い難くなる。

 押し黙った俺に、黒木さんが続ける。

「確かに津久井と石本はミスをした。どっちもこのタイミングなら痛いわな。だけどよ。津久井の件は別としても、石本の話なんて、ちびっちぇえミスだと思わないか」

 淡々と語る黒木さんのペースに違和感を覚える。

 一昔前であれば、椅子を蹴飛ばして解決する問題なら部長なんて肩書きいらねえんだよ――と、こっちがどやされても仕方のない場面だ。それがこうも諭される展開になろうとは。

 だからかもしれない。「まあ……そうですね」と頷いた俺は、徐々に冷静さを取り戻しつつあった。

 すると俺を見た黒木さんの口元が、僅かにあがった。そして、何かを察したような含みをもたせて、こう言った。

「お前、何か抱えてんだろ」と。

 まさにど真ん中を射抜くような台詞だったが、それが、あてずっぽうでないことは、黒木さんの目からも推測できた。

「なあ、登坂。俺とお前の付き合いは何年になる? 決して浅い付き合いじゃないよな。その間、お前が感情任せになった場面が何度あったよ。それも、その程度のミスで、だぞ。それだけも充分、らしくない、って雰囲気が伝わってくるよ。ましてや、そんな焦燥感丸出しの顔を見せられたら、僕は悩み抱えて生きてます、って盛大にアピールしてるようなもんじゃねえか」

 まるで昨日のデジャブみたいに耳の痛い話だが……流石にお見通しというわけか。

 ただそうはいっても、ここで肯定してしまえば、仕事に私情を挟んでいると自白するようなもの。仕事と無関係のところで神経を疲弊させていたせいで、部下に不必要な怒りを向けてしまったとは、口が裂けても言える話じゃない。

 俺が返答しかねていると、もう一度、黒木さんが笑った。が、今度は、歯を見せた高笑いだ。

「だからお前は『ひよっこ』だっていうんだよ」

 黒木さんが、デスクに置かれたシャアザクを手に取った。通称で『ツノ』と呼ばれているブレードアンテナを、意味ありげに指差している。

 指揮官の証であるツノとひよっこ。

「――あっ」

 思いがけず声が洩れる。

 そこで俺は、そうだったのか、という思いに行き当たった。やられたな、と。

 黒木さんは、指揮官の証を、鶏のとさかに見立てていたのだ。

 それでひよっこ扱いする俺の机には、ツノのない量産型のザクを置いたのだろう。

 俺は吐息まじりに返した。

「そういう意味だったんですね」

 これだからB型は困る。

 おそらくは、B型以外の人間にとって、皆が皆、顔をしかめるような展開に違いない。くだらない、とか、馬鹿馬鹿しい、とかなんとか。

 けれども、この瞬間に飛び交うブーイングさえ、この人の頭では喝采にすり替わってしまうのだから、余計にタチが悪い。

 純度の高すぎるB型。縦横無尽に血管を動き回る赤血球でさえ、Bのかたちを模しているに違いないと思えるほどに、だ。

「まあ、ひよっこはさておき……」

 先を行こうとする黒木さんに視線を捕まえられる。

「お前さ。意地張ってねえで言えよ。何か問題を抱えてんだろ。それも仕事じゃなく、プライベートなんじゃねえのか」

 俺は唾を呑み込んだ。

 本当にこの人の観察眼は鋭い。いや、もしかすると俺がわかりやすいだけなのかもしれないが、どちらにせよ、ここまでくると嘘を吐ける状況ではない。

「……はい」観念したように頷く。

 俺の反応に満足したのか、黒木さんはしてやったりの表情を浮かべる。

「ったく、最近のお前にしては珍しい行動だと思ったが、それでも部下に八つ当たりすんのは穏やかじゃねえわな。といっても、ひよっこ同然のお前に天空海闊さを求めるのは酷ってもんか」

 何やら難しい表現をされたが、言わんとしていることはわかる。

 要は何事にも動じず、どっしり構える器の大きさを持てということなのだろう。

「ほんとですね。未熟者で、申し訳ありません」

 言いながら俺は、敗北感と不甲斐無さに打ちひしがれる。

「で、どうした。梨佳子ちゃんに何かあったのか?」

「えっ」思わず目を丸くする。

 こうなってくるとエスパーも真っ青の展開だが……黒木さん相手に、平凡なやり取りがある方が珍しい。

 俺は正直に答えた。

「そんなところです」

「そうか。なら今日はもういいぞ、あがれ。っていうか、明日も休んでいいから」

「ええっ?」もう一度目を丸くする。

「どうしてですか」

「どうしてって、決まってんだろ。あんな空気になっちまったんだ。ここは俺が出てくしかないだろ。まあ、なんだ。出来の悪い部下のケツを拭くのは誰の役目だって話だよ」

「いや、それは……」

 よもやの展開に眉をひそめる。

「なんだよその面は、オレじゃ役不足だってのか」

「とんでもない。充分過ぎて、おつりがきます。だけどそれ、本気で言ってます?」

「当たり前だろ。お前には、これが演技にでも見えるのか」

「見えません」

「ならいいじゃねえか」

 ……良くはない。

「それに、あれだろ」

「あれ、とは?」

「仮面ライダーは、二人で一人って言うじゃねえか」

 それが決め台詞だったのか、どや顔を見せつけた黒木さんは揚々と部屋を出ていってしまう。取り残された俺はしばし呆然とするも、扉が閉まる寸前をすり抜けるように、後を追いかけた。


