【梨佳子】

 この二日間。私は頭を必死に回転させていた。

 恐れを抱いたり、嘆いている暇はない。私にできることは限られているが、最善策を見つけ出すまでは、一秒たりとも、無駄な時間を過ごすわけにはいかなかった。


 一昨日の夕刻、私は遥希を殴った。

 いいや、違う。

 私が殴った相手は遥希ではない。あれは、宇津木だった。

 私は遥希の体内に巣食う、宇津木を殴ったのだ。

 と、断っておくが、私は気がふれたわけではない。冷静な判断ができないほどに、気が動転していることもない。心拍も、呼吸も、僅かに高ぶった緊張を感じる程度でしかない。つまり私の精神は、至って正常値を保っている。

 その上で私は、人様に鼻で笑われてしまうような所論を、大真面目に思い描いている。

 もちろん、現実を直視したくない思いはある。

 できるなら、誰かに嘘だと否定してもらいたい。馬鹿げた妄想に惑わされるな、と罵ってもらいたい。

 しかし……それでも今は、はっきりと口にすることができた。

 私が見た『アレ』は、紛れもなく、宇津木だと――。


 あの日の晩、私は夫に嘘を吐いた。

 二日前の土曜日、深夜の話だ。

 遥希がお風呂場で転んだと、怪我の原因を偽って伝えたのだ。

 止むを得ない。あの時の私には、ああする以外、篤斗へ説明する手立てがなかった。篤斗が帰ってきたのは、時計の針が日付を跨ぎ、二十分が経とうとした時だった。

 その僅か三十分前。

 私は包丁を手に、真っ暗なリビングの中央で立ち尽くしていた。

 理由は定かでない。自分がどうして、いつの間にそんな行動を取ったのかさえもわからなかった。ただ気づいた時には、右手に包丁を握りしめている感触があった。暗闇の中で、鈍色の光が微かな輝きを帯びていた。その光を、私は目の中に宿していたのだ。

 何故か? もしかすると私は、鋭利に尖った包丁の切っ先を、遥希の喉元に突き立てようとしていたのかもしれないし、あるいは私自身の手首深くに、刃先を滑り込ませたかったのかもしれない。

 記憶が混濁している以上、これも憶測でしかないのだが、どちらにせよ、私自身が、取り返しのつかない結末へ向かっていたことには違いなかった。

 我に返った私は、テーブルに包丁を置いた途端、急に喉元が堰き止められたような息苦しさに見舞われた。床に膝をつき、ぜいぜいと乱れた呼吸を繰り返した。額にはじっとりとした汗が滲んでいた。

 怖ろしい……と思った。

 誰に対してでもなく、私は、自身の行動に恐怖した。

 まるで私の意志とは無関係な力が働き、あってはならない行動を誘発させたのではないのかと、我が身を疑った。もしかすると、私には、違う人格が潜んでいるのではないか、とも。

 実は私の内面に隠されたもう一人の自分がいて、理性とは懸け離れた場所から、私の深層心理に直結した行動を取るようにプログラムされている。多少の無理はあるにせよ、そうでも考えなければ説明が付かなかった。

 それくらい、私には理解しがたい行動だったのだ。

 但し、自ら包丁を手に取ったという行為に覚えがなくとも、それまでの行動過程になら、考えは及んだ。

 それ以前の私は、精神崩壊の危機に直面していたと、記憶している。これは確かな記憶と言いきれた。ありもしない憶測を膨らませ、錯乱していたのだ。

 遥希の中に、宇津木弘也が潜んでいるのではないのか、と。

 どうしてそう考えたのか、他人に説明するのは難しい。けれど否定することは、さらに難しいように思えた。

 あの瞬間、宇津木の声を耳にした直後から、私は混乱の渦に呑み込まれていた。それでも、どうにかして遥希の食事を作り、お風呂に入れ、寝かせつけるまでに至ったのは、母としての使命感に他ならない。遥希の小さな体に、宇津木の影を重ねつつも、私は必死に抗い、使命を全うさせることができた。が……。

 その反動が、一気に襲いかかってきたのだ。

 遥希が寝付いたことをきっかけに、風船が破裂するようにして、私の思考が弾け飛んだ。しかし、それで全てがきれいに消し飛んだわけではなかった。弾け飛んだ風船の中から湧き出てきたのは、雑念を吸い込んだ無数の小風船の群れ。頭の中は、一瞬で騒然となった。

 思慮分別とは程遠く、激しい混乱が、私の頭から、冷静に処理する機能を奪い取っていた。正解を探すように、どうにか思考の歩みを進めていくも、行き着く先で、袋小路につまずいた。

 どうして、宇津木が……。

 繰り返される堂々巡り。できるなら、頭の中に手を差し込んで、脳をぐちゃぐちゃに掻き毟りたいと思った。なにをどうすれば、きれいさっぱり頭の中をリセットできるのかと身悶えた。

