【篤斗】

 タウンズ・ウォーの締め切りまで一週間と迫った週初め。

 時刻は既に一八時を回っているが、社内では誰ひとり帰り支度を始める気配はない。およそ世間一般様が退社していく時間などお構いなしといった調子で、皆、黙々と作業を進めていた。

 十七時を過ぎて早々に帰社していた俺は、本日打ち合わせを終えてきた広告の原案を、それぞれの制作担当に引き継いだ。

 引き継ぎとは、営業先でまとめた叩き台を明確に伝え、制作担当者と完成イメージの擦り合わせをすること。これはイメージの伝言ゲームのようなもので、クライアントが希望する完成予想図を、いかに正確に伝えるのか、この作業が最も重要なポイントになる。

 特にうちみたいな小規模の会社は、大手の広告代理店とは違い、制作の人間をクライアント先へ同行させることはない。現場の対応は営業がほぼ全てをまかなうことになっている分、前述の作業は尚のこと大切になってくる。

 今日、俺が持ち帰ってきた案件は五つ。

 この五つを、先ほど花村と市倉に引き継いだ。

 先月号から続く継続掲載が三件。こちらは修正箇所も少ないので、市倉に任せた。残りの二件は、今月新たに契約した新規の広告だ。

 一件は、先月関内にオープンしたばかりのセレクトショップ。

 洋服を中心に、イタリアやフランス製のアクセサリーを数多く取り揃えているのが店の特色で、その分、敷居も高い。どれも目を剥くような値札がぶらさがっていた。丁度、俺が打ち合わせに出向いている最中にも、十万円を超える高価なコートが当たり前のように買われていた。

 キャバ嬢風の女の子が購入していったことからも、店内に陳列している商品は、夜の業界で働く女性をターゲットにしていることが窺えた。

 もう一件は青葉区にある動物病院で、こちらは来月から新設するペットホテルの案内だった。以前より、「安心して預けられる場所を探している」と、来院者からの要望が強かったようで、既存の建物に併設するかたちで建設が進められていた。すでに外観は完成しており、内装をほどこせば、一週間程度で完成するようだ。

 この二件については、花村が担当することになった。

 決めたのは、編集長である伊原さん。

 編集長は、部内のスタッフが、常にどのくらいの仕事量を抱えているのかを把握している。俺たち営業が持ち帰った仕事に目を通し、適任者に振り分けていくのが役目である。

 編集部では、伊原さんを含めた五名の編集員が、それぞれに広告を手掛ける制作技術を身につけている。なかでも、経験値の高い花村と佐伯への依存率は高かった。

 性格は男だが、女性的なセンスを売りにした色彩感覚に優れる佐伯のデザイン力と、見た目のインパクトを重視する花村の発想力は、我が社の貴重な武器だ。

 この二人に、桜を題材とした絵を描かせるならば、佐伯は風光明媚な背景の中に、ひときわ浮かびあがる桜の木を描くタイプ。花村は対照的に、ひと房の桜の花冠を、圧倒的な存在感を押し出して、キャンバスいっぱいに描くようなタイプだった。

 長くこの仕事をやっていると、打ち合わせの段階から、この広告は佐伯向きだな、とか、こっちは花村に任せようか、なんて想像が浮かぶようにもなってくる。デザイン性については、好みの問題も出てくるのだが、どちらにしても、武器は多いに越したことはない。

 まだ経験の浅い平松や、経理事務を兼任している市倉にしても、最近ではなかなか良い広告を作るようになってきた。もっとも、今は広告以外の作りものをメインに作業しているので、ひと月に扱う広告の絶対数は少ない。が、いずれは佐伯や花村のようになってくれることだろう。

 とはいえ、広告は、制作任せにできるものではなく、俺たち現場の営業努力が必要不可欠になる。

 一口にクライアントといっても、タイプは様々だ。

 その度に俺たちは頭を悩ませるのだが、そんな中でも、俺が苦手としているのは、一から十まで、こと細かく指定してくるタイプだった。

 具体的な例を挙げると、文字であれば、一字一句、サイズから書体にまで指示が及び、配色のバランスはもちろん、写真のサイズからキャプションを含めた全体的な構図に至るまで、徹底的に、クライアントの好みを尊重しなければならないケースである。

 この場合、現場で特に綿密な打ち合わせを行うことが肝であり、聞き逃しや、書き漏らしだけは絶対に避けなければならない。

「なんだよ、あの時ちゃんと言ったはずなのに、どうして指定した色と違うんだよ」とか、「だから、写真はこの位置だっていったでしょ!」なんて後から指摘されるようでは、お話にならない。

では、何故俺がこういったやりとりを苦にするのか?

 ある意味では、指定された方が楽な場合もある。

 しかし、これはクライアントのセンスにも左右されるのだが、最悪の場合、相手がイメージした完成図が、至極、陳腐な内容に落ち着いてしまうことがままあるからだ。

 その頑ななまでのこだわりを、いかに誘導していくのか。これはなかなかにして、骨の折れる作業だった。

 広告を作る上で、素人が犯してしまう過ちは大きく分けて二つ。

 ひとつは、広告枠を度外視した文字量を詰め込んでしまうこと。

 これについては、予算などの諸事情も影響するのだが、やはり決められたスペースがある以上、依頼者の心理としては、できるだけ多くの情報を詰め込んだ方がいいと考えてしまう傾向が強い。

 もちろん、意図して文字ばかりを使用する手法もあるのだが、多くの場合、どうせならできるだけ、と、あれもこれもを無理やり押し詰めにした内容になってしまう失敗が大多数を占めた。

 結果、見る側には圧迫感という見にくさを植え付け、どの部分を強調したいのかさえ、ポイントが定まらないものになる。できるなら、大胆な空白を作り出すくらいの余裕があった方が、センスよく、見栄えもしてくるのだ。

 この場合の改善策としては、広告枠を広げることが望ましいのだが、こうしたクライアントは往々にして、広げれば広げた分だけ情報を詰め込んでしまう性質を持っているから、タチが悪い。

 さらに技術的な話をするなら、見出しなどの文章にはジャンプ率と呼ばれるものがあり、文章の大きさに強弱をつけることによって、見た目の躍動感を演出する技法がある。

 飲食店の新メニューの紹介であれば、一番強調したい部分が、格安を売りにした値段なのか、写真と並行して味を連想させるネーミングなのか、はたまた料理人の魂を埋め込んだ、こだわりの紹介文なのか。この辺りの選別を明確にし、文字の大きさに強弱をつけながら全体のバランスを構成していく。

 気持ちはわかるが、なんでもかんでも、情報を詰め込めばいいってもんじゃない、ってことだ。

 もうひとつの間違いは、やたらに凝った書体を使いたがり、目に痛い配色で仕上げてしまうこと。

 文字とはいえ、見せる部分と、読ませる部分の区別があることを忘れてはならない。当然、見出しなどのアイキャッチと呼ばれる部分には、書体や配色にインパクトがあった方が効果的だ。その半面、詳細な説明を必要とする箇所には、ゴシックや明朝体のようにシンプルな書体の方が適している。意外に見落としがちだが、世に出ている出版物を見れば、大半がこの形式に落ち着いていることに気付くだろう。付け加えるなら、同一書体であっても、文字のジャンプ率を効果的に活用するだけで、充分なインパクトを与えることもできる。

 もちろん、そういったマンネリズムを逆手にとった広告もある。が、先方が、それを理解しているケースは少ない。

 さらに加えるならば、そうした奇抜な広告を好むのは、何故かB型が多かったりもするのだが……これは気のせいだということにしておこう。

 また、よくあるパターンとして、全てをお任せで作って欲しいという要望もある。この場合、営業は特に注意が必要だ。

 クライアントの意図や好みをしっかりと受け取り、自分の中で明確なイメージを構築させないことには、制作サイドに漠然とした内容で押し付けるはめになる。

 最悪の場合、せっかく作ってもらった広告が、先方に全く気に入られないケースとなる恐れだってある。全て一から作り直し。徒労感と嫌悪感の入り混じった制作担当の冷やかな目は、「勘弁してくれよ!」と悲痛な叫びを訴えることだろう。