「よし、皆。一旦手を休めて聞いてくれ」

 黒木さんの声が轟くと、全社員の視線が集まった。

「今さっき、営業でちっぽけなイレギュラーがあったみたいだが、気にするなよ。急ぎでページを埋める作業もあるみたいだが、ここから先の指揮は俺がとるからな」

 説明するまでもなく、全員が唖然としてる。

 俺の立ち位置からは、大半の人間が、間抜けに口を半開きにしている様子が窺えた。だがそれは、俺にしたって同じこと。まだ頭の整理がついていない。というか、今更ながらに、仮面ライダー見てたのかよ、とツッコミたくなる。

「……で、登坂なんだが。別件で動いてもらうことにする。俺個人の野暮用で申し訳ないんだが、快く受けてくれてな。急で悪いが、今日と明日は、通常業務から外れてもらうことになった」

 矢継ぎ早に告げられていく決定事項。俺は耳を疑った。誰が快諾したって?

が、これぞ黒木節。見切り発車もいい加減にしてほしいくらいの善後策を平然と口にするのは、この人にしかできない芸当だ。

 社内のどよめきだって、黒木さんにしてみればエネルギーになりかねない。

 当然部下たちを見渡せば、誰もが不可解さを滲ませていたが、唯一、石本だけが、眼を爛々と輝かせているのが見て取れた。

「おお、そうだ。登坂、手帳寄越せよ」

 唐突な物言いに眉根を寄せる。

「手帳……って、どうしてですか」

「どうしてって、そんなの当たり前だろ。代役なんだから、お前のスケジュールを把握しなくて、何ができるっていうんだよ。それともなにか、俺に見られて困るようなことが書いてあんのか?」 

そういって笑う黒木さんは、明らかにこのシチュエーションを楽しんでいる。

「まさか! 仕事用の手帳ですから、見られて困るようなことはひとつもありませんよ」

 ないよ。ない……はずだ。

「だけど、大丈夫ですよ。せめて明日までは」

 まだ納得のいかない俺は、管理者として最後の主張を試みる。

 当然、こんな押し問答を見せてしまえば、先程の黒木さんの説明が嘘であると白状してるようなものだが、どうせ石本以外の人間は、事の真相くらい気付いているだろう。

「お前なあ。そういうのを往生際が悪いって言うんだぞ」

「いや、でも」

「でももへったくれもねえ。決定事項なんだよ」

 それでも、と俺が言い返そうとした瞬間。

「――部長っ!」

 矢を射るような鋭い声が、二人の間に割って入った。

 反射的に振り返った社内中の視線が、一点に注がれている。

 当惑と吃驚のコラボレーション。

 声の大きさにも驚かされたが、それ以上に、まさかの人物の介入が、一同の目を丸くさせていた。

 声の主は、佐伯彰子だったのだ。

「そんなに慌てて、いったい何を心配されてるんですか?」

 そう続けた彼女の声は、珍しく弾んでいた。

 どうやら黒木さんの登場に眼を輝かせているのは、石本だけではないらしい。あのメトロノームを刻むような冷静さに、あきらかな変調が見て取れる。佐伯が続けた。

「何も問題ありませんよ。黒木さんなら、どんなに面倒な仕事だって、タイガーインパクトでワン・ツー・スリーですから。部長は安心して業務から外れてください」

 艶然と締め括った佐伯に向かい、俺は手と足が出た。

 ――佐伯ちゃん、それ、禁句だよ! 

 と、度肝を抜かれた男が、もう一人。編集長の伊原さんだ。顏を見合わせた俺たちは、揃って口を開けていた。

 それでも幸いに、他の連中は、発言の意味に辿り着くことができなかったようだ。いや、違う。実際は発言の内容云々よりも、あの佐伯が、嬉々とした表情で微笑んでいることに、一同が皆、心を奪われていた。

 タイガーなんちゃらなんて、どこ吹く風。疑惑の「ぎ」の字さえ、魅惑の笑顔に吹き飛んでしまったらしい。

 とはいえ、相変わらず黒木さんのメンタルは逞しい。

 今も素知らぬ顔で「ほら登坂、早く手帳寄越せよ」なんて続ける様は、アカデミー級の演技に勝るとも劣らない。佐伯のあれを、無かったことにできるのだから。

 まあ、あえて教えるほどのことではない、と黒木さんが口にする通り、本人に隠しているつもりはないのだろう。

 が、ここまでくると、これはこれで立派な隠し事として成立してしまっている。悪くいえば、俺と編集長は共犯者になるし、それは佐伯にしても同じこと。

 だが、このタイミングで佐伯が鉄の仮面を脱ぎ捨ててしまったことは、彼女の心境を慮れば致し方ないことなのかもしれない。

 ここ数年、現場に降りてくることのなかった黒木さんが復帰するのだ。彼女が心躍らせるのも無理はない。紙テープが舞わなかっただけ、良しとしておこう。

 しかし、こうなってくると、俺が意固地にプライドを守るのは、話をややこしくする一方になる。少なくとも、佐伯と石本は、黒木さんのセコンドについてしまっているのだから。

