【梨佳子】

 馬鹿馬鹿しい。

 本当に何度そう思ったかわからない。こんなことしか考えられない自分が、嫌で嫌で堪らなかった。

 私は今、蓋然性の欠片もない推論を生み出した挙句、自らが作り上げた強迫観念に、恐れを抱いていた。

 本当に馬鹿みたい。

 だけど、何度かぶりを振ったところで、心が晴れることはない。

 手元で開いた携帯電話の画面には、十月十四日、土曜日の十五時を回ったことが表示されている。

 遥希は眠っている。寝室ではなく、リビングに隣接した部屋の中で、お昼寝用のマットの上に寝転がり、穏やかな寝息を立てていた。

 玩具遊びをしていたのだろう。横になる遥希の回りには、片付けの終えてない玩具が散乱していた。

 私には記憶がなかった。それも、全くないといえば大袈裟かもしれないが、だとしても、決して言い過ぎではないように思える。

 自分のとった行動や言動の大半が、頭の中から抜け落ちているようで、あるのは断片化された記憶が僅かに残っている程度。遥希と一緒に遊んだ記憶、いや、それ以前に、私は遥希と遊んだのだろうか。遡れば、ちゃんと昼食を食べさせたのかさえも曖昧だった。

 遥希についての記憶で、最も明確に思い出せるのは、昨日のもの。

 千尋の家でピアノ遊びをしていた姿だ。以降の記憶は、全てがおぼろげにしか思い出せず、あったような、なかったような……。

 確信を得られる記憶は、見事と言っていいほどに抜け落ちていた。


 昨晩、篤斗は会社の飲み会があり、深夜遅い時間に帰宅したはずだ。先に眠りに就いていた私を気遣って、篤斗は声を掛けずに就寝した――と、思う。

 今朝にしても、特段おかしなやり取りはなかったように思える。

 いや、正確にはそれさえも曖昧なのだが、身に着いた習慣というか、おそらくは、何事もなく、普段通りに篤斗を送り出していると思う。

 ああ、そういえば、今夜は中区のスナックの撮影があるとかで、また帰りが遅くなると言っていたような気もする。ということは、私は今日も、遥希と二人きりということになる。

 部屋の中は薄暗く、無音だった。テレビさえも点いていない。耳に届くのは、私が吐き出した溜息の音に、不安定な息遣い。心拍が僅かに上昇しているのか、緊張の膜が蜘蛛の巣のように拡がって、私の心臓に纏わりついていた。

 私は手に取った携帯電話を操作すると、もう何度目かもわからないほど目を落としたメールに、視線をなぞらせた。

 タイトルには『大ニュース』と表示されていた。

 送り主は千尋だ。

『言い忘れてた! 大ニュースだよ。大ニュース! 昨日、マネージャーが言ってたんだけど、宇津木くん、死んだかもしれないって!』

 ――宇津木くん、死んだかもしれないって!

 この一文を、私は頭の中で、何度も、何度も反芻した。

 死んだかもしれない、という声は、次第に千尋のものから私の声に変わり、永遠と頭の中で鳴り続いている。


 宇津木弘也が、死んだ。

 かも、ではなく、死んだと仮定し、もしそれが現実であるならば、私はこの現実を喜ぶべきだ。

 人の死を喜ぶ。その行為がどれだけ不道徳に値するのかは、重々承知している。仮に人前で、こんなことを大っぴらに述べれば、非難轟々の的になることは明らかだろう。

 だけど違う。私は、私に限っては、それを喜ぶべき資格がある。

 あの男の死を喜んでいい。その権利があっていいはずだった。

 宇津木弘也。

 今尚この名前を思い浮かべるだけで、私の心は、例えようのない不快感に苛まされる。

 あの男が私の心に刻んだ忌々しい記憶は、あれから三年以上の歳月が経った現在も、決して色褪せることはなかった。


 宇津木弘也に出会ったのは、私が横浜にある国立大学を卒業後、川崎に本社を構える電機メーカーへ就職した後のことだった。

 高校を卒業後、私は埼玉県の北西部にある故郷を離れ、大学への入学を機に、一人暮らしを始めた。

 学生の本分とは勉学にあるべきだ。生真面目な父親の性格が影響したのだろう。在学中の私は、勉学に勤しみ、その上で、開いた時間をバイトに費やした。生活費の大半を親からの仕送りに頼っていた私は、バイトで得た収入を少しずつ貯金し、卒業後、仕送りを続けてくれた両親への返済に充てようと考えていた。

 けれども結果として、父親は私からのお金を受取らなかった。

「娘が余計な気はつかうな」父はそう言って首を横に振ると、だったら何かあった時の蓄えにしておけ――そう言って私に貯金を勧めた。

 こうした背景を理由にするわけではないが、私は大学時代を通じて、およそドラマや漫画に出てくるようなキャンパスライフとは無縁の、どちらかと言えば、地味な生活を送っていた。

 また私は、祖父の代から続く電気屋を営む父の姿をみて育ったせいか、幼少期から、精密機械や電化製品に興味を持つ子供だった。

 女の子にしては珍しいと親戚からも言われたが、当の私には、至極自然な流れだったように思える。だからだろう。私は大学で、電子情報工学を専攻し、父の言いつけを守るように勉学に励んだ。その甲斐あってか、同じ県内にある大手電機メーカーへの就職が決まった時には、父と母が両手を挙げて喜びを表現してくれたものだ。

 入社後、私の配属先は総務部となった。

 予てより、ソフトウェアなどの開発に携わりたいと考えていた私であったが、現実は、そう上手くいかないことを早々に学んだ。もちろん、本音では不本意な扱いに首を捻るものの、だからといって、これを自己主張するだけの勇気を持ち合わせてはいなかった。

 それでも、年々就職難がとりただされているこのご時世に於いて、第一志望であった企業へ就職できた私は、傍目には幸運を掴んだように見えただろうし、私にしても、厳しい就活戦線を勝ち抜いた安堵感が、多少の不満を呑み込ませていた。