 俺も新人の頃にやった過ちだが、よく理解もせずに、現場で「大丈夫です。任せてください!」なんて、その場しのぎの安請け合いをしたばかりに、制作サイドに不明瞭な説明しかできず、がっつりヤキを入れられたことがある。

 まさに今、俺の目の先で、編集長に頭を下げている石本がそのパターンだ。水量過多のししおどしみたいに、忙しなく上げ下げを繰り返している。

 あいつの場合、言葉で説明するよりも、身振り手振りをまじえ、必死にジェスチャーした方が伝わると思っているのだろう。体育会時代の名残りなのか、スポーツならまだしも、クリエイティブな現場に於いてはいささか心許なく、明確なビジョンを伝える話術の進歩が今後の課題だ。

 二人のやり取りを見届けた俺は、石本との格闘を終えた編集長に歩み寄った。まずは部下の粗忽さをお詫びし、その後で耳打ちする。

 編集長が頷く。了承を得たことで、今度は対面でパソコンのモニターを睨みつけている――否、仕事をしている佐伯へ声を掛けた。

「佐伯ちゃん、ちょっといいかな」

 そう言って俺は、佐伯をパーテーションで区切られたミーティングルームへと連れ出した。佐伯に続き、編集長も席を立つ。

 俺と編集長が横並びに座り、佐伯は正面の席に腰を下ろした。

 彼女は無表情に、俺と編集長を見比べている。

「はい、例の奴ね」

 俺はバッグから取り出した封筒を佐伯に渡した。

 佐伯は黙って受け取るが、中身を引き抜いた途端、あっ、と相好を崩した。

「ありがとうございます」

 佐伯が早口に礼を述べる。

 彼女にしては珍しく、頬を弛緩させていた。社内では滅多にお目に掛ることのできない、佐伯本来の素顔。編集長が声を掛ける。

「遠慮なく観に行ってきなよ」

「はい、ありがとうございます」

 余程嬉しかったのだろう。佐伯はにっこりと微笑み、深々と低頭する。とても大事なものを扱うように、中身を封筒へ戻した。

 封筒の中身は、プロレスの観戦チケットだった。

 来月、横浜文化体育館で行われる、某メジャー団体の大会。

 実のところ、佐伯は大のプロレスマニアである。

 この衝撃ともいえる事実を知っているのは、社内でもごく僅か。

 俺と黒木さんと、編集長の三人のみ。佐伯にこんな趣味があるなどとは、事情を知らぬ他の社員は夢にも思わないだろう。チケットの内容が美術品の展覧会や新作映画の試写会ならまだしも、まさかプロレスだとは――。

 正直、俺も編集長も、プロレスについては相当煩い方だと自負しているが、佐伯の熱意と行動力には敵わない。彼女は横浜市内の会場だけに留まらず、県内各所での大会はもちろん、両国国技館や日本武道館、東京ドームにまで足を運ぶほどの熱烈なプロレスマニアだった。

 佐伯彰子は二十八歳。

 性格の滲み出た、見た目のきつい印象は否めないが、どちらかといえば、顔立ちは綺麗なタイプだ。必要最低限の肉だけを蓄えたスレンダーな体型は、彼女の魅力のひとつでもある。性格さえ柔和であれば、とても男に困るようなタイプではないはずだ。知らず知らずに、言い寄ってくる男も多いのではないだろうか、と俺たちは陰でこっそり分析している。

 その佐伯が、だ。

 青や黄色のテープを握りしめ、選手紹介と同時に、勢いよくテープを放り投げる姿を。人目もはばからずリングサイドから大声を張って熱狂している姿を。誰が想像できるだろう。

 世間を賑わすアイドルグループでも、総勢十四名からなる、ヴォーカル&ダンス・ユニットでもなく、筋骨隆々のムキムキマッチョたちが、汗を飛び散らせながら戦いを繰り広げる姿を好むとは……。

 普段から謎の多い女だが、やはり佐伯彰子は、奥が深い。


 この横浜大会が開催されるのは、来月の二十二日だった。

 つまりは締め切りの真っ只中。とても休暇を申し出られる時期ではない。分別ある佐伯は、無念を内に秘めながら、観戦を断念したのだろう。それこそ苦渋の決断だったに違いない。

 しかし、これが俺にとっては、またとない好機となった。

 はっきり言おう。俺はプロレスのチケットを餌に、佐伯彰子を釣ったのだ。狙いはただひとつ。『ウォー・ピンク』になることを受託させるために――。

 この作戦には編集長も快諾し、全面的に支援してくれた。

 だから試合当日には、中抜けというかたちをとっても構わない、との許可が下りた。当然だ。編集長は佐伯の直属の上司でもある。

 その佐伯が『ウォー・ピンク』を真っ向から拒否した時には、編集長も酷く頭を抱えていたのだから。

 まさに異例中の措置であったが、仕事の進捗によっては、そのまま退社しても構わない、と編集長が付け加えた。その瞬間、佐伯の中で、モチベーションが大きく跳ね上がったのを、俺は見逃さなかった。

しかし『ウォー・ピンク』という配役を、あれほど拒絶していた佐伯のアイアンハートを揺るがすとは。恐るべしはプロレス。恐るべし、女子の秘め事である。

 まあなんにせよ、これでひと段落したのだから良しとしようじゃないか、と胸を撫で下ろす。

 ちなみにチケット代は、俺と編集長で折半した。

 当然ながら、経費扱いにできるわけもなく、よもやの自腹を切るはめになってしまったが、これも致し方ない。普段の佐伯の仕事ぶりからすれば、これくらいのサービスは許容範囲内。なにより優先順位は、間違いなく『ウォー・ピンク』の人選の方が上だったのだから。

 但し、佐伯の要求してきたチケットが、三千円の自由席ではなく、八千円もする特設リングサイドだったことを除けばだが……。


 その後、予定の十八時半に坂口と合流した俺は、川崎駅へ向かう電車の中にいた。

 扉に背をあずけながら、すぐ隣の席に座る親子の様子をそれとなく眺める。髪をふたつに縛り、ピンク色のスカートを履いた女の子が、母親の膝の上にちょこんと腰を下ろしていた。

 アニメのプリキュアを連想させる恰好をした、可愛らしい子供。

 見た目には二、三歳。遥希と同じくらいだろう。電車の揺れが心地よいのか、今にも眠ってしまいそうに、ふらふらと、頭が揺れ動いている。帰宅ラッシュも重なり、車内はごった返していたが、親子の姿は、どこか微笑ましく映った。

 女の子を大切そうに抱えている母親を見て、俺は梨佳子のことを思い出した。

 一昨日の晩、梨佳子は自分の不注意で、遥希に怪我をさせてしまった。昨日一日、俺は家族サービスとばかりに、二人を連れて買い物に出かけたが、妻の表情に、終始晴れ間は見えなかった。

 余程気にしているのだろう。今朝も梨佳子は、平静を装っているようにみえたが、どこか快活さに欠けていた。

 昨晩も、遥希を寝かしつけた後でガス抜きの時間を作ろうとしたのだが、梨佳子は「少し頭が痛いから、先に寝るね」と言い残し、早々に布団の中へ潜ってしまった。

 梨佳子との付き合いは、三年以上になる。だから俺にはわかっている。梨佳子が、何かを隠している、と。

 但し、梨佳子の性格上、俺に隠し事をしているからといって、それがストレートなやましさには繋がらない。梨佳子が、俺に隠れてこそこそと何かを仕込む性格でないことは明白だ。

 例えるなら、旦那のカードで勝手に買い物をしてしまったとか、知らぬ間に多額の借金を作ってしまったとか。そういった類の秘密を抱え込むようなタイプではない。

だから俺は、あえて深くを追求しなかった。梨佳子が何かを悩み、抱えていることは間違いない。なんでもかんでも自分ひとりで解決しようと試みるのは、梨佳子の悪い癖だ。けれども梨佳子は、突然自分の領域に踏み込んでこられることを苦手としている。踏み込むのには、タイミングを見定める必要があった。