 本当に情けなく、不本意極まりないが、ここはもう黒木さんの提案に甘える以外、道はない。

 観念した俺は、手帳から明日の予定を書き写し、黒木さんに託した。ひと通りの引継ぎを終えた俺は、何かあればすぐに連絡ください、と言い添え、「宜しくお願いします」と低頭した。

 その後、編集長と簡単に打ち合わせを済ませた俺は、部内の人間に、先程の詫びと黒木さんの扱い方を厳重注意した上で、会社を後にした。去り際に、津久井と石本が後を追ってきたが、右手を突きだして、止める。

「反省はそこまでにしておけよ。やることは決まってんだから、切り替えてリベンジしてこい」

 悔しいが、こんな台詞を口にできるのも、全部、黒木さんのおかげだな――。


 思いがけないかたちで時間を手にした俺は、愛車に跨ると、関内に向けてペダルを踏み込んだ。急げば数分の距離である。

 家路を急ぎたい気持ちはやまやまだったが、その前に俺は、どうしても確認しておきたいことがあったのだ。

 関内の駅をくぐり抜け、馬車道から道一本、横浜スタジアム側に跨いだ通り沿いにあるビルの前で、足を止めた。通りに面した植え込みに自転車を立て掛ける。急いで施錠すると、階段を一気に三階まで駆け上がった。

 目的の場所は『ジュエル』という名のキャバクラだ。

 まだ二十時の開店には十分ほど早いせいか、看板に灯りは点されていない。それでも俺は、迷うことなく店の中に入っていった。

 ダウンライトに照らされた店内を見回し、ふとした懐かしさを覚える。一年以上は訪れてなかっただろうか。

「わっ、誰かと思ったら、登坂さんじゃないですか」

 奥から駆け寄ってきたのは、この店の責任者である成田君だ。

 お久しぶりです。と、うやうやしく低頭する姿勢は、以前となんら変わっていない。

「こちらこそ、久しぶりなのに開店前にゴメンね。突然で悪いんだけど、一時間でいいから翼ちゃんつけてくれるかな。できれば奥のボックスで」

 俺は早口に要件を伝える。と、そこで気が付いた。

 ここまで何の疑いもなくやってきたものの、よくよく考えてみれば、千尋ちゃんが出勤しているとは限らない。土曜日だから、まずいてくれるだろうとは思うが。

「はい、大丈夫ですけど……指名でいいですか?」

 大丈夫と返され、胸を撫で下ろす。けれども彼が恐縮気味に伺いを立てたことに、はっとする。

俺は「もちろん」と声を返すも、気遣いのなさを反省した。

 土曜日の書き入れ時に、開店前から店の看板娘を呼び出すのだ。

 指名くらいしなかったら申し訳ない。

「無理言って悪いね」

 両手を合わせた俺は、案内はいいから、と彼を制して、奥のボックス席に腰を下ろした。

 その後、千尋ちゃんはすぐにやってきた。

「えー、ちょっと珍しい人がいるんですけどぉ」

 まだ店内に客がいないこともあってか、遠目にもかかわらず、遠慮のない、素のリアクションでのご登場。

 俺は右手を上げて、よっ、と挨拶をした。

 真紅に染められたシルク地の肩出しドレスに気合十分なメイク。

 この姿の彼女を見るのはひさかたぶりだったが、相変わらず、今宵の臨戦態勢は万全といった様子だ。

「でもほんと、急にどうしたの? 篤斗くんが一人で来るなんて有り得ないでしょ。まさか、今頃になって私の魅力に気付いちゃったとか?」

 向かいの席に座った彼女が、上目遣いに顔をぐっと近づける。

 幼さの残る、茶目っ気たっぷりな台詞が似合うのは、彼女の魅力だろう。それでいて、客相に合せた対応もしっかりこなすのだから、人気があるのも頷ける。

 これはオフレコで、彼女もまだ知らされていないはずだが、この店に黒木さんが足繁く通い続けているのは、単に彼女を気に入っていることだけが理由ではない。近い将来、うちの会社で新ジャンルの飲食店をオープンさせる構想に、店長待遇で引き抜こうという目論見があるのだ。

 但し、彼女には家族で暮らす為のマンションを購入するまで、この店で働き続けるという目標があるようで、だから黒木さんは、それとなく見守るように、機が熟すのを待っている。

 事実、彼女に黒木さんの眼鏡に適うだけの魅力が備わっていることは疑いなく、俺もなんら異論はない。こと接客業に関しては、前途有為の人材であり、彼女の個性は間違いなく、買いだ。

「残念だけど、今日は千尋ちゃんの魅力に酔いしれにきたわけじゃないんだ。ちょっと、訊きたいことがあってね」

「訊きたいこと?」鸚鵡返しに言った彼女の表情が、微かに曇る。

「うん。梨佳子のことで」

「リカのこと」

 そこで一旦話を切った俺は、やってきたボーイに烏龍茶をオーダーし、彼女にはビールを勧めた。

 本来であれば、リカがどうしたの、なんて興味に眼を輝かせる彼女が、口を閉ざしている。先程の表情といい、思い当たる節があるのだろう。俺は自分の感が正しかったことを確信する。

