【篤斗】

 大船駅の構内は、これから訪れる帰宅ラッシュを前に、どこからともなく集まった人の群れが、幾筋もの流れを作り出していた。

 時刻は十六時五十一分。次に横浜方面へ向かう電車が来るまでには、五分少々ある。俺はホームのベンチに座り、ビール以外では滅多に口にすることのない炭酸飲料を、ゴクリと流し込んだ。

 ふうっと一息ついてから、手の中の缶を眺める。

 冷たく痺れるような喉越しが、気分を爽やかにしてくれると願ってのことだったが、思うような爽快さとは程遠い。缶を自分の足元に置き、見下ろしながら、たぶん二口目はないだろうと後悔していた。

 ならばと気持ちを切り替えるべく、鞄の中へ手を伸ばす。中からシステム手帳を取り出した。

 今日の行動予定が書き記された頁を見開き、上から下へ視線を流していく。ざっくり目を通したところで、溜息がこぼれた。

 どうにかこうにか、ここまでの予定は消化することができた。いや、できたはずだ。それでも俺は、どこか不安を拭えないでいる。

 全く、自分らしくない仕事っぷりだと思う。今日一日、俺は朝からずっと精彩を欠いたままだった。仕事に身が入ってない、とは、今日の俺にぴったりな言葉だろう。

 集中力の欠片もない。重症であると容易に自己診断できるほど、別事に心を奪われていた。この瞬間にしてもそう。いい加減、気持ちを切り替えなければならないことはわかっている。今がどんな時期で、何が大切なのか。これから俺は、何をするべきなのか。わかっている。全部わかっている。

けれど仕事に集中しろ、優先順位を忘れるな。そう言い聞かせれば聞かせるほどに、頭の中は、昨晩の出来事で埋め尽くされた。

 まただ、と目の前の現実から逃れたくなる衝動に苛立ちが膨れ上がった。俺は乱暴に手帳を閉じ、鞄に投げ入れた。

 がっくり項垂れると、吐き出した息と共に、気力が抜け落ちていくのが実感できた。本当に情けない。首を垂らした向日葵じゃないが、自力では、とても顔をあげられそうになかった。

 俺は頭を左右に揺らしながら、なげやりに自嘲する。別に太陽じゃなくたっていい。この暗澹たる思考の空に、僅かな光明でも見出すことができれば、それだけでもまだ、マシな気持ちになれるだろうに……。


 昨晩、俺が目にした梨佳子の行動が頭から離れない。

 俺の目の前で、梨佳子が遥希の顔を叩いた。瞼を閉じれば、あの瞬間の映像が、何度となくリピートされる。

 梨佳子の鬼気迫る表情。振り抜かれた右腕。

 まだ眠りが浅かったせいもあるが、それでも梨佳子のとった行動は、俺の眼を覚まさせるには充分な衝撃だった。

 梨佳子が放った、全力の一振り。

 あれは叱ったとか、怒ったとか、そんなレベルで例えられるものではない。端的にいうならば、憎しみを込めて、殴った。そう言い表した方が納得もいく。が、納得いくだけに、尚のこと俺は頷くことができなかった。

 梨佳子は、どうして遥希を殴ったのか?

 俺は釈然としないまま、遥希が寝付くのを見守っていた。

 壁の向こう側で、梨佳子は何かに憑りつかれてしまったように、永遠と、テーブルを叩き続けた。重々しい振動音が響く度に、遥希はびくびくと、小さな体を震わせた。

「ママがこわい。パパ、ハルキをたすけて」

 目に涙を溜めながら訴え続ける息子をどうにか寝かしつけ、リビングへ足を向けた時は、すでに朝方の四時を回っていた。

 もう音は聞こえない。

 梨佳子は塞ぎ込んだように、肩を落としていた。

「お願い。今は何も話したくない。話せないの。だからもう少しだけ待って、お願いだから」

 何を訊いたところで、返ってくる答えは同じだった。梨佳子は頑なに、頭を振り続ける。

 話の核心に触れられることを恐れるように、俺の視線からも逃げ続けた。「お願い、お願いだから……」と消え入りそうな声で訴え、最後は涙さえ流していた。

 俺は今、後悔している。

 それでも俺は、問い詰めた方が良かったのだろうか。話の核心へ、踏み込むべきだったのか……と。

 あの様子から察すれば、梨佳子が何らかの事情を隠しているのは明白だった。それでもうやむやに終わらせてしまったのは、やはり俺の甘さだったのかもしれない。

 梨佳子の声が、耳に蘇る。

 余程動揺していたのか、梨佳子は意味のわからないことを口走っていた。

 ――遥希が俺を殺そうとしていた?

 まさか。悪い冗談にしても、ほどがある。

 確かにあの場面では、遥希は包丁を手にしていたかもしれない。

 幼少期にありがちな、危険を孕んだ過ち。

 だけど小さな遥希には、包丁の危険性を理解できていない。つい先日だって、キッチンの棚から包丁を取り出そうとしていたのを、俺に咎められたばかりだ。

 おそらく遥希は、梨佳子が料理の最中に使っている包丁に興味を持っていた。あんな夜中に、どこをどうやって持ち出してきたのか、行為の過程は別にしても、当の遥希には悪気があってのことではない。あくまで好奇心。そこに殺意があるなんて、話が過剰に飛躍しすぎている。

 ただ梨佳子の言うことにも一理ある。

 一歩間違えれば、大事故につながる可能性もあった。万が一、遥希が手を滑らせでもすれば、俺の頭上に包丁が落ちてきた危険性は否めない。もちろん、命の保証だってなかったはずだし、そう考えれば、梨佳子のとった行動にも納得すべき点はある。

 たらればになるが、梨佳子があれほどの怒りを見せなければ、俺が相応の戒めに怒鳴りつけたはずだし、立場が逆であれば、俺だって手のひとつくらいは出ていたかもしれない。

 だとしても、だ。

 あそこまで力いっぱいに殴る必要はなかった。そこだけは、どうしたって譲ることはできない。

 限度を超えた力の入れ具合。

 血相を変え、尋常ではない勢いで遥希を奪いにきた梨佳子。

 俺は全力で梨佳子の手を振り払った。必死だった。小さな遥希を守らなければならないと、本能が訴えたんだ。

 殺気の塊とでも形容すべきか、過去どれだけ遡ってみても、俺はあんな妻の姿を目にした覚えはない。理性のたがが外れ、常軌を逸してしまったのではないかと、目を疑うような妻の行動を前に、俺は恐怖にも似た感情を抱いてしまったくらいだ。

 何故あれほどまでに怒り狂っていたのか。

 皆目見当がつかないとはこのことで、時間をおいてみた現在も、悶々とした煮え切らなさが鬱積していくばかり。頭の中は、一向に整理がつかなかった。

 俺はネクタイの結び目に手を伸ばした。息苦しさから脱却するように、指先を使って緩める。

 堰を切ったように大量の息を吐き出してから、天を見上げた。気分はお手上げに等しかったが、当然、両手をあげるような気力はない。

 ホームの隙間から覗く空は、どんよりと暗く、薄汚れていた。

 これなら気分転換にもなりゃしない。見ているだけでうんざりする。唾を吐き捨てたい。そう頭の中をネガティブ思考ばかりが列挙していく。自分が酷く苛ついている自覚があった。

 俺は嫌うように空から目を逸らし、足元に視線を落とした。置いてあった缶を目の中に止め、足でひっかける。倒すことに、何の戸惑いも感じなかった。

 すぐに中身が飛び出し、黒い液体が、細かな泡を吐き出しながら拡がっていく。まるで缶の口から抜け出たアメーバが、俺の靴へ襲い掛かってくるような勢いで成長すると、足元の光景が一変した。

ただ茫然と眺めていた。

 何の感慨もない。液溜まりの表面に映る自分の顔が、少しだけ、歪んで見えた。

 一分、二分、否、実際は数十秒程度なのかもしれない。どちらにしても俺は、視界の外から飛んできた声を耳に受け、我に返った。

「こぼれてますよ」そう男の声が指摘した。

 はっと顔を見上げると、いくつかの視線が俺を取り囲んでいた。

 困惑と、批難の入り混じった冷線。声の主は定かではない。

 俺は気まずさに立ち上がるも、咄嗟には、何の解決策も見当たらない。鞄の中を覗き込み、ポケットの中に手を差し込んだ。何もない、とアピールするように反対のポケットを探り出す。何度かポーズまがいの行動を繰り返し、その裏で必死に頭を働かせるものの、跳ね上がった心拍が邪魔をする。

 一向に良策の浮かばない俺を見かねたのか、助け舟でも出るようなタイミングで、電車がやってきた。

 俺は胸を撫で下ろした。

 停車した電車が口を開けると、皆興味が失せたように歩きだし、俺の周りから去っていく。入れ替えに出てきた人たちは、俺の足元には目もくれず、階段へ向かっていった。

 それでも俺は、再び電車が動きだし、その音が完全に消え去るまでの間、逃避するかのように背をそむけた。

 ――アイツはどうしようもない奴だ。

 そう電車の中から後ろ指をさされているような気がして、とてもじゃないが、現実に向き合うことができなかった。と同時に、こんな惨めな真似をしている自分が、どうしようもなく情けない男に思え、唇を噛んだ。

 途端に俺は腹立たしくなり、自分を罵倒したくなる。

 馬鹿野郎。薄汚れてるのは、俺の心じゃねえか――。


 駅員は進んで清掃をかって出てくれたが、俺は頼み込むようにして、清掃用具を手に取った。この期に及んで清廉潔白を主張するつもりはなかったが、ここで手を汚さねば、どこまでも落ちぶれてしまうような怖れを感じた。本当の僕はこんなことをする男じゃないんです。と自己弁護するように、モップを動かした。