 それともうひとつ。

 一週間と少し前に、梨佳子がお風呂場で泣いていたことがあった。

 俺はあの時にも思った。梨佳子が何かを悩み、抱えていると。それも相当、根は深いのではないのかと。

 だからあの時は、俺も半ば強引に踏み込んだ話をしたつもりだ。

 というか、梨佳子に再認識してもらう必要があった。梨佳子には俺がいるじゃないか。何かあったら俺を頼ってくれよ、と、思いの丈をぶつけてみた。

 その言葉がスパイスになったのか、翌朝には、憑き物が取れたように、晴れ晴れとした表情をしていた。

「昨日はありがとう。私が駄目になりそうなときは、すぐに篤斗に相談するからね」

 照れ臭そうに言った梨佳子の顔を見て、俺は安堵した。無理に強がっている様子もなく、心から、そう言ってくれたのが伝わったからだ。

 あれから比べると、昨晩の梨佳子には、まだ少しだけ、余裕があったような気がする。俺に悩みを打ち明ける準備をしているというか、もう少しだけ、自分の気持ちに整理をつけたいと思っている。

 俺の目にはそう映った。だから俺の出番はまだ先のような気もするし、できるなら、出番がないに越したことはない。

 妻が悩む姿を見るのは心苦しいが、それも仕方ない。梨佳子には、浅からず怪我に敏感になってしまう理由があった。遥希のことにしても、俺以上に心を痛めているはずだ。

 俺でさえ、遥希が怪我をした晩は、動揺を隠せなかった。けれど一晩経って、元気に遊びまわる遥希の姿をみていたら、それも見事に吹き飛んでしまった。

 流石は男の子。いや、俺の子だ。

 怪我の耐性は、父親譲りなのだろう。今朝も遥希は、元気いっぱいに飛び回り、家の中を駆け回っていた。

 あえて心配な点を挙げるなら、梨佳子がトイレに入った際、キッチンに向かった遥希が、何を思ったのか、シンク下の扉から包丁を取り出しそうになったこと。冷蔵庫に用のあった俺がたまたま目撃したからいいものの、あれには俺も焦りを隠せなかった。

 朝食を作っている梨佳子の真似をしようとでも思ったのか。好奇心も父親譲りだが、それでも包丁の危険性は教えといた方がよさそうだ。俺も戒め程度に叱りはしたが、梨佳子に余計な心配ごとを増やさせるわけにもいかず、「遥希がなんでもかんでも扉を開いて遊んでたから、怒っておいたよ」と適度な注意を促すにとどめた。

 それにしても、包丁がしまってある扉には、事故防止用のストッパーが掛っていたはずなのに……いつの間に解除法を覚えたのか? 

 全く、遥希も大したもんだ。言い換えれば、あれも成長の証なのだろう。今後は俺も、今以上に遥希の成長スピードに順応し、注意を払わなければならないと、再認識された出来事だった。


 アナウンスが川崎駅への到着を知らせ、扉が開く。

 俺の少し後を、坂口が俯き加減についてくる。俺が物思いにふけていたせいもあってか、電車の中で、坂口は一度も口を開かなかった。

 時計に目を落とす。デジタルの数字が十八時五一分を表示させていた。目的の場所は、駅東口を出てすぐにある。ゆとりを持って出てきた分、多少、時間を潰す必要があった。

「十九時半って言われてるから、楽勝だろ。コーヒーでも飲んでこうぜ」

「は、はい」

 らしくない声が返ってくる。新入社員並みのぎこちなさに俺は、口をへの字に曲げた。

 改札を抜けた俺は、坂口を促すように引き連れ、駅構内にあるコーヒーショップへ入った。

 適当なテーブル席に腰を下ろし、コーヒーを口にする。

 が、恰好だけで止めておいた。あと数分、俺好みの熱さになるまでに、時間が必要だ。

 相変わらず、坂口の表情は冴えない。まあ俺にしても、坂口の気持ちは痛いほど汲みとれるのだが……。

「そう暗い顔しなくたっていいぞ。こないだも言ったけど、ミスなんて誰にでもあるんだからな。坂口なんて、まだミスの少ない方だろ。お前がそんな顔してたら石本なんてどうすんだよ。あいつ、さっきも編集長からヤキ入ってたんだぞ」

 重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように、努めて俺は、軽い調子で話しかけた。

「いや……部長のお気持ちは有り難いのですが、流石に相手がブルーローズとなると……その、何と言っていいのか」

 普段ならもう少し口調も軽い癖に、相当な責任を感じているのだろう。おずおずと言葉を選ぶ口振りに、俺まで息苦しさを感じてしまう。

「まあいいからコーヒーでも飲めって。今日のところは俺に全部任せて、坂口は、横で頭下げてりゃいいんだから」

 見本を示すようにカップを運び、ゴクリとひと飲みする。

 が、案の定……後悔した。


 坂口の顔を曇らせている原因はひとつ。

 先週、坂口が契約した新規のクライアントが、ブルーローズ系列の店だということが発覚したからだ。

ブルーローズグループとは、横浜と川崎、二つのエリアを股にかけて、夜の業界にその名を轟かせている一大勢力のこと。主に横浜を拠点としているが、近年、川崎エリアにまで触手を伸ばし始めている。

 グループ名にもなっている、関内の高級クラブ「ブルーローズ」を筆頭に、系列のクラブ、キャバクラの数は十六店舗を数える。

 さらにデリヘルやファッションヘルスなどの風俗店から、違法カジノの経営までと、その裾野は広い。

 代表の通称は、「ハマモト」。

 長年、横浜の夜街で商売をする人間に、ハマモトの名を知らぬ者はいない。が、その反面で、ハマモトの実態を知る者は数少ない。

 俺自身、過去に二度、それも遠目に見た程度の話でしかない。

 一説に、ハマモトの正体は、地元暴力団組長の実兄だとか、大手ゼネコンの社長であり、夜の業界は道楽でやっている、といった噂が囁かれている。それ以外にも、某病院の院長という説だったり、大地主の末裔であるらしい……と、人物像については様々な憶測が飛び交い、都市伝説級の噂が一人歩きをしている状態になっていた。

 事実、ハマモトの素顔は、現場で働く殆どの者が知らぬようだ。

 全てを一代で築き上げたことから、ハマモトが相当なキレものであることに間違いはない。事の真偽は別としても、『横浜ハマの元モト締め』であることが、その名の由来とされていることにさえ、何ら違和感はない。

 また、ハマモトが表舞台に立つことはない。

 グループ内に於ける店舗の実質的な運営は、参謀と呼ばれている直近の男たちが、キャバクラやクラブ、風俗といった業種ごとに運営権を握っていた。参謀は俺の知る限り五人いる。

 うち一人は金庫番と呼ばれ、グループ内での金の動きを一手に任されている。その五人の下に、さらに枝わかれするかたちで、多くの幹部たちが現場を取り仕切っているのだ。

 それともうひとつ、ハマモトの経営手腕にはある特徴があった。

 グループ内の多くの店舗は、至って健全な経営スタイルを保っている。明朗会計であり、スタッフの教育に優れ、サービスの質も良い。出張などで地方からやってくる人間が、安心して楽しめるような優良店が多く、地元の人間が接待で活用できるような店もある。

 しかし、その陰でアングラと呼ばれるように、法律から身を隠すような違法店舗も実在した。

 性的なサービスを有料斡旋するキャバクラや、法外な金額を請求される店。なかでも違法カジノの経営は、月に千万単位の利益をもたらすと言われ、グループの資金を支える温床になっていた。

 こうした違法店舗には「社長」と呼ばれる男たちが存在した。もちろん、あくまで「社長」とは形式上の呼称であり、実態は何の経営権も握らされていない。ただの捨て駒。所謂スケープゴートに過ぎなかった。