「あまり時間もないから率直に訊くけど、ここ最近で、梨佳子から何かの相談を受けたことはないかな」

「相談?」

「そう。宇津木のこととか」

 瞬間、彼女の瞳が揺れ動く。マスカラで飾られた睫毛が、小刻みに上下した。

「あったんだね」逃さず駄目を押した俺に、彼女がこくりと頷いた。

 やっぱりか、と息を洩らす。

 一連の騒動や梨佳子の発言については判然としないことばかりだが、俺だけが知らされていない事実があるのではないかとも睨んでいた。

 だから俺は、梨佳子が相談を持ちかける上で、最も適任と思われる『俺以外の誰か』の元にやってきたのだ。

「でも、相談があったっていうか、宇津木くんの話を少しした程度なんだけど……」

 彼女にすれば、言い難い話題に触れられたのかもしれない。眉を寄せ、渋い表情を覗かせている。篤斗くん、もしかして、リカから何も聞かされてないの? と額に書いてあるようだ。

「宇津木の話って、どんな?」

 構わず俺が踏み込むと、ストレートな投げかけを嫌うように、彼女が目を伏せた。何かを躊躇っている、そんな表情にも見える。

 そこへ、お客を呼び込む声が割って入った。

 声の方向に眼を向ければ、開店時間を過ぎていたのか、店の入り口にスーツ姿の男が三人、立っていた。なかの一人が、三人コミコミの一万円でなんとかしてよ――と揉み手で交渉している。

 千尋ちゃんは、応対する成田君の姿を一瞥すると、間を見計らったように顔を寄せ、早口に囁いた。

「宇津木くん、死んだんだよ」と。

「――えっ!」

 抜け出た声の大きさに、驚いた彼女は「しっ」と唇の前で指を立てた。

 だが驚いたのは俺も同じだった。まさか宇津木が死んでいたとは、思いもよらぬ知らせである。

 さらには梨佳子が、この話を一週間以上も前に知っていたという事実まで告げられ、俺の思考は、軽いパニックに陥っていた。

 ここまで描いてきたいくつかの筋書きが、まるで意味を持たなかったように白紙に戻される。

 ちょっと待ってくれ、それなら梨佳子はどうしてあんなことを?

 自問した俺は、しばしの間、茫然としていた。

 行き場なく、思い出したように喉の渇きを覚えると、汗をかいたグラスに手を伸ばした。控えめな乾杯を済ませ、俺が喉を鳴らすのを待ってから、千尋ちゃんがビールを口にする。

 溜めこんだ息を充分に吐き出してから、ようやく俺は、訊ねることができた。

「それ、本当なの?」

 彼女が頷く。

「本当みたい」

「でも死んだって……どうして」

 本来であれば、宇津木が死んだという便りは、俺にとって朗報のはずだ。無論、大手を振ってというわけにはいかないが、心の内で、拳を握るくらいは構わないと思っている。

 けれども、今の俺は、芥子粒ほどの喜びを得ることさえできなかった。緩く奥歯を擦り合せながら、悶々と積み上げられていく難題に顔を歪めることしかできずにいる。

 何がどう繋がっているのか。思考を巡らせてみるが、宇津木の死と梨佳子の発言を結びつけるものは見当たらない。

 答えを求めるように目を向けると、彼女が重い口を開いた。

「それを話せば長くなるんだけど……」

 ここでの話は、リカに内緒にしといてね。

 そう念を押した後で、彼女が過去、梨佳子から聞かされた事実の軌跡を踏むように話し始めた。

 彼女が語った内容は、梨佳子が俺に打ち明けた話と遜色ないものだった。

 千尋ちゃんが説明してくれた通り、宇津木は、自分が勤めていた店の従業員分の給料を持ち逃げしたと聞いている。以来、宇津木がこの街に姿を現したという話を耳にしたことはない。

 ふと俺は、当時のことを思い出した。

 梨佳子をかくまっていたあの時期は、アパートの契約期間が切れるまでの間、俺自身が、入念に人の出入りをチェックしていた。

 もし誰かが足を踏み入れれば、玄関の三和土に撒いた小麦粉に足跡が付く仕掛けを施しながら、それを出社前と仕事終わりに一度ずつ、毎日確認していた。

 だが、二ヶ月近くの時間が経過しても、契約が切れる最後の日まで、あの家に人間が立ち入った痕跡は見つからなかった。

 それが全てというわけではないが、俺は宇津木が戻ってくる可能性は、限りなくゼロに等しいと踏んでいた。人様の、ましてやあのブルーローズから大金を持ち逃げしたのだ。容易く帰ってくるには、背負った十字架があまりに重すぎるだろう、と。