 私が社会人となって三か月が経過し、初夏とは思えぬような暑さと、肌を焼くような日差しが続いたある日のこと。

 同じ総務部の一年先輩にあたる倉持さんが、唐突に訊ねてきた。

「瀬野さんって、彼氏いるの?」

 給湯室で麦茶を汲んでいた私は、突然の問いかけに目を白黒させた。

 正直にいえば、私は学生時代、といっても高校生の頃だったが、一時彼氏ができたことを除けば、以降は誰とも交際した経験がなかった。期間にして五年。大学時代に至っては、私自身が、彼氏をつくるという行為を、敬遠していた感がある。

 理由はひとつ。

 私には……男運というものがなかったからだ。


 高校時代。私は初めてできた彼氏と、付き合った翌週にセックスを経験した。十七歳の春。高校三年生になったばかりの頃だった。

 当時のクラスメイトには、既にセックスを経験している子が何人もいたし、援助交際を噂されているような子も少なくはなかった。

 性に盛んなクラスメイトたちが、遅れをとっている者たちを子供扱いできる権利。セックス経験の有無は、大人と子供を区別する暗黙の境界線であったし、セックスを知らぬまま高校を卒業していくことはできない、なんて誤った危機感を抱いている子さえもいた。

 けれど、そんな風潮が少なからず私に影響したのも事実であり、私もまた、恋愛漫画にありがちな順序を飛び越えて、セックスに辿り着いた。だから私は、恋の甘さを味わうよりも早く、セックスの刺激に没頭するようになったのだ。

 デートと呼べるような付き合いは皆無に等しい、ある意味で思春期の高校生らしい、会えば体を重ねるだけの付き合いが続いた。

 だけど三年の夏なり、十八歳の誕生日を目前とした私へ、男は卒然と、別れを切り出してきた。

「悪いけど、他に好きな女ができたから」

 一方的な態度で言葉少なに告げると、男は私の前から去って行った。余りに呆気ない幕切れに呆然と立ち尽くしたが、私は男を引き留めようとはしなかった。未練らしい未練を感じることもない。涙さえ出ない。振り返ってみれば私も、そこまで男に対し、入れ込んでなかったのだと、家に帰るまでの道程で冷静に自己分析できるほどだった。

 もちろん、付き合っていた期間を思い起こせば、男を好きだったという自覚はある。けれども、その好きという感情自体に、熱がこもっていたのかと自問すれば、答えは、いいえ、であった。

 だから私は、敢えてわざとらしい台詞を自身へ投げ掛けた。

 本当に、好きだったのか――と。

 私が初めて経験した恋愛の結末としては、いささか後味の悪い流れではあった。けれども、ある意味で、互いには後腐れのない別れ方だったように思える。事実、その後の学校生活に於いても、私たちは必要以上にぎくしゃくすることはなかったし、気まずさに心を病むこともなかった。

 私は失恋の痛みさえ感じることなく、次の恋愛に進むことができる――はずだった。


「オマエも初体験が瀬野って、どうなの? ちょっと焦りすぎたんじゃねえのか」

 広い校舎の中で、その声が私に聞こえる確率は、殆どなかったはずだ。

 聞き耳を立てていたこともなく、ただ通過していくだけの通路脇から、無作為に彼らの会話を拾ってしまうのだから、やはり私は男運がない。

「瀬野なんて、どう見ても中の下って感じじゃんかよ」

 別の男が口にした、「中の下」と称された自分の評価に足が止まる。跳ね上がるような心臓の拍動に、息を呑んだ。中の下、と頭の中で反芻し、私は言葉の意味に辿り着いた。

 その直後、別れた男の声が言い訳をした。

 大袈裟に、その場を取り繕うとするような酷い言い回し。男の顏は見えない。されど声を耳にしているだけなのに、体裁を保つための必死さが伝わってくる。足を固めたまま、一通りの言い訳を耳にした私は、そこで唇を噛みしめた。

 男の話を要約するならば、初体験を焦ったが故の選択肢。それが私だったのである。

 次の瞬間、私は逃げるように駆け出していた。


 家に帰った私は、ベッドの上に突っ伏すと、ひとしきり泣いた。

 涙を流したのは、男と別れてから初めてのことだった。

 結局のところ、相手も私と同じ感覚を持ち合わせていたのだろう。

 私たち二人の間には、「とりあえず」という、妥協じみた台詞が良く似合った。「お試し」でもいい。とにかく、恋愛という神聖な二文字からは程遠い付き合いであったことだけは間違いない。

 私は涙を流しながら、込み上げてくる悔しさに枕を叩き、何度も、何度も、胸を震わせながら歯を擦り合わせた。

 自分が情けなかった。惨めだった。だけどそれは、安易な付き合いを求め、愚かであった自らの行為を顧みたわけではない。

 それ以上に、「中の下」と称された自分自身の明確な立ち位置が、何よりも大きな傷跡を、胸の奥底へと残していったのだ。


「もしフリーだったら、紹介したい人がいるんだよね」

 彼氏はいません、と答えた私に、倉持さんはそう続けた。

 これまでの私であれば、当然そんな誘いは断っていたのだが、相手は一年とはいえ、先輩だ。しかも学生ではなく、同じ会社に勤める先輩ともなれば、断りにくさも上乗せされた。それが同性なら、尚更だろう。だけど――。

「どうして、私なんですか?」

 これまで、あまり口を利く機会のなかった倉持さんが、何故私にこんな話を振ってきたのか。

 率直な疑問をぶつけると、倉持さんは驚いた顔で私を見返した。

「えっ? ああ、別に悪い意味じゃないんだけどね……。ソイツ、真面目そうな女の子が好みなの。私みたいにチャラチャラした雰囲気の女は嫌いだっていうのよ。ホント、どこがチャラチャラしてるのよって、酷い話でしょ。で、彼女欲しさに、うちの新入社員をお目当てにしてる。そんなとこかな」

 そう言って笑う倉持さんは、緩くかかったセミロングのパーマが似合っていた。髪の色は明るめのブラウンだったが、この程度であれば、会社から咎められないのだという見本でもあった。仕事中とあって化粧は控え目だが、目鼻立ちがはっきりしていることもあり、しっかりメイクをすれば、派手な印象にも変わるかもしれない。

 けれど真面目そうな女の子と聞いて、あらためて私は、自分の立ち位置を自覚させられる。心の隅が疼くのを感じながら、だからといって、断る文句も見つからない自分が嫌になる。