 遥希、遥希――と息子の名を連呼しながら、暗い室内を彷徨い続ける。まるで着地点の見えないフライトに放り出された気分だった。

 私は行き場なく、ただ墜落していくだけの運命を受け入れるのか、あるいは、強引な不時着を自らの手で選ぶのか。厳しい選択を強いられていた。

 その結末が……あれだ。


 そして、私の気持ちが落ち着くよりも早く、篤斗が家に帰ってきてしまったのだ。だから私は嘘を吐いた。吐くしかなかった。

 あらかじめ用意していた嘘ではなかった。まさに窮余の一策。私は咄嗟に思い浮かんだイメージを口から放り出し、ありもしない事実を並べあげ、それらしい自分を必死に演じた。

 あの時の篤斗は、腫れ上がった遥希の頬を見た途端、明らかな動揺をみせた。そのせいか、感情的な言葉もぶつけられた。私自身、多少の罵りは覚悟の上であったが、それでも篤斗が私の作り話を信じてくれたのは、根底に、私が遥希を殴るはずがない、という確信があったからだろう。

 どんな理由があるにせよ、私が遥希に手を上げるようなことは絶対にない。篤斗はそう信じている。なぜなら、それが篤斗の提言した育児方針でもあったから。息子を叱るのは父親の役目。手をあげるのも父親の役割。母親は絶対に手をあげてはならない。怒り役と宥め役の分業制。普段はどれだけ甘えさせようが、めりはりある対応で、駄目なものはきっちり叱りつけるのが篤斗流の考え方なのだ。

 ゆえに私が、夫の前で遥希を叱りつけることは皆無に等しい。たとえ何かの拍子に感情的になろうとも、怒りのバトンは夫の手に委ねられる。「パパに怒られるんだからね」とは、遥希への脅し文句みたいなものだ。

 それでも私は、今までに数回、遥希に手をあげたことがある。

 もちろん、殴る、といった行為ではなく、躾の意味を含めた上での対処であり、断じて暴力などではない。

 専業主婦として、いや、たとえ専業主婦でなかったとしても、育児をしている限り、感情的になってしまう場面は幾度となく訪れる。

 怒鳴り散らすほど叫び、後に反省することもあれば、そうならない時だってある。どれほど息子を愛おしく想っていようが、気が付いた時には手が出ていた、なんていう現実を、母ならば、誰もが一度くらいは経験しているはずだ。

 ただ、こうも告白してしまえば、理想の育児を追及する夫には悪い気もする。ある種の背徳行為なのかもしれない。

 だとしても、これは母親にしかわからない懊悩であり、立場の違う篤斗には到底理解できるものではない。四六時中、遥希と生活を共にしているのは私だ。篤斗ではない。

 夫を立て、一歩身を引いてはいるものの、私にだって理想としている母親像がある。育児に対しての責務だって背負っている。だから多少の秘密は大目にみてもらい、その分、私は愛情と責任をもって、遥希に接するように心掛けていた。

 そうした背景が重なったこともあり、篤斗には本当に申し訳ないと思った。遥希を労わる姿を横目に、心が酷く痛んだ。篤斗が何かを口にするたびに、幾本もの太い針が、私の心臓に突き刺さるようないたたましさを覚えた。

 私の虚言を夫が信用し、その上で言いすぎた自分の非を詫びた時には、このうえない罪悪感が全身を抑え込んだ。篤斗の目を見ることなんかできない。できるなら、この家から飛び出してしまいたかった。


 あの日の晩、結局、私は一睡もせずに朝を迎えた。

 自分が眠りに落ちている間に、もしまた包丁を手にしてしまったら……。過った不安が、自然と睡魔を遠ざけていった。

 そして翌日の日曜日は、家族で買い物に出かけた。

大和市にあるショッピングモールは、月に一、二回は、必ず足を運んでいる場所だった。この日も同じ。特に予定を入れていたこともなく、篤斗の口から自然と行き先が告げられた。

 店内に入ると、篤斗は私にひとりだけの時間をつくってくれた。

 毎度のことではあったが、今回に限って言えば、買い物とは別の目的で有り難かった。私自身の買い物なんてどうでもいい。欲しいものなんて何もない。あったとしても、買い物なんて二の次であった。

 唯一の目的は一人になること。たとえ一時間でもいい。遥希と離れ、ひとり思考に耽るだけの時間が必要だった。

 入口を抜けたところで、篤斗と遥希は、予定通りに三階の室内遊園地へ足を向けた。私は針路を別にとり、一階の奥にあるフードコートに歩みを進める。

 開店直後とあって、フードコートは閑散としていた。

 アイスコーヒーを片手に端の席で腰を据えると、天を仰ぐように息を吐き出した。買い物に来たばかりとは思えないほどの疲労感が、重く、両肩に圧し掛かっている。

 今朝の遥希に不自然な点は見当たらなかった。

 若干、痕の残っている頬が痛々しくもあったが、当人は、特に気にする素振りをみせなかった。七時半を合図にテレビの前に居座ると、ヒーロー戦隊から仮面ライダーに渡される黄金リレーを、食い入るように観ていた。もちろん、隣には篤斗も一緒だ。