 この男たちの多くが、借金を肩に雇われている者ばかりで、月に五十万という金銭を握らされ、いつ警察に摘発されてもおかしくない店舗の代表者として、店に警察の手が伸びてくるその日を、じっと待っていた。

 当然ながら、彼らの仕事は警察に捕まることを前提としており、組織のことを口外することはない。全ての経営権は自分にあると訴え続けるのが役割であり、ブルーローズとは無関係を装った。万が一、グループとの関係を匂わせれば……刑期を終えた後、命の保証はないと囁かれていた。

 事実、ブルーローズは地元暴力団との繋がりも深く、一部の店舗の中では、構成員の溜まり場のようになっている場所もある。真実は定かでないにしろ、どこかの男が、組織に消されたという噂話は、今も後を絶たない。白の含有率は限りなくゼロに等しい。禁断のグレーゾーンだ。

 また摘発された店舗は、数ヶ月間寝かされた後に、屋号のみを差し替え、店の中身はそのままに、全く新しい店舗としてオープンさせる。当然、実態は摘発された前店舗となんら変わることはない。

 いずれは摘発されることを前提に、また新しい「社長」が、処刑台に座ることになる。

 こうしたダークな側面が、グループ全体の実質的な代名詞となり、夜の業界に、畏怖の象徴として、その名を広く轟かせているのだ。

 それ故に、坂口の表情も冴えないのだろう。まさか自分が契約した店がブルーローズ系列だったとは、つゆほども思わなかったに違いない。

『タウンズ・ウォー』は、誌面の大原則として、反社会勢力との係わり合いを禁じている。スナックやキャバクラ、金融業など、暴力団の直接的な経営や、繋がりのある店舗とは、一切契約を結ばないことにしている。

 つまり俺たちは、これから件の『レディーライン』という店に赴き、一度は契約を交わした広告の解除を、申し出に行くのだ。

『レディーライン』については、俺の方でもブルーローズ系列だという裏をとってあった。

 坂口から報告を受けた翌日。土曜日の夜に撮影のあった関内のクラブで、店のオーナーが所有する川崎の系列店に確認を取ってもらったのだ。坂口が言った通り、ブルーローズ系列で間違いはなかった。が、そうとなれば、俺の頭一つを下げるだけで、簡単に済む話ではない。

 覚悟を決めた俺は、今日の日を戦うために、何通りもの懐柔策を練ってきたのだ。

「いいか、坂口。段取りは会社で話した通りだからな。細かいことは気にしないで、俺に任せろよ。別に俺は、坂口の尻拭いをしなくちゃいけないなんて思ってないしな。心配するな。これだって、俺にしてみたら、立派な仕事なんだ」

 わかりました、と言葉少なに恐縮する坂口に向かい、「わかったなら、いい加減気持ちを切り替えろよ」とはっぱをかける。

 俺は景気付けの酒でも呷るように、手元のコーヒーを飲み干した。

 坂口の表情が引き締まったのを確認して、席を立つ。


『レディーライン』は、複数の看板を掲げている雑居ビルの一階部分にあった。まだ看板に灯りは点されていない。開店までは、三十分以上あるはずだ。

 テナントの為、表向きはドア脇にある看板でしか判断することができない。当たり前だが、ブルーローズ系列などとは、どこにも記されてはいない。だが、たとえ店内に入ったとしても、判別することはできないだろう。店内の雰囲気であり、スタッフの対応であり、何かしらの違和感があれば、当の坂口が気付いているはずだ。

 坂口は、一見人当たりのいい印象があるが、根の部分では、意外にも疑り深い性格をしている。本人曰く、臆病なほどに慎重派だ。

 だからこそ、今回の失態が許せないのだろう。

 俺は視線で合図を送り、行くぞ、と顎を引いた。ドアに手を掛けると、重厚な重みが伝わってくる。

 突然、店内に入ってきた俺たちに、ホール内でテーブルを拭いていた男が振り返った。「いらっしゃいま……」と、反射的に声に出したところで、まだ開店前だということに気付いたらしい。男は訝しげな表情を覗かせ、足早にやってきた。

 俺は丁寧に挨拶し、名刺を差し出した。男は名刺を受取るも、自分の名は、名乗らなかった。名刺もなさそうだ。店のボーイなのかもしれない。坂口を一瞥し、男との面識がないことを確認した。

 男の年齢は、二十歳前後といったところだろうか。俺の第一印象は、残念なホスト崩れだった。今風のお洒落にセットされた長めの黒髪や、光沢の入ったスーツは細身の体に似合ってはいる。だが、いかんせん顔の作りが減点対象だった。

 俺は雑念を払い、男へ用件を伝える。

「本日十九時半から、吉井様と会う約束をしていたのですが」

 男は合点がいった様子で、「ああ」と洩らした。

「マネージャーならいませんよ。っていうか、今日は別の店に行ってるはずなんで。たぶん、今日はこっちに来る予定もないんじゃないっすかね」

 見た目通りの軽々しい口調は、初対面だが、らしさ、を感じさせた。俺は段取りの食い違いに戸惑うも、すぐさま補正を掛ける。

「別の店とは、どちらでしょうか」

「店ですか? 横浜の福富町ですけど……。『ゴールドルージュ』って店、わかります?」

「ええ、知っています」俺は即答し、心の内で舌を打つ。

『ゴールドルージュ』と聞いた途端、心の奥がざわついた。

 ブラックリストに載っている店のど真ん中。ブルーローズ系列の中でも悪評が高いことで有名な店だ。嫌な予感がする。が、俺は心の動揺を抑え込むと、男に吉井と連絡を取ってもらえるか、と訊ねた。吉井様が約束をお忘れになっているといけないので、と言い添える。

 男はカウンターの中へ引っ込むと、なかで電話を掛けているようだった。男の話し声が、入口に立つ俺の耳にも届いた。ほどなく男が戻ってくると、「マネージャー、忘れてたみたいっすね。今からこっちに来てくれって言ってましたよ」と言った。


 せっかく川崎まで足を運んだのに、関内に逆戻りするとは、とんだ無駄骨を折るかたちとなってしまったが、仕方ない。

 駅に戻る道中、坂口は「土曜日にちゃんとアポ入れしたんですけど……」と不満げな表情を浮かべていたが、こんなこと、夜の業界を相手にしていれば、さほど珍しいことではない。クライアントに振り回されるのは本意ではないが、この程度のことでいちいち目くじらを立てていたら、この仕事はやってられない。それよりも、この三十分程度の時間を利用して対応策を練れると考えた方が、気持ちも前向きになれた。

 関内へ戻る電車の中で、俺は思索を巡らせていた。

 この後、どんな状況が考えられるのか、思いつく限りの事前予測を繰り返す。

 坂口の話だと、吉井という男は、まだ二十代半ばくらいの若い奴だという。本人は、いかにも、といった見た目の男らしいのだが、曰く吉井には、店のオーナーが別にいると聞かされていたらしい。

但し、そのオーナーは女性で、東京でペットサロンを経営しているという話だった。吉井は、そのオーナーが経営する店の名刺も、見せたらしい。

 東京と聞かされ、かつオーナーが畑違いの出身者ということで、坂口の判断も甘くなったのだろう。今となっては、吉井の話自体が丸々作り話だったという結論に至るのだが、それにしても、そういった嘘を平然と並べるあたり、吉井は、狡猾な男に違いない。

