【梨佳子】

 吐き気がする。

 すぐにでもトイレに駆け込みたい気分だった。

だけどできない。私は今、遥希を抱きかかえているから。

 ついさっき流れていたコマーシャルの影響だろう。画面には、小さな女の子が母親に抱っこされている映像が流れていた。それを見た遥希が、私の足にしがみつき「ママ、だっこしてー」とせがんできたのだ。

 そんな遥希が愛しくもあって、私の頬はつい綻んでしまう。遥希は母性をくすぐるのが本当に上手だと思う。私自身、遥希に甘えられるのは嫌いじゃない。

そう。嫌いじゃなかったはずなのに――。

 駄目だった。

 今この瞬間は、とてもじゃないが遥希を愛おしいとは思えない。

 私の腕の中にいる遥希が、実は宇津木なのではないかという懐疑が、どうしたって頭から離れない。

 私が抱っこしているのは遥希か? それとも宇津木なのだろうか、と自問すれば、考えは自然と悪い方向に傾いてしまう。

 目に映る現実はひとつ。この子は、私が産んだ息子に決まっている。けれど、それさえも宇津木の手によって偽装された映像ではないのか、と心を揺さぶられた。揺さぶられて、掻き混ぜられて、私の心はぐちゃぐちゃに混濁していた。

 今、私の胸に顔を埋めながら無邪気に笑っている遥希の顔でさえ、見方によっては、宇津木がほくそ笑んでいるように見えてならない。

 馬鹿なこと考えてるんじゃない。これは私の息子だ、と叱咤するように言い聞かせなければ、遥希を抱える腕の力でさえ、抜け落ちてしまいそうだった。

 しかし、遥希にどう接していいものか。

 昨日の出来事が、拍車を掛けるように私を悩ませた。

 食事の間も、お風呂に入る時も、おむつを交換する時も、宇津木の顔がチラついては、私を苛立たせる。どの会話ひとつをとってみても、それが本当に遥希の本心なのかと疑ってしまう。私は現実を現実として見られなくなっている。ある種の末期的症状だという自覚があった。

 不意に限界を感じた私は、早口で伝える。

「ゴメンね。ママ、トイレに行ってくるから一人で遊んでてね」

 言い残し、遥希をテレビの前に座らせた。

 急ぎ足にトイレへ向かう。中へ飛び込むと、便器の前で膝を折り、そのまま便座へ覆いかぶさるように嘔吐した。が、たいした吐しゃ物も出ず、胃液が喉元にせり上がってくるばかり。それでも何度か吐き続けては、苦々しさに顔を歪めた。

 胸のむかつきもさることながら、頭の中が、ぐるぐると不規則に動き回っている。眩暈にも似た症状だ。便座に身をあずけているにもかかわらず、平衡感覚を失ってしまうような浮遊感に苛まされた。

便座を掴む、というよりも、便座にすがりついているような状態だった。

 昨日から、食事も満足に喉を通っていない。

 ここ数日、ずっと浅い眠りが続いていたせいか、精神的にも肉体的にも、随分と憔悴していることが実感できた。倒れていいよ、と誰かが耳元で囁けば、すぐにでも意識を断ち切れるだろう。

 できるなら、時間の許す限り、この場に留まり続けたかった。一歩たりとも動きたくない。一旦脱力させた身体に鞭を入れるのは、相当に労力のいる作業だった。さらにもうひとつ。本音を言えば、息子の顔を見ることも怖かった。この場を出たら、遥希がどんな顔をして待ち構えているか。想像し、後悔する。私はまた、便器に向かって顔を埋めた。


 昨日の夜、千尋からメールがあった。

 なんとなくではあるが、私はメールを開く前から、画面に何が表示されるのかを予見することができた。

【マネージャーに確認取ったよ!】というタイトルに続き、本文にはこう綴ってあった。

 ――先週、マネージャーが新しくオープンしたキャバクラに招待されたんだけど、そこで、古館さんって人と会ったらしいの。で、その人が思い出したように、リカに『処分した』とだけ伝えておくようにって、言ったんだって。ね、ね、この処分したって、殺したってことだよね? 古館さんって、あの青薔薇の古館なんでしょ? あの人、かなりヤバイ系だって聞いたことあるから、宇津木くん、殺されたってことで間違いないって、マネージャーも言ってたよ。っていうか、ゴメン。なんか物騒な話だよね……。でも、これってリカにしてみたら朗報だもんね。ほら、リカは真面目だから素直に喜べないかもしれないけど、私は喜んでいいと思うよ。だって、リカはそれだけのことされたんだし……。やっぱ、罰が当たったって思えばいいんじゃない? ね、因果応報って言うじゃん。←意味合ってるかなぁ。ってことで、千尋からの報告でした!


 やっぱりか、という思いで携帯電話を閉じた。

 これでなにもかも疑う余地はなくなった。

 私も宇津木が死んだとすれば、そこには何らかのかたちで、あの古館が関与してるだろうとは思っていた。

 宇津木は殺されたのだ。何時、どこで、どんな方法で殺されたのかはわからない。『処分した』とは、いかにも古館らしい言い回しだが、あの男にしてみれば、宇津木という男はゴミ同然の扱いに等しかったのかもしれない。

 なんにせよ、唯一の不確定要素だった宇津木の死が明確になった以上、私は、覚悟を決めなければならなかった。


 私の覚悟。私は昨晩から、ずっと同じことを考えている。

 遥希を助けたい。私は、遥希を助け出したい。

 絶対に、絶対に、私は宇津木から、大切な息子を取り戻さなければならなかった。

 昨日の宇津木とのやりとりでもわかるように、遥希は今、宇津木に人質に取られているも同然の扱いだった。絶対的に不利な状況下にいるのは私。宇津木は遥希の身体を楯に、私を脅しいれようとしていた。目的はわからない。真意を問えば、話を逸らされる。そして私を煙に巻くような言葉を言い残すと、雲隠れするように、遥希の中へと消えていった。

 しかし、宇津木は会話の中で、私にこう言っていた。

「新しい体を手に入れた」「この瞬間はオレの体でもある」「生かすも殺すもオレ次第」「長い付き合いになる――この先何十年と、リカはオレを養ってくれるんだろ」と。

 それらの言葉が意味するところは、ひとつしかない。

 宇津木は完全なる憑依を企てているのだ。

 だから私は、今が不完全な状態であると推測した。

 現存する遥希の人格と、憑依している宇津木の人格が入れ替わる。

 そのきっかけが、今をもって私には判然としなかったが、そこに何か、死者だけが発動できるようなカラクリがあるのは間違いない。

 あの男は、何らかの方法を用いて、遥希の身体を乗っ取ろうとしているのだ。

だとすれば、私は宇津木の触手が伸びきってしまう前に、なんとしてでも遥希を助け出さなければならない。真綿で首を絞めるように人をなぶるのは、いかにも宇津木が好みそうなやり口だったが、黙ってそれを受け入れるわけにはいかない。