 数分が経過すると、ホームは時間が巻き戻されたように、人の列が、そこかしこに出来上がっていた。

 俺は次にやってきた電車に乗り込み、横浜駅に向かった。

 少しの間、電車に揺られていると、俺はまた、梨佳子のことを思い返していた。

 俺たちの最愛の息子。

 その遥希を殴りつけた、妻の姿。

 まさか、梨佳子に、あんな一面があったとは……。

 梨佳子は普段から、あまり感情を表に出す方ではない。とかく怒りや苛立ちの類は、自分の内面で処理しようと努めるタイプの人間だった。夫婦間の争いにしても、多少のいざこざはあるにせよ、遡ってみれば、喧嘩らしい争いに発展した覚えはない。

 その梨佳子が、あれほどまでに怒りの感情を露わにすることがあるとは……。

 温厚な性格の象徴ともいえる梨佳子の、対極にある、別の姿。

 まさに俺は、眼にしてはいけないものを垣間見てしまったような、思わず口を噤んでしまいたくなるような光景を目の当たりにしてしまったのだ。

 今でも思う。あれは何かの間違いであって欲しいと。できるなら、夢であったと記憶を改ざんできないものだろうか。俺は自分の口元から息が抜け出る音を聞きながら、やりきれない気分になる。

 もう何度溜息を吐いたのかもわからない。いや違う。今では吐き出す息の全てが、溜息に直結しているような陰鬱感を醸し出していた。

 俺の知らない梨佳子がいた――という事実は、想像以上に大きなダメージを負わせていたのだ。

 

 周囲を見渡せば、自分以外の人間は、皆、悩みごとひとつなく、幸せそうに見えた。

 隣に立つ、四十代と思しきサラリーマン風の男は、窮屈な車内の中で、身を縮こめるようにしながらも、器用に文庫本を読んでいた。

 何が面白いのか、口元には、笑みさえ浮かべている。

 平和なんだな、と思った。

 家に帰ったところで、この人に劇的なドラマは待っていない。昨晩の俺が経験したように、衝撃的な展開が待ち受けてることなんてないんだ。

 と、そこまで考えて、俺は自分の思考が偏っていることに気付く。

 馬鹿だな、これじゃあ他人の平和に嫉妬してるみたいじゃないか。

 そう思い、またそれが事実であることに、げんなりした。

 最低な奴だな。と嘆くような思いだった。

 朝からずっと……いや、昨日の出来事が起きてからずっと、同じことばかりを繰り返し考えている。俺の思考は一向に前進しない。停滞しっぱなしだ。

 そして、俺は想像してしまう。

 今ごろ梨佳子は、どんな顔で遥希に接してるだろうか、と。

 昨晩のことを引き摺ってやしないか。

 ちゃんと食事を摂らせただろうか。

 昼寝は、おやつは食べたのだろうか。

 一緒に仲良く遊んでいるのか。

 些細なことで、叱ったりはしてないか。

 何かの拍子に、また手をあげたりはしてないか。

 不安の種は際限なく増殖し、猜疑心の花を咲かせていく。

 もしまた――と一抹の不安が過ったところで、俺は考えを遮断した。

 ああ、まただ。また俺は同じことを考えてしまっている。単純な思考パターンの繰り返し。わかってはいるが、抜け出せない。

 疑念で作られた蟻地獄。

 俺はもどかしさに身悶えるように、足踏みをした。傍目には、子供が地団駄を踏んでるように見えたかもしれない。けれども俺は、周囲の目に構っているような余裕さえもなく、もがいていた。

 横浜駅に着いたら、ともかく家に電話をかけてみよう。

 梨佳子の……遥希の元気な声を聞けば、この気持ちも、少しは落ち着くはずだ。

 そう願い、到着のアナウンスが鳴ることを、今か今かと待ち構えていた。


 二十回目のコールを数え、電話を切った。

 梨佳子の携帯は通じない。が、すかさず俺は、家の番号に切り替え、発信ボタンを押した。

 一回、二回、と機械的なコール音を数えながら、早く出てくれよ、と念じ続ける。携帯を耳に押しつけ、息の詰まるような間を耐え忍んだ。

 だが結果として、どちらの電話からも、梨佳子の声を聞くことはなかった。

 俺は力任せに携帯を閉じると、舌を鳴らす。

 いったいどうしたんだよ! と心の内で吐き捨てた。

 時刻は十七時を回っている。梨佳子は家にいるはずだ。今頃はきっと、夕飯の支度をしているはずなのに、それがどうして電話に出ることができないのか?

 あの規則正しい性格の梨佳子を思えば、余程の急用でもない限り、同じ生活のリズムを刻んでいるはずだ。それがどうして出ないのか、何か特別な事情でもあるのだろうか?

 苛立つ俺は、どうにか平静をコントロールしつつ、答えを探していた。

 夕方の通勤ラッシュにごった返す駅の構内を歩き、人波を避けるようにすり抜けていく。それでも先ゆく歩調が思考回路を乱すような気がした俺は、足を止める。近くにあったコンクリートの柱に避難し、背をあずけた。

 自問自答に呑み込まれ、自爆しそうな勢いであった。

 落ち着け、落ち着くんだ、と深呼吸を繰り返す。と、ポケットの中の携帯が、小気味よく振動した。

 慌てて携帯を取り出すと、表面の小窓が、梨佳子からのメールを知らせていた。

『ゴメンね。今、ちょっと忙しいから、落ち着いたら電話する』

 表示された文字に目を通し、息が洩れた。連絡がついたことで、肩の力がどっと抜け落ちる。

 が、それでも俺は、完全に疑心から解放されたわけではなかった。

 良かった、とは思えない。

 メールの内容は一方的で、温かみは欠片ほども感じられない。

 文頭で謝罪こそしているものの、以下の文章は、冷たく突き放されているようにも受け取れる。

 俺は文字の裏側に隠された真意を詮索していた。

 そもそもが、記憶の中で、梨佳子が電話に出なかったケースはない。いや、数回はあったかもしれないが、その都度梨佳子は、すぐに折り返しの電話を寄越してきたはずだ。

 それこそ、こういったメールでの返答自体が、梨佳子らしくない。

 だが、こうなっては何を考えても疑うばかりで、正直、ナーバスになり過ぎている気もするが、それでも梨佳子が、俺になんらかの隠し事をしていることは間違いない。

 あの梨佳子の取り乱しようから察すれば、それ自体が只事ではないことを充分に示唆している。

 ある意味これは、登坂家にとっての危機ではないのか?

 我が家に、いったい何が起きているのか。

 登坂家の主として、俺はこの問題を解決しなくてはならない。

 それも早急に、だ。

 しかし現実は、自分だけが取り残されているような疎外感が、重く圧し掛かっていた。少しでも気を抜けば、重圧に潰されるように、この場にしゃがみ込んでしまいそうだった。


 数分の後、俺は気持ちが定まらぬまま歩き出した。殆ど無意識に、いうならば、仕事に向かう帰巣本能が、京浜東北線のホームへと、足を向けさせていた。

 俺は問い掛ける。

 ――歯車は、いつから狂っていた?

 昨日までの俺は、実にいい流れに乗っていたじゃないか。

 今月はいいぞ、いい流れが来ているぞ! と心弾ませながら、仕事に向き合っていたはずが、それがどうして、こんな目に遭ってしまうのか……。

 俺の経験上、仕事にしても、私生活であっても、ことの流れはとても重要だった。ツキみたいに一過性なものではない。その流れに乗れば、結果はおのずとついてくる。そういっても過言でないほどの流れが、中長期的に続く期間がある。

 とりわけ今月は、力強い上昇気流を実感していた。

 営業にしてもそう。今月は、月初めから津久井が大口の広告を釣り上げてきた分、予算面での心配は、早い段階から解消されていた。

 おかげで新規の営業に割く時間も増え、新たなクライアントを発掘することに専念できた。スケジュールに追われることはあっても、予算に縛られない仕事をできることが、恩恵となったのだ。

 唯一、トラブルらしいトラブルといえば、先日のゴールドルージュでの一件くらいなもの。

 あれは確かに危険な仕事だった。賭けだと言ってもいい。無論、負けるつもりはなかったが、勝算は薄く、リスクの方が圧倒的に勝っていた。それが、予期せぬ介入に救われたにせよ、結果として俺は、賭けに打ち勝つことができた。見えない流れが、やはり手を貸してくれたのだ。

 不思議なもので、流れを掴んでいる時は、危険を察知する力が鋭くなり、仮に直面したとしても、回避する助力を与えてくれた。自分の判断が、吉を引き当てる可能性が、格段に高かったのだ。

先日にしてもそう。食の撮影が終わった翌日に、くろんぼのマスターから連絡があった。電話口でのマスターの声は、喜色を帯びたように弾んでいた。

 誌面の発行に先駆けて、先行的に出した新メニュー。俺が考案したクアトロ・カレーが大好評だというのだ。

 食事をする楽しみをトッピングした登坂君の狙いが、うまいことハマったかもしれないよ。おかげさまで、カレーの需要があがりそうだ。

 そう嬉々と口にしたマスターの声は、まだ耳にも新しい。

 本当に、何もかもが順調だった。

 そして良質な仕事の流れは、家庭にだって好影響を与えてくれる。

 仕事と私生活は、別物に違いない。けれど実際は、見えない糸によって繋がれている。

 プライベートの充実は仕事の能率に反映し、また仕事の充実はプライベートを豊かにさせた。

 そんなの気の持ちようだろ――と言われればそれまでなのだが、それにしても、今になってこんな結果を引き当ててしまうとは、過去の経験を鑑みれば、実に俺らしくない流れだといえた。