 仕方なく私は、「会うだけなら」と言って、承諾した。


 出会ったその夜、宇津木は川崎市内にあるバーで働いていると紹介された。年齢は私の二つ年上で、倉持さんとは、大学時代の先輩後輩の間柄だと説明された。

「あっ、間違っても付き合ってたことなんてないからね。心配しないでいいよ。私とヒロヤは、ほんとに腐れ縁みたいなもんだから」

 二人の関係を、私が変に詮索するとでも思ったのだろうか。倉持さんは一方的に否定すると、だから遠慮なんてしないでね、と付け加えた。

 第一印象は、悪くない男だった。

 なかでも、バーテンダーをしている、という言葉の響きに、私が興味を惹かれたことは間違いない。

 それまでの間、私が思っていたバーテンダー像とは、無口でどこか物事を静観視するイメージであった。しかし宇津木は対照的なタイプらしく、初対面の私に対しても人見知りなく喋る、明朗な男だった。私は若干のズレを感じつつも、だからといって、特段それが悪い印象には結びつかなかった。

 適度に背も高く、すらりとした細身の体に、根元の大半が黒くなった茶色い髪の毛が、薄明かりの中でも目立っていた。名前は忘れてしまったが、以前テレビで見かけた、比較的整った顔立ちのお笑い芸人に似ていると思った。たぶん、女性客からも人気のあるタイプだろうと見受けられた。

 それもあってか、私は自分が選ばれた基準に疑問符を打ち、十中八九、落選組になるはずだと高を括っていた。

 ところが、一件目の居酒屋を出たところで、予想外の出来事が起こった。

 倉持さんが、突然都合が悪くなったと言い出し、早々に帰宅してしまったのだ。

 だったら私も帰ります、と出掛かったところで「それなら二人で飲みにでも行こうよ」と、宇津木が私の腕をとった。

「いいじゃん。まだ時間も早いし、二人で飲み直してきなよ」

 半ば強引な展開に顔を強張らせるものの、ここで断れば先輩の面子を潰してしまうことにもなる。そう考えた私は、その後も結局、宇津木と深夜まで行動を共にすることになった。

 宇津木と正式に付き合うようになったのは、出会ってから二カ月が経過した頃。

 残暑はまだまだ厳しく、蝉が鳴きやむ気配もない。いつまでも寝苦しい夜が続く時期だった。

「瀬野ちゃん、良かったね!」

 突然掛けられた声に、戸惑う。

 付き合うことになったんでしょ、と言われ、ようやく合点がいった。それにしても、決まったのは昨晩のことなのに、随分と情報が早いな、と私はむしろそのことに驚いた。

 倉持さんは、やはり給湯室の中で、外に響かない程度の声で続けた。

「でも、本当に良かったの?」

 自分から紹介しておいたくせに、どうしたのだろう、と怪訝に思ったが、私はあらためて付き合うようになった事実を報告し、「ありがとうございます」と礼を述べた。

「そっか。じゃあ良かった。これで私の肩の荷もおりたよ」

 この時見せた笑顔と言葉の意味が判然としなかったが、どこか倉持さんは、達成感のようなものを滲ませていた気がする。


 宇津木と付き合うことを決めたのは、私自身、過去の汚点を払拭したかったからに他ならない。高校時代の苦い経験を通じ、私は大学時代、異性との交遊をできる限り遠ざけていた。異性から『適当な女』というレッテルを貼られることを恐れていたのだ。

 何度か経験した合コンの席にしても、私は気安い誘いを断り続けた。絶対に安売りはしたくない。『中の下』だからといって、簡単に付き合えるとか、簡単にヤレるだなんて思われるのは、屈辱に等しかった。

 男を見る目を養う努力。そう例えることで自分を納得させ、その半面、私は心根で欲してもいた。自分が異性に必要とされる理由を。そして私は探していた。

 女としての、価値を。

 私は待ち侘びていたのだ。過去のトラウマから悩まされる日々に、終止符を打つ日がくることを――。

 それでも私は、付き合って欲しい、という宇津木の申し出を、一度断っていた。初めて出会った夜、帰り際の話だ。

 私は、まだ互いのことが何もわかっていないような段階で、何を言い出すのだろうかと憤り、警戒した。これは安易に体の関係を目的とした前置きで、今宵セックスさえやり遂げれば、それで二度と会うことがなくなるのではないか。きっとそうに違いない。この男も同じ。ただセックスに飢えている輩に違いない。いったい私の何を見ているのだろうか、と軽蔑に近い怒りを覚えた。誘いになんて、絶対にのるものか――と。

 しかし私が断った後も、宇津木は何かにつけて、私に連絡を寄越し続けた。食事であり、カラオケであり、その都度あからさまに交際を申し込むことはなかったが、好きだ、好きになった、という言葉は何度も耳にした。当初は迷惑に感じていた私も、次第に心が揺れ出していることを自覚していた。

「どうして私なんですか? 宇津木さんなら、他に付き合えそうな女の人がいるんじゃないですか」

 半分は本音で、もう半分は、私が一度口にしてみたかった台詞である。自己陶酔とまでとはいかなくとも、私は期待していたのだ。

 私じゃなくちゃ駄目だという、理由を。

 ――緒にいて、癒される。

 それが一番の決め手だと、宇津木は答えた。

「自分で言うのもなんだけど、オレって仕事柄、結構女の子から声を掛けられんだよね。でも正直言えば、ウザイっていうか、面倒臭い。たぶんバーテンとかやってると、何かを過剰に期待されてんじゃないかな。仕事中は別としても、それがプライベートまで続くとうんざりしちゃう。どっちかっていうと、普段のオレは癒しを求めるタイプだからさ」

 癒し、というフレーズは、私の胸に、驚くほどすんなり溶け込んだ。

 綺麗でも、可愛いでもない。その昔、中の下と酷評された私には縁遠いと思っていた女らしさが、予期せぬ角度から明確な光で私を照らし、隠された個性を引き出してくれたように思えた。