 私には、守るべき家族がある。昔の私とは違うのだから。


 私は握り拳を作った。らしくないポーズであるが、気力を奮い起こす意味で心に火を入れる。こんな場所に留まっていても何も始まらない。立て、と心に喝を加え、片膝を立ててから、ゆっくりと、重い腰を持ち上げた。

 トイレを出て扉を閉めると、下駄箱の上に置いてあるサンセベリアに目がとまった。まだ篤斗が本牧で一人暮らしをしていた頃から大切にしている観葉植物である。

 ふと私は、篤斗の言葉を思い出す。

 サンセベリアには、空気を浄化する作用があったり、悪い気を浄化する厄除けや魔除けの役割が備わっている、と。

 結婚を機にこの新居へ引っ越した際、篤斗はそういってサンセベリアを下駄箱の上に置いた。

 ――こうすれば、外から入ってくる邪気を追い払ってくれるかもよ。

 篤斗はそう語ったが、それも迷信染みた俗説に過ぎないことが実証されてしまった。篤斗には悪い気もするが、魔除けの効果が本物ならば、私と遥希がこんな目にあうはずがない。

 と、私は無意識に手を伸ばしていた。

 こんな紛い物、捨ててしまえばいい。

 眉根に力を込め、鉢を持ち上げた。が、投げ捨てようとした先に、遥希の背中を見た。それが私の心にブレーキを掛けた。

 元の場所に鉢を戻し、代わりに溜息を落とした私は、大袈裟に首を振った。

 わかっている。今、自分が何をしようとしていたのか。

 わかってはいるが、衝動的になってしまう自分に歯噛みする。私はこんな女じゃなかったはずだと――。

 嫌な気分を変えようと、洗面台で冷水を顔に浴びせる。

 手の平で水をすくい取り、口内の不快感が消えるまで、うがいを繰り返した。

 タオルで顔を拭ってみると、鏡の中にいる私は、随分とひどい顔をしていた。血色の失せた青白い顔。顎の横に赤い膨らみがある。

 爪先で軽くこすってみると、覚えのある痛みがした。吹き出物ができるのも久しぶりだ。連日の睡眠不足にたたられているせいか、不規則な生活習慣を正すようにと、警告を与えられているようだった。

 私は足音を立てぬように、キッチンの脇まで進む。恐る恐るリビングの様子を窺った。

 遥希はテレビから流れる音楽に合わせて、元気いっぱいに踊っている。その姿を見て、ほっと胸を撫で下ろした。あれは宇津木ではない、と直感的に見分けることができたからだ。

 純真無垢とは真逆の位置にいる男に、あれほど無邪気な表情を作れるはずがない。考えたくはないが、宇津木の意識は、まだ遥希の中で眠っているのではないだろうか、と推測する。


 篤斗が家を出てからは、まだそれほどの時間は経っていない。私と遥希の長い一日は、ようやく幕を開けたばかりだった。

 篤斗の仕事は、今週から追い込みの期間に入っていた。来週の二十五日。月曜日の朝一までは仕事に忙殺される日々が続き、帰宅は毎夜、遅くなる。およそ一週間の間、篤斗は一般のサラリーマンには理解しようもない時間帯の帰宅が続く。昨晩にしても、篤斗が帰宅したのは二時近かったと記憶している。

 当然ながら、遥希のことを相談できるような時間はない。

 いや、時期的な理由が重なってなかったとしても、私は篤斗に打ち明けるつもりはなかった。

 息子に死んだ元カレの霊が取り憑いている、なんて話を、篤斗が信用するとは、到底思えなかったからだ。

 さらに加えるなら、篤斗はこの手の話題に対し、肯定的な意見を持ち合わせてはいない。その大きな要因となっているのが、昨年の夏に、『タウンズ・ウォー』の企画で心霊特集を組もうとした際の経験だった。

 その心霊特集は、横浜市内で噂される心霊スポットに、近郊の寺院のなかでも名高い住職を連れて行き、真相をレポートするものだった。

 そこで篤斗は、住職に協力を要請する段階で、まさかのカミングアウトを目の当たりにしたのだ。

「生まれてこの方、幽霊の姿なんて見たことないですよ」

 住職曰く、宗派によっては幽霊の存在を認めていないところもあるそうだが、その上で本人は、いち個人の意見としても「私には見えません」と念を押し、断りを入れてきたという。

 篤斗は仕方なく、水子供養で有名な別の住職を当ってみたのだが、そこでも予想外の本音を打ち明けられてしまった。

「形式としての水子供養を行なってはいますが、だからといって、私に水子の霊が見えているわけではないんです」と――。

 その晩の篤斗は、坊さんのぶっちゃけ話なんて聞かない方がいい、と酷く興ざめをしていた。

「別に坊さん全部が霊を見えるだなんて思っていないよ。まさか坊さんになる条件に『必ず霊の姿が見えること』なんて資格は必要ないだろうからな。まあ坊さんなら見えるだろうなんて勝手なイメージを押し付けたのはこっちだし、嘘付かれるよりはよっぽど真摯的で結構なんだけど、さ。――だけど。それなら除霊を生業にしている人間って、いったい何者なんだろうな。あの人たちには、本当に霊の姿が見えているのかなって、疑問に思えてこないか? だってそうだろ。水子の坊さんみたいな例だってあるわけだよ。だとすれば、本音では、霊の姿を見ることができない形式だけの除霊師がいたって不思議じゃない。そう思えば、除霊って儀式自体が、どうしたって怪しく見えてくるよな」

そんな篤斗に向かって、私自身が除霊の対処に頭を抱えているなんて話は、相談できるはずがない。ましてや、息子に憑りついた元カレの除霊話だなんて……口が裂けても打ち明けようがなかった。

 逆に心配症の篤斗なら、私がなにか酷い被害妄想を抱え、精神を病んでいるのではないかと、あらぬ方向へ気が向いてしまう恐れの方が強い。

 私は息を呑み、自分がおかれた現状を再認識した。

 やはり私には、全てをひとりで解決する以外に方法がない。それも火急的に、解決への糸口をみつけなければならなかった。

 遥希の身体に宇津木が憑依しているとわかった現在、タイムリミットさえわからぬ以上は、一刻も猶予すべきではない。さらに付け加えるならば、私自身が、この状況下に耐え続けるだけの保証もなかった。

 昨晩も、私は遥希が眠った後でパソコンに向き合った。

 依然として、憑依のメカニズムについては判然としないことばかりだったが、それでも、いくつかの収穫があった。

 私が【憑依】を頼りに検索を続けていると、憑依をテーマにしたあるブログに行きあたった。

 素人の体験談のようなもので、ブログの著者は、プロフィールに『心霊作家』と書いていた。どうやら携帯小説向けにホラー小説を書いているらしく、霊媒体質である自己の豊富な心霊体験を元に、小説やブログを公開しているようだった。

 記事の信憑性については他のサイトと同様で、私の感性に委ねられているような気もしたが、目を通していると、実に興味深い内容が記されていた。


 あれから4日が経った……。

 今、俺自身は自分であるという確証がある。

 だから、今の内にこのブログを綴る。

 何時、アイツが俺の意識を占領し、我が身の如く人の肉体を以て振舞うのか?