 それ故に、無難な歳月の経過が、俺から警戒心を奪っていった。

 半年が過ぎ、一年が過ぎ、遥希が生まれてからは、宇津木の存在さえ、ほとんど思い出すことはなかったと記憶している。

「宇津木くんが働いていたお店が、青薔薇系列だったのは聞いてる?」

 先を続ける彼女が声のトーンを落とした。

 俺は黙ったまま相槌を合わせる。

 彼女が口にした青薔薇とは、ブルーローズの異名だ。業界で働く多くの人間は、裏でそう呼んでいた。

 千尋ちゃんが周囲に目配りする。時間の経過と共に、店内は土曜日らしい賑わいを模様してきたが、成田君が気を遣ってくれているのか、近くの席に客の姿はない。

「そこの幹部に殺されたんだろうって話」

 一息に言いきった彼女が、口元を引き結ぶ。

 噂話を口にしたというよりも、重厚な現実味を乗せた口調だった。

 艶っぽい彼女の唇を抜けるには、不釣り合いな内容である。

 俺は沈黙の中、彼女の言葉を反芻する。

 物騒極まりない話だが、あのブルーローズが相手なら、それも頷ける。有り得なくはないだろうと思った。

 ただここまでの話が本当なら、なんにせよ、梨佳子の不安は解消されたことになる。いつまたこの街に宇津木が舞い戻ってくるかもしれぬ脅威に怯えていたのは、他ならぬ梨佳子なのだから。

 そういった意味合いに於いては、ここで永年の不安要素を潰せることは、朗報といっていいはずだった。

「それって、確実な話かな」

 そう。後は確信を得ることが大事だ。千尋ちゃんを信用してないわけではないが、話が話だけに、裏取りは慎重過ぎて損はない。安易に死んだと信じた挙句、万が一、生きた宇津木にでも遭遇すれば、ショックは倍返しでは済まされないだろう。

「たぶん、殺ったのは、青薔薇の古館って人だと思う」

言われた俺は、古館という名に思い当たる。どこかで聞き覚えのある名前であったが、すぐには思い出せなかった。

「その話、情報源は誰?」

「マネージャー……だけど」彼女が目配せするように答えた。

 と、そこで彼女の表情が何かに行き当たる。

「まさか篤斗くんっ。古館に会いに行くなんて言わないよね」

「そのまさかだよ」答えた俺は、返す刀で成田君を呼びこむと、耳元で事情を説明し、連絡を取ってくれるよう頼み込んだ。

 一瞬、成田君は困った表情を覗かせていたが、「登坂さんの頼みなら仕方ないですね」と半ば諦めたように受諾してくれた。

 ちょっと待っててくださいね。言い置いた彼が、バックヤードに消えていく。数分の後、戻ってきた彼がこう言った。

「今、福富町のゴールドルージュにいるそうです。二十二時までは店にいるそうなんで、『来たかったらこい』と言ってました」

 ああ、ゴールドルージュ……ね。

「わかったよ。ありがとう」

 彼に礼を述べてから席を立つ。

 しかし、ここでもゴールドルージュとは、奇妙な縁に不吉な胸騒ぎを覚えなくもない。

 それにしても、来たかったらこい、とは挑戦的と取るべきか、それとも、取るに足りない来訪を迎える余裕と捉えるべきか。

 俺はまだ見ぬ古館に、想像を膨らませる。

 どちらにせよ、先日のようなトラブルに発展する要素はひとつもない。俺の出方にもよるが、そこはどうにかなるだろう。

「成田君。色々とありがとね」

 キャッシャーで一万円札を差し出すと、残りは取っておいてよ、と言い添えて、店を後にした。

「どうせ止めても無駄なんでしょ」

 エレベーターホールまで見送りにきた千尋ちゃんが、口を尖らせる。うん、と頷くと、彼女が心配そうな眼差しで言った。

「ねぇ篤斗くん。本当に気を付けてよ。これで何かあったら、リカに会わす顏なくなっちゃうからね」

「大丈夫だって。心配しなくていいよ」

 精一杯に表情を繕った俺は、そこで彼女に別れを告げた。


 福富町までの道すがら、夜風に頭を冷やしながら、梨佳子が口にした謎かけについて思いを巡らせていた。

 つい先刻までの俺は、梨佳子がなんらかのノイローゼを患っている可能性に目を向けていた。じゃなければ、遥希を指して宇津木だなんて突飛な発言を、真顔で訴えるはずがない。

 おそらくは、遥希の話し方やふとした仕草に、宇津木の影を重ねてしまうような出来事があったのだろう。最近は、遥希の喋りが達者になってきた分、言葉尻が似てしまうような偶然だってあるはずだ。そうした偶発的な出来事が、辛かった過去を彷彿させ、梨佳子の脳裏から、忌々しい記憶を呼び起こしてしまったのではないかと推測していた。

 さらにはそれが、あらぬ強迫観念として膨れ上がり、遥希に手をあげるような事態に達してしまったのではないか、と。

 それもここ数日の言動を顧みれば、かなり重篤な状態に陥っていたことは間違いない。遥希と宇津木を錯覚させるほどに、である。

 そこに俺は、宇津木がこの街に戻っている可能性を足していた。

 俺の知らぬ間に接触があり、梨佳子が宇津木から酷い脅しにあっているのではないかという構図だ。

 それが拍車を掛けて、梨佳子の精神を狂わせている筋書きを思い浮かべていたのだが……。

 やはり腑に落ちないのは、梨佳子が一週間以上も前に、宇津木の死を知っていたという事実である。

 それを知って尚、宇津木の陰に怯え続けるようなことがあるだろうか。ノイローゼを解消させるに充分な話が、福音になりえなかったとは、信じ難い。

 死してなお、宇津木の姿を投影させてしまうほどに、傷が深いというのだろうか。

 だがそれもこれも、全ては憶測の域でしかない。

 まずは目先の問題である宇津木の死を確定させ、少しでも梨佳子を安堵させてやりたいと思った。その上で、妻が抱える闇を少しずつ緩和させられるように協力するのが、夫としての責務であると、自らに言い聞かせる。