 坂口が呟いた。

「ゴールドルージュって……例のぼったくりの店ですよね」

 俺は坂口を横目に、相槌を返す。

「ああ、あそこはちょっと厄介だけどな……まあ、だからと言って俺たちのすることに変わりはないよ」

 強がっているように聞こえない程度に、声の調子を整える。

「たぶん、一人や二人、ヤクザもんがいるはずだけど、気にするなよ」

 言ってから俺は、そうはいっても気にしないはずがないだろうな、と坂口の様子に目を向けた。案の定、溜息を落とした坂口は、項垂れている。

「本当にスイマセン。こんな時期に、面倒な仕事持ち込んじゃって」

 坂口は、ここが電車の中だということも忘れ、低頭する。

 その姿が異質に映ったのか、傍に立つサラリーマン風の男から、詮索染みた視線を頬に受ける。

「だからいいって言ったろ。お前も何回俺に謝れば気が済むんだよ」

 でも……と言いだしそうな坂口よりも早く、俺は先を続ける。

「なあ坂口。お前はどうだ。もし、これが逆の立場だったら、お前は俺を助けてくれないのか。お前が俺の上司だったら、ミスをした俺を、全力で助けないのか」

 場所さえ違えば、もっと強く訴えたいところだったが、周囲の視線を意識しつつ、声を必要最小限に留めた。

「……助けます」

 声よりも、俺は坂口の目を見ていた。俺の意図が伝わったことを確認する。

「だろ。だったら、これ以上は何も言うな」

 黙って頷いた坂口は、歯を食い縛っていた。

 その表情を見ていればわかる。坂口にしてみれば、自分のミスを上司にフォローしてもらうのが、申し訳なくて堪らないのだ。

 事あるごとに『助けてください!』と泣きついてくる津久井の姿が反面教師となっているのか、意図して坂口は責任感をウリにしている節がある。

「まあバトンは俺の手に渡ってるわけだし、今更坂口がジタバタしたところで何かが変わるわけじゃない。俺たちにできることはひとつだけ、だろ」

 坂口の顔を覗き込む。

「とりあえず……全部が無事に終わったら、飯でも食って帰ろう。この分なら、お互い、今夜は午前様だろうしな」

「はい。だったら飯は僕に奢らせてください」

「おっ、珍しいこと言うな。でも部下に奢ってもらったら、あとで黒木さんにどやされるからな。まさか、それが狙いってわけじゃないよな。もしかして、地味に俺をハメるつもりか?」

「違います、違います。津久井じゃあるまいし、そんなこと考えてませんよ」

 上司は部下に金を出させるもんじゃない。

 編集長と俺は、黒木さんから口煩く指導されている。体育会色の強い、我が社の鉄則である。もちろん、俺も同感だ。部下に奢ってもらうほど、安い給料を貰っているわけではない。だからといって、人に自慢できるほど高いってわけでもないが……。

 と、坂口の顔から、ようやく緊張が抜けたところで、電車が関内へ到着した。

 伊勢佐木町のアーケードを歩いて行くと、通りの中央に立つ街頭時計の針が、二十時を指そうかとしていた。

 すぐ目の前には、福富町が口を開けている。いよいよ福富町が動き出す。そんな気配が、街の隅々から発せられていた。

 昼間は猥雑としている街並みも、夜になれば無数の看板に命が吹き込まれ、繁華街然とした雰囲気に成り代わる。が、それでも福富町は、どこか不穏な空気をはらんでいた。これこそが福富町。そう言わんばかりの独特な風が、肌を撫でまわした。

『ゴールドルージュ』は福富町でも人気が高く、一、二を争うテナントビルの最上部にある。

 俺はエレベーターに乗りこみ、八階のボタンを押した。

 扉が閉まった途端、息をとめた俺は、気合いを注入するように、腹に力を溜めこんだ。すでに気持ちは固まっている。これから俺は、戦いに赴くのだ。譲れない信念を楯に勝利を掴む。苦戦は盛り込み済み。俺は辛抱強い我慢を強いられるだろう。根競べは避けられない。これは自分との闘いでもあるはずだ。

 エレベーターが八階に近づくにつれ、全身の血がたぎるような興奮に包まれていた。気合いがみなぎっている。だがそれは、恐怖への裏返しでもあった。俺は恐怖を掻き消すように叱咤する。怖がるな、怖れるんじゃない、と自分を鼓舞しながら、心の内側に、堅牢な補強を施した。

 その上で、冷静な自分を作り上げるために、全神経を集中させながら、異なる感情を必死にコントロールしていた。

 扉が開く瞬間、俺は「よし」と頷いた。坂口へ視線で合図を送る。

 予定通りやるぞ、と。

 後戻りはできない。道は、前にしか見えなかった。


『ゴールドルージュ』は、エレベーターを降りた左のフロアにあった。

 金色に塗られた一枚物の自動ドアを抜けると、すでに開店から一時間が経過した店内には、ちらほらと客の姿が見て取れた。

 入口脇のキャッシャーに立つ男が、ホテルマンさながらの対応で出迎える。黒のスーツに定番の蝶ネクタイが、どことなく高潔さを匂わせた。これだけを見れば、とてもこの店が高額なぼったくりをする店だとは想像できないだろう。建前上は高級クラブとなっているが、しかし実際の請求額は、桁がひとつ違うのだ。

 まず俺は客でないことを告げ、名刺を差し出し自己紹介を済ませた。用件を伝える。男はやはり丁寧な対応で、「少々お待ちください」と頭を下げると、バックヤードへ姿を消した。ものの一分もかからずに男が戻ってくる。

「ご案内致します。どうぞ、こちらへ」

 そう言って招かれたのは、奥のフロアあるVIPルームだった。

 VIPルームは二つあり、左右にわかれる形で扉が二枚並んでいた。男が扉を開けた瞬間、俺は脇目に、隣の部屋を覗き見た。

 予想通り。ガラス越しに、それっぽい風貌の男が二人座っているのを見逃さなかった。俺の想像通りなら、隣の部屋は、VIPとは名ばかりに別の目的で使用されている可能性が高い。駄々をこねる客専用の、軟禁部屋というわけだ。

 部屋の中へ通されると、俺はすぐに、目の前にいる男が吉井だとわかった。疑う余地はない。広い部屋の中に、他の人間がいないせいもあったが、坂口の話から想像した男の姿に、酷似していた。

 髪の毛は、最近ではあまり見かけなくなった見事な金色をしていた。切れ長の目にあわせたような細い眉が、ほっそりとした頬とバランスが取れている。その顔をどこかで見た記憶がある、と思ったが、すぐには思い出せない。服装は、縦縞の入ったグレーのスーツに黒いシャツ。襟元にシルバーのネクタイとくれば、任侠映画では定番のスタイルだ。まあ任侠ものに限らず、この界隈ではよく見かける姿なのだが……。

「初めまして、ファイターズの登坂と申します。先日は、うちの坂口がお世話になりました」

 俺は低頭すると、真っ直ぐに男の顔を見据えた。

「ああ、このあいだはどうも」

 男は無警戒に声を返すと、ぶっきらぼうに俺の名刺を受取った。

 隣の坂口を一瞥し、「何かあったの?」と訊ねてくる。坂口が言いあぐねると、「まあいいや。とりあえず座ってよ」と目の前のソファを指差した。

 態度こそ横柄だったが、口調自体は柔らかい。これがいつ牙を剥くのだろうか。警戒しながら、俺が吉井の真向かいに、坂口は、俺の左隣へ腰を下ろした。吉井は、入口に立つ男へ、ウーロン茶を人数分持ってくるように指示を出した。

「で、何の用?」

 テーブルの上に置いてあった煙草の箱へ手を伸ばし、無造作に火をつける。天井に向けて、悠然と煙を吐き出した。

 こうした相手に対し、回りくどい言い方は意味がない。俺は単刀直入に切り出した。

「本日は、契約の取り止めを申し出にきました」

 吉井の目を真っ直ぐに見据え、一言一句、確認するように経緯を説明していく。途中、運ばれてきたお茶には目もくれず、話し続けた。

 吉井といえば、終始、俺の説明を無言で聞いていた。眉をひそめることもなく、表情も崩さない。煙草を吸っていなければ、生気のないマネキンでも相手にしているような気分だった。

「――誠に申し訳ございませんが、今、ご説明したとおり、弊社の誌面にも掲載規定というものがありまして。勝手ながら、今回の契約はなかったこととし、取り止めという形をとらせて頂きます。どうぞ、ご理解ください」