 男運がないわけではなかった。

 ついに、あの忌々しいトラウマから脱却する時が来たのだと、この時の私は、確信していた。


 バーテンダーという仕事柄なのか、宇津木には定休日の日曜以外、休みはなかった。当然、平日の夜に会うことは叶わない。

 私には昼間の仕事があるので、必然としたすれ違いが続いた。

 また宇津木は、私が店に会いに行くことを頑なに拒み続けた。「この業界、バーテンが店に彼女を連れてくるのは、ご法度なんだよ」

 だから私たちの付き合いは、会えても月に四、五回程度。

 そんな付き合いが二ヵ月続いた頃だった。

「オレ、今住んでるところを急に出なくちゃいけなくなってさ」

 宇津木が住んでいるマンションは、元々分譲されていたものを、オーナーが独自に賃貸契約していたものらしい。それが突然、親元を離れていた娘が帰ってくるとの理由から、部屋を明け渡さなければならないのだと言う。

 当然、宇津木も急すぎると抗議したのだが、入居時に交わした契約書には、その旨が記載されているという。本人曰く、問答無用で、取り付く島もないらしい。

 ただそうはいっても、私の部屋は1DKの間取りだったし、男女二人が暮らすには手狭すぎる。断るべきか否か、思案に心が揺れた。

「頼むよ。ひと月以内には、別のマンションを探すからさ。それまでの間、オレを助けてくれないか?」

 宇津木は肩を落とし、上目遣いに私の様子を窺う。その姿を不憫に思ったのも事実で、戸惑いながらも、私は同居することを承諾してしまった。

 しかし結局のところ、宇津木が私の部屋を出ることはなかった。

 そして、この日からおよそ九ヶ月もの間。私は死に等しいほどの苦しみを味わい続けることになる。


 一緒に暮らすようになって、私が最初に気付いた嘘は、宇津木の仕事についてだった。

 それまでの数カ月、バーテンダーをしていると聞かされていた仕事の実態は、キャバクラのホールスタッフだった。

 嘘が発覚した後も、最初は自分をキャバクラのマネージャーだと偽った。だがそれも、宇津木が不用意に口にした「マネージャーを迎えに行ってくる」という声に、脆くも崩れ去った。だけど、それを理由に別れ話を切り出すまでには至らず、宇津木に対しての情が、僅かだが、上回っていた。

 私は男運がない。宇津木との出会いは、それを払拭できる機会になると思っていた。けれど現実として、男運は輪をかけて悪くなっていった。

 同居を始めてから、宇津木は毎晩のように、私の体を求めてきた。

 といっても、キャバクラ勤めの宇津木は、家に帰ってくるのが朝方近くになるものだから、必然的に、私は眠っていたところを起こされ、まだ日も出ぬ早朝から、セックスすることになる。

 それには少なからずの苦痛も伴った。だけど求められるたびに、耳元で甘い言葉を囁かれるたびに、拒む気持ちは遠ざかっていった。


 私は男運がないに加え、心の弱い女だった。

 内向的であり、過去に受けた劣等感をいつまでも引き摺っている。できるなら、人並みの幸せを掴んで全てを払拭したいが、先の見えない未来を悲観して、それでも僅かな光明に期待を抱いては、しがみつくように依存する。私はそういったものを、一枚一枚、下着やシャツを着込んでいくように、全身に纏い、自己形成している。そんな女だった。

 別れるのが辛い。人肌が恋しい。いや、私の心根は、もっと深い場所にあった。私はずっと、あの言葉の呪縛から逃れられないでいる。

『中の下』と称された、私自身の評価。

 思えば宇津木の嘘を理由に、私から別れ話を持ち出す機会は、いくらでもあったのかもしれない。だけど私はしなかった。できなかったのだ。

 既にこの時の私には、宇津木と別れ、独りになる勇気がなかった。

 掲げてしまった彼氏付きの看板を下ろすことはできない。

 今この関係を崩す行為は、再び自分を『中の下』の位置に舞い戻すことに同義する。そう錯覚していた。宇津木は、私の評価を引き上げる為のステータスである、とも。

 だから私は、別れという選択肢を意識の奥底に沈め、意図的に蓋をしてしまっていたのだ。

 けれども現実は、宇津木という男に、それほどまでのステータスがあったわけもなく、何故この僅かな期間の内に、別れる決断ができなかったのだと、自分の弱さを、後の私は、幾度となく思い知らされることになる。

 振り返れば宇津木は、そんな脆弱な心の隙を突き、私の全てを蝕んでいったのかもしれない。


 共に暮らすようになって、二か月が経った。

 間近に年の瀬が押し迫ってきても、宇津木は適当な理由をつけては、私の家を出ることを先延ばしにする。約束の期限はとっくに過ぎていたにも関わらず、宇津木が部屋を借りようとする気配は、一向に感じられない。

 それどころか、宇津木はある朝、私にお金を貸してほしいと申し出てきたのだ。

 それまでの間、体はどれほど要求され続けようとも、金品を要求されたことは一度もなかった。私は怪訝に思い、理由を訊ねた。

「実はオレ、店を開くことになった。今度は本当にバーを開くんだ。オレが正真正銘のオーナーになって、若いバーテンを一人雇って経営していく。本当だ。今度は本当にバーテンダーになるんだよ」

 バーを開くのが夢だった。

 宇津木はそう言って、体裁を顧みることなく、床に額を押し付けた。頼む、貸してくれないか、と。

 私は待ってほしいと答えた。すぐに返答などできない。できようもない金額だった。

 三百万円。

 宇津木はそれだけあれば夢が叶うと懇願した。

 だけど私には、そこまでお金の蓄えがあるはずもなく、それまでコツコツと貯め続けてきた貯金にしても、到底、そんな大金には及ばない。

 いや、例えあったとしても、貸しはしなかったと思う。

 宇津木は私の彼氏であったし、同棲をしている間柄でもある。が、それとこれとでは全く別の話。私には、高額なお金を貸すに値する理由が、見当たらなかった。

 もし仮に、恋愛感情をお金に換算することができたとしたら?