 どこだ? いったいどこで、潮目が変わってしまったのか。

 俺はいつ、どこで、何のミスを犯した。

 知らぬ間に俺は、何をしてしまったというんだ。

 記憶を探るものの、答えは見つからない。

 すると改札を抜けようとした、その時――。

 先日の銀が口にしたひと言が、頭を過った。

 ああ、そうか。

 導かれるように俺は、ポケットから携帯電話を取り出した。

「よう。今、忙しいのか?」

 投げ掛けた俺は、本来とは別の方向に針路を変え、改札を後にした。


「――とりあえず、これでも飲んで待ってろよ。五、六分で片づけてくるから」

 そう言って背中を見せた銀が、机に戻っていく。

 まだデスクワークの途中だったのか、すぐにキーボードを叩く音が聞こえてくる。

 困った時の銀頼み。無理に押し掛けるかたちになったが、この時間に予約が入っていなかったことが、俺に幸いした。

 五、六分待っていろ、と言われた手前、すぐに話を切り出すわけにもいかない。パソコンに向かっている銀の姿を眺めながら、気が逸っている自覚があった。

 ただソファに腰を下ろしているだけ。にもかかわらず、微妙な呼吸の乱れと心拍の高鳴りが、胸の内をざわつかせている。

 ここに来るまでの道中で、気持ちの整理をつけてきたつもりだが、思うようにコントロールできていない自分に、爪を噛む。

 俺は、何度か浅い呼吸を繰り返し、息を整えるように努めた。

 幾分、気分が落ち着いたところで、銀の用意してくれたティーカップへ手を伸ばす。

 が、そこで首を捻る。これはおかしいぞ、と。

 目の前に出された時は流してしまったが、今あらためて考えてみると、この場所でコーヒー以外の飲み物が出されることも珍しい。

 何かあるな、と横目で銀の様子を訝りながら、黄色味を帯びた半透明の液体を見下ろした。

 手に取り、恐る恐る、口へと近づけてみる。

 慎重にすすったひと口は、ギリギリ飲める程度の熱さだったが、お世辞にも『旨い』といえる代物ではない。付け加えるなら、今朝からまともに食事を摂れていない空きっ腹には、堪えるような味気無さだった。

「おい銀。これって何だよ?」

 ソーサーに戻したカップを指差す。

「何って、見たらわかるだろ。ハーブティーだよ」銀は目も向けずに答えた。

「馬鹿、そんなことわかってるよ。俺が言いたいのは、なんでコーヒーじゃねえんだって話だよ」

 訴える俺に、銀の相好が歪む。

「……全く。子供じゃあるまいし、たった数分も我慢できないのか?」

 遠目にもわかりやすいほどの冷線に、呆れ声。

 俺は視線を逸らすようにそっぽを向き、「ああスイマセンね」と、本当に子供が不貞腐れたような台詞で応戦した。だが、このやりとりを進めるのは、この後の展開に分が悪い。これ以上、銀が付き合うつもりがないことを確認した上で、俺はもう一度、ハーブティーへ手を伸ばした。


「――で、今日はどうした。篤が突然押しかけてくるなんて、珍しいじゃないか」

「そうだな。言ってみれば緊急事態って奴だ」

「やっぱりか。まあそれも、予想の範疇だったけどな」

 銀が納得したように頷く。

「なんだよ、それ。最初からわかってたような口ぶりじゃねえか」

「当たり前だろ。何年顏を突き合わせてると思ってんだよ。だいたい過去、篤が仕事以外の話で押しかけてきたことなんてあったか? ないだろ。俺にしてみれば、その時点で普通じゃない話を手土産にやってくるのは見当がつく。実際のところ、篤がここに入ってきた時のドアの締め方や靴の脱ぎ方、ソファへの座り方を観察していれば、冷静さを欠いていることが見え見えだったしな。だからだよ。俺は、無言でメッセージを送っただろ。気持ちを落ちつけろって、な」

「それがこのハーブティーってわけか」

「ご名答」

 それにな――と付け加えた銀が、目の前のティーカップを指差した。

「人間ってのは、苛ついている度合いが高ければ高いほど、些細なイレギュラーに過剰反応をしめすものなんだ。つまり今の篤の精神状態は、たかだか普段と違う飲み物を出された程度でも文句を言ってしまうくらい、冷静さが欠乏しているってことになる。だけどまあ、五分も待てないくらい重症だとは思わなかったけどな」

 図星半分、苛立ち半分。

 全く、これだからカウンセラーって職業はタチが悪い。とりわけ俺には手の内を明かす分、余計に腹も立つ。だが銀先生の言う通り、ここは一度、頭を冷やす必要がありそうだ。

 俺は「参りました」と告げる代わりに、天井めがけて大袈裟に息を吐き出した。

「よし。それならご希望通りの旨いコーヒーを入れてくるから、もう少しクールダウンしておけよ」

 言い残し、席を立った銀の背中を見て思う。

 どうやら最初からペースを握られていたのは、俺の方らしい。


 銀が淹れ直してくれたコーヒーの湯気を眺めながら、俺は昨晩の出来事について語り始めた。

 一連の流れを、ひとつひとつの場面を回想するように伝えていく。

 銀は終始無言のまま、俺の話に耳を傾けていた。

 思えば、銀にこんな相談事を持ちかけるのは初めてのことだった。

 銀はカウンセラーである以前に、親友だ。昔から悩みの一つや二つを打ち明けることに、なんら抵抗はない。それでも、女関係の悩みに限っては、ただの一度だってしたことがなかった。

 もちろん、愚痴の聞き役に徹してもらうようなことはあるが、だからといって助言してもらおうなんて算段は、端からない。

 唯一、それらしい出来事といえば、梨佳子を俺の家でかくまっていた時期に、居候をさせてもらったことくらい。

 だけど、あれにしたって梨佳子を口説くための相談を持ちかけたわけじゃないし、梨佳子を助けるアドバイスを求めたわけでもない。

 単に、俺が暮らす場所を提供してもらっていただけのこと。断じて色恋相談ではない。

 俺のちっぽけなプライドは、昔から銀に女関連の悩みを打ち明けることを拒んでいた。実に俺らしい、意固地なまでのこだわり。

 またそれを見透かされている分、余計に口も堅くなった。

 もし、人を親友と呼ぶ定義の中に『何でも包み隠さず相談できる仲』という項目があるならば、俺は銀のことを親友と呼ぶ資格がなかったのかもしれない。

 だとすれば、一五年にもなろうかという付き合いの中で、俺は今日、初めて銀を親友と呼ぶ資格を得たのだろう。

 可笑しなもので、いざ口を開いてみれば、あれだけこだわっていたプライドはどこへいったのか、文字通り、ちっぽけなプライドだったことを痛感させられてしまう。

 今だってそう。幾多の言葉が口を抜けていく度に、胸の内に溜めこんだ毒素が流れ出ていくように、気持ちを浄化させてくれる。

 過去の俺であれば、絶対に打ち明けないような話題。

 自分の女の気持ちがわからない、なんて台詞は、格好が悪くて絶対に打ち明けられなかったはずなのに、それがこれほど饒舌に口を抜けていくとは――。

 つまりはそう。俺はそれだけ切羽詰った状況にいるのだという現実を、あらためて突き付けられていた。求めている。それこそ喉から手を伸ばすように渇望している。現状を打破するための解決策を探し、銀に助けを求めているのだ。

 なりふりなんて、構っていられない。

 これは、俺にとって過去最大級の緊急事態。

 とてもじゃないが、ちっぽけなプライドに固執して、見栄なんて張っている場合ではなかった。


「――で、どう思う?」

「どう……って急に言われてもな。そんな簡単に答えられる話じゃないぞ」

 急かす俺を躱すように、銀はコーヒーをひと飲みした。

「なあ篤。お前、本当に心当たりがないのか」

「心当たりって、梨佳子のとった行動に対してか?」

「そうだ」銀が首を縦に振る。

「ないよ。そんなの、ない。全く想像がつかない。つかないからこそ、こうして銀に相談しにきてんだろ」

「なるほどな。けど、もう一度だけ訊くぞ。本当に、心当たりがないんだな」

「だから、ないって言ってんだろ」

 俺は多少語気を強めて言い返した。

「……そうか。ならここから先は、篤にとって耳の痛い話になるかもしれない。それでも聞くか?」

「ああ、聞くよ」

 勢い任せに即答してしまったが、言いきってから思案する。耳の痛い話って、どんな話だよ。

 俺はざわつく胸の内を落ち着けるように、コーヒーカップから立ち上る芳香を鼻へ流し込んだ。この場所でいつも口にするブルーマウンテンの香り。出先で立ち寄る喫茶店や、クライアントで出されるどのコーヒーよりも、俺はここで飲むコーヒーが好きだった。

 だけど今は、それを堪能するまでには気分が至らない。ひと口だけ喉に流し、カップを置く。

「いいか。初めに断わっておくけど、俺が今の話を聞いただけで全てを理解してるだなんて思うなよ。俺は梨佳子ちゃんでもなければ、篤でもない。どんな状況であったとしても、その瞬間に意図した部分なんて、当人以外には絶対にわかり得ないことだからな」