 そうやって最後は、毅然と締め括った。

 唇をひと舐めする。喉はカラカラに渇いていた。心臓が激しく脈を打ち、全身の血が、荒れくれんばかりの勢いで、体中を駆け巡っていた。

 これは誠意ある戦いだ。だから俺は、言い締めた後も、頭を下げることはしなかった。

 対して吉井は二本目の煙草を加え、深々と肺に流し込むと、俺に向けて真っ直ぐに吐き出した。俺は目を瞬かせる。靄がかった視界の先で、吉井が鼻を鳴らした。

「登坂さん、だっけ? あのね、そんな話わざわざされなくても、オレはわかってたんだよ。だっておたくら、うちの系列、全部断ってんだろ」

 見透かされているのは覚悟の内だった。それよりも、この吉井という男は、俺より若そうな顔立ちをしてはいるものの、なかなか手強そうな相手だった。いきなり感情的に返してこない分、頭を使えるタイプかもしれない。

「いいかい。オレも馬鹿じゃねえし、それくらいのこと、知ってんだよな。でもさ、この間、そこの坂口くんが契約書をくれたんだよ。わかる?」

 けいやくしょう、と間延びした声で続ける。

 俺は「わかります」と即答した。視線は真っ直ぐに、吉井の目を掴んでいた。目を逸らせば負けを意味することになる、と言い聞かせる。

「なら、わかるよね。勝手に営業してきたのはそっちでしょ。広告載せませんか? って頼まれたから協力してやったのに、まさかそれを、そっちから破棄してくるなんて話、ある?」

「おっしゃることはわかります。但し、規定は規定です」

 俺は引かずに言いきった。言い訳はいらない。

 目に見えてプライドが高そうな相手ではあるが、引く気がないのはお互い様だ。それに、契約反故となったところで、そっちは痛くも痒くもないのだろうし、事実、無害といっていい。

 だけどこっちは違う。背負ってるものが違うんだよ。

「あっそう。……規定、ね」

 そう言って吉井は、目の前に置かれたウーロン茶へ手を伸ばした。

「で、その規定ってのは、契約書に書いてあるのか?」

 一瞬、ウーロン茶を浴びせられるかと思ったが、違った。けれども喉を湿らせた吉井の口調はうって変わり、威圧的なものに成り変わった。

「契約書には書いてません」

 痛いところをついてくる。流石にその辺りのことは確認済みってわけか。俺は内心で歯噛みをした。

広告掲載の契約書といっても、実質の中身は掲載の期間や金額などを記載した確認書類のようなもので、あくまで簡易的なもの。裏面に、事細かく約款が明記されているものではない。つまりは、暴力団及びその関係に属する一切の会社や店舗の情報は掲載しないものとする。とまでは書かれていない。

「だったら何の問題があるっていうの。うちの店のどこが契約違反になるのか、わかるように説明してくれねえか」

 俺は胸いっぱに吸い込んだ空気を絞り出すように吐き出した。多少不利な状況であるが、これも想定内。すでに臨戦態勢は整っている。重箱の隅をつつくような攻め方は、こいつらの常套手段。ペースに乗せられてはいけない。俺は自分を鼓舞するように、絶対に負けるなよ、と心の内で鞭を振るった。

「吉井さん。ご理解ください。駄目なものは駄目なんです。吉井さん程の方なら、おわかりになるでしょう。弊社が何故、今までそちらの系列店を掲載してこなかったか」

 質問攻めに晒されるのは分が悪い。だからこそ、譲れない一線を相手に知らしめる必要がある。これで吉井がどう出てくるか? 俺は返事を待った。

 すると僅かな沈黙の中で、吉井が舌を打った。

「なんだよ。それがどうしたって言うんだよ。そんなのそっちの勝手な理屈じゃねえか。なあ登坂さん、アンタも固いこと言わねえで、今回だけってことで、特別に済ませればいいだろ。それならオレも納得してやるよ。だけど、それでも載せられないって話なら、オレも考えなくちゃならないね」

 そう言った吉井が、眉根を寄せて威嚇する。体を大きく見せようとしているのか、腕組みをして、大上段に構えなおした。

 やはり円満にことが運ぶはずがない。吉井は遠回しに脅しをかけにきているのだろう。だけどそうはいかない。俺は挑むような興奮を抑え、心の楯を、しっかりと構えなおした。

 残念だが、吉井の話に乗せられるほど、俺も甘くはない。

 どんな理由があるにせよ、この一回を許すことは致命的な傷跡を残すことになる。それこそ僅かな亀裂から、堅強なダムが決壊してしまうように、この店の特例を許すということは、すなわち今後、全ての系列店を相手にすることに同位する。禍根は無用。俺には、針の穴ほども、つけいる隙を与えることは許されない。一瞬でも妥協してしまえば、そこで全てが水泡に帰してしまうのだから。

「吉井さん。繰り返すようですが、こちらのスタンスは変わりません。譲歩はないということで、ご理解ください」

 隣にいる坂口にも、俺の気概が伝わるよう、語気を強めた。

 これが吉井にすれば予想外の返答だったのか、テーブルに両手を叩きつけると、一歩前へ進み出てくるように、ぐいっと身を乗り出した。俺から四、五十センチほどの位置で、吉井の顔が、憎々しく歪んでいる。

「あーそう。それなら言わせてもらうけどなぁ。ほら、そこの坂口くんが、水曜日に写真撮影って言ったから、オレ、店の女の子たちに、美容室と衣装の予約、入れさせちゃってるからね。それ、どうするの? 結構掛るよ、キャンセル料。もちろん、全額保障してくれんだろーな。ちなみに女の子、全部で二十人いるからね」

 でたらめな言い分だが、向こうにしてみれば、こちらを強請る格好のネタだろう。けれどスタッフ二十人は盛り過ぎだ。あのサイズの箱なら、せいぜい十人がいいとこのはず。だが俺が思案しているのを読みとったのか、ここぞとばかりに、吉井が口元をニヤつかせた。

「どうなのよ。と、う、さ、か、君?」

 明らかな挑発だった。

 それとも、部下の前で恥をかかせることを楽しんでいるのだろうか。どちらにしても、こいつの性格が歪んでいることに違いはない。

 俺は心の中でこぶしを作り、口元を固めた。

 これが学生時代の喧嘩なら、今すぐにでも吉井の顔面をぶん殴っているところだ。だけど、今は違う。

馬鹿野郎。俺が過去、この仕事でどれだけの辛酸を味わってきたと思ってんだ。営業マンをなめるなよ――。

 心に強く言い聞かせながら、俺はあえて平静さを滲ませるように表情を作りかえた。そんなことでは動じないぞ、とアピールする。

 だが、吉井の攻勢は続く。

「ほら、面倒くさい話になっちゃうだろ。それなら広告一回載せるくらい、いいじゃねえかよ。な、坂口くんもそう思うだろ」

 吉井にすれば、今が好機と見たのかもしれない。

 が、坂口の表情は窺うまでもない。坂口は絶対に答えない。こいつが弱い立場の坂口を的にするのは予想できていた。多少いたぶられるのは覚悟の上。事前に打ち合わせ済みだ。

「吉井さん」

「――うるせえよ! オマエには聞いてねえんだ。オレは坂口に聞いてんだよ!」

 弾けたように、吉井が怒鳴り声をあげた。これでもかというほどに、表情を歪め、俺を睨みつける。が、俺は怯まなかった。

「ですから、坂口に権限はないんです。あったとしても結果は同じ。広告の掲載はできません」

「だからうるせーんだよ。ったく、オマエじゃ話になんねえよ。おい登坂。オマエ、部長なんだろ。だったら社長呼んでこい。いるんだろ、オマエじゃ話になんねえよ」

 言葉の投げ合いに、吉井の限界が見えた。

 社長を呼べ、とは、俺を言い負かせる手段が尽きた証拠。

 とはいえ、形勢が有利に傾いたわけではない。むしろここからだ。

 ここからが勝負どころであり、正念場。心臓の拍動が気持ちを押し上げているが、その分俺は声を低く抑え込み、あえて平坦に話しかけることを意識した。

「いえ、この件については、私の方で社長から一切の権限を委任されておりますので、これが当社としての判断です。もう一度言います。ご理解ください」

 こんな奴に、黒木さんは絶対に屈しない。それは俺にしたって同じこと。長年積み重ねてきた歴史を、誌面の信頼を、ここで崩すわけにはいかない。

「ごちゃごちゃとうるせえなぁ。んなことはどうだっていいだよ! てめーらの理屈なんかどうでもいいんだ。おい坂口、コイツじゃ話になんねえから、オマエが社長に電話しろ! 元々はオマエのミスなんだろ、なら、オマエが責任とれよ!」