 私は頭の中ではじき出してみるも、結果は悩むまでもなく、容易に算出された。やはり私には、彼氏といえど、宇津木という男に対し、大金を貸せるだけの愛情を持ち合わせてはいなかったのだ。

 この時だろうか、私がようやく無益な付き合いをしていることに気付いたのは。

 待ってほしい、と言ったのは、断る理由が思いつかなかっただけのこと。結局、それらしい言い訳も見つからないまま、三日という時間だけが過ぎていった。


「ゴメンね。私には貸せるお金がなくて。でも、五万くらいなら、なんとか用意できるかもしれない」

 それが最大限、私が譲歩できる金額だった。

「五万?」

 宇津木はあらかさまに顔を歪めた。

 それは出会ってからその瞬間まで、私が見たこともない顔だった。

 不満を隠そうともしない。三日間焦らされた揚句、そんな金額なのか、とでも言いたそうな表情。

 それが合図だったのか、宇津木が態度を豹変させた。

 苛立たしく声を荒げ、「バカ言うな。もっと用意できるはずだろっ」と身勝手に言い放つ。遠慮のない、酷い口調だった。

 もっと用意できるはず――とは、いったい何を指しているのか。

 私には理解できなかった。私の給与は総支給からもろもろを差し引かれた手取りで、十八万円程度。そこから七万円の家賃を引き、光熱費や携帯電話代、必要な生活雑貨の購入代金を差し引くと、手元に残るのは、六、七万。

 私はこの中から、月々の食費を捻出し、今どきの高校生にさえ劣るような小遣いの中で、数冊の本を買うことを、小さな娯楽にしていたのだ。

 最低でも一万円は貯金しよう、できれば二万円。それが毎月の目標でもあった。それなのに――。

「もっと用意って……五万だって、私にとったら凄い大金なんだよ。ヒロヤだってわかるでしょ。社会人になりたての私が、そんな大金持ってるはずないって」

「じゃあリカは、俺に夢を捨てろって言うんだな!」

 乱暴な口調で吐き捨てると、私が悪いわけでもないのに、刺すような視線で睨まれる。

 心が置いてきぼりになっていた。

 言葉の意味が全くわからない。なにかこう、私と宇津木は、そもそもの住んでいる世界が違うような、共有する言語さえ違う、そんな錯覚めいた光景を目の当たりにした気がする。

「別に夢を捨てろだなんて言ってない。でも、できないものはできなんいんだから仕方ないでしょ。どうしてそれがわからないのっ!」

 宇津木に感情的な言葉を投げつけたのは、この時が初めてだった。

 それまでは喧嘩らしい争いごともなく、平穏だった。それが――。

「オマエは仕方ないで済むのかよっ! 少しは彼氏の為に役に立ちたいとか、どうにかして三百万を用意しようとか、そういう優しさはないのか」

 その声は、八畳間を震わせるような大きさで轟いた。

 私は咄嗟に肩を竦め、距離をあけるように後方へ体を移動させた。

 ――いや、違う。動かしたのではなく、実際は、宇津木の手によって突き飛ばされたのだ。

 床に手をつきながら、私は気が動転していた。まるで予期していなかった展開に声を失う。

 まさか宇津木は、本気で私が三百万もの大金を用意できると思っているのだろうか?

 だってそうでしょ。普通に考えれば誰にでもわかること。社会人一年目でひとり暮らしの女が、三百万なんて大金、持っている方がどうかしている。

 当然私は、宇津木だってその程度は理解していると思っていた。

 その上で、それでも友人や知人などから掻き集めるようにして借りなければならないほどに、困窮しているのだと思っていた。

 私はその内の一部に過ぎない。よもや私一人から三百万を全額借りるだなんて、想像すらしていないことだった。

「まだあるはずだろ。オマエ、五十万くらいなら持ってるじゃねーかよ。貸せよ! 五十万」

 その声の荒々しさにたじろぎ、同時に、私は茫然とした。

『五十万』

 その金額の指す意味が、理解できたから……。

 宇津木は知っているのだ。私の預金通帳に五十万円が入っていることを。クローゼットの奥にしまってある、私的な重要書類などが隠された鞄の中に、その通帳が入っていることを。印字された最後の数時に、どれだけの金額が打ちこまれているのかを、知っている。 

 ――何故か?

 宇津木は見ているのだ。それも、私の知らぬ間に、こっそりと部屋を物色していたことになる。

 だけど私は知らない。知らなかった。過去、宇津木はそんな素振りを匂わせたことは一度もない。私が部屋に戻ってきても、部屋は綺麗に整頓されている。いや違う。あえて整頓していたのかもしれない。物色した痕跡を消すように、装っていたのかもしれない。

 その姿を想像し、宇津木を見返す。

 なんで知っているのかと、どうにか絞り出すように伝えるも、私の問いは何の意味も持たなかった。

「リカ、頼むよ。オレを怒らせないでくれよ」

 自分の行ないを詫びているのか、手の平を返したように口調が穏やかになる。しかし、それがかえって不気味だった。

 だけど違う。そんなことじゃない。私は嘘だと言って欲しかった。

 通帳なんて見ていない。今のはあてずっぽうに適当な金額を言ってみせただけ。そう答えて欲しかった。

 だから私は答えられない。的を大きく外した物言いに返せる語彙など、持ち合わせてはいない。

「なぁ、頼むから貸してくれよ、その五十万があれば、前金にだってなるんだよ。残りの二百五十万は来月にしてくれないかって、頼むことだってできんだよ! わかるだろ、リカ。協力してくれよ」

 私は宇津木を直視することができず、逃げるように視線を逸らした。気は焦り、呼吸さえ滞っているような息苦しさを感じた。それもでも頭の中は、何故か冷静に言葉の意味を考察していた。

 宇津木は、簡単に金を貸してくれと公言するが、私がどれだけの期間、そのお金を貯め続けていたのか知っているのだろうか。知るはずもない。大学時代からバイトして、コツコツと貯め続けた私の貯金。この夏に貰った初めてのボーナスだって全額貯金へ回したっていうのに。そうした積み重ねを、宇津木は知らない。その上で、貸せと言い張るのだろうか。

 それに、例え私の五十万が前金になったとして、残り二百五十万もの大金はどうするのか?

 私は聞き逃してなどいない。

 ――リカの五十万があれば三百万になるんだ。

 百歩譲ったとして、そう言ってくれればよかったとも思う。それならまだ、私がこれほどの不安に駆られることもない。だけどさっきの物言いは違う。現段階に於いて、宇津木は一円も用意していなかったことになる。

 兼ねてから自分の夢だったと渇望する、バーの開店資金が……一円もない、なんて。

 そんな馬鹿な話が、あってたまるか。

 机上の空論ならまだしも、これが現実の出店計画だと言うのか?