 前触れ無く襲ってくる恐怖を、俺は寸前まで感じることができない。

 何故か? その理由が見つからない。

 俺は霊感が強いんじゃなかったのか?

 しかし、思っても現実は何も変わらない。

 過去に1度だけ、妻に取り憑いた霊を除霊したことがある。

 が、思い出して理解する。

 除霊とは……霊に取り憑かれてしまった者以上に、霊力の強い人間にしかできない。それが答えだ。

 だから俺自身には対処することができない。

 俺以上に、霊力の強い人間に出会わない限り、俺は、今の状況を抜け出すことができないのだろう。

 だが、果たしてそれは叶うのだろうか?

 幸い、自分の霊力の強さが身を守ったのか、はたまた、これがアイツの狙いなのかはわからない。

 結果として存在する自我の意識に、俺は安堵し、そして不安になる。

 俺という器の中に存在する、自分以外の魂の存在……。

 いったい、何時まで続くのだろう……。


 ブログの著者は、この日を境にブログの更新が途絶えている。

 内容から察するに、著者が何らかの霊に憑依されているのは間違いない。ブログがアップされたのは、昨年の十二月。この日の更新を最後に、一年近くも音沙汰がないのだとすれば、安否を確かめるどころか、最悪の事態……ということも考えられた。

 無論、憑依された人間が綴っているブログなどは、疑わしいことこの上なく、記事自体が悪戯である可能性もあるのだが、そうだとしても、ここに書かれている内容は、遥希の目線に当て嵌めて考えると、実にしっくりくる内容に思えた。

『除霊とは……霊に取り憑かれてしまった者以上に、霊力の強い人間にしかできない』

 ブログの著者には、霊感であり、霊力のようなものがあり、それを元に、過去、自分の妻に取り憑いた霊を除霊した経験があると記述している。当時の除霊方法について書かれていないことが残念だったが、もしこの一文が事実であるならば、私には、遥希に憑いた宇津木の霊を除霊することができないということになる。

 なぜならば、私は興味こそあれ、およそ霊感と呼べるような力を持ち合わせてはいなかった。過去の人生に於いても、霊を見た記憶もなければ、心霊写真のようなものが写り込んだ経験すらない。ごく稀に、自分の背後に怪しげな気配を感じ取ったくらいの経験はあるものの、振り返った私に、ホラー映画に出てくるような展開は待っていなかった。

 霊感や霊力の基準なるものはわかりかねたが、それでも私みたいな人間に、強い霊力が備わっていないことだけは明白である。


 深夜になると、私は布団に潜りながら、ひとり煩悶していた。

 瞼を閉じた世界の中で、一刻も早く、宇津木から遥希を取り戻さなければならない想いと、除霊に対する不安感とが火花を散らし続けていた。戦いはしばらくの間、続けられた。そして最終的に至った私の結論は、除霊を依頼することだった。

 こうなってしまったら、除霊を専門とする霊能力者に依頼する以外、遥希を助け出す方法はない。自己解決の手段が見つからない以上は、他力本願だとしても、そこに賭けるしか道はないと決断した。

 したがって、私が今日やるべきことは、除霊の依頼先を見つけることに他ならない。

 それもできる限り迅速に、篤斗に気付かれないよう、事を済まさねばならなかった。篤斗が仕事をしている内に、日帰りで行けるような場所。もしくは出張で除霊を行ってくれる霊媒師。料金だって、慎重に確認しなければならない。除霊が大前提だとしても、あまりに高額な料金は、支払えない可能性だってある。いくら家計を預かっている身だとはいえ、夫に内緒で使える金額には限度があった。

つまり私は、限られた条件の中で、最良と判断できる手段を探さねばならないのだ。

 私は刻々と周回を重ねていく時計の針に目を向けた。

 遥希が目を覚ましている以上、いつまた宇津木が現れるかも知れぬ状況での行動には、リスクが伴う。私の目論見を、宇津木に悟られるのだけは、絶対に避けなくてはならない。私は逸る気持ちを抑えつつ、普段通りの日常を演じ続けながら、遥希がぐっすりと昼寝をしてくれる流れを作らねばならない。

数時間先には、私はどこか最良の条件に当てはまる場所を捜し出し、除霊の段取りを済ませているだろう。遥希の救出に向け、一歩も、二歩も、前進しているはずだ。そうやって、頭の中に、良いイメージを植え付けることで、情緒のバランスを保つように意識した。

 少しでも気を抜けば、不安と緊張に呑み込まれそうな自分がいたからだ。

 正直こんな緊張は、高校や大学の受験、さらには就職試験の場でさえも味わったことはない。自分なりに、慎重にことを進めている自覚はあるにせよ、未知なる領域へ足を踏み出す恐怖は、身体へ正直な反応を与えていた。今もそう。こうして立っているだけにもかかわらず、額に触れた手には、脂汗が滲んでいる。

 なんとしても、最悪の事態だけは避けなくてはならない。

 そう思った矢先、一抹の不安が大きく膨れ上がった。

 順当に依頼先が見つかったとして。もし、もしも、それでも駄目だった場合、遥希は……。

 脳裏に浮かんだ邪念を打ち消すように、首を振り続ける。

 私は気持ちを奮い立たせようとした。しかし、それよりも早く、心のざわめきが波紋のように拡がると、全身を身震いさせた。

 駄目だ、と思った時にはもう遅く、私は、キッチンシンクに嘔吐してしまった。


 十四時を過ぎ、遥希の瞼が完全に閉じたことを見計らって、私はパソコンデスクの前に腰を下ろした。

心待ちにした時間。と同時に、これは限られた時間との戦いでもある。次に遥希が目を覚ますのは一、二時間後。だがそれも、確約された時間ではない。普段から規則正しい生活を心掛けているとはいえ、今日に限って、というケースがないわけではない。気は逸る一方だが、私は冷静かつ迅速に、やるべきことを済ませねばならない。

 冷蔵庫から取り出してきたチョコレートを一欠片、口にする。

 昼食が殆ど喉を通らなかったせいもあるが、それ以上に、私の脳が糖分を欲していた。もう一欠片、脳の補給命令に従うように口へ放り込む。舌先でゆっくり溶かすように味わってから、大きく深呼吸した。

私はこれから一世一代ともいえる選択をしなければならない。決断は、既に下されている。私がやるべきことは、たったひとつ。数ある選択肢の中から、最良だと思えるものを選び出すことであった。