 誕生日にプレゼントした変身ベルトを腰に巻き、パパとじゃれあっている姿は、紛れもなく、私が産んだ息子の顔だった。それがどうして、清純無垢な遥希の内面に、別の人格が影を潜めていようとは……傍にいる篤斗には、到底、想像もつかない事実である。

 しかし私にすれば、口を開いた遥希が、だしぬけに真実を告発するのではないかと、内心穏やかではなかった。必然と、耳をそばだて、横目に姿を追う回数が、時間の経過と共に増していく。

 パパ、聞いてよ! 

 遥希はお風呂で転んだんじゃない。

 本当はママに殴られたんだ――と。

 そう言って、糾弾されることに怯えていたのだ。

 私の可愛い遥希が、いつまた宇津木の顔に変わるのか、気が気ではなかった。

 気分を変えるように、ストローの先からコーヒーを流し込む。

 喉を湿らすと、何度目かの溜息が零れ落ちた。口に広がった、ほどよい苦みと冷たさが、私に生きた感覚を知らせ、同時に、私の記憶が夢ではないのだと、避けられない現実をも痛感させた。

 私は瞼を閉じた。そして瞑想するかのように、記憶の中へ、ゆっくりと意識を浸していった。


 宇津木を殴ったのは、衝動的な行動だった。

 目も、口も、耳も鼻も全てが遥希のものであったが、あれは紛れもなく、宇津木だった。

 威圧的に発せられたあの声を、私が聞き間違えるはずがない。それが証拠に、私の体が拒否反応を示していた。結果として、息子に手をあげてしまった事実を釈明するならば、それが理由だ。考えるよりも早く、たとえるなら、息子を守りたいと願う、母としての防衛本能だったのかもしれない。

 とにかく私は、力の限り、宇津木の顔を叩いたのだ。湧き上がる恐怖に支配されるよりも早く、目の前の幻影を吹き飛ばすような思いで力を込めた。

 しかし、その直後に私の耳が拾った音は、あろうことか、聞き慣れた、遥希の声だった。

「いたい。いたいよぅ」

 目の中いっぱいに涙を溜めこんだ遥希が、頬を押さえ、必死に訴える。かたちを変えた現実が、私を嘲笑っているかのようで、不快に胸を揺さぶられる。

 私は急いで遥希を抱きかかえた。

「ごめん! 遥希、ごめんね」

 悲痛な息子の泣き声に、胸が張り裂けそうになった。遥希を抱きしめた私の胸に、涙の痕が滲む。

「違うの、遥希を叩きたかったわけじゃないの」

 私は必死に弁明した。言ったところで、それが何の意味もないことはわかっていた。けれど言わずにはいられなかった。だって、遥希は悪くない。遥希は全然悪くない。

 赤く腫れあがった頬に触れると、指先に、熱が伝わった。私は唇を噛み締めた。今更に、自分がしたことの愚かさを呪った。

 もし違っていたら……あれが私の幻覚染みた錯覚だとしたら、取り返しのつかないことしてしまったのだと後悔した――次の瞬間だった。

「リカ、次は許さねえからな」

 数センチ先の現実が語った、まがいもない事実。

 心臓を鷲掴みされたように、私は驚愕した。思考が固まる。背筋を緊張が支配した。だが――。

「ママ、ここいたい。ハルキのここ、いたいよー」

 再び動き出した時間の中で、腫れた頬を指差しながら、遥希が私を見上げていた。

 涙交じりに訴える息子の姿を、私はただただ茫然と見降ろした。

 何が正しくて、何が間違っているのか、雲を掴むような現実を前に、私は成す術がなかった。


 結果からいえば、あれ以降、宇津木は現れていない。

 それが意図したものなのか、何か別の理由があってのことか、はたまた全てが私の作りだした幻影なのか、今に至っても、結論には結び付かなかった。

 氷の溶けだしたアイスコーヒーをストローで啜り、手にした容器をぐらぐらと揺らしてみる。もう一度口に含んでから、喉を鳴らし、深々と息を吐き出した。雑念を追い払うように、私はかぶりを振ってみる。そんなことをしたところで、決して頭が冴え冴えしてくることもないのだが、昨晩、一睡もしていない割に、眠気は感じなかった。私の脳が、今は休む時ではないと、全身に信号を送り続けているようだった。

 視線を流すと、フードコートの中寄りに、高校生らしき女の子たちのグループが見えた。ハンバーガーやフライドポテトを囲んでお喋りをしている。朝食とも昼食とも受け取れる程度の量が、会話の合間を縫うようにして、口の中へ運ばれていく。今どきの女子にありがちな、ちょっと弾けたやりとりは、見るだけで楽しそうだった。