 だから当事者でない、俺だから見える可能性について話す。

 そうやって念を押すように声を重ねた後で、銀は先を続けた。

「率直に訊くぞ。篤の知らないところで、梨佳子ちゃんが日常的な虐待をしている可能性に心当たりはないか?」

 銀の口調は淡々としたものだったが、俺は驚きから目を丸くしてしまう。

 いったい何を言い出すのか――と、予期せぬ問い掛けに、面を食らった恰好になった。

「別に日常的にじゃなくたっていい。最近の二人に、何か変化はなかったか。たとえば息子が怪我をしたとか、そんな類の出来事に心当たりはないか?」

 虐待、というフレーズが鳴り響く中に、怪我の話題を振られ、俺の頭の中は尚のこと混乱した。

 遥希が左の頬を真っ赤に腫らしたのは、昨日が初めてじゃない。

 お風呂場で遥希が怪我をした、あの晩のやり取りを思い起こし、唾を飲み込む。

 だけどまさか……。梨佳子が虐待なんて、あるはずがない。

「いいか、これはあくまで可能性の話だぞ。虐待なんて極端な例え方をした分、気を悪くさせたかもしれない。それでも俺は、思う限りの可能性をひとつひとつ探っていく。またそれは、篤が想像してなかった可能性にこそ意味がある。そこを理解してくれよ」

 整然と述べていく銀の表情は真剣そのもので、視線は俺の目の奥に届きそうなくらい、鋭さを増していた。

 俺は声を絞り出す。

「なんで虐待なんだよ」

 よりによって虐待かよ、と吐き捨てたい気分だった。

「だから虐待は可能性のひとつだ。今はそれが真実だと決めつける段階じゃない」

「虐待の可能性はねえよ」

 血液が噴き上がるように脳内を熱していく。銀の口から虐待と抜け出る度に、宙に舞う不快音を掻き消したくなった。

「どうしてそう言い切れる」

「どうしてって……だって梨佳子だぞ。あの梨佳子が、虐待なんてするはずがねえだろ」

「なんでそう思う。その根拠は?」

「根拠ならある」

 俺は断言した。

 多少感情的になってる自覚はあるが、俺にだって銀の言わんとすることは理解できる。先に述べた通り、第三者として客観視してくれる分、虐待の可能性だって疑うべきなんだろう。事実、あれだけの暴力を振るったことに間違いはないし、その話を聞いた以上、虐待に目を向けるのは至極当然の流れだといえる。

 だけど、それでも虐待は的外れだ。あの梨佳子に限って、虐待だけは絶対にあるはずがない。

 銀は知らない。知らないからこそ、その可能性を探ることができる。あの時、俺が銀に梨佳子の秘密を打ち明けなかったから。

 梨佳子が元カレから壮絶なDVを受けていたという事実を、俺は銀にさえ話したことがない。あれは、俺と梨佳子だけの秘密だ。生涯、誰の耳にも入れるつもりはない。

 だからこそ言いきれる。

 元カレから酷い暴力を受け続けていた過去を持つ梨佳子。理不尽に暴力を受ける痛みを、誰よりも知っているはずの梨佳子が、自分の息子に虐待なんてするはずがない、と。

「詳しい理由は銀にも言えない。けど、虐待だけは絶対にない!」

 再度俺が断言すると、意外にも銀は、あっさりと声を返した。

「そうか」と短く頷き、おもむろに木製のシュガーポットへ手を伸ばす。

 角砂糖をひとつ取り出した銀は、それを自分のカップの中に沈めた。こういった間のとりかたは、いかにも銀らしい。意図した沈黙は、何か考えのある証拠だ。ゆったりとしたスプーンの動かし方にさえ意味がある。俺は身構えた。

「じゃあ質問を変えるぞ」

 予想通り。そう告げた銀の声色が明らかに変化した。

「さっき篤が口にした『俺の知らない梨佳子がいたんだ』って台詞。それは何を意味するんだ」

「……それは」

 痛いところを突かれ、言いよどむ。

 脳裏には、昨晩の梨佳子が、生々しいくらい鮮明な姿で浮かび上がってくる。全力を込めた右手のひと振り。あれは、叩いたなどという代物ではなかった。

「いいか。篤の説明が見たままの真実だとすれば、梨佳子ちゃんは突然、全力で自分の息子を殴ったことになる。俺が最初に引っかかったのは、その部分だ。たとえ危機回避という緊急事態の延長線にあった行動といえ、二歳児の小さな体を大人が全力で殴るのは、常識的に考えて行き過ぎていると思うのが普通だろ。どうだ? 篤のいった『俺の知らない梨佳子』だって、そこを指してるんじゃないのか」

 ご指摘通りだよ。

 押し黙ったまま、俺は頷いた。

「なあ。ちょっと思い出してみろよ。俺たちだって、昔は喧嘩の一つや二つしてきただろ。だけど喧嘩の最中に、本気で人を殴った経験なんて何度ある? そうそうなくはないか」

「ああ」と声を漏らし、同時にもっともな意見だと思った。

 俺自身、若かりし頃は喧嘩っぱやい時期もあったが、それでも本気で相手を殴ったことは、記憶の中でも数回程度。全力で殴るつもりはあっても、どこかで拳に自制心が働くことを、身をもって経験している。

「確かに、本気で人を殴るなんて、よっぽどの理由がない限り、なかなかあるもんじゃないよな」

「だろ。なら、篤にもわかるはずだ。人が人を殴る背景は、見た目ほど単純じゃないってことを。ましてや、全力で人を殴る行為の裏側には、それ相応の理由が隠されているってことだよ。だから俺は、梨佳子ちゃんにも息子を力いっぱいに殴るだけの理由があったんじゃないかと思ってるんだ。そしてそれは、包丁を持ち出したこと以外の、何か別の大きな理由に起因してるんじゃないかって、な」

 包丁を持ち出したこと以外の理由。

 その部分にこそ、遥希を殴りつけた梨佳子の真意が隠されている。

 だけど――。

「それは俺も考えたよ」

 それこそ今日一日は、梨佳子が遥希を殴った理由を考え続け、出口のない堂々巡りを繰り返してきた。

「でもな。そんな理由はひとつも見当たらない。だって俺たちは、うちの家族はずっと仲良く暮らしてきたんだぞ。俺がこんなことを言えば、本末転倒だってこともわかってる。だけど本当に仲のいい家族なんだ。俺も梨佳子も遥希のことが大好きだし、目一杯の愛情を注いで大切に育ててる。虐待や暴力なんて、うちの家族には一番似つかわしくない言葉だって、誰よりも俺が一番よく理解してる」

 だからこそ、これほどまでに悩んでんじゃないか。俺は苦虫を噛む思いで、銀を見返した。

「それだよ。その考えを、一度壊してみないか」

「壊す?」

「そうだ。今、篤に見えている景色を、一度、全部壊してみる。そうしてまっさらな状態に戻したところから、可能性という名のピースをひとつひとつ組み上げていくんだ。今の篤は、自分が作り上げてきた世界の中に囚われてしまっている。うちはこうだ。梨佳子はこうだ、息子はこうだって、ある種の固定観念に思考の振り幅を制限されてしまってる状態なんだよ。だから壊す。壊す必要がある」

「俺が今まで作ってきたものを、否定しろっていうのか?」 

「そうじゃない。なにも篤自身を否定しろとは言わないさ。だけど一旦、この場に限っては見えていた景色を壊すことで、客観的に物事を見ていく必要があると言ってるんだ」

 腕を組みながら、銀の説明を反芻してみる。

 壊す、そして客観的に、見る、だと。

 全く禅問答みたいな投げかけだな、と頭を悩ませるも、「わかったよ」と声を返した。

 銀のことだ、これも何か意味があってのことなんだろうし、だいいち、ここで俺が拒んでしまっては、話が先に進まない。

「いいか。たとえば梨佳子ちゃんが育児ノイローゼを患っているという仮説を当て込んでみる。もしくは、篤への不満からくる八つ当たりを、息子にぶつけているでもいい。篤が円満に築き上げてきた家庭環境が、実は自分の知らないところで危機的な局面を迎えていたって構図だ」

「おいおい、ちょっと待てよ。流石にそれは極端だろ」

「極端だからこそいいんだよ。極端に思えるってことは、篤が描いていた思考の外にあるってことを意味しているからな」

「……そう、なのか」曖昧に頷きながら俺は、ソファの奥へ、腰を深めに落ち着かせた。

 銀の仕掛けに気持ちが追いつかない自分に鞭を入れ、必死に頭を回転させてみる。

 思考の外にあるという、俺に見えない、もしもの世界。

 ドラマや小説のように、作話の中に存在する極端な展開。

 我が家には無縁だと思っていた状況を、あえて作りだしてみる。

 妻の梨佳子が、重度の育児ノイローゼに苛み、精神を蝕んでいる構図に、意識を溶け込ませた。

 そこで俺は、一瞬、柔和な笑みを湛える梨佳子の表情を思い浮かべるも、無理矢理それを、黒い絵の具で塗りつぶした。

 梨佳子は自らに置かれた状況を、俺にひた隠しにしている。

 だが現実問題として、本当に育児ノイローゼが発端だとすれば、なんらかの兆候があってもいいはずだが……。

「なあ。育児ノイローゼって、傍目にはどんな風に映るんだ?」

 頭に描いた梨佳子は、育児面の苦労をおくびに出さず、何食わぬ顔で生活している。だとすると、俺が梨佳子の懊悩に気付くことはないはずだ。それこそ梨佳子の精神が限界値を超える瞬間まで、俺は後手に回ることになる。

「目に見える症状でいえば、過食や拒食、睡眠不足がわかりやすいだろうな。それ以外では、行動意欲の低下や思考の隔たり――」

「ないない。それはないよ」

 反射的に言葉の続きを遮っていた。

 想像の世界ではなく、梨佳子との実生活に於いて、目に見える健康面の変化を見落としたつもりはない。もっとも、梨佳子が意図的に何かを隠していようものなら話は別になるが、銀の説明を聞く限り、主だった症状の中で梨佳子に当てはまる要素は見当たらない。