 私は意を決する思いで、画面上の検索窓に『除霊』『霊媒師』と入力した。表示された検索順の上位に並んでいる情報の中から最初の候補を選び、マウスをダブルクリックした――その時だった。

 背後のダイニングテーブルに置かれた携帯電話が、音を立てた。

 瞬間、私はテーブルを震わせる振動音で遥希が目を覚ますのではないかと、息を呑んだ。慌てて携帯を手に取ると、遥希の様子を覗き見る。大丈夫。幸いにも眠りは深そうだ。

 画面を確認すると、千尋という二文字と十一桁の数字が表示されていた。この時間の電話も珍しい。月菜ちゃんのお迎えではないのだろうか。思いながら私は、携帯を耳にあてた。

「もしもし」

 声のトーンを落とし気味に告げ、遥希が寝ている部屋の引き戸を、ゆっくりとスライドさせた。

 千尋の第一声は、酷く小さな声だった。

 私はてっきり、普段通りの快活な声が飛び出してくるものだと構えていた。けれども実際は、生気が失われたようにか細く、微かな震えを帯びた声だった。

『……私、ママ失格だ』

 そう呟いた後、電話の向こう側で黙ってしまった千尋と、言葉の意味を理解しようとする私との間に、沈黙が落ちた。

「千尋、どうしたの?」

 一呼吸置いてから、様子を探るように問いかける。が、答えはすぐに返ってこない。千尋らしからぬ間に、私は胸騒ぎを覚えた。

『リカ、どうしよう。私、ママ失格だよ』

 ようやく耳に届けられた声は、不安と悲壮感が入り混じったように、弱弱しい声色をしていた。

「ママ失格って……何? 何があったの」

 状況を把握しきれぬまま、私はさらに問い掛ける。

 その声が合図になったのか、突然千尋は、取り乱したように喋り始めた。

『――月菜が帰ってこないの。月菜に嫌われちゃった。私はもう、月菜のママでいられないかもしれない。月菜は私よりも、ママよりもおばあちゃんの方がいいって、いなくなったの。私じゃダメ。もう、私じゃダメなんだって。私なんていらないんだよ』

 会話というよりは、ほぼ一方的に思いの丈を吐き出すような展開に圧倒される。まるで破滅に向かっていくような、自棄的な嘆きを帯びた告白だった。

「ちょっと待って。ねぇ千尋、落ち着いてよ。一体何があったの?」

 堪らず口を挟むと、電話の向こう側で、千尋が息を呑んだように感じられた。私が続ける。

「大丈夫だよ、千尋。私は何を聞いても驚かない。だから教えて。何があったのか、ゆっくりでいいから、私に教えてよ」

 もう一度、息を呑むような間が耳の奥へと拡がった。微かに聞こえてきたのは、苦しそうな、千尋の息遣い。

『私ね。昨日、月菜を叩いちゃったんだ』

「……叩いた、の」

 千尋の言葉を反芻し、私は慎重に声を返した。

『うん。叩いたっていうか……殴っちゃったっていうか』

 瞬間、私の胸が大きく拍動した。私はかろうじて、訊き返す。

「殴ったって、どうして?」

『月菜、最近ちょっと生意気になってきてて、全然言うこときかないんだよね。で、昨日、お店に行く前に喧嘩しちゃってさ。ついカッとなって手を出しちゃったの。それも……思いっきり』

 私はすぐに声を返すことができなかった。遥希を殴った、あの日の自分が、千尋の声に重なる。

「で、月菜ちゃんは今どこにいるの?」

『昨日の夜から、おばあちゃん家に行ってる。今日の幼稚園もおばあちゃん家から行って、今もおばあちゃんが迎えに行ったけど……こっちには帰らないって、帰りたくないって、さっき連絡があった』

 やや冷静さを取り戻しているものの、普段の千尋からは想像がつかないくらい、生気が抜け落ちている。電話口の向こうで、悄然と肩を落としている姿が目に浮かんだ。

 だけど、どうしてだろう、と首を傾げる。

 私の知る限り、月菜ちゃんは千尋のことが大好きだったはずだ。

 それこそ二人は、母と娘というよりも姉妹のような間柄で、傍目にも本当に仲の良い親子だった。私と遥希もあんな関係になりたいと、憧れていた面がある。だからこそ、私には腑に落ちない部分があった。

 もし千尋が口にした行為が、ただ一度だけの過ちだとすれば――話が飛躍しすぎている気がする。

『ねぇリカ。私、どうしたらいいと思う? 私は月菜に謝りたい。謝って、帰ってきてほしいの。でも、月菜は私となんか話したくないって、電話にも出てくれない。もうママになんか会いたくないって言うんだよ』

 四歳とはいえ、月菜ちゃんは立派に自己主張ができるようになっている。遥希と比べても、数倍は大人だ。その月菜ちゃんが言った。

 ママになんか会いたくない、と。だとすれば――。

「千尋、怒らないで聞いてね」

 私は思いきって切り出した。

「月菜ちゃんを叩いたのって、今回が初めてなの?」

 いつもなら、多少感情的な声が返ってくる場面も、珍しく、千尋は黙っていた。

 だから思う。私の見解は、そう遠くないはずだ、と。

 携帯を握る手に力を込め、耳に意識を集める。

『やっぱり、リカには隠せないよね』

 溜息まじりに落ちた声。千尋が先を続けた。

『正直に言うとね、今までも手を上げたことは何回かあるんだ。でもね、それって殴るとかじゃなくて、ほんと、躾のつもりで叩いてるっていうか……絶対に、絶対に暴力とかじゃないの。間違っても虐待なんかじゃない。月菜にわかってもらいたくって、でも、わかってくれないから、仕方なく手が出ちゃう……。だからいつも、後から月菜に悪かったって思うの。ほんとだよ。いつも月菜に悪いことしちゃったって、反省してるの。だけど、昨日はついカッとなっちゃって、本気で殴っちゃったの。ほんとに、ほんとに言い訳っぽいけど、私、無意識だったんだよ。つい、本当につい、カッとなって……』

 ――リカも母親だから、わかってくれるでしょ?