 十六号線を長者町の交差点から右折した俺は、週末に活気づく街並みを眺めつつ、福富町へと侵入した。

 ビルの前に到着すると、先日、ゴールドルージュの受付で応対してくれたボーイが、客引きをしている最中だった。

 ああそうか、と俺は、先代のなんとか君がクビになったことを思い出した。仮にあれが降格扱いならば、彼は思わぬ巻き添えを食ったかたちになるはずだ。

 不憫な話だな。横目に彼を憐れみながら俺は、ビル脇の電柱にしっかりと愛車を括りつけた。

 あらためてビルの前に立つと、先日とは異なる気構えのはずが、思いのほか、緊張している自分に気が付いた。蛇の道は蛇に違いないが、それでも随分と大胆な行動であることに間違はない。

「いらっしゃいませ」

 店に入った俺を出迎えたのは、先日の男。吉井であった。

 よもや、が漂う微妙な空気間の中、互いの視線が交錯する。

「こんばんは」俺が儀礼的に挨拶を先行させると、吉井が予想外の対応を見せた。

「本日はどうされたんですか」

 それは一切の敵意を感じさせない、クリアな声だった。

 あの一件がこうも影響するのかと、別人のような変貌ぶりを前に、目を疑わずにはいられない。流石はハマモト効果である。

「古館さんに会いに来ました。先程、成田という者から電話があった件、とお伝えいただけますか」

 丁寧に用件を伝えると、吉井が奥のVIPルームに案内してくれた。ある程度の予想はついていたが、ごたぶんにもれず、吉井が右側のドアに手を掛ける。あの時とは逆の、おそらくは非営業用。

「登坂さんをお連れしました」

 吉井の後に続く、おう、という野太い声。

 部屋に足を踏み入れると、黒木さん級のガタイをした男がひとり、ソファに腰を下ろしていた。

 鮮やかな金髪もさることながら、額に浮かぶ切り傷の痕に、目を奪われる。一瞬、同志社大学の礎を築いた新島襄の姿を彷彿させたが、こちらは転んでできたような、生半可な傷ではないはずだ。

ましてや勲章さながらに傷痕をアピールするようなオールバックは、否が応でも好戦的なイメージを植え付けられてしまう。

 人を第一印象だけで判断するなら、百人が百人、この男を暴力団関係者だと疑わないだろう。まさに絵に書くような悪人面らである。

 だから思った。この古館が、噂に聞いていたブルーローズのダークサイドを一手に任されている男に違いない、と。

「突然お邪魔してすいません」

 視線が合うのを待ってから一礼する。

「まあ座りなよ」

「あっ、はい。失礼します」

 緊張が伝わらぬよう、できる限りの平常心を意識させ、対面する位置に腰を落ち着けた。

「君は、酒、飲むのかい?」

 不意の投げかけに戸惑うも「いえ、お茶をください」と答える。

 このお茶がいくらに化けるのか、とも思ったが仕方ない。押しかけたのはこっちだ。断るわけにもいかないだろう。

 吉井が部屋を出たところで俺は、本題を切り出した。

「早速ですが、古館さんにお話がありました」

「聞いてるよ。宇津木の件だろ」

「はい、そうです」成田君の協力あって、話が早い。

 が、声を受けながら思う。どうしてこの手の人間は皆、ドスの利いた声を発するのだろうか。少しは甲高い声で期待を裏切ってもいいだろうに。

 それでも見た目の難点だけを取り除けば、やりとり自体は、柔和な印象をもってもいいくらい、穏やかな船出だった。

「初対面でこんな話もなんですが、実は、人づてに宇津木が死んだという話を耳にしまして。それが本当なのか、お聞きしたかったんです」

 しれっと口にしてみたものの、間違いなく、初対面の人間にする話題ではない。それも、ともすれば宇津木殺害の首謀者を相手に、面と向かって訊くのだから、我ながら相当なチャレンジャーだと思う。

 古館は黙っていたが、その双眸は真っ直ぐに俺の目を捉えていた。

 品定めするような、だけど威圧してくるような、どちらとも取れる視線に、身動きを封じられる。タイミング良く吉井が現れたからいいもの、下手をすれば窒息しかねない状況だった。