だけど……。

「ないとは言ったけど、梨佳子って、悩み事をひとりで抱え込む悪い癖があるんだよな。できる限り、自己解決しようと無理をする。よく言えば『頑張り屋さん』だし、それが梨佳子のいいところでもあるんだけど、本音をいえば、俺はもっと早くに悩みを打ち明けてくれたら良かったのに、って思うことがあるよ」

「なるほどな。でも、その『抱え込む癖』ってのは厄介だぞ。だとすれば、梨佳子ちゃんが育児ノイローゼにかかっていた線も、ゼロではなくなるな」

 こうやって即座に結論付けられてしまうと、考えてもいなかった展開に、杭を打ちこまれた気分になる。俺は胸のざわつきを抑えるように、息を吸い込んだ。

「まあ、それでも育児ノイローゼの線は薄いだろう。いくら梨佳子ちゃんが頑張り屋さんだからといっても、重度のノイローゼを人前でコントロールするのは難しいだろうし、篤にしても、何らかの変調に気付くはずだ。ましてや、それが軽度の状態だとすれば、息子を殴りつけることに、説明がつかなくなる」

 俺は身を乗り出した。

「おいおい、待ってくれよ。それなら俺が今、真面目に考えてたのは何だったんだよ!」口先を尖らせ、一息に抗議する。お前からノイローゼの話を振っておきながら、そりゃないだろう、と。

 だが銀は、俺の訴えをすかすように口元を緩め、こう言った。

「もちろん、意味はあるさ。大いにね」

 その満足げな表情を見て、俺は悟った。

 どうやら、またコイツに何かを仕込まれたようだ。

「いいか。ノイローゼについての可能性は、篤が今まで絶対に有り得ない思っていた展開なわけだ。それをこの数分間は、真剣に思い描き、向き合うことができた。余計な感情を取り払って想像力を働かせることができたってことは、お前の頑固な脳ミソが柔らかくなってきた証拠だよ」

 ちっ、という音を、口から遠慮なく放り出した。

 どうせ脳の準備体操だったとでも言いたいのだろう。

 ったく、カウンセラーってのは、こんな回りくどいやり方しかできないのかよ、と反論したいところではあるが、やはり俺の性格を熟知しているやり方だけに、文句の言いようがない。

だから俺は、「はいはい、お陰様でガッチガチの脳ミソが、びっくりするくらい柔らかくなりましたよ」と、頭を指差し、ふてくされ感を存分にアピールした。

 だがもちろんのこと、俺が本気でへそを曲げていないことは見抜かれている。だからこそ銀は、変らぬ調子で先を続けた。

「なら、このタイミングだからこそ言うぞ。篤は知ってたんだろ。梨佳子ちゃんが悩み事を抱え込みやすい体質だってことを。それでいて、最初はその可能性を疑うことをしなかった。いや、もしかすると、疑う気持ちもあったのかもしれない。でもできなかった。俺の知っている梨佳子に限ってそんなはずはない――って否定する気持ちが先回りをして、思考の振り幅に鍵を掛けたんだ」

 その鍵を解除してやることが俺の役目だったんじゃないのか?

 そう言った銀が右の手首を翻し、鍵を回すようなジェスチャーをしてみせる。

 確かに俺は、心のどこかで梨佳子を疑うことに歯止めをかけていたのかもしれない。いいや、違う。正確には、俺が築き上げてきた世界の中で、梨佳子をコントロールできていると信じていた。梨佳子は幸せな生活を送っているはずだと。そこを否定することができなかった。だからこそ銀は、俺自身が壊すことができなかった壁の向こう側へと、導いてくれたのだろう。

 銀が言った通りだ。俺は自分が作り出した世界の中に囚われていたのだということが実感できた。

 また実感できたことで、本当に脳の柔軟性が増してきたのではないかと思えるほどに、冴え冴えとした思考が、次なる可能性を手繰り寄せていた。

 俺がここまで作り上げてきた生活環境が、梨佳子にとっての幸せと、懸け離れたものであったとすれば……。

「さて、俺はコーヒーを淹れなおしてくるから、その間に、じっくり考えてみろよ」

 そう言った銀が席を立つ。俺が集中できるように、気を配ってくれているのだろう。銀が飲んでいたカップには、まだ半分ほどの液体が揺らめいていた。銀らしい、いかにもといった配慮である。

ならばと俺は、先ほど銀が示唆した『俺への不満』について、想像を膨らませてみた。

 梨佳子が思う、俺への不満とは、いったい何か?

 即座に浮かんできたのは、夫の見た目や風貌が生理的に受け入れられなくなってきた、という歳月を重ねた夫婦にありがちな展開である。だが俺は、首を振って否定する。

 断っておくが、俺は結婚してからも体重が不必要に増加したことはないし、頭皮の状態だって健康そのもの。禿や豚なんて中傷とは無縁だ。多少の年月は重ねていても、見た目には、ほぼ結婚前と変わらない状態を維持していると自負している。

 となれば、不満の矛先は、生活や家計に直結している可能性が高いのではないか、と頭を切り替えてみる。

 事実、俺は仕事ばかりを優先してしまう節がある。

 が、さりとてそれを理由に家庭を蔑ろにしてきた覚えはない。イベントごとは大切にするし、時間がある限り、家庭に奉仕できるような配慮を心掛けている。

 洗濯や食事は梨佳子に任せっきりであるが、トイレ掃除と洗面台に加え、床掃除は俺の日課みたいなもので、多少なりとも家事の軽減には繋がっているはずだ。

 完璧とまではいかなくとも、俺なりに良い夫の理想像を目指し、最善は尽くしているつもりだった。

 そもそもの話、梨佳子は専業主婦だ。

 一家の生計は俺の稼ぎだけで賄っているのだから、外で仕事をさせているような負担だってない。裕福とまではいかないにしろ、生活に困ったことは一度だってない。

 何よりも俺は、最大限、家事と育児に集中できる環境を整えることが、夫の務めであると考えているし、結婚してからこれまでの間、それは実現できているはずだった。

 いや、まてよ。

 微かに首を捻った俺は、以前に梨佳子が口にした話を思い出した。

 世の中には、率先して外に出たい主婦がいるって話を。

 いつだったか、テレビの特番を一緒に見ている最中、二十代、三十代の主婦からリサーチした愚痴の統計を眺めながら、梨佳子が妙に頷いていたことがあった。二十代前半に出産を経験し、同世代の友人たちと明らかに異なるライフスタイルに葛藤する主婦の本音を聞きながら、梨佳子はこう洩らしていた。

「遥希との毎日はすごく楽しいけど、もう少し、会社勤めをしてたかったって心残りはあるの」と。

 俺と出会う以前、梨佳子は大手の電機会社へ勤めていた経験がある。俺は意外に思えたが、梨佳子はあれで、結構な家電マニアだ。

 女がてらにAV機器の配線を器用にこなしてく様は、なかなかお目に掛かれるものではない。

 あの時、何気なく口にした『心残り』が、その実、生きた願望だとしたら……。

 なにも専業主婦が幸せだとは限らない、ということなのか。

 だとすれば、俺がよかれと思っていたことこそが、梨佳子にとっての苦痛になっている可能性も否めない。

「どうだ。見方を変えてみるだけで、新しい発見が生まれてこないか?」

 コーヒーのおかわりをテーブルに並べながら、銀が言った。

 表情を見抜かれたのか、何かを察したのだろう。

「そうだな。色々と気になる部分は出てきたよ」

 答えてから俺は、大きく背伸びをするように、姪一杯、腕を伸ばした。肩を起点に腕を回しながら、ゆっくりと首周辺の凝り固まった筋肉をほぐす。

 銀を前に、あらためて思う。

 正直、俺がこんな考えに行き着くことは、この男からの助言でなかったら、絶対に有り得なかっただろう。仮に、他の人間に同じ相談を持ちかけたとしても、素直に訊けたかどうか、いや十中八九、腹を立てていたに違いない。

 妻の虐待を疑われ、自分が築き上げてきた家庭環境にさえメスをいれられる。

 銀と俺との距離感だからこそ可能な、会話のキャッチボール。

 親友だから成せる技なのか、それともカウンセラーだからこそ成し得る技なのか。どちらにせよ、俺のカプセル怪獣は、本当に頼もしい味方だ。

「じゃあ、次の質問に移るぞ」

 そういった銀が、俺の意識を引き戻す。そうだった。まだ余韻に浸るようなタイミングではなかったと知らされる。

「俺は梨佳子ちゃんのことを、凄く生真面目な性格をしている子だと思っている。それは篤みたいに、変な部分に特化した意固地さじゃなく、全てに於いて一貫した真面目さだ。さらにはそれが、子供の育て方にも大きく影響していると踏んでるんだが。どうだ? 梨佳子ちゃんって、躾にも熱心なタイプだろ」

「ああ、そうだな」と顎を引く。多少、耳の痛い話が挟んであったように思うが、どちらも間違ってはいない。

「当たってるよ。躾っていうか……教育熱心なタイプだな」

 自分で言っておきながらではあるが、躾も教育も似たようなもんか、とも思う。

「その躾が、過度に行われている可能性はないか」

「躾が、か?」

 腕組みをした俺は、過度な躾とは、どこまでを表すのかを思い浮かべてみる。

 数秒で記憶と連結されたのは、先週末に買い物へ出かけた際の出来事。ファミレスで見かけた、ある家族連れの光景だ。

 スプーンとフォークを両手に持って遊ぶ四、五歳の男の子。

 父親の姿はなかったが、母親は、男の子の向かい合わせの席で、隣に座る遥希くらいの女の子の胸にエプロンを付けていた。『やめなさいよ』と男の子を威嚇するような低い声が聞こえる。