 再び落ちた沈黙が、そう問い掛けているようだった。

 私は相槌を打つ。千尋が口にした母としての主張は、決して間違っていない。もちろん、言い訳だとも思わない。だけど思う。どんな理由があるにせよ、暴力を肯定することだけはできない。後にどれだけ後悔しようとも、手を出してしまった事実は変わらない。一生涯、記憶に刻まれることになる。

『ねぇリカ、知ってた。人を殴るって、凄く痛いんだね。痛いよ。私、本当に痛い。殴った手じゃなくてね。胸が、張り裂けそうに痛いんだよ。心が凄く苦しいんだよ。だけどね。私は知らなかった。こうなるまで気付かなかった。月菜がいなくなっちゃうまで、気付かなかった馬鹿親なんだよ……。もう、こんなことになるなんて、こんなに後悔するなんて、こんなんだったら私、自分が殴られた方がよっぽどいいよ』

 千尋が口にするひとつひとつの言葉が、心の内で、複雑に絡み合っていく。殴られる痛み、殴る側の痛み。そのどちらも私は知っている。経験している。

『同じなのかな。私、アイツらと同じなのかな』

千尋の言う『アイツら』とは、身勝手な理由から子供を虐待したり、死なせてしまうような親のことを指しているはずだ。千尋は普段から、ああいった心ない親たちのことを目の敵にしている。

『もしかすると、私の中にも、アイツらと同じような悪魔が潜んでるのかなぁ。大切な子供を傷つけても、殺しても何とも思わないような、酷い母親になっちゃうのかなぁ……。いつか、いつか私も、同じような酷いことをしちゃうのかなぁ』

「ちょっと何言ってるの。そんなことない。そんなことないよ。だって千尋は、一生懸命に育ててきたじゃない。月菜ちゃんを、ずっとずっと大切に育ててきたじゃない。私は知ってるよ。千尋がどれだけ月菜ちゃんを大切にしてきたか。千尋があんな親たちとは絶対に違うってことを、私は知ってる。ちゃんと知ってるよ。だから大丈夫。私が保証する。月菜ちゃんだって帰ってくる。絶対に、千尋のところへ帰ってくるよ」

 言い終わりに、私はある出来事を思い出していた。

 先日、私と遥希が遊びに行った時のこと。千尋は月菜ちゃんが大切にしていたピアノを遥希にくれると言っていた。今思えば、あれも月菜ちゃんとの関係が悪化していたことが影響していたのかもしれない。昨日今日の話ではなく、もっと、ずっと以前からの話であるならば、私が想像するよりも、傷は遥かに深い可能性もある。

 保証する、などと強気にいっておきながら、私は不安を拭えずにいた。

『ありがと。リカにそういってもらえると、なんだか少しだけ落ち着いてきた気がする。でもゴメンね、リカ。いきなり変な話を聞かせちゃって。だけどこんな話できるのは、リカしかいないから』

「いいよ、千尋。今さら何言ってるのよ。私に遠慮なんていらないでしょ」

『うん。でもゴメン。それと、本当にありがとう』

 未だ不安に後ろ髪をひかれる思いはある。これで解決できたとも思えない。それでも今は、多少なりとも千尋が前向きになってくれたことの方が、救いに思えた。

『ねぇ、リカ。だったら、もうひとつだけ、聞いてもらってもいいかなぁ?』

「ん、何?」

『……実はね。ずっと内緒にしてきたことがあるんだ』

 そこで一旦言葉を切ると、電話の向こう側で、千尋が息を大きく吸い込む音が聞こえた。

『実は私、結構前から医者に通ってて、何種類も薬もらってるの。たぶん、リカが聞いたら、ひいちゃうんじゃないかな。それくらいの量』

 突然の告白は、私自身、全く想像もしていない内容だった。

 千尋が医者にかかっていた事実もさることながら、それほどの薬を処方されてるとは、よほど重篤な病気なのだろうか。

『ねぇリカ。気付いてた? 私ってね、鬱なんだって』

 僅かな時間の最中、私が想像し得たのは、癌や白血病といった類の病気だった。それらが一瞬にして弾け飛んだ。代りに、鬱という異質な重みを帯びたフレーズが、頭の中で山彦のように鳴り響いている。

「嘘、でしょ……」

 絞り出すように、私は声を返した。まさか千尋が鬱だなんて、到底、信じられるはずもない。鬱なんて、千尋には一番不釣り合いな言葉だ。

『嘘じゃないよ、っていうか、嘘なんか言ってもしょうがないじゃん』

 千尋は殊更に元気な声で返してくる。だけど私には、それがただの強がりであることがわかってしまう。千尋の声に、涙が滲んでいたから。無理をしてるのが痛いほど伝わってくる。繋がっていても、手の届かぬ距離。私は居ても立っても居られなくなる。

「鬱って、いったい何時からなの?」

『もう三年くらい前から、鬱って診断されてる』

 三年、と耳に受け、私は尚のこと落ち込んだ。

 三年といえば決して浅い年月ではない。私と千尋の歴史に換算すれば、その大半を占めるほどの期間。だけど私は知らなかった。気付きもしなかった。千尋が何故、鬱になってしまったのか、その原因が気にかかる。訊ねてみようか、とも思ったが、喉を抜ける寸前で、私は言葉を呑み込んだ。

 三年前は丁度、私と篤斗が付き合い始めた頃にあたる。

そして私がジュエルを辞めた時期にも重なった。目まぐるしく環境が変わっていった、あの時期。私は生活の変化についていくことに必死だった。そんな最中、千尋は私の知らぬ間に、鬱病を患っていたというのか。

 だけど、だからといって、そんなことは何の理由にもならない。

 そんなのは言い訳だ。それに、もしかすると、千尋はそれ以前から何らかの兆候が表れていたのかもしれない。いや、その可能性の方が遥かに高いはず。鬱とは突発的な病気などではないと聞いている。風邪や熱なんかとはわけが違う。じわじわと、それこそ自分でも気が付かない内に、精神を蝕んでいく。

 あの頃の千尋は、いつも私のことを気にかけてくれた。心配してくれた。自分の懊悩などおくびにも出さずに、宇津木との不毛な生活に悩まされる日々を、支え続けてくれた。

 私は馬鹿だ。助けを求めていたのは、私だけじゃなかった。千尋だって、悩みを抱えていたはずなのに……どうしてそのことに気付いてあげられなかったのか。

 私は自分が許せなかった。なにが親友だ。これなら私は、親友失格じゃないか――。

 千尋に対し、気丈な人物像を作り出してしまったのは私だ。逞しくもあり、芯の強い女性。歳下だけど、頼りがいのある女性。たとえ辛いことがあったとしても、平気で笑い飛ばしてしまう。

あの快活な笑みの裏側で、千尋はどれほどの苦しみを堪え、生きてきたのだろう。不器用なほどの頑固者。私には、決して弱みを見せなかった。

 だけど違う。それもこれも、全ては私の勘違い。

 私はいったい、彼女の何を見ていたのだろうか――。


 千尋が処方されている薬は、本人が口にした通り、耳を疑いたくなるほどの量だった。

デパス、トレドミン、パキシルにメイラックス、レンドルミンといった薬は、所謂抗うつ剤と呼ばれるものらしい。それに加え、睡眠導入剤として服用するハルシオン。それらを服用する一日あたりの量は、実に二十錠近くなるという。

「そんなに飲まなくちゃいけないものなの?」

 それじゃ薬漬けじゃない。と思いながらも、自分がもし、宇津木と暮らしていたあの時期に、病院へ足を向けていたならば、同じような扱いを受けていたのではないか、とも思う。私自身、鬱ではないかという自覚症状があったくらいだ。そう思えば、とても他人事には聞こえなかった。