 再び密閉された空間に、古館の声が、低く鳴り響く。

「君は、俺がどういった類の人間かわかるかい?」

 その声を境に、これまでの雰囲気が一変した。

 向けられた口調は依然穏やかなものだったが、古館が纏った空気、眼力の強さ、場の張り詰めた緊迫感が倍増した。

「おおよそは、理解しています」

 居住まいを正した俺は、思ったままを口にする。

「なら、わかってると思うが、その情報を俺の口から引き出すってことは、それ相応のリスクを背負うことになる。それでもいいのか?」

 はい、と間を空けずに答えると、古館が「いい覚悟だな」と言って歯を見せた。

「宇津木は、死んだよ」

 古館は表情を変えることなく、言った。

 その声に唾を飲む。それでも俺は、臆せず訊き返した。

「どこで死んだのでしょうか」

「それを知ってどうしようってんだ」

 古館の言う通り、確かにそこまでは必要ないかもしれない、だけど――。

「漠然と死んだではなく、確証が欲しいんです」

「知らない方がいい。そう言ってもか?」

 迷うことなく頷いた。それを訊かなければ意味がない。

 だが俺は、すぐに後悔することになる。宇津木の死に関する全貌と、この男の本質を知ってしまったが故に……。


「宇津木が死んだのは、十月四日。場所は横浜市旭区――」

 古館が話し始めてすぐ、俺は声を失った。

 十月四日とは、紛れもない、遥希の誕生日である。

 そして今しがた古館が口にした住所は、あろうことか、俺たちが暮らしているマンションの辺りを指していた。

「あの日。宇津木は車の中で君の姿を見ていたよ。たしか十九時を過ぎたあたりだったな、君が帰ってきたのは。あの時、君が玄関に消えていく姿を宇津木は見ていたんだ。俺と一緒にな。だから俺も、君を見るのは今日が初めてじゃない」

 見ていた。あの場所にいたというのか。

 いやそれよりも、あの場所で殺したというのか。

「君を見た時の宇津木は、いい面してたぞ。死んだのは、その後さ」

「どうしてそんなことを」

 古館は俺の質問に答えなかった。

「宇津木を殺すのは簡単な話だった。あの時、奴が持ち逃げした金は代わりの人間が弁済していたからな。つまり奴を捕まえた時点で、生かしておく価値はなかったってことだ。だけど面白いことに、奴は昔の女を求めて戻ってきたっていうじゃねえか。まさに俺が思った通りの展開になったわけだ」

 それは何時の話だと訊きたかったが、古館が先を続ける。

「初めに宇津木を捕まえたのは、うちの若い衆だ。ほら、さっき君を案内した男がいるだろ。元はと言えば、あいつが撒いた種だからな。あいつが躍起になって探し続けてた。まあ、何があっても絶対に捕まえろ、とは言っていたがな」

 自らの犯した失態。背負った業。必死の形相で宇津木を追う吉井。

 すると頭の中で、いくつかの場面が紐付られた。

 桜木町で車に乗っていた男が携帯に向かって激昂する姿。遥希の誕生日の日。マンションの前に止まっていた黒塗りのベンツ。

 はっとした俺は息を吸い込んだ。

 繋がってる?

 これらは全て繋がっていたのかもしれない。

 宇津木というキーワードによって――。

「だから俺は、宇津木が最も精神的なダメージを負うようにしてやりたかった。肉体的な痛みなんて、限度があってつまらんからな」

 そう言った古館が笑う。

「ほら、ゴール目前に力尽きてしまうパターンがあるだろ。無念に顔を歪ませる。あれと似てるかもな。てめえが利用していた女の味が忘れられず、高いリスクを冒してまで戻ってきた。それが、寸前で張られていた網に引っ掛かる。絶望に泣き腫らし、必死に命乞いをしている最中に垣間見たのは、自分を救うと信じていた女と結婚した旦那の姿だったわけだ。そんな絶望感を存分に味あわせた上で、奴を始末した」

 古館は、始終他人事のように淡々とした口調を維持していた。

 この手の話にありがちな高揚感もなければ、自己陶酔もない。

 それでも、とてもじゃないが、口にした内容は、まともな人間の趣味とは思えない。俺は今更に、この場所がブルーローズの最深部であることを思い知った。と同時に、人の命を虫けらのように扱うこの男に対し、言い知れぬ恐怖を覚えていた。

「最後はどんな手段を使ったのかも、知りたいかい?」

 いいえ、と首を振る。

 もう充分だ。聞きたくもない。

 これがブルーローズ。これが古館という男の本性だろう。


 ゴールドルージュを後にしてからも、しばらくは古館の野太い声が頭に沁みついていた。

「――ところで。聞けば君のところの親方と、うちの会長が顔馴染みらしいな。それは運が良かったと思えよ。じゃなかったら、俺はそのお茶にだって伝票をつけなくちゃならない。わかるだろ? まあ宇津木の件に関しては終わったことだし、俺にしてみたら、どうでもいい話だ。それに、君らにしても悪い話じゃなかったはずだろ。厄介者が消えてくれたんだからな。それを感謝しろとは言わないが、代わりにこの件は、今後一切口にしないほうがいい。俺も過ぎた話を蒸し返されるのは、好きなタチじゃないんでな」

 言い終えた後の射抜くような眼光が、全てを締め括っていた。

 婉曲な言い回しだが、その実、あれは制約だ。

 黒木さんとハマモト。互いの親の顔に泥を塗るような真似をするなとの、警告でもある。真実がどれだけ非合法なものだとしても、悪戯にそれを口外してはならない。わかってるな――と。