 小学生だって、もっとましな計画を立てるだろう。

 もう嫌だ。タチの悪い嘘なら、今すぐにでも止めてほしかった。

 そうだよな、やっぱり無理だよな。ゴメン、無理なこと頼んで悪かったな――って、嘘でもいいから謝って欲しかった。

「なぁ、どうして黙ってんだよ。嫌なのか? オレには貸せないっていうのか。別にくれって言ってるわけじゃねえんだよ。絶対に返す。リカ、信じてくれ。オレを信じてくれ! 絶対に返す。オレは絶対に返すから」

 どんな言葉を並べても、どれほど強く語られたとしても、何もかもが信用できなかった。もはや信用させてほしい、とも思えない。

 私はどうすればこの場の収拾がつくのかと考え、逃げ腰のまま、ただ無慈悲に首を振り続けた。冷たい女だと思われてもいい。だけど私は間違ってない。絶対に間違ってなんかない。

「なぁ……頼むよ。リカ、オレを助けてくれよ。夢なんだよ。店を出すのが、夢なんだよ」

 どこまでも深く、哀願するかのような声だった。今にも消え入りそうに、力なく肩を落とす。けれど、その光景を目の当たりにしても尚、私は、自分が驚くほどに冷静だったと思う。

 借りる手立てを失った宇津木は、感情に訴えかけようとしたのかもしれない。だけど私は、その声を胸の内に落とすことはなかった。

 同情や労り、憐れみさえも覚えることはない。

 私の目に映るのは、虚言癖のある、薄っぺらな男の実態のみ。

「駄目なのか? オレがここまで頼んでんのに、駄目なのかよ。オレはリカが好きなんだぜ。リカを愛してるんだよ。リカは違うのか。オレを好きじゃないのか? 愛してないのか?」

 ――愛している。

 私は人生で初めて向けられた声を、最悪の形で受け取った。

 愛してるって言葉は、こんなタイミングで使われるような安っぽい台詞なんだと、笑いたかった。と同時に失望する。聞かなければよかったと思えるほどに。

 この瞬間、はっきりと、私は認識した。

 この男と付き合ったのは、私の過ちだった、と。

 そして後悔する。自分の弱さを――。


「……そうか」

 宇津木は短く呟いた。かろうじて私が聞きとれるくらいの音だった。

「リカはオレを裏切るんだな。恋人のオレを裏切るんだな」

 裏切る?

 冗談じゃない。裏切られたのは私の方だ。そう思った瞬間だった。

 私の視界の中から宇津木の姿が消えた。飛ぶように、瞬間的にいなくなったのだが、その理由を私はすぐに理解した。

 左の頬が熱い。皮膚が裂けたような痛みを帯びて、ピリピリと痺れている。

 私は宇津木に殴られた。平手とはいえ、体が横に投げ出される程の力で、殴りつけられた。

 ――何するのよ!

 そう叫ぼうとした。が、声が口を抜ける前に、私はまたも殴られた。同じ左の頬だった。もう一度、続けざまに宇津木は私に向かって、容赦のない腕を振り落とそうとしていた。咄嗟に手を挙げて防ごうとすると、宇津木は逆上したように声を荒げた。

「避けようとしてんじゃねーよっ!」

 今度は蹴りが飛んできた。鳩尾の辺りに、重く、鈍い痛みが走る。

 呼吸が寸断され、あまりの苦しさに、身悶えた。

「ふざけんなよ。オマエ、オレを裏切ってんじゃねーよ! オレがこんなに頼んでんのに、何で貸さねーんだよ!」

 興奮を露わにし、宇津木は、私を痛め続けた。容赦なく蹴りつけられ、踏みつけられる。

 助けて、と願う私の叫びは、自分の呻き声に遮られる。意図した言葉を発することもままならず、私はくの字に蹲り、助けて、お願いだから、もう止めて、と願う他になかった。

 髪の毛を掴まれた。宇津木は強引に私の頭を持ち上げると、何度も、何度でも、私の頭を床に打ち付けた。鈍い衝撃と、重い痛み。

 鼻と頬がジンジンと疼く。口内に血の味が広がっていくのを感じた。自分の意識が徐々に薄れていくのを感じる。それでも腹部を蹴られ、太股を踏みつけられ、また蹴られる。

激痛を感じる度、意識が遠のく度に髪の毛を鷲掴みにされ、強制的に呼び戻された。休む間もなく私は殴られ、また、蹴られ続ける。

 嵐のような時間だった。

 ひとしきり、暴力の雨が去った後、ぜいぜいと呼吸を乱しながら、宇津木が吐き捨てるように、言った。

「いいか。明日中に必ず用意しとけよ! 五十万だぞ。絶対に用意しろよ!」

「……だせ、な、い、よ」

 私は言った。正真正銘、それが最後の抵抗だった。

「うっせ―な! テメー、まだわかってねーのか。いいから黙って出せばいいんだよっ!」

 直後に顔を蹴り飛ばされ、私は、自分の意識が頭の枠から抜け出ていくのを感じていた。

 ――死ぬかもしれない。

 大袈裟でなく、私のすぐ横で、にやりと微笑んだ死神が、死の入口へ手招きしているような気がした。


 翌日は土曜日だった。

 運がいいのか悪いのか、私は会社に行く必要がない分、体を休めることに専念できた。

 だが目覚めとともに、体のあらゆる部分から激痛が走った。僅かでも体を動かせば、傷んだ箇所が過敏な反応を示す。慢性的な鈍痛もあれば、太い針で刺されたような激痛が、体を動かすたびに襲ってくる。ベッドから起き上がることさえもままならなかった。

 宇津木はすでに起きていた。そして早々に、容赦のないひと声を浴びせる。

「金、午前中におろしてこいよな」

 選択の余地はない。有無を言わさぬ冷淡な口振りだった。

 それが私には、死刑宣告のように聞こえた。

 私は何もする意欲がなく、痛みを抱えたまま、終始ベッドの中で蹲っていた。宇津木はテレビを眺めながら、不機嫌そうに煙草をふかしている。

 景色が違う。私はすぐに思った。部屋の中が、まるで昨日までと違っている。空気が重苦しく、殺伐とし、煙草の煙が目に沁みる。

 私が自由に身動きできた空間が、何か見えない制約を科せられたように、私から自由を奪い、縛り付ける。

 間違いだった。私は間違っていた。そう後悔し、何度も後悔し、きつく唇を噛み締めようとするも、唇は、私が歯をあてただけで、ヒリヒリと切れるような痛みを訴える。血が滲んでいるような気もするが、とても鏡を見る気にはなれない。指をあてることさえ怖かった。