 あの半分でもいい、彼女らの幸せを分け与えて貰いたいと思った。

 時刻が十一時を迎える頃になると、コート内には、まばらに人の姿が見られるようになっていた。

 それでもあと一時間程度なら、この場所にいても平気だろう。篤斗なら、午前中いっぱいは遥希の面倒を見てくれるはずだ。

 そう思い、私は覚悟を決めた。

 取り越し苦労で構わない。それならば笑い話で済まされる。だけど最悪の事態を想定して、私は宇津木がいること、つまりは遥希の中にいるであろう宇津木の存在を肯定した上で、考えを巡らせることを決意したのだ。


 第一に、私の脳裏で、宇津木が明確な姿に蘇ったきっかけは、あの晩の出来事だ。

 遥希のお喋りが突如として上達した夜に、

「オマエ、浮気しただろ」と告げられたこと。あれが、始まりだったと仮定する。

 第二に、千尋からのメールがある。

 宇津木が死んだかもしれない、という内容のメールだ。

 昨日、千尋から受けた電話を、私は取ることができなかった。間が悪かったことも重なったが、流れから、宇津木の件だろうと察すれば、どうしたって、折り返し掛けることが憚れた。実際は私の思い過ごしで、全く別の用件だったことは、後に送られてきたメールで知った。ゆえに、宇津木の死の真相については、未だ回答はない。

 けれど、私はこれも死んでいると仮定した。

 そして昨日の出来事が、全てをまとめあげる。

 本当に突拍子もなく、馬鹿馬鹿しいと罵りたくなるようなシナリオが、頭の中に出来上がった。

 オカルト好きが、いかにも食いつきそうな話。

 私は眉根を寄せると、似たような話が心霊特番やホラー映画になかったかどうか、過去の記憶を遡ってみる。

 実のところ、私はその手の話題に興味があった。いや、あった時期があると言った方が正しい。少なくとも、大学に入る前までは、私の密かな趣味のひとつだった。

 丁度、私が中学にあがった年に一世を風靡したホラー映画がある。

 髪の毛の長い女性が、テレビの中から身をよじらせて飛び出してくる、あの映画だ。

 あれをきっかけに、以後の私は、様々なホラー映画を見るようになった。家族の中で、父は興味がないと否定的だったが、母は意外にもホラー好きだった。これも血統ね、と母は妙な部分に感心し、稀に放送される心霊特番も、母共々、欠かさずチェックするようになった。

 しかし、どれだけ記憶を掘り返してみても、私の知識を書き留めた記憶帳の中に、同系のシナリオは描かれていない。

 が、それでも行き着く場所は存在した。

というよりも、私自身が認めたくないだけで、始めから、可能性はこれ以外に考えられなかった。

『憑依』だ――。

 憑依といえば、誰しも一度くらいは耳にしたことがあるのではないだろうか。けれども実際は、一般常識からかけ離れた、不可視化な現象の代表例ともいえる。

 だとしても、件の死が真実ならば、亡くなった宇津木の霊が、遥希に憑依してしまったと考えるのが妥当であり、あの信じ難い現実を肯定する上では、最も説明がつきやすい。

 だけどまさか、本当にそんなことがあるだろうか、と自問を繰り返す。作話でもなく、現実的な話として起こり得るのか、と。

 ――あるはずがない。

 私は声を大にして言いたかった。

 確かにこの世の中には、人間の物差し程度では、はかることができない謎がある。人知の及ぶことのない、それこそ、死んだ者以外には解明できないような出来事が、至るところで噂されている。

憑依にしてもそう。私が過去に見た心霊特番の中でも、地縛霊に憑依されたという事例は、一件や二件じゃない。もしあれが、何の脚色も施されてないノンフィクション映像であるならば、私の身に起きている現象も、決して有り得ない話ではないだろう。

 それでも、だ。

 自分の息子に別れた元彼の霊が憑いてるなんて、そんな話、誰が信用するというのか。

 ……くだらない。

 私はいったい何を考えているのだろう。こんな馬鹿げた話を他人が聞けば、オカルトマニアの妄想だと、笑い飛ばされてしまう。本当に馬鹿みたい。こんな自分が、私はつくづく嫌になる。これなら本当に気が狂っているみたいだ。

 あそこにいる女の子みたく、リアルにバカなんじゃないの、なんて罵って、大声で笑い飛ばしたい気分だった。

 しかし……私の口角は、ぴくりとも動かない。

 その代わり、顔から血の気が失せていく様を、鏡越しに眺めるように感じ取っていた。

 もし、これが事実だとしたら……。

 私は、どうすればいい?