けれど男の子に反省の色はなかった。母の声もなんのその。無邪気さ全開の表情を浮かべ、テーブルを木琴さながらに叩き続けている。当人に一切の悪気は見受けられず、やんちゃな男の子といった印象だ。しかし、傍目には決して行儀よく映らない光景でもある。

 夕食時の時間帯。店内は、ほぼ満席の状態。

 母親は「親の躾がなってないよね」と、周囲から向けられる冷やかな視線を敏感に感じ取り、顔色を変えつつあった。

 店内の喧騒に混じるようにして、鈍い音が鳴り響いたのは、その直後。すっくと立ち上がった母親は、息子の頭に拳を振り下ろしたのだ。

 俺の目は、母親のとった行動に釘づけとなった。

 もちろん、そのタイミングで親が子を叱るのは当然の姿といえる。

 立場が違ったとして、俺も同じように叱ったはずだ。悪いことは悪い。そう教えるのは親として当然の役目なのだから。

 それでも俺は、周囲の目も憚らず、子供がわんわん泣くほどに頭を叩くのはいかがなものだろうか、と 母親のとった対応を見て、呆気にとられていた。他人とはいえ、大勢の人間がいる場所で、あんな叱り方をできる神経を疑ったのだ。

 怒られた子供の姿を見る限り、その後の食事が楽しい団欒の場になっているとは到底思えず、見るからに不憫で、後味の悪い痛々しさばかりが目についた。

 我が子の過ちを正す為の行為でありながら、その実、痛々しさだけが強烈なインパクトを焼き付けた母親の姿。

 まさに反面教師。俺は遥希の近い将来を見据えながら思った。

 何があっても、ああはなりたくないものだ、と。

「躾って、さ。ひと言にいっても色々あるよな。うちの場合、怒る方の躾は俺の役割で、知育面での躾は梨佳子がほとんどを受け持ってる。それこそ今は、本を読み聞かせたり、クレヨンで自由に絵を書かせるようなレベルだけど、三歳になったら何をやらせよう、あれをやらせたい、なんて話はしょっちゅうしてるな。だからさ――」

 先を続けようとして、思い留まる。

 梨佳子の躾が過度に行われてるとしたって、それは知育面の話だろ。そう続けようとしたはずの俺に、ファミレスで見た母親の姿がブレーキをかけた。

 銀は「どうした?」と声を掛けてきたが、俺が意図的に視線を外したのを見抜いているはずだ。もっといえば、俺が声を切った理由さえわかっている。銀が告げた言葉の裏側には、「もうわかっているんだろ」というメッセージが込められていた。

 ここまでのやり取りの最中、俺は学習した。

 既に、俺が順風満帆に築き上げてきたと思っていた生活は、崩れ去ったものとして捉えなければならない。これまで見ることのなかった灰色の景色。今の俺になら、その可能性に行き着くことができる。

 梨佳子が、俺の目が届かない場所で、日常的に手をあげている姿を――。

 だが本当に、梨佳子がそんなことをするだろうか。

 この期に及んで、解決の糸口を摘むような真似はしたくなかったが、それでも頭の中では、梨佳子を信じたい思いが勝っていた。

 すると思案する俺を見かねたように、銀が言った。

「なあ、篤。実際の話、俺が怖いと思っているのは、過度な躾に限った話じゃないんだよ。本当に怖いのは、躾の延長線上にある虐待だと思ってるんだ」

 躾の延長にある、虐待……だと?

「おいおい、ちょっと待てよ。いくらなんでも躾と虐待は違くないか。っていうか、全くの別物だろ」

「もちろん、行為としては別物だと思ってるよ。けどな、躾も度が過ぎると虐待に見えてくる場合がある。特に、俺みたいな子供がいない人間にとっては、余計な感情移入がない分、行為そのものがシンプルに映るよ」

 耳を疑うような話だったが、その反面で、俺の脳裏では、ファミレスで見た光景に銀の説明がぴたりとリンクしていた。

 あの時、やり過ぎている、と感じた俺の頭の中では、母親のとった行動に対して、非難や否定が渦を巻いていた。

 そうだ。まさに今、銀が説明してくれた内容は、あの母親にそっくり当てはまる。行為の真意は定かではないにしろ、傍目には虐待を連想させるに充分な行いだった。

 人前であのレベルなら、家でのそれは、どうなってしまうのか?

 あの母親なら、虐待も、有り得るんじゃないかと――。

「それとな。前にお前が面白い話をしてたんだけど、覚えてるか。『愛とストーキングは紙一重』だって、そう言っていたんだ」

 不意に話題を切り替えられた俺は、急いで頭のチャンネルを入れ替える。

 あまりいい思い出ではなかったが、その台詞はよく覚えている。

「ああ、そんなこと言ってた時期もあったよな」と昔を懐かしむように返し、手に取ったコーヒーカップの中身を、ゆっくりと回してみた。

 それは、梨佳子と出会う以前に付き合っていた女との話だ。

 その女は、異常なまでに束縛心の強い奴だった。

 日常的に俺を束縛することはもちろんのこと、ことあるごとにストーカー紛いの行動を繰り返しては、その都度、俺を驚かせた。

 仕事で残業続きの日は、100パーセント他の女と会っている可能性を疑われ、携帯は分単位のメールと着信履歴の山で埋め尽くされた。万が一、そこで携帯の電源を落とそうものなら、深夜であっても、直接会社に電話を寄越してくる始末だった。

 さらには、日付を跨ぐような時間帯に仕事を終え、会社をあとにすれば、ビルの下で俺の帰りを待っている。こんなことはざらだったし、深夜の撮影現場へ、俺が本当に仕事をしているのかを確かめにきたことだってある。

 それだけじゃない。もし休日に会う約束を拒むようなことがあれば、ぶらりと出かけた街中で、ホラー映画さながらに、振り返った俺の前に立っていた、なんていう経験は一度や二度じゃなかった。

 そして極めつけが、これだ。

 銀に誘われた夏山登山でのこと。山梨県にある三ツ峠山の山頂へ向かう登山口の前で、女は俺を待ち伏せていたのだ。

 アウトドアとは無縁の女が、アルピニストさながらの格好で手招きしているのを見た途端、俺は身動きが取れなくなった。

 まるで枕元に亡くなったおふくろが立っていたかのように、背筋を凍らせたのだ。

(ちなみに、母はもとより両親ともに健在である)

 恟然とした俺は「なんでこんな真似をするんだ?」と詰め寄るも、返ってくるのは、過去幾度となく繰り返されてきた台詞だった。

『篤斗と一緒にいたいから。愛してるからに決まってるでしょ』

 何か問題でもある? と言いたげに口を抜ける声。

 それは彼女にとって、ゆるぎなく、絶対的な自信を帯びた言葉だった。

 これがこの国の法律でしょ――とでも告げるように、全ての行動を正当化してしまう問答無用の殺し文句。無敵の主張だった。

 当時の俺にとって、あの女は殆ど公認ストーカーの領域だったが、激闘に死闘を重ねた七転八倒の末、 どうにかこうにか別れるまでに漕ぎつけた。しかし、その後もクライアント先のウエイトレスや、キャバクラのスタッフとして現れては、俺を驚かせ続けた。

 にもかかわらず、キャバクラで出会った、曰く『運命の男』との遭遇を機に、俺に向けていた一切の興味を失った。

 怖ろしいまでの変わり身の早さ。もはや賞賛に値する身の振りようだったが、あの女もB型だったということは……忘れておこう。

「俺は、躾と虐待も紙一重。あれと似たようなものだと思ってる。もちろん、根底に悪意が存在する場合は、純粋に虐待と定義できるだろうから話は別だ。だけど問題は、躾という文字に守られた無自覚の虐待の方だよ。これは躾なんだ、と思い込むことで、傍目には虐待さながらに映るような行為でさえ、正当化できてしまう。他者の介入はゆるさない。方向性を履き違えた親のエゴが生み出した、悪しき権利」

 ――他人の家の教育方針に、口をはさまないでくれるかしら。

 ファミレスでみた母親の言いそうな台詞が、頭を過る。

「だから俺は思うんだ」

 そういった銀が、ことさらに真剣な目をして、俺に視線を合わせた。

「躾と虐待は表裏一体。感情のベクトルが正の方向を維持しているうちは問題ないが、それが負の方向へ傾いてしまえば――」

「虐待になるってことだろ」

 銀の声に重ねるように答え、俺は続ける。

「ストーカー同然の行為を、愛するが故の権利だと主張する奴がいたように、虐待じみた行為でさえも、躾の範疇にあると肯定してしまう。誤った親の錯覚であり、特権か」

 口に出しながら、俺には絶対に有り得ない過ちだと言い切れたが、昨晩のあれが、隠された梨佳子の躾であり、その延長にあった行為だったとすれば……。

 俺は随分とでかい落とし穴に嵌っていたのかもしれない。

「考えたくはないけど、実はわかってるつもりで、俺が知らないだけだったのかもしれないな」

 そうであって欲しくないけど、と溜息を洩らした俺に同調するように、銀が頷いた。

「さて。篤が心からその可能性に行き着くことができたのなら、話は早くなる。だけど誤解するなよ。別に俺は、梨佳子ちゃんが虐待してるって可能性を押し付けたわけじゃない。後は、お前次第だからな」