 悔しくて、ただ悔しくて、涙が溢れだす。

 愛してる、と言われたことも、金を貸せ、と言われたことも、貯金という私的な部分に土足で踏み入れられたことも、理不尽に罵られたことも、手を挙げられたことも、意識を失うほどに暴力を振るわれたことも、全てが初めての経験だった。

 悔しくて、本当に悔しくて、自分が情けなく思えてきた。

「まだ、もう少しだけ、休ませてよ」

 いつまでも動こうとしない私に痺れを切らしたのか、催促する宇津木に向かって、私はやんわり要求した。

 決して言い逃れではなく、現実から逃れようとしたわけでもない。

 本当に、体が動かすのが辛かったのだ。

「うるせーな。また殴られてーのかよ」

 語調の強さに、私の体は、咄嗟の反応を示していた。身が畏縮し、気持ちさえも小さくなる。背筋が凍る、という言葉の意味を、わが身をもって学習した。

 これが、この男の本来の姿。

 宇津木が怖い。この男が、心底恐ろしいと思った――。

 そしてその現実に、私は、絶望した。


 土曜日の銀行は、窓口こそ閉まっているものの、ATMは稼働している。私は機械の前に立ち尽くし、ATMが取り扱う限度額を呪った。五十万なら、一度に引き出すことができてしまう。

 どうせなら、もっと限度額を下げてくれればいいのに。私が貯めてきた五十万は、そんな簡単に引き出せるような軽い金額じゃないんだと、恨めしく、操作画面を見降ろした。

 私が引き出した五十万を、それこそ断腸の思いで引き抜いた五十万円を、宇津木はなんの感慨もなく受け取った。

「サンキューな」と無感動に告げただけで、踵を返し、足早に持ち去って行く。

 あまりに呆気ない。私はただ茫然と見続け、宇津木の姿がビルの角から消えたところで、視界が大きく揺らめいた。

 おぼつかない足取りのまま、どうにか腰を落ち着ける。

 歩道に設置された電話ボックス脇のベンチに座り、がっくりと項垂れた。そうすることで体中の生気が抜け落ちて、足元から地面に溶けだしているのではないかと思えた。だが、私は冷笑する。どちらにせよ、空っぽには違いない、と。

 ふいにやるせなさが押し寄せて、私はまた泣いた。

 悔しくて、悔しくて、涙が頬を伝いはじめた。気がつくと、声をあげ、行き交う人々の痛々しい視線も気にせず、泣き続けた。

 私は宇津木を恨んだ。許せなかった。けれど、宇津木を憎めば憎むほど、より一層自分が情けなくって、惨めになって、また泣けてくる。

 どうしてこんなことになってしまったのか?

 そう自問を繰り返すたびに、余計に胸が苦しくなり、むせび泣いた。

 わかっている。こうなってしまった責任は自分にある。この災厄を招いた原因は、私自身にあると……。

あの時と同じ。周囲に引け目を感じた高校時代、大人になることを急いだ揚句、とりあえずの関係に身を寄せた私。あの頃の私と、何も変わらない。同じ過ちを、私はまた繰り返している。

 別れるチャンスはいくらでもあった。あったはずだ。私がひと言、「別れたい」と切り出せば、違う結果が口を開けていた。わかっている。それでも……私にはできなかった。

 結局、私は何も変わっていない。

 大学時代、彼氏なんていらない、私には必要ない、と必死に言い聞かせていた。気丈に振る舞い、不必要な誘いには、気のない素振りを装った。けれど私の根底には、いつまでも、わびしさが滞留していた。

 私は心が弱く、寂しがり屋だった。

 私が好意を抱いた異性は、誰も私には振り向かない。きっと私には、異性を選ぶ権利がないのかもしれない。そうも考えた。

 でも、だからといって、私を好きになってくれる人が、私を本当に愛してくれる人が、この先いるのだろうか?

 そう考えるだけで、言いようのない不安に押し潰されそうになる。

 私は大きくかぶりを振った。アスファルトの路面が左右に揺れる。

 これじゃあ何も変わらない。何も変えることなんてできない。

 私が、私自身が変わらないから、こんな末路が訪れる。

 答えなど、当の昔に出ていたではないか。

 私は男運がなかったのではない。なかったのは、足りなかったのは、意志の強さだ。

 駄目だとわかっていながらも、別れの道を選べない脆弱な心。

 わかっている。私は最初から、全部わかっていたはずだ。

 だけど……それでも問い掛けたくなる。

 どうして、どうしてこんなことになってしまったのか、と――。


 都会の喧騒に紛れると、私の存在など、米粒ほどの価値がないことを思い知らされた。真っ昼間から、大通りに面したベンチで泣き崩れている女のことなど、気味悪がって誰も近づいてはこない。皆一様に距離を開け、不自然な人の流れを作り出していた。誰も私を助けようとしない。当然だ。だれがこんな愚かな女に救済の手を差し伸べるというのか。

 私には何の価値もない。もう何も残ってなどいない。

 私がコツコツと積み重ねてきたものを、いとも簡単に奪われ、代わりに与えられた対価は、絶望と、暴力と、偽りの愛。

 だけどこれで全てを清算できるのなら、宇津木が私の前から消えてくれるなら……。

 そう願い、私は痛みを噛みしめて、立ち上がる。これ以上の惨めなんて、絶対にないと。

「別れよう」

 私は小さく、しかし強い意思をもって呟いた。

 勇気を出して、今度はもう一度、同じ言葉を本人の前で言おうと決意する。心を奮起させ、誓いを立てるように頷いた。

 何度も、何度でも……。

 だけど違う。この時、私が踏み出した一歩は、更なる絶望の果てに向かっていたのだから――。


 翌日の早朝。東の空へ顔をのぞかせた太陽が、オレンジ色のカーテンをより一層温かな色に染め上げる。

 私はその色が好きだった。太陽の輝きと重なったオレンジは、清々しくもあり、温かくもあり、自然と心が和んでいく。

 しかし、僅かに視線を動かせば、現実が一瞬で私の心を冷やしていった。宇津木はまだ、この部屋の中にいたのだ。

 先に目が覚めた私は、ベッドを這い出るように抜けだすと、床の上で丸く身を抱え、ただ経過していく時間だけを眺め、一分とは、一時間とは、これほど単純に、機械的に進められていく作業なのかと、意味もなく眺め続けていた。