 吉井は更に激昂し、坂口を槍玉に、激しく喚き散らしてきた。まるでそうすることに、何か別の意味があるかのように。

 だが何を騒がれたところで、坂口が電話を掛けることはない。電話など掛けられるはずがなかった。

 すると出し抜けに、部屋のドアが開かれた。

 俺は反射的に身構える。隣の部屋の男たちが、騒ぎを聞いて駆け付けたのだろう。来るべき最悪のタイミングがやってきたのだと、覚悟した。だが……。

「随分と賑やかなようだね」

 その声は、殺伐とした部屋の空気を、一瞬で凍らせてしまった。

 いや違う。凍ったのは、俺と吉井、二人の表情だ。坂口は、何が起こったのかさえわからない様子だった。

 ……いや、まさか。

 俺でさえ、こんなことが起こるとは、予測もしていなかった。

 ドアの前には、銀縁の眼鏡をかけた小柄な男が立っている。

 白髪まじりの髪を短く整え、初老を過ぎた年輪を、額に浅く刻んでいる。区役所の人間が着ているような、作業着風の紺色ジャケットに、同系色のスラックス。さらには駅前百貨店のそれとわかる紙袋をぶらさげている。

 そんな男が、突然高級クラブのVIPルームに現れたのだ。場違いにも程がある。一見すれば、ここがどんな場所なのかもわからずに、迷い込んでしまったような印象を受ける。

 案の定、坂口が俺に振り向くと、誰ですかね? と戸惑いがちに視線で訴えた。それが正解だ。初見なら、誰もが同じ反応を示すだろう。

 けれど坂口は、記憶に刻んでおいたほうがいい。

 俺たちの前に立つ男が、あの『ハマモト』であるということを――。


 まさか、こんなタイミングでハマモトが現れるとは……。

 心では、いまだ信じ切れていない自分がいた。目を疑うとは、まさにこの状態を表すのだろう。だけど間違いない。今、俺たちの目の前に立つ男こそ、ブルーローズグループの頂点に立つ、あの『ハマモト』に違いなかった。

 吉井は慌ただしく立ち上がり、背筋をぴんと伸ばした。

「お疲れ様です!」

「君、名前は?」

 ハマモトが問い掛ける。ハマモトの双眸は、吉井に向けられていた。

「はい、吉井です!」

「さっき、ビルの前で、私を客引きしたお兄ちゃんがいるんだが、あの子はなんて名前だい?」

状況が呑み込めていないのか、吉井は酷く狼狽した。ぎこちなく表情が固まり、頬だけが引き攣っている。そして思い出したように「柴田です!」と答えた。

「そう。柴田君ね。あの子、今日でクビだから。明日からはもうこなくていいと伝えなさい」

「はいっ!」

「それから君。吉井君も罰金だよ。三か月間、給料は三割減だ。異論はあるかね?」

「ありません」吉井は即答する。

「だったらこの件は、古館に伝えておく。いいね」

「はいっ、わかりました!」

 二人のやり取りを見て、思った。噂は本当だった、と。

 ハマモトはサラリーマン風のいでたちや、今着こんでいるような作業着風の服装で、何の前触れもなく、自分の店に現れる。

 まるで、警察が内偵捜査をするかのようにやってきては、従業員の仕事ぶりをチェックするのだという。そして自身の目に使えないと映った者は、その場で容赦なく切り捨てると言われていた。

 まさにその噂どおりの光景を、目の当たりにしていたのだ。

 ごくごく日常的な会話をするように、ハマモトは従業員のクビを宣告した。淡々と語る一方で、この私がルールだ、そう言わんばかりの絶対的な圧力が、ハマモトの小さな身体を、実物以上に大きく見せていた。

 と、そこでハマモトが首を傾げる。

「ん?」と何かに気付いたように、吉井の顔を覗き込んだ。射抜くような視線に、吉井がたじろぐ。

「……確か、君には前科があったね」

「はい! 申し訳ありません」

 吉井は殊更に大声で返事をすると、平身低頭、深々と頭を下げた。

「その君が、まだ働いているとは……古館にも何か考えがあるんだろうね。まあいい。次はない、それだけは伝えとくよ。いいね」

「はいっ! わかりました」

「で、そちらの二人はどこの業者さんかね。見たところ、何かの営業のように見受けられるが……」

 俺は迷った。立ち上がり、名刺を渡した方がいいものか、考えを巡らせる。どちらにせよ、挨拶はした方がいい。後ろから坂口の肩をつつき、目配せする。俺たちが立ち上がったタイミングで、吉井が口を開いた。

「こちらは、広告代理店の方たちです」

 ついさっきまで悪態を吐いていた男の姿はどこへやら、まるで日頃からお世話になっている人間を紹介するかのような口振りだった。

「広告代理店?」

「はい。『タウンズ・ウォー』という情報誌があるのですが……」

 ご存知でしょうか?

 と続けたかったのだろう。吉井は言いあぐね、どこか助け船を求めるように、俺に目を向けた。俺はハマモトに視線を向け、軽いお辞儀をした。スーツのポケットから名刺入れを取り出すと、そこでハマモトが言った。

「ああ、なるほど。君たちは黒木のとこの若い衆だったのか」

 まさか――と耳を疑う。

 予期せぬ場面で黒木さんの名前を出され、俺の動きが完全に止まってしまった。動揺ぶりが顔に出ていたのか、ハマモトの表情が愉快そうに崩れた。

「となれば……さしずめ君たちは、迷い猫ってわけだ。違うかね?」

 何がどう繋がっていて、ハマモトがそう結論付けたのかはわからない。黒木、と呼んだハマモトとの関係も定かではない。けれどハマモトにはこの場の状況が見えているのだろう。事態を呑み込むのが早い。流石はキレものと呼ばれるだけのことはあった。

 迷い猫――が意味するところは、おそらくそういうことなのだろう。

「はい、その通りです」

 俺は短く答えた。緊張に縛られて、思うような声が出なかった。

「それなら、この店に用はないはずだ」

 そう言ったハマモトが吉井に目を向ける。

「君、二人にはもう帰ってもらうけど、異論はないね?」

「はいっ! 何も問題ありません」

 よし、と頷いたハマモトが、ドアの脇へ移動して、道を開けた。

 行っていい、ということなのだろう。俺は「失礼しました」と低頭し、外に出るよう、坂口を促した。すれ違いざまに、ハマモトが言った。

「ああそうだ。黒木によろしくと伝えておくれ。君は、私が誰だかわかるだろ?」

「存じております」

「じゃあよろしくな。サラリーマンは大変だろ、と伝えてくれよ」

「畏まりました」

 もう一度低頭し、俺たちは店をあとにした。


 エレベーターを降り、外気を頬に受けたところで、ようやく俺は緊張から解放された。冷たい夜風を弾くほど、頬が熱を帯びている。

 まだどこか、地に足が付いてないような感覚が残っていたが、すぐに歩き出した。できるだけ早く、この場所を立ち去りたかったのだ。

 伊勢佐木町に針路を取ると、すぐ隣のビルの前で、サラリーマン風の二人組を、懸命に口説いている客引きに目がとまった。

 ああ、あれが噂の柴田君か。と思えば、横を通り抜ける時、自然と慈悲深い眼差しを送ってしまう。残酷な現実ではあるが、彼は知らない。すでに自分が、失格の烙印を押されていることを……。