「俺次第?」

「そうだ。篤が今まで梨佳子ちゃんに当て込んでいた性格を全て取り除いたうえで、心と心を向き合わせてみる。それができれば、意外なほど単純に、問題は解決するはずだよ」

「おい、ちょっと待てって。その言い方なら、まるで俺が梨佳子の性格を、ああだこうだって決めつけてるみたいじゃねえかよ」

「違うのか?」悪びれもせずに即答した銀が、席を立つ。

 奥へ向かった銀が、デスク脇の棚から青いファイルを抜き取った。

「いいか。ここに登坂篤斗の説明書があるから読んでやる」

「なんだよ、それ」

「まあ聞けよ」ファイルを開いた銀が中身を読み上げる。

「登坂篤斗の血液型はB型である。性格は直情的であり行動は積極的。大の負けず嫌いな上に、こうと決めたら梃子でも動かない頑固さを兼ね備えている。体育会気質であることも相まって、一見すると行動派に見られがちだが、その裏で、物事を決める際には実に慎重であり、臆病な一面を併せ持っている。但し決断に至るまでの時間が早いことが幸いし、周囲には悟られにくい。気分屋、自己中心的、といったB型らしい揶揄のされ方を、当人は意外と気に入っており、『変わり者』と呼ばれることにさえ、自分が特別な人間であるとポジティブに捉えることができる。また血液型から相手の性格や相性を透かし見る傾向がある割に、B型である自分と、A型である妻の相性が最悪と評されている事実を都合よく変換してしまうハイパーポジティブぶりは、登坂篤斗、最大の武器といえる」

 まるで銀は、台本片手に演技の稽古でもするかのような立ち振る舞いを見せながら、先を続けていく。

「また前述に、頑固な一面の存在を明かしたが、反面で驚くほどの切り替えの早さを持ち合わせていることが、周囲を度々驚かす。元来が凝り性な性格ゆえに、ひとつのことに没頭している時には恐ろしいまでの集中力を発揮させるが、些細なことから別の方向に興味を削がれてしまうと、それまでの関心や注意力が嘘のように、どうでもよくなってしまう悪癖がある。まさに興味優先型の思考は、回遊魚さながらに、常日頃、新しい刺激を追い求めている」

 ファイルを閉じた銀が「どうだった?」と投げ掛けて、ソファに腰を落ち着かせる。向き合った目が、異論はあるか、と訴えていた。

「どうだ……って、そんなの、どうもこうもねえよ」

 いったい、いつの間にそんな説明書を作っていたのか。俺と銀の間柄とはいえ、登坂篤斗の説明書なんてものの存在を聞かされて、正直、気分のいいものではない。

「それに、銀はそんなもので俺を丸裸にしたつもりなんだろうけど、そこに書いてあることが俺の全てってわけじゃねえぞ。続きはあんのかよ。もしその程度のチンケな内容だったら、俺の性格の半分にだって満たない。まだまだ書き足さなきゃならないことは、山ほどあるからな」

 負け惜しみでもなんでもない。これは、自分の性格を一番熟知している俺自身の訴えだ。

「っていうか、そんな説明書を作ってるなんて、性格悪いぞ」

 最後は、大いに皮肉を込めて言ってやった。だが……。

「篤。今の言葉をそっくりお前に返してやるよ」

 銀は待ってましたといわんばかりの表情で逆襲してきた。

「だから、なんでそんな流れになるんだよ」

「なんでって、今、篤が言った通りだろ。こんなもので人の性格を全て理解したつもりになるなって、ことだよ」

「だったら、それはなんなんだよ」

 俺は手にしているファイルを指差した。

「ああ、これか?」

 そういって銀はファイルの中身を見せるように、テーブルの上に広げた。

 身を乗り出した俺は、そこで唖然とする。

 目に飛び込んできたのは、何ひとつ差し込まれていない、まっさらのファイルだったからだ。

「おい、いったいなんだってんだよ」

「何って、見たまんまだろ。さっきのは俺が思ったことをそれっぽく並べあげただけ。最初から、説明書なんてものはない」

 またしても銀に――と頬に熱が入ったところで、はっとする。

 畜生。そういうことか。俺は歯噛みをし、いちいち仕込みが面倒くさい奴だな、と睨みをきかせた。

「俺の言いたかったことに、やっと気づいてくれたようだな」

「はいはい、気づきました。わかりましたよ。そしてどうもありがとうございましたと深く感謝を申し上げます。――どうせ、俺の頭の中にある梨佳子の説明書は不備だらけだって言いたいんだろ。そんなもので、梨佳子の全てを知ったつもりになるなってことを言いたいんじゃねえのか」

「ご名答」

 涼しい顔で返した銀は、不貞腐れる俺を余所に「まあここからは俺のひとり言だと思って聞けよ」と言って、先を続けた。

「いいか。なんでも血液型に当て込んで考えるのは、篤の会社の得意分野かもしれないが、それは同時に、日本人の悪い癖でもある。一時期、血液診断や、血液型占いなんてものが流行ったせいか、それが全て正しいと誤解している人間は今も少なくない。確かに、統計学的な面からいえば、的確だと臭わせるような節はある。でもな。だからといって、人間の性格が四つのタイプに分類できると信じてしまうのは安直すぎる。たとえ生まれた瞬間には四通りの性格に分類されていたとしても、だよ。そこから先の人生は、誰一人として同じ環境で育つことはない。長男や次女の違いに、末っ子ならではの育ち方。一人っ子だっている。家柄が違えば、個々の家庭によって生活習慣だって異なるだろう。より性格を細分化させていく枝葉が、無数に存在するはずなんだ。だから百歩譲ったとして、血液型をベースにした診断がひとつの物差しだったとしてもいい。でもそれだけで全てを決めつけてしまえば、人間の真意にたどり着くことは絶対にない。そこだけは強く断言するよ。特にこの仕事をやっていれば、下手な経験則や思い込みは命取りになるからな。もちろん、心理学にだって類型論や特性論といった物差しは存在する。だけど本当に大切なのは、ひとりひとりと真正面から向き合い、心根にある素顔を引き出してあげること、何よりも、その部分が重要なんだ」

 銀の説明に耳を傾けながら、ふと昔を思い起こしてみる。銀は昔から、こんな風に物事を達観したような物言いをしていたな、と。

 さらには、これがまだ高校生だった頃は、上から目線に言われているような気がして、よく腹を立てた。

 時には口論になり、場合によっては、取っ組み合いの喧嘩に発展することもあった。本意を素直に受け取ろうとする気持ちはおろか、口を抜ける語彙の全てを否定し、決して相手の意見を良しとはしなかった。

 今でこそ寛容さを備えている銀ではあるが、当時は、他人の生きざまを頭ごなしに否定するような男でもあった。

 無情なほど冷淡に他人の意見を切り捨てる様から、アイスマンの異名を持っていた男は、よくこう口にしていた。

 お前の考え方は間違っている、と。

 今の銀の口ぶりは、当時を彷彿させるまでには至らないものの、話の本質では、やはり血液型をベースにした性格診断を否定している。うちの会社がB型贔屓なことは前々から知っているはずだし、俺が何かにつけて血液型を判断材料にしていることも知っている。

 その上で否定するのだから、よほど思う部分があるのだろう。銀が続ける。

「もちろん、自分が培ってきた経験、養ってきた感覚を信じることは大切だ。でもそうした経験則を前面に押し出した見解は、視野を狭めてしまうばかりか、本来、見えるはずの景色さえ曇らせてしまう恐れがある。おそらく今の篤の頭には、A型をベースにした梨佳子ちゃんの『こうだ』って性格が確立されてしまっているんだろ。これまで梨佳子ちゃんと共に過ごしてきた経験を肉付けしながら更新を計ってはいるものの、その性格の中枢に構えているのは、極めてA型にありがちな生真面目さや慎重といった特性だ。B型で言われるような、わがままや気分屋なんて特性とは無縁だと考えている。違うか?」

 ああ、そうだよ。と頷き、「だけどな」と反論する。

「銀だって、自分の経験を頼りにこの仕事をやってんじゃねえのかよ。大学の時に散々勉強した知識だって役に立ってんだろ。だったら、銀にだって同じことが言えんじゃねえのか?」

「ああそうさ。だけどそれなら50点ってとこかな」

 満点じゃねえのかよ、と口を尖らせる。

「俺はな。仕事上、初対面の人間に対して先入観を持たないようにしてるんだ。もちろん、話をしながら『この人はこんなタイプの人間かもしれない』って類推することはある。過去の経験を元に、相手の性格を引き出すような真似もする。だけど、手始めに俺がやるべきことは、まっさらなキャンパスに、相手の情報を一から書き込んでいくこと。たとえ『血液型はA型なんですね』なんて話になったとしても、そこで絶対に、几帳面や慎重派なんて文字は書き込まない。それじゃあ相手の素顔を知ることは絶対にできないからな。まあ時間に追われてるような忙しい人間ほど、推論や経験則を当てはめてみたくなる気持ちもわかる。だけど俺の仕事は違う。百人百様の考え方があるように、性格にだって百通りの違いがあって当然だと考える。その人が歩んできた物語に、誰かと同じタイプ、を当て込んだ時点で、おしまいなんだよ」

 なるほどな、と初めは素直じゃなかった俺も、気付けば銀の説明に相槌を打つ展開になっている。ごもっともな話だ。

「それともうひとつ、篤にだから忠告する」

 忠告、といわれ、反射的に俺は、居住まいを正した。

「自分が相手より優位に立っていると錯覚してる人間ほど、物事を達観したつもりになりがちな傾向にある。もし篤が、夫と妻の関係を自分優位にコントロールしていると思ってるなら、盲点は必ず存在するはずだ。真正面に膝を突き合わせて、同じ目線になってこそ見えてくることがある。……って、ここまで言えば、もう篤にはわかってるだろ?」

 そう告げた銀が笑みを漏らす。

 その顔が癪に障るが、おかげ様で俺は、答えに辿り着いていた。

「ってことで、随分な遠回りをしたけど、結局のところ、俺が篤に言いたいのは、最初からその部分に集約されているといってもいい。いちいち俺のところへなんか来なくても、本人と向きあうことで済む話だからな」

「はいはい、おっしゃる通りですよ」

 口先を抜ける感情に素直な想いを乗せることはできないが、心根では、銀に感謝する。

 頭の中が至極クリアになっていることが実感できた。

 銀先生の言う通りだ。あれこれ詮索している暇があるなら、本人と話をしてこいってことなんだろう。

「まあ、最初から『梨佳子ちゃんと腹を割って話してこいよ』なんて言ったところで、篤が素直に受け取らないってことは俺が一番良く知ってるからな。あえて、篤の好きそうな言葉で説明するなら、B型は意外なほどに臆病だから、ってとこか。でも頭ごなしにそんな振られ方をしたら、篤はきっとこう言って口を尖らすだろ。『そんな必要はない。俺は梨佳子の全てを理解しているんだ』って、な」

 ――言うかよっ!