『最初はね、薬もそんなに多くなかったんだ。でもね。私、医者にはキャバやってることを黙ってるの。まさか、ほぼ毎日お酒を飲んでます、だなんて言えないでしょ。だからね、嘘ついたの。だって、仕事辞めた方がいいなんて言われたら、それこそどうしたらいいか、わかんなくなっちゃうじゃん。だから実際は、処方してもらった薬も、殆ど飲んでない。可笑しいよね。だったら医者なんて行かなけりゃいいじゃん、って話でしょ』

「別に可笑しくなんかないよ。どこも可笑しくなんかないよ」

  瞬きした私の目じりを、涙がそっと零れ落ちる。電話の向こう側で、千尋もまた、泣いていた。

『だけど、言われたとおりに飲んでないせいか、一向に症状が良くならないからって、薬ばっかり増えていったの。《症状が重くなってるかもしれません、薬の量を増やしてみましょう》なんて、ね。笑っちゃうよね。私、殆ど飲んでないのに、ね』

 三年もの間、千尋は医者に真実を打ち明けられずにいたのだ。今もそう。いや、今後も同じことを繰り返すかもしれない。本当に薬が必要な身体なのか、それさえも計ることができず、おそらくは、相談さえもできずにいる。それでも他に、拠り所を見つけられないでいる悪循環に嵌まり込む。

 私は思った。

 たぶん、今の千尋に必要なのは薬なんかじゃない。

 だから思い切って進言した。

「そんな医者、やめちゃいなよ」

『やめちゃえばって、リカ。それなら私はどうすればいいの? どうしたら普通に戻れるの? 教えてよ』

 涙交じりの声が、投げやりに訴える。どうにもならないの、だから私が困ってるんでしょ、と。

 千尋の訴えはもっともだと思う。が、それでも私は、無責任にやめろといったわけではない。私には当てがある。あの人なら、きっと――。

「ねぇ千尋。落ち着いて聞いてね」

 そう言って私は、千尋の反応を待った。……うん、と小さな声を耳にした私は、千尋が抱える傷を労わるように、想いを込めて、先を続けた。

「篤斗の昔からの友達に、汀さんって人がいるって話、前にしたことがあるでしょ。ほら、銀太郎さんって、苗字と名前が個性的な組み合わせの人。覚えてる?」

『覚えてるよ。あれでしょ。リカが篤斗くんの家で暮らしてた時に、お世話になったっていう人』

「そうそう。あの人がカウンセラーの仕事をしてるの。あっ、カウンセラーっていうのは表向きの呼び方で、本人はアドバイザーだって言ってるみたいなんだけど。実際にやってることは、悩み事相談室みたいな感じらしいの」

『それも知ってる。タウンズ・ウォーに広告載ってるよね。前にリカが教えてくれたじゃん』

「あっ、ゴメン。そうだっけ」

 私は首を傾げた。いつの話だろうか。頭の片隅で検索しかけたが、先を続ける。

「でね、そこには鬱のことで悩んでる人も来るらしいんだけど、汀さんは薬の必要性を見定めることができるんだって。ほら、医者ってなんでもかんでも薬を処方して、はいおしまい。あとは経過をみてみましょう、みたいなところがあるじゃない。だけど精神科に通ってる人の中には、本来薬を必要としない人も混ざってて、薬を飲むことが逆効果になってる場合があるらしいの」

『何よそれ、嘘でしょ。だって私、医者からは薬を飲み続けないと絶対に治らない、って言われてんだよ』

 耳に届く声には、明らかな驚きが感じられる。

「うん。私も話を聞くまでは、そういうものなんじゃないかって思ってた。だけど汀さんは、悩みを抱えてる人の抜本的な部分から解決していくのが信条でね、予備軍にまで薬を与えるのは間違いだっていうの。薬は本当に必要性がある時だけ、自分が信頼している精神科医を紹介して処方してもらうみたい。だけど大抵の場合、そこに至らないで済むことになるって言ってた」

私は以前に篤斗がいっていた台詞を真似てみた。他にも篤斗は、『目には目を、歯には歯を、心の病には真心を』とも言っていたのだが、あれは篤斗自身の言葉だろう。汀さんには似つかわしくないセンスだから。

『……ほんとに、本当にそんなことができるのかなぁ』

半信半疑。だけど揺れ動く心のゆらめきが、千尋の声音から窺える。だから私は、千尋の不安を拭い去るように強気で言ってみせる。

「大丈夫。あの篤斗が勧めるくらいだから間違いないと思うよ。汀さんって、篤斗の中学時代からの親友でね、それだけでも私は信用するに値する人だと思ってる。それにね。仕事柄、交友関係の広い篤斗でも、親友って呼んでいるのはあの人だけ。あの負けず嫌いの篤斗が人をリスペクトするのも珍しいし、信じていいと思う」

 千尋は黙っていた。何かを不安視しているのか、それとも躊躇いがあるのだろうか。どこか言い淀んでいる雰囲気が、電話口の向こうから伝わってくる。もしかすると、私の想像以上に、三年という病歴が、彼女を弱気にさせているのかもしれない。

 それでも、このまま立ち止まっているのは千尋らしくない。

 私は精一杯の気持ちを乗せて、言葉で後押しする。

「ねぇ千尋。私は千尋が鬱病だなんて思いたくない。たとえ医者がそうだといったって、私は違うと信じたい。だって千尋は、いつだって明るくて、毒舌で、わがままで、奔放で、それでいて、私の前ではいつも元気いっぱいで楽しそうじゃない」

『酷いよリカ。別にそれ、褒めてないじゃん。半分くらいは棘があったでしょ』

 ようやく返ってきた声は、心なしか、明るみを帯びていた。

『それともうひとつ。リカがそう見えてるのは、私が元気な自分を演じてるからだよ』

「ううん。私はそれも違うと思う。もしそうやって千尋が自分を演じてるとしたら、それって、すごい活力だと思う。私の知ってる千尋を、三年も演じ続けるなんて、そんなの鬱の人なら絶対にできっこないよ。それに、本当に千尋が演じてたんだとしても、それって、千尋がちゃんと自分で性格をコントロールしてた証でしょ。私、鬱に詳しいわけじゃないけど、そんなこと、病気の人なら絶対無理だと思う」

 気休めでもなんでもなく、私は本心から思うがままを伝えた。千尋は千尋。私の知ってる千尋は、あなたひとりしかいない。だから届いて。届いてほしい。そう願う、思いの丈を並べあげた。