と、そこで坂口が、俺の前に携帯電話を差し出してきた。

「部長。これ、エレベーターの中で切れちゃったみたいです」

 言われて俺は、はっとした。すぐさま携帯を手に取ると、ボタンを操作する。電話はすぐに繋がった。

「お疲れさまです。登坂です」

『部長! 大丈夫なの?』

「はい、一応は……無事です」

 良かったぁ。と電話の向こう側で大量の息が吐き出された。

『ほんと、無茶し過ぎだって。こっちは心臓が止まりそうなくらい、ずっとひやひやしてたんだから』

 そう言ったのは、編集長の伊原さんである。

「いや、すいません。本当にご心配お掛けしました……」

 俺は電話口で恐縮し、苦笑いを浮かべる。

『心配も心配。あんなやり取りを聞かされてるこっちの身にもなってよ』

 脱力した口調には、言葉通りの疲労感が滲んでいた。

 それもそのはず、編集長は、一部始終を聞いていたのだから。

 俺と坂口が『ゴールドルージュ』に入る直前からエレベーターで降りてくるまでの間、坂口のポケットに仕込んでおいた通話状態の携帯から、全ての会話を耳にしていたのだ。

 こちらの状況がどうなっているのか、あの一幕をリアルタイムに聞かされているのだから、心臓が止まるとは、けして大袈裟な例えではない。もし俺が逆の立場だったら、どうなっていたか。本当に編集長には申し訳ないことをしてしまったと、今更になって反省する。

 だが全ては俺が立案した策であり、予防線だった。

 この一件については、多少のトラブルはもちろん、最悪の場合、自分たちでは手に負えない状況もあるだろうと踏んでいた。もちろんそれは、暴力団の介入である。万が一、そうなってしまった時の為に、俺は編集長に頼んでおいたのだ。

 緊急を要する場合は、警察に連絡して欲しい、と。

 状況にもよるが、多少、脅されるくらいの覚悟はあった。殴られることも想定していた。だが、下手に 軟禁でもされ、拘束されるのだけは避けたかった。あまり想像したくはないが、それ以上のことにまで考えは及んだ。それ故の防衛策だった。

 もちろん、警察が来たところで、そこは相手も百戦錬磨だろう。

 シラを切られる可能性は充分にあった。だから俺は、坂口のポケットに、もうひとつのアイテムを忍ばせておいた。これこそ二段構え。取材用のボイスレコーダーだ。電話とは別に、全ての会話を録音しておくことで、奴らに対抗する物的証拠を残していたのだ。

『でも、とりあえずは解決したんでしょ?』

「ええ。なんとか」

『それなら良かった……って言いたいとこだけど、たしか、良策があるって言ってなかったっけ? 真っ向勝負にしか聞こえなかったけど。……ったく、うちのレッドは無茶しすぎだよな。超ハイリスク。しかもローリターンだし。まあ、どうせ部長のことだから、絶対に負けるつもりはなかった、なんて言うんでしょ?』

 ご名答です。

『ほんとに、これだから直情的なB型は困るよねえ。どれだけ策を練ったのか知らないけど、結局は、感情に物言わせて片付けるんだから』

 いえいえ、実は僕なりにかなり入念な懐柔策を練っていたのですが……とは口にしない。ここは謙虚に、おっしゃる通りでございます。と返し、反省する。

『でもまあ、本当に無事でなにより。流石の部長も疲れたんじゃない?』

「そうですね。一戦交えたら、腹が減ってきたんで、坂口と飯でも食って、それから戻ります」

『了解したよ。こっちも食事を理由に中抜けの途中だったからさ。実際は、食事どころの話じゃなかったけど、ね』

 この件は、俺と編集長だけの秘密のやりとりだった。

 こんな時期に、社内の人間に、余計な心配を掛けさせるわけにはいかない。たまたま出張中だったとはいえ、黒木さんにも、この件は話してない。もちろん、後の報告義務はあるのだが、俺が部長に就任した際に、「部下の処理能力を超えてしまった失敗は、お前が責任を持って解決するように。上司として、恰好いいケツの拭き方ってやつをみせてやるんだ」と釘を刺されている。

 俺自身が見てきた黒木さんの背中を、今では、俺が部下に見せる立場になったのだから、相手が誰であれ、泣き言なんて言ってはいられない。今回の件にしても、俺の責任範疇の中で片づけてやるつもりだった。

 故に、この件を知っているのは、俺と編集長、あとは坂口だけということになる。

「本当にすいません。でも、助かりました。締切明けたら、飯でも行きましょう。今日のお詫びに奢りますよ」

『おっ、それなら荒井屋の牛鍋だね』

 電話の向こう側で、編集長が快活な声をあげた。

「いえ、駅前の王将にしてください」

 すぐに切り返すと、編集長が笑う。

 厳密には編集長の方が一年先輩になるが、別部署を預かる管理者としての立場は変わらない。俺と編集長の間では、何かにつけて、持ちつ持たれつの関係が成り立っている。

……が、流石に荒井屋はハードルが高い。まだ佐伯のチケット代の方が安上がりだ。

『しょうがないなあ。なら今回は、王将で手を打つか』

「助かります。王将なら、食べ放題で構いませんから」

『了解。その時は、ガッツリ腹を空かせとくようにするよ。じゃあ、詳しい話はまた会社で。こっちも聞きたいことが山ほどあるから』

「わかりました。それじゃあ、後で――」

 やはり編集長も気になっているのだろう。当然だ。当事者の俺でさえ、いまだ頭の中は整理がついてなかった。

 結論からいえば、俺のとった作戦は、成功でも失敗でもなかった。

 急流に足を突っ込んだまま、必死に耐えていたところへ、突然の鉄砲水によって押し流された。

 その揚句、たまたま流れ着いた先が成功という看板が立てかけられた川岸だったという、単に運が良かっただけの話。運命の歯車は、第三者の手によって動かされたのだ。

俺は助けられた。

 ハマモトに、いや……黒木さんに、か?

 それにしても、だ。いくら黒木さんの人脈が一般人の枠を超えているとはいえ、まさか、あのハマモトとも繋がりがあったとは……。

 確かに、黒木さんにまつわる伝説じみた逸話は、ひとつやふたつじゃない。そう考えると、ハマモトとの繋がりも、今となっては納得もする。

 けれども俺は、七年もの間、共に連れ添っているのに、一度として、そんな事実は聞かされたことがない。かかわるな、と言われたことがあっても、繋がりがある、とはひと言だって聞かされた覚えはなかった。

 全く、あの人の秘密主義にも呆れるばかりだが、それでいて助けられてしまっては、文句のつけようもない。

 事後報告を兼ねて、真意を問いただしたい気持ちは山々であるが、どうせあの人には「なんだ、言ってなかったか?」なんて、軽くあしらわれるのがオチだろう。伝えてなかったとすれば、その程度の話なんだよ、とかなんとか、さも涼しげな顔をしていうに違いない。

 坂口にしても、同じことを考えていたのだろう。見計らったように、「部長……黒木さんって、何者なんでしょうか?」と真顔で質問を寄越してきた。

 正直、俺が訊き返したいくらいの難問だったが、俺は少しの間思案して、こう返した。

「わからない。あの人の素顔は、今も昔も、謎のまんまだな」

 そう言って俺は、坂口のきょとんとした顔を見ては、ほくそ笑む。

 秘密主義と言えば、俺も似たようなもんだ。

 だがなんにせよ、無事に戻れたのだから感謝しようではないか。

「よし、旨いもんでも食って帰るぞ」

 気分一新。俺は、ぽんっと坂口の肩を叩いた。

「はい! それなら王将ですね」

 出来の良い坂口らしく、実に空気を読んだ台詞が返ってきた。

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