 と反論せずに呑み込んだのは、図星だったから。

 多少、頬が引き攣りつつも、できる限りの笑みで、余裕をアピールする。

「そうかもしれないな」

 さらりと返した声は、最後の抵抗にして、今日一番の無意味な抵抗であった。


 銀の元を後にすると、時刻は十九時を大幅に回っていた。

 エレベーターを降りると同時に、携帯から坂口を呼び出す。

 急なクライアントからの呼び出しが入ってしまった。予定よりも帰社時間が遅くなりそうだから社内のことは頼むな、と早口に伝える。遅くとも二十二時には戻れるようにするから、と。

 察しのいい坂口は、これだけで自分が何を求められているかを理解してくれたようだ。

 実際のところ、この時期のイレギュラーはそれほど珍しいケースではない。締切直前に、広告の掲載を申し込んでくるクライアントもいれば、既に校了済みの広告内容の変更を求めてくるようなクライアントだっている。

 だから坂口は、虚偽の説明だとしても疑いはしない。

 いや、坂口なら本当の理由を話したとして快諾してくれよう。

 だがこればかりは、嘘を吐く以外に方法がなかった。嘘を吐いてでも、俺はこのタイミングを逃したくなかったのだ。

 締め切りまで三日となったこの時期に、私的な時間を作れるとすれば、今以外に考えられない。

 部内の人間は帰社しているようだが、坂口の声色を聞いている限り、大きな問題もなさそうだ。坂口本人にしても、先日のブルーローズの一件からは立ち直っている。けれども、あの時、俺に迷惑を掛けてしまったことに負い目を感じている節があるのも事実。

 申し訳ないが、ここぞとばかり、責任感の強い坂口の性格を利用させてもらうとする。上司が不在中もチームを上手くまとめてくれるはずだ。

 最後に俺は、今日は全員午前様だろうから、適当な時間で飯を食べに連れて行ってくれ、と付け加え、電話を切った。

 部下に対する申し訳なさが、溜息に変わる。

 だが一旦、仕事に区切りをつけたことで、気持ちに整理をつけることはできた。

 嘘を吐いてしまったことの罪悪感よりも、私的な時間を捻出できたことで気持ちが前向きになっている。頑張っている部下たちには悪いが、ここから数時間は、仕事のことを忘れさせてもらおう。

 大通りに向かった俺は、日ノ出町の駅前に出たところで、居合わせたタクシーを拾った。

 運転手に行き先を告げたところで一息つくと、窓の外へ視線を流しながら、帰り際に、銀が言っていた話を反芻した。

「――もし、梨佳子ちゃんの知らない一面を見たいんだったら、日頃の生活に変化を加えることも発見に繋がるかもしれないぞ。篤のことなら、毎日の『帰るコール』は欠かさないんだろ。それを止めてみるだけで、いつもと違う、新しい発見に出くわすかもしれないな」

 プライベートのやりとりまで覗き見されているようで、幾分気味が悪かったが、銀が指摘した通りである。

 俺は帰宅前の電話を欠かしたことはない。

 もっとも、帰宅時間が日を跨ぐような場合は別として、夕食にしても、遥希とのお風呂にしても、家族が俺の帰りを待ってくれている時期に限っては、梨佳子が準備しやすいようにと、気を配っていた。

 思えばこの行為に至っても、梨佳子の行動を支配下に置いているような錯覚があったのかもしれない。捉え方によっては、先へ先へと気を回しているように見える対応も、実際は、俺自身のペースを乱されたくないが故の行動だった。

 気持ちに一区切りをつけたところで前を見ると、タクシーの運転手は、行き先を告げた時の口調から察したのか、はたまた俺が物思いにふけこんでいる様子がミラー越しに見てとれたのか。背後に気難しいオーラを感じ取ったのかもしれない。

 つまりは絶対に話しかけてくれるなよ、といったオーラだ。

 営業という仕事柄、初対面の人間との会話に抵抗があるわけではないが、時折俺は、タクシー内でこんな態度をとることがある。

 稀に空気を読まない営業熱心な運転手もいるが、どうやらこの運転手には、俺の意図する部分が通じたらしい。まあ、単に話下手なだけかもしれないが……。それでも場の空気を読むことは、この仕事では立派な能力のひとつであろう。

 このペースであれば、二十時前には家に着く。

 その時間、普段なら遥希をお風呂に入れているはずだが、果たして、俺が想像した通りの展開は待っているだろうか。

 連絡なく帰宅する俺は、これからどんな景色を目の当たりにするのか。梨佳子はいったい、どんな顔をして俺を出迎えるのだろうか。

 想像を膨らませる。

 たかだか電話一本のやりとりを省いただけのこと。

 それでも胸の内では、他人の生活を覗き見るような後ろめたさと、好奇心とが綯交ぜになり、鼓動を高ぶらせていた。

 だからというわけではないが、俺はあえて、家までの距離が五十メートルほどの場所に車を止めるよう、運転手に告げる。

 料金を支払い、タクシーが遠くへ走り去っていくのをその場で見送ると、暗闇に目を凝らし、耳をそばだてた。周囲の変化に気を配りながら、マンションまでの距離を縮めていく。

 残り十メートルほどの距離になったところで、マンションの両端を挟むように伸びている街灯が、駐車場に止めてある登坂家の愛車を浮かび上がらせた。

 俺は確信する。

 梨佳子は間違いなく家の中にいるはずだ。

 タクシーに揺られながら、万が一、梨佳子が外出をしていたら、という不運なケースも過っていたが、それも解消された。

 駐車場から二階の右端にある我が家の位置を見上げ、呼吸を整える。音を立てないように階段を上りながら、まるで探偵か警察気取りの行動だな、と自分の行動を鼻で笑うが、その実、こんな自分が嫌いではない。

 玄関の前に立った俺は、部屋の中を透かし見るような気持ちで想像を膨らませてみた。梨佳子はどんな反応を見せるだろうか。

 そう思い、鍵を挿し込もうとした時だった。

 俺の耳が、騒々しい音を拾った。

 出所は部屋の中。ドア越しにもはっきりと聞き取れた、梨佳子の怒声。俺の胸が大きく拍動した。

 素早くドアノブを回すと、開けた視界の先に、目を疑うような光景が飛び込んできた。

 ――嘘だろ。

 俺は猛然と駆け出した。

「おい、梨佳子! 何やってんだよっ!」

 梨佳子は小さな体に馬乗りになる格好で、うつぶせになった遥希を押さえつけていた。

 遥希は頭を鷲掴みにされたまま、苦しそうに手足をバタつかせている。床に押し付けられた頬。梨佳子は俺に目もくれず、頭を押し潰さんばかりの勢いで、右手一本に体重を乗せていた。

「よせっ! 梨佳子、離れろって!」

 俺は梨佳子を引きはがそうとするも、信じられない強さで抵抗される。それでもなりふり構っている場合じゃないと、重石をぶん投げるような格好で、梨佳子を壁際に投げ飛ばした。

 重圧から解放された遥希を抱え上げる。

 遥希は、両目に大粒の涙を溜めこみ、震えていた。

「……パパ。パパ、いたいよ。こわかったよ」

力なく訴える遥希に頬ずりすると、背後に梨佳子の存在を感じとった。

「梨佳子っ、お前何やってんだよっ!」

 振り向きざまに一喝する。

 だが梨佳子を見上げた瞬間、俺は二の句を失った。

 梨佳子が鬼の形相で、俺を見下ろしていたからだ。

 いや違う。俺ではなく、狂気を孕んだ矛先は、遥希に向けられていた。

 俺は咄嗟に立ち上がり、遥希を梨佳子から遠ざけた。

 次の瞬間――。

 梨佳子は憑き物が取れたかのように表情を一変させた。

「……ああ、違う。違うの、これは違うの」

 声を震わせ、何度もかぶりを振りながら、梨佳子が後退りする。

「何が違うって言うんだよっ!」

 俺は感情を押さえることができなかった。

 こうなった経緯はわからない。だけどそんなこと、どうだっていい。これは明らかにやり過ぎだ。断じて躾などではない。

 俺は敵意を剥き出しに、梨佳子を睨みつけた。

 視線から、俺の言わんとしていることが伝わったのか、梨佳子が居た堪れなくなったように目を逸らす。すると突然、玄関に向けて駆け出して行った。

「おい、梨佳子。どこ行くんだよ。梨佳子っ! 待ってって、おいっ!」

 後を追おうとした俺に、遥希の声が待ったをかける。

「パパ、いかないで。いかないでよ」

 足止めされた俺は茫然と立ち尽くし、梨佳子が消え去った後の玄関を眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る