 そして現在の私は、部屋の隅に置かれたパソコンテーブルの前に腰を据え、画面に表示された文字列と向き合っていた。昨夜のうちから考えていたことを、早急に調べる必要があったのだ。

「……これは違う、か」

 私はマウスを操作して、閲覧していたサイトを閉じた。

 自然と溜息が零れる。ここ数日、私は溜息ばかり吐いている気がする。思うような結果を得られないせいか、行き場のない感情が、頭の中で渦を巻くように滞留していた。

 午前中、私は遥希を連れて、近所の公園まで散歩に出かけていた。

 朝方の冷え込みがやや強く、風は幾分冷たかったものの、日が照ってくれたおかげで、肌寒さも軽減されていた。

 公園で目一杯、遥希を遊ばせるのが目的だった。少しでも長い時間、遥希にお昼寝をしてもらう狙いがあったのだ。その甲斐あってか、昼御飯を食べた遥希は、時計の短針が2を指す頃になると、ぐっすり寝入ってくれた。思惑通り。無理に起こさなければ、二時間は夢の中に旅立ってくれるはずだ。

 両手を真上に伸ばしてみる。大きく円を描くように動かすと、凝り固まった肩の緊張をほぐした。時計に目をやると、もう一時間以上もパソコンに向き合っていたことになる。

にもかかわらず、私が求めている情報は、なにひとつ見つからない。いや、見つかってはいるのだが、それを裏付けするだけの確固たる根拠が探せなかった。

『憑依』

 私はこのキーワードを頼りに、ネットの世界を彷徨いつづけた。

 怪しげなサイトから、それらしく見栄えするサイトまで、手当たり次第に目を通しては、溜息を落とした。

 溜息を重ねる度に、私は逃げ場のない現実に追い詰められていく。

 絶望という名の魔物が、背後から、牙をむき出しに忍び寄ってくるようだった。

 私が見たサイトは、どれもこれも信憑性という部分に透明さが欠けていた。だが結局のところ、全ては自己判断でしかない。私自身が訝った先入観を捨てない限り、けっしてまともな情報源とは見做されないのだろう。

 途中、どうして自分がこんなことをしているのか。悩み、挫けそうになりながらも、私は止めることをしなかった。何故か?

 誰でもいい、私は誰かに否定してもらいたかった。

 私は否定するに値する題材を、求めていたのだ。同時に欲していた。『憑依』などという現象は、有り得ないのだという言葉を――。

 散々彷徨った挙句、私は『解離性障害』と呼ばれる精神疾患のひとつを探し当てた。

 ――憑依とは、その現象を知り得るものが深層心理に働きかけ、作り出す、心が病的に解離する状態を指す。

 この憑依現象を真っ向から否定する精神医学のもっともらしい一文に目を通しながら、私は冷めた笑みを零した。

 途端に、やり切れなさが押し寄せてくる。

 どう都合よく解釈しても、憑依や宇津木の存在を知り得ることのない息子には、当てはまる要素がない。それに私が経験した記憶が確かな以上、今では憑依を否定することが、私自身を否定することに思えた。

 おかしいのは、私か? 

 それとも、遥希なのか?

 極論じみた展開に歯噛みしながらも、私はキーボードを叩き続けた。信じられるのは、自らの実体験に他ならない、と。


 私は先ず、知識の中で漠然と埋もれていた『憑依』のイメージを、明確化させてみることにした。

 調べてみると、『憑依』とは辞書にも載っている言語だった。


【一、たよること。よりすがること。二、霊などがのりうつること】


 そのように記されている。

 私は『霊などがのりうつること』を元に、さらに深く、仔細な情報を追い求めた。


・一般に、とりつく霊とされているのは、本人やその家族に恨みを持つ人の霊であったり、動物霊であったりする。


・何らかのメッセージを伝えるために、憑くとされている場合もあり、本人の人格を超えて、霊の人格が前面に現れて別人と化したり、動物霊が憑依した場合には、行動や容貌がその動物に似てくる場合がある。


・憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合、それは霊障と呼ばれている。


・憑依とは、太古の昔から現代まで、世界中の至るところで見られている現象である。


・憑依とは、科学的にも解明されていない現象である。


 私は二つ目の解説から、『本人の人格を超えて、霊の人格が前面に現れて別人と化したり――』の部分に着目した。

 ここに私が見た事実を当て嵌めるならば『遥希の人格を超えて、宇津木の人格が前面に現れて別人と化したり――』となる。

 まさにその通りだった。

 だとすれば、宇津木は私に対し、何らかのメッセージがあるのだろうか。霊になってまで現れるのだから、それ相応の目的があってもいいはずだ。けれど今の私には、宇津木の真意に触れる手段はなかった。

 宇津木は姿を現さない。

 何故現れたのか。その後、どうして現れないのかも判然としない。

 私の不安を煽るだけ煽っておいて、心の内を見透かしたように、手玉に取って弄んでいるのだろうか。そう思えば、私の心には、宇津木に対しての憎しみが勢いを増して燃えさかる。