『……わかったよ、リカ。そこまで言ってくれるなら、近いうちに一度行ってみるから。……あっ、連絡先、わかる? 今、手元にないんだよね』

「うん、ちょっと待ってね。すぐ調べるから」

 書棚からタウンズ・ウォーの最新号を引き抜き、指先を走らせた。

 たしか今月号にも広告を載せていたはずだ。私はページを捲りながら、目印となっている汀さんの顔写真を発見し、千尋に連絡先を伝える。

「千尋が嫌じゃなかったら、篤斗からの紹介だって言ってもいいんだけど、どうする? それとも、篤斗には内緒の方がいい?」

『ゴメン。篤斗くんには内緒にしといてくれるかな。タイミングみて、私から話すから、さ』

 その声を聞きながら、思った。

 もしかすると、千尋は以前から汀さんが経営する『ハートサポート銀』のことを知っていたのではないか、と。

 先程千尋は、私から広告の件を耳にしていたと言っていたが、正直なところ、私にはその辺の記憶が曖昧であった。汀さんのように、カウンセラーをしている人は珍しい。どちらかといえば、稀有な存在である。それが篤斗の親友ともなれば、千尋がいかにも食いついてきそうな話だった。淡々と通り過ぎていくような話題ではない。

 もちろん、汀さんの話をした記憶はいくつか残っている。だけどその後、カウンセラーとしての話や、広告の話などをしただろうか。

 あったとすれば、少なからず、会話の盛り上がりくらいは覚えているはずだ。それらが全て欠如してるとは、考えにくかった。

 やはり千尋は、『ハートサポート銀』の存在を知っていた。

 そう考えるのが正しいように思えてきた。だってそうだろう。本当に千尋が鬱病で悩んでいたとすれば、あの広告が目に入らないはずがない。千尋は昔から、タウンズ・ウォーの愛読者だ。仮に千尋が鬱病と関係なかったにせよ、少しくらいは話題に上っていても不思議ではない。いや、今では話題に上らなかったことの方が不自然に思えてくる。意図的に千尋がその話題を遠ざけていたと考える方が、整合性もとれる。

 と、ここまで行き着くと、たとえ私の憶測だとしても、現実味が帯びているような気がしてならなかった。

 先程のやりとりこそが、演技ではないか。

 私から連絡先を聞き出す必要は、なかったんだ、と。

 息を切った私は、唇を噛んだ。

 皮肉ともいえる巡り合わせは、結果として、千尋に二の足を踏ませることになった。たぶん千尋は、相談したくてもできなかった。

 理由はひとつ。汀さんが、篤斗の親友だったから。

 千尋は万が一の可能性さえも疑った。情報が、私たち夫婦に漏れる可能性を――。

 それほどまでに千尋は、自分が鬱病だという事実を隠したかったのだろう。月菜ちゃんの一件が後押ししなければ、彼女は永遠に、抱え込んだ悩みを打ち明けなかったかもしれない。

 他人の悩みには親身になって接する一方で、自分のことにもなれば、余計な心配を掛けさせないように強がってみせる。

 ある意味、千尋らしい行動だったとは思う。だけど私は、親友として、千尋を叱りつけたい気分にもなる。

 こんなに限界まで我慢してるなんて、本当にB型は強情っぱりなんだから――。


 全てを打ち明けたことで気が紛れたのか、千尋は私に、これから月菜ちゃんを迎えに行ってくる、と告げた。そこで私は、ある思いに行き当たる。

「ねぇ千尋。もしかして、月菜ちゃんの件も、鬱病のことが関係してたりするの?」

 そう口にしてから、後悔した。本人には言い難いことを訊ねてしまったな、と。

『うん。多少は、ね』

 私が予想した通り、千尋の声は、決して軽いものではなかった。

 そっか、と言葉を返し、思案する。千尋の言う『多少』とは、常人で言うところの『かなり』に相当する。鬱病か否かの真相は別としても、そうだと思い込んでいた千尋の精神状態は、月菜ちゃんとの生活にも相当な影響を及ぼしていたのだろう。

『今までさ、色々と月菜にも迷惑掛けちゃったから……それも含めて全部謝ってこようと思う。リカに話せたことで凄くスッキリしたし、元気もたくさんもらった。だから頑張って行ってくるよ。月菜にしっかり謝って、また一緒に暮らせるようにって、お願いしてくるね』

 完全復活、とまではないにしろ、口にした内容は、千尋らしい、ポジティブな姿勢に戻ってくれた気がする。

 私は念のため、不安なら私も一緒について行こうか? という言葉を用意していたが、今の声を聞く分には心配なさそうだ。

 大丈夫。月菜ちゃんは絶対に帰ってくるよ、と私は言った。

 今の千尋の元になら、きっと帰ってきてくれるだろうという確信があった。月菜ちゃんだって、心根ではママのことが大好きなはずだから。迎えに来てくれるのを待っているはずだ。

 電話を切った後も、私は千尋とのやりとりを反芻していた。

 人は見かけによらない、というが、まさか千尋がこんなことになっていたとは、つゆほども思っていなかった。多かれ少なかれ、人はそれぞれに複雑な事情を秘めながら生きてるのかもしれない。それが、千尋であっても例外でなかったということだ。

 おそらく、日頃から、幼児の虐待や殺害に過剰なまでに反応してしまう部分にも、千尋なりの葛藤があったのかもしれない。駄目だとわかっていながらも、自らをコントロールすることができないもどかしさ。自責の念を背負い続けているからこそ、最悪の結末に対しての憤りを抱えているのだろう。

 思えば千尋が『子供を殺めるな』と激高する訴えは、彼女自身に向けられていたのかもしれない。ともすれば同じ過ちを犯してしまう恐れのある自分に震え、歯止めを掛けようと警鐘を鳴らしていたのだろう。

 そう結論付けたところで、私は自らの身に起きている現実に向き合うよう、気持ちのスイッチを切り替えた。申し訳ないが、千尋のことは一旦忘れ、別のことに集中しなければならない。

 時計に目を向けながら、残された時間を計算する。遥希はぐっすり寝ているだろうか。

 こんな時に限って、遥希が早く起きでもすれば、それこそ私の計画が台無しになってしまう。私は引き戸を僅かに動かし、寝ている遥希の様子を窺った。布団から覗く寝顔を確認し、頷く。私は音を立てぬよう、そっと、戸を閉めた。


 その夜。私は酷く嫌な夢を見た。

 遥希が寝息を立てる夫の上で馬乗りになり、首を絞めながら笑っている夢。細い両手で篤斗の首を挟み込み、押しつぶすように圧し掛かっていた。夢だとしても耐え難い、まさしく悪夢といえる光景だった。

 早く篤斗を助けなきゃいけない。これが夢だと感じていながらも、止めずにはいられなかった。

 私は必死に声を上げ、手を伸ばした。が、手は届かず、もがき苦しむ夫の顔を最後に、現実の世界へ意識を引き戻されるかたちになった。

 夢から覚めた私は、現実に戻った安堵感から、詰まった息を吐き出した。夢にしては随分と生々しい映像だった。息を整えながら、額に浮いた汗を手の甲で拭い取る。背中には、ぐっしょりと嫌な汗をかいていた。