 予想はしていたが、相応のリスクを背負わされたかたちになった。

 ったく、墓場まで持って行けってことかよ。

 呟くと、俺はポケットの中からボイスレコーダーを取り出し、今しがたまで録音されていた内容を、消去した。

 俺の気付かない場所で、様々な事実が重なっていたことに驚きを隠せなかったが、かといって、立ち止まっている暇はない。

 気を取り直して、前に進むしかないのだ。

 事態の全てを把握するには、まだいくつかのピースが不足しているが、とにもかくも、宇津木の死が確定したことで、目先の問題がひとつ解消されたことになる。

 この後は銀に忠告された通り、膝を突き合わして、じっくり梨佳子の本音に耳を傾ければいい。

 幸いにして、時間はたっぷりとある。俺が帰宅する頃には、遥希も寝付いているだろうから、その後で、梨佳子の話しを聞いてやればいい。まずは帰宅することだけでも伝えよう。

 未だ梨佳子が電話に出ない可能性も考えたが、これも習慣だからと携帯を手に取った。

 一つ、二つ、と呼び出し音を数えていると、意外にも四回目の呼び出しで、電話が繋がった。

「もしもし、俺だけど」平坦な口調で投げかける。

 頭ごなしに、これまでのことを詰問するつもりはない。まずは電話が繋がったことに、安堵する。

『……ああ、篤斗。どうしたの』

「どうしたのっ……て」俺は電話口の声に、違和感を覚えた。

『……大丈夫だから』

 卒然と落ちた声に、眉をひそめる。大丈夫とは、何だ?

 遥希のことを言っているのだろうか。

『もう大丈夫だから。篤斗は何も心配しなくていいよ』

 やはり様子がおかしい。梨佳子の声には、一切の温度を感じられなかった。

「おい、ちょっと梨佳子っ――」

 叫ぶと同時に、通話は切られていた。

 何があったのだろうか。リダイヤルを試みるが、電話は繋がらない。目の裏側では警戒音がけたたましさを増していく。

 動揺と後悔。それらが入りまじって混濁する。

 唇を噛んだ。こんなことなら、真っ先に家を目指すべきだった。完全なる判断ミス。予期せぬイレギュラーが舞い込んだせいで、風向きが変わったとばかり思っていた。

でも違った。そもそもの話、俺が立っていた場所は崖っぷちだったのだから、詮索にかまけている場合ではなかったのだ。

 畜生。頭の中には、このタイミングを見計らったかのように、過去幾多のニュースで俺の心を震わせた、痛ましい事故や事件の数々が、早巻のスライドショーさながらに流れていく。

 違う、と声を吐き出していた。頭を振り乱し、過った不安の種を強引にすり潰す。

 そして一瞬の躊躇の末、俺は自転車に跨った。

 前傾姿勢をとり、ペダルを踏み込む。

 急げ、急げよ、と頭の中で連呼し続けながら、車道の合間を縫うように、繁華街を疾走していく。

 路上に停車している客待ちのタクシーを脇目に、ペダルを漕ぐ力に全力を注ぎ込む。

 家までの道程を考えれば、タクシーを選択する手段もあった。街中の混雑ぶりを加味すれば微妙なところだが、順当に進んでしまえば、タクシーの方が楽に、早く着くことができる。

 だけど駄目だ。

 とてもじゃないが、今の俺は、じっとしていることなんてできなかった。沸き立つ不安、溢れ出る感情を抑えきることができない。

 タクシーの中で悶々と景色を眺めるくらいなら、自分の力で突き進んだ方がマシ。それに、八王子街道まで抜け出る順路さえ誤らなければ、車より早く帰宅することだってできるはずだ。決して無理な選択じゃない。

 大丈夫。ここからなら、仁王坂だって回避できる。

 繁華街から信号の少ない裏道へ抜け出た俺は、そこで一気にペースを上げた。

 左右の足がペダルを踏み込むリズムに、呼吸を乗せていく。

 信号機の赤で体力を蓄え、青になったら猛然とペダルを回転させる。次の赤までに全てを出しきっては、また補給し、ダッシュを繰り返す。ペース配分もへったくれもない、自棄的なスプリント走法に鞭を打った。

 行け、行けよ、と脳から送られるゴーサインに全神経を集中させた。リスクは承知の上。一歩間違えれば事故を起こしかねない限界まで、スピードを上げていく。呼吸がどれだけ荒くなろうとも、大腿筋がどれほど悲鳴を上げようとも、ペダルを漕ぐ力を緩めるわけにはいかなかった。

 右足を踏み出せば不安を覚え、けれども、その不安を左足に込めた力で打ち消す。高速回転する足の動きが、渦巻く思考を綯い交ぜにする。

 だけど、急げ、だから、急げよ。

 一分、一秒でも早くと、声をあげ続けた。

 そして、八王子街道からマンションへと繋がる角を曲がった時。

 俺はもう、ありったけの力を出し尽くしていた。

 体力の限界はとうに超え、グリップを握る感覚でさえ、わからなくなっていた。

 それでも余す限りの気力を振り絞る。念じ続ける。

 少しでも早く、早く、早く、と。

 最後は後輪を滑らせるように駐輪場に飛び込むと、手すりを鷲掴みにしながら、ぜいぜいと階段を駆け上がった。

 誰でもいい。

 悪い予感は……。

 当たらないと、言ってくれ――。

 

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