 だからといって、私は怒りに感情を支配されてはならなかった。

 できるだけ冷静に、頭を落ち着かせなくてはならない。自我を冷静な状態で維持させることが、私にとって、何よりも重要な使命であるからだ。過去、私が見てきたどんなホラー映画でも、身を滅ぼすのは、きまって冷静さを失った人間である。もっとも、これは映画などではない。だとしても、ここから先は、どんな状況であれ泰然とした自分を呼びかける必要がある。

 あの晩のように、自分の知らぬ間に包丁を握りしめているなんてことは、絶対に避けなくてはならないのだから。

 私は席を立つと、リビングの窓を解放した。

 新鮮な空気が吸いたい。脳に集まった血液を抜くには、一旦、気持ちを切り替える必要があった。

ベランダに降り立った私は、東から吹いてくる穏やかな風を、全身で浴びるように受け止めた。ほどよい冷たさが、身を清めてくれるようで心地よい。

 大きく深呼吸する。何度も呼吸を繰り返し、淀んだ思考を浄化させるように、脳内に新鮮な酸素を循環させていった。

 空を見上げ、ふと、実家の母に電話を掛けてみようかと思った。

 ――困ったことがないなら、まめに連絡をしてくる必要はない。

 父は昔からそう言うが、それでも母とは、週に一回程度の連絡を取り合っていた。

「二歳になった遥希に会わせてよね」

 先日、実家から遥希宛てのプレゼントが贈られてきた後で、母が電話口で言っていたのを思い出す。母は自分が選んだジャンバーとズボンを着た、可愛い孫の姿を見たいのだろう。

 離れて暮らすせいか、あまり親孝行をする機会がない分、それくらいは、と考えもしたが、あえなく首を振って否定した。

 私は現実を顧みる。母には申し訳ないが、今はそんなことに目を向けている場合ではない。全てを解明し、無事に解決させるまでは、母にだって合せることはできないのだから。

 遠くの空を見つめ、母の顔を想像し、ゴメン、と呟く。

 母への電話が適度なリフレッシュになるかと思ったのは、私の逃げだ。さらには、母に電話を掛けようと思ったことが、過去の余計な記憶をよみがえらせてしまった。

『いいな、他人に余計なことを言うんじゃねえぞ!』

 あの男が私を脅す響きが、耳の中で生々しさを帯びていた。


 部屋に戻った私は、遥希の様子を覗き見た。

 まだ起きる気配はない。毛布を抱きかかえるように包まり、穏やかな寝息を立てている。無防備な、可愛らしい表情。

 この一面だけを見れば、とてもじゃないが、宇津木の霊に取り憑かれているようには見えなかった。やはり、私の思い過ごしなのだろうか。いや違う、と即座にかぶりを振ることで気を引き締める。

 私には、安易に楽観視している暇は、ない。


 再びパソコンに向き合うと、先程までとは別のキーワードを入力した。『除霊』とキーボードを叩き、検索する。

 私の解釈の上で、『憑依』の対義語は『除霊』だった。

 本当に遥希が宇津木の霊に『憑依』されているのなら、『除霊』することだって可能なはず。

 但し、私はこの世の中で、本当に『除霊』ができる人間を見たことがない。当然だ。ごく一般的な暮らしをしていれば、よほど運がいいか、もしくは相当に悪くない限り、除霊を目の当たりにする機会などないのだから。私にしても、あるとすれば、テレビの心霊特番で見た程度。だがそれも、番組上の演出であって、人の手によって作り出されたフィクションではないのかという疑心が拭えない。

 信じるも、信じないも、全ては視聴者に託されているようで、信じきることもできなければ、頭ごなしに否定するだってできない。

 画面を通して物事を判断するには、除霊は曖昧模糊この上なく、とりわけ肉眼で目視できないようなテーマは、難しいのかもしれない。

 それでも検索を続ければ、除霊をアピールしているサイトは、数多くヒットした。しかし、どこの誰かもわからない人間を頼るには、かなりの勇気を裂く必要があるように思えた。

 これが病の類なら、知らない土地の、噂話も耳にしないような個人病院を頼るようなもので、それならば、僅かなりとも安心感を得られるようにと、知名度の高い大病院を選択することが、安全策のように思えてくる。

 結局のところ、頼るべき先も見えてこない私は、テレビで見た記憶を捻りだし、その業界では有名な、ある霊能力者の名前を打ち込むことに行き着いた。

 目当てのサイトを探しだすと、やはりテレビに出ているほどの高名な霊能力者だけあって、サイトから受ける印象は、本物らしき、それっぽさ、を匂わせた。おそらくは、私と似た悩みを抱え、縋るような思いでサイトの門を叩く人も多いのではないだろうか。素人目には、サイトに書かれた様々な説明書きが、信頼を予感させるように映る。