 今の私には、気を休める間も与えられないのか。そう辟易しながら、夫のいる場所へ目を向けると、篤斗はいつ帰ってきたのか、騒々しいいびきをかきながら寝入っていた。

 ――が、次の瞬間。

 私の頭の中で、けたたましい警戒音が鳴り響いた。

 脳内の血液が瞬間沸騰するように意識を引き起こす。目の中の異変に問い掛け、すぐさま私は、答えを導き出した。

 私と篤斗の中間点。そこにいるはずの遥希の姿がない。

 私は慌ただしく視線を走らせる。嫌な予感が膨らんでいく。すると篤斗の枕元に伸びる、二本の足が目に止まった。私は視線を押し上げる。その先には、寝ている篤斗を見下ろすように、立ち尽くす遥希の姿があった。

「遥希っ、何してるの!」

 私は威嚇するように大声をあげ、同時に飛び起きる。

 最悪の予感が的中した。

 遥希と対峙し、心が恐怖に波打った。だけど迷ってる暇はない。

 私は遥希の両手を、無我夢中に押さえつけた。手に握っていたものを、強引に奪い取る。私の声に、一瞬、遥希の動きが止まったことと、親と子の歴然とした力の差があったことが幸いした。

 遥希は威圧的な視線をぶつけると、「ちっ」と舌を打った。

 私の記憶に刻まれた、憎々しいまでの視線。私はそれが、遥希のものではないと、確信した。

 私は右手を力いっぱいに振り抜いた。

 躊躇はない。手のひらに込めた怒りと憎しみが、遥希の頬で弾け飛ぶ。だが乾いた音が響くと同時に、私は別の音を耳に受けた。

「何してんだ!」

 そう叫んで起き上がったのは、篤斗だった。篤斗はすぐに遥希を抱きかかえ、鋭い視線で私を射抜く。

「梨佳子。お前、何してんだよ」

 私は立ち上がり、部屋の電気を点けた。

 布団の脇には、私が遥希から奪い取ったステンレス製の包丁が落ちている。鈍色に輝る刃渡りは20センチほど。普段、私が料理に愛用している包丁だ。

 そんなものを、どうして遥希が手にしていたのか?

 私は遥希を、いや、宇津木を睨みつけた。

 視界の端で、篤斗が先程から何かを訴えているが、そんなことはどうでもいい――。

「……ふざけないで。篤斗を、殺させやしない」

「おい梨佳子、お前、何言ってんだよ」

 私は篤斗から、遥希を引き離そうとした。しかし伸ばした手が遥希に届く寸前で、そうはさせじと、篤斗が私の手を跳ね除ける。篤斗の腕の中で、宇津木が憎らしいまでの笑みを浮かべた。

 私は飛びかかる。だがそれも篤斗の太い腕に遮られ、押し戻される。

「ちょっと待てよ! 梨佳子、お前どうしたんだよ。遥希が何したってんだ。なあ、お前おかしいぞ。とにかく落ち着けって、もっと冷静になれよ!」

 何をした? そんなの決まってるわ。

「篤斗を殺そうとしてたんでしょ!」

 私がもう一度飛びかかろうとした刹那。タイミングを見計らったように、遥希が大声で泣き出した。

「いたいよ。パパぁ、いたいよぉー」

 遥希の声に、私の動きが遮られる。篤斗が信じられないといった表情で、私を見据えていた。

「……なんなんだよ。なあ、これってなんなんだ。一体どうしたっていうんだよ。遥希が俺を殺そうとした? そんなこと、あるわけないだろ。そんなの、冷静に考えればわかるだろうに」

 私は愕然とした。

 篤斗には、見えてない。

 篤斗は何一つわかってない。アレが宇津木だということを、理解できていない。だけど……だけど違うの。それは……それは遥希じゃない。どうして。どうしてそれがわからないの。

 私はしゃにむに頭を振り乱した。

 もし……もし私が気付くのが遅れたら、今頃篤斗は、鋭利に尖った包丁の先を喉に突き立てられ、死んでいたかもしれないのに――。

「……私は見たの。遥希はそこにある包丁をもって、篤斗の枕元に立ってたんだよ。篤斗を殺そうとしてたんだよ」

「俺を殺そうとしたって? 梨佳子。それ、本気で言ってるのか? 冷静になれよ。少し冷静に考えればわかるじゃないか。包丁を持ってたのだって、きっと何かの間違いだろ。確かに危なかったのはわかる。そりゃ俺だって万が一を考えればぞっとはするよ。だけど遥希は寝ぼけてただけかもしれないだろ。悪気があったわけじゃあるまいし、ましてや俺を殺そうなんて殺意を持っているはずがないだろ。……梨佳子。頼むから冷静になってくれよ。遥希を叱るのは構わない。危ないものは危ないと教えなくちゃならない。でも今のは、あそこまで叩く必要はなかっただろ――」

 私の声は、私の真意は、篤斗の胸に届かない。

 篤斗は私の言葉など、これっぽっちも信用していなかった。

 何を言ったところで理解を得られそうもない。それどころか、助けた私が悪者扱いされるなんて……。

 私は唇を噛みしめた。これ以上、夫の目なんて、見てられない。

「言ってもわからないよ。篤斗には……絶対にわからないのっ!」

 私は踵を返し、部屋を飛び出した。

 ダイニングテーブルに突っ伏すように項垂れると、握りしめたこぶしをテーブルに叩きつけた。

 隣の部屋から聞こえてくる、遥希の泣き声を掻き消すように。何度も、何度でも、鈍い音を重ね続けた。

 目を閉じれば、勝ち誇った宇津木の表情がよみがえってくる。

 オマエにはどうすることもできないんだよ、と卑しさを浮かべてはせせら笑う。

 私は、歯の根がぐらつくほどに、ギリギリと奥歯を擦り合せた。

 憎い。宇津木が憎くて、憎くて、堪らなかった。

 いきり立った血液が濁流と化し、自制心のスイッチを破壊した。

 まるで尾翼を失ったヘリコプターのように、感情をコントロールする術を失っていた。

 目を開けていても、きつく瞼を閉じてみても、あの忌々しい宇津木の顔が浮かんでくる。

 あの男を殺したい。

 この手で殺してやりたい。

 そう。これは私が初めて自覚した、本物の殺意。

 どんなことをしてでも、宇津木を殺してやりたいと思った。

 宇津木の姿に怯え、恐怖し、逃げ出したいと願っていた自分はどこにもいない。殺意のオーラをまとった私は、微塵の恐怖も感じてはいなかった。

 だからこそ、自らの手で宇津木を殺すことができない現実を前に、いっそうの怒りが込み上げてくる。

 尚も浮かんでくる男の顔が、卑しさに歪む。

 私は渾身の力を込めて、宇津木の顔を叩き潰した――。

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