 となれば、次に私がとるべき道は決まっていた。

 私は、同じ霊能力者の名前で検索を進める。

 求めたのは実績。これだけ有名な霊能力者であれば、実際に除霊を受けた人たちの綴った体験談が、ネット内で公開されているだろうと踏んだのだ。

 私の読みは正しく、睨んだ通り、除霊の善し悪しを綴った文章が、ブログや特設サイトなどに書き込まれていた。

 けれどもその殆どが、なんらかのトラブルに関連する内容ばかりであり、肝心な除霊の是非については、否定的な意見が多かった。

 ある程度の覚悟はあったが、私が求めている「ズバリ除霊できました。本当に感謝しています」といった胸のすく書き込みは、大海の一滴でしかなかった。

 私は画面を睨みつける。地団駄を踏む思いで腕組みをした。

 そもそもが、除霊なんて不可視化な行為を肯定することに難があるのではないだろうか。

 姿かたちの見えない霊を、それらしく見栄えのする形式上の流れに沿って除霊する。見事除霊ができました、と言われても、はたして気分良く応じることができるのか。

 まだ見方もわからないレントゲン写真を差し出され、胃のこの部分が癌細胞に犯されています、と言われた方が納得もいく。手術の成否にしても、レントゲンのビフォー・アフターを見比べれば、心から「ありがとうございました」と言えるだろう。

 だけど、それでも私は、頭ごなしに否定するつもりはなかった。

 というよりは、否定したくなかった、というのが本音だ。じゃなければ、私の進むべき道は光を失ってしまう。藁にもすがるような思いとはこのことで、たとえ、それが一縷の望みだとしても、私には、僅かな芽を摘むことはできない。

 偽りと真実の狭間。

 私が煩悶する立ち位置に、明確な答えなどない。

 浮世離れした現実を前に、自分にできることが何であるのかをひたすら追い求める。それが答え無き難題だとしても、絶対に諦めるわけにはいかなかった。


 午後四時を少し回ったところで、遥希は布団から抜け出してきた。

 私と視線があったかと思えば、急に何かを思い出したように駆けだしてくる。

「ママ、テレビみたいよー」

 リモコンを差し出した遥希に強請られる。身についた生活習慣なのだろう。お気に入りのテレビ番組が始まっている時間だった。遥希はテレビの前にちょこんと座り、電源が入るのを待っていた。

 その後ろ姿に、不吉な予感めいたものを感じ、ボタンを押す指先に待ったがかかる。もしかすると、と思った私は、一度咳払いをしてから、小さな背中に語りかけた。

「遥希……な、の。それとも、ヒロヤ?」

 しばらくの間、背後から様子を窺ってみるが、反応はなかった。

 私の思い過ごしであれば、それでいい。電源を入れた私は、テーブルにリモコンを置くと、遥希の傍へ歩み寄った。

 その時、遥希の声が言った。

「――やっぱりオレが恋しんだな」

 瞬間、私の足が止まった。まるで雷に打たれたように、脳天から足先へと、電流が走り抜けた。雷鳴が地面を震わすように、心が震撼する。

「どうして、ヒロヤが、いるの?」

 慎重に問い掛けたせいか、声が震えてしまう。目に映るのは、遥希の後姿であるはずなのに、気持ちが酷く萎縮していた。心臓の音が、煩わしく感じるほど高鳴っている。

「どうしてって、決まってんじゃねーか。リカに会いに来たんだよ」

 遥希が振り返った。不機嫌に吐き捨てる様は、記憶に閉じ込めた宇津木の喋りに一致した。

 私は目を瞬かせた。

 悪い夢だと思いたいが、これは現実だ。

 遥希が宇津木で、宇津木が、遥希……。

 宇津木は立ちあがり、顎を突き出すように、私を見上げた。

 私は宇津木の言葉を咀嚼する。その上で、かぶりを振って、気持ちを奮い立たせた。

「私は会いたくなんかなかった」

 たぶん、私が強気になれたのは、遥希のおかげだろう。息子の姿が、本来私が感じるであろう戦慄を、緩和させてくれたのだ。もし目の前に立っているのが、宇津木そものもの姿であったなら……私は恐怖におののき、口を開くことはもちろん、蛇に睨まれた蛙のように、飲み込まれてしまったかもしれない。

「うるせ―なぁ。リカの気持ちなんて関係ねーんだよ。言っただろ、オレはリカを絶対に逃がさないって。オマエはオレのもんなんだって、何度も言ったろうが」

 私の態度が気に入らなかったのか、あからさまに口調を荒げるあたり、何も変わっていない。宇津木の声は、私を脅し、縛り付けるような怒気を孕んでいた。

 それでも私は、宇津木が毒突く言葉のひとつひとつが、遥希の口から出ていることに嫌悪し、憤りを覚える。言葉が口を抜けていくたびに、息子の身体がどす黒く汚されていくような気がしてならなかった。

 最愛の息子と、最悪な男の組み合わせ。目を背けたくなるような耐えがたい現実を前に、私は顔を歪めた。

「ヒロヤ……死んだの?」

 私が訊ねると、宇津木は不敵に笑った。遥希の顔にはとても似合わない、下卑た表情だった。

「死んだっていったらどうする? 墓参りでもしてくれんのか」

 宇津木は、わざと私を挑発するような視線を向けた。目の端から、狡猾さが滲みでている。

「はぐらかさないで答えてよ。それに、いったい何の目的があって遥希に取り憑いてるの? 答えて!」

 遥希の口は開かない。すなわちそれは、宇津木の沈黙を意味していた。手の内を明かさない為か、それとも、答えることで何か都合が悪いのか。宇津木が不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ばあか。なんでオレが説明しなくちゃいけねんだよ。リカ、勘違いしてんじゃねーぞ。この状況の意味、わかってんのか」

 宇津木は握った拳を、遥希の頬へ打ち付けるようにアピールした。

 その意味を、即座に理解する。

 表情から読みとったのか、宇津木は満足そうに歯を見せた。その姿を見降ろしながら、私はジレンマに苦虫を噛み潰した。

「まあ、今の俺にはこの方が都合いい。なにせ、新しい身体を手に入れられるんだからな」

「ふざけないで、それはヒロヤの身体じゃない。遥希のものよ」

「……そう。これは確かにリカの息子の身体だ。でも、この瞬間はオレの身体でもある」

「何よそれ。どういう意味っ――」

 私が感情をぶつけると、宇津木は勝ち誇ったようにせせら笑う。「そう怒るなって」と目を躍らせてから、床に胡坐をかいた。

「それに、オレを怒らせない方がいいのはわかってんだろ。調子にのってムカつかせたら、オレ、何しちゃうかわかんねえぞ。いいのか? 可愛い息子ちゃんの命。生かすも殺すも、オレ次第ってわけだからな」

 私は喉を鳴らした。

 宇津木が言った通り、遥希は人質同然の扱いだった。

 湧き上がる感情。私はそれを、無理やり押さえ込む。自制心がギリギリの部分で繋ぎ止めなかったら、今すぐにでも掴みかかり、馬乗りになって顔を殴りつけ、ふざけるな、と大声で罵っていただろう。

「ホント、こんなに面白いことが起こるなんてな。神様もオレを見捨てなかったってことだろ。最高だよ」

 私は宇津木を睨みつけた。歯の根が震えるほどに、きつく奥歯を擦り合わせる。これが本当に神の仕業なら、神様とは、なんて惨い仕打ちを与えるのだろうか。宇津木にとっては幸運だったとしても、私にとって、これ以上の不運はない。だって、私は一度として神を冒涜したことはない。むしろ、冒涜に値するのはこの男の方だ。それがどうして、こんなろくでもない男の味方をするのか。

 だが、ここで神様にあたったところで、事態は何の解決にも結び付かない。

 やり切れぬ想いを、息を呑むことで無理やり押し込んだ。私は声を絞り出し、訊ねる。

「……何が目的なの」

「目的?」

 宇津木は眉をひそめると、私の問いを、鼻先であしらった。

「まあ焦るなよ。どうせ長い付き合いになるんだ。この先何十年と、リカはオレを養ってくれるんだろ。時間はたっぷりあるんだから、前みたいに仲良くしようぜ」

 宇津木は立ち上がり、握手を求めるように右手を差し出した。パチン、と乾いた音が鳴り響く。私は反射的に、その手を払いのけてしまった。

「おいおい、大事な息子の身体なんだから、もっと丁重に扱えよな。こないだみたいに突然殴るのは、勘弁してくれよ」

 ――許せない。

 あれだけ私に暴力を振り続けていた癖に、この男は、どうしてそんな台詞が言えるのか。だが悔やむべきは、これが遥希の身体だということ。悔しいが、宇津木の主張はもっともで、これ以上、遥希の身体に傷をつけることはできなかった。

 言葉に詰まる私の反応に満足したのか、宇津木は口元に、厭らしい笑みを含んだ。

「ひとつだけ教えてやるよ。リカ、こうなった以上、オマエはこの先、何があってもオレからは逃げられない。そのことを、忘れるなよ」

 宇津木の声は、蜘蛛の巣のように広がると、私の全身に絡みついた。私は、身動きを封じられたように立ち尽くし、失意の底で味わう敗北感に、絶望していた。

 次に耳が拾ったのは、「ママー、おやつたべてもいいー」と間延びした口調で強請る声。まるでテレビのチャンネルが切り替わったように、宇津木の存在は、消え失せていた。

 瞬間、私は糸の切れた操り人形のように、尻を床に打ち付けた。

 全身の毛穴という毛穴から、汗がどっと噴き出てくる。脱力と入れ替わるように湧いて出た恐怖が、今になって私の足をすくませていた……。

 気付けば遥希の小さな瞳が、不思議そうに、私を見つめていた。


 私はいつかの古館が残した言葉を思い出す。

 ――宇津木は女に頼らなければ生きていけないような屑。自立心のない、女々しい男ならではの帰巣本能。

 言葉の通り、確かに宇津木は戻ってきた。

 それも、誰もが想像し得ないような、最悪のかたちで……。

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