 頬に伝わる床の温度が、心地よい。冷たいはずなのに、温かくも感じられた。

 宇津木から離れ、どこかへ出かけようとも考えた。けれども体を動かす気力が湧かず、食事も摂らず、ただ過ぎゆく時間の経過に、身を委ねていた。

お昼過ぎになり、ベッドから起き上がった宇津木は、言葉一つを交わすことなく、いや、そもそも私の存在などなかったように、簡単な身支度を済ませ、出かけて行った。

 宇津木は昨日と同様に、不機嫌さを全身から醸し出していた。その宇津木がいなくなったことで、私はようやく、自分の城を取り戻したような安堵を覚えた。

 二度と帰ってこないで欲しいと、心から願った。

 それでも私は、侵略者が去った後も、天敵から身を隠し、穴から外の様子を窺う小動物のように、息を潜め、些細な物音に怯えながら、大半の時間を過ごしていた。


「――別れてください」

 夕刻になって、願い叶わず帰宅した宇津木を前に、私はあるだけの勇気を振り絞り、懇願した。

 宇津木が戻ってきたら、真っ先に告げられるように、心の準備をしておいた。それこそ、この一言のためだけに、幾度となくシミュレーションを繰り返した。けれども、いざに行動に移してみると、目を合わせるのも恐ろしくなり、私は逃げ出すように、額を床に押しつけていた。

「なんだと。もういっぺん言ってみろよ」

 威圧的な声に心が震え、身が縮む。それでも私は、精一杯の声を絞り出した。

「お願いです。私と別れてくださ――」

 全てを言い切るか否かのタイミングで、頭部へ衝撃が走った。視界が揺らぎ、同時に平衡感覚が失われる。頬に床の感触を覚えた途端、今度は痛みを味わう間もなく、腹部を蹴り付けられた。

 呻き声は音にもならず、私はまた、悶える。

 無論私は、こうなる可能性を予期していなかったわけではない。

 それでも、昨日あれだけの暴力を振るった後で、まさか再び同じような蛮行を繰り返すなど、人であるならば、できようもない行為だと考えた。期待もした。いくら宇津木でも、無抵抗な怪我人を前にすれば、良心のかけらが揺れるであろう、と。

 しかし私は、自分の考えが間違いであったことを、自らの肉体、その痛みをもって知るはめになった。宇津木という男は、私が考えている以上に、人の道を逸れた外道であった、と。

「いいか、またくだらねえこと言いやがったら、こんなんじゃ済まさねえからな」

 そう言って私の顔を踏みつけると、宇津木は体重をのせながら、ぎりぎりと、頬骨が削れていくような痛みを刻み込んだ。

 この時間がいつまで続くのだろうか、と昨日の恐怖が蘇る。そう思った矢先、私は頬を軋ませる痛みから解放された。

「おい、服脱げよ」

 ぶっきらぼうな声が、落とされる。

 痛みに支配され、現実を呑み込めてない私に苛立ったのか、宇津木は強引に私の身体を引き起こすと、剥ぎ取るようにトレーナーをめくり上げた。

 ついさっき受けた痛みに増長されるように、昨日の痛みが疼きだす。口の中には血の味が拡がっていた。昨日の傷が裂けたのか、新しい傷が増えたのかさえも判然としない。

 そんな私の痛みに構おうともせず、尚も欲望のままに動き続ける宇津木の行動に、畏怖を覚えた。

 お願い、体が痛いの。そう訴える私に、「オレに殴らせるような真似をするオマエが悪い」と、非情に言い放つ。

「触られるのが痛えなら、オマエがやれ」

 吐き捨てた宇津木は、履いていたジーンズを放り投げると、パンツを脱ぎ棄て、ベッドに腰掛けた。

「くわえろよ」

 その声に、私は絶句した。

 初めてだった。行為そのものではなく、横暴な要求が、だ。

 言葉の意味はすぐに理解できた。私が何をしなければならないのか。けれど、その行為にまた、私は絶望した。

 が、それでも服従しなければ、再びあのような暴力が襲ってくるのではないかと、体中の傷跡が、激しく燃焼するかのように警鐘を響かせる。私は悔しくて、情けなくて、無性にやりきれなくなった。

 この日を境にして、私たちのセックスのかたちは豹変した。以前はまだ、互いの存在を尊重し、愛、というか、情のようなものを感じられる範囲ではあった。快楽は存在し、私自身、日々求め続けられることに抵抗はあったものの、それでも体は正直に、快楽を浸透させていた。

 しかし「リカ」と呼んでいた声が「オマエ」に変わり、全ての言葉が威圧的な命令調へ変化すると、宇津木の人格そのものが入れ替わったように、セックスの内容にまで反映されていった。

 宇津木の欲望赴くままに、私は操られる。

 行為の大半、私は宇津木の性器を口に含み続け、宇津木が果てるまで、いつまでも、続けさせられる。髪の毛を鷲掴みにされ、宇津木の思うがままに、私は頭を動かし続けた。

 宇津木はベッドに腰を落とし、私は床で四つん這いの格好にさせられる。その行為の最中、何よりも私を嫌悪させたのは、性器をくわえ続ける私の上で、悠然と煙草をふかしていることだった。その態勢のまま、時にはテレビを眺め、時には電話さえ、平然と済ませていた。

 性の奴隷でしかない。

 私は情けなくも自分をそうやって揶揄し、同時に憎しみさえ覚え、口に含んだ性器を何度も喰い千切ってやりたい衝動にかられた。

 けれども、その度に再び殴られる自分を想像しては、恐怖に遮られる。

 ようやく奉仕を終えると、宇津木は気まぐれに私の体をまさぐりながら、最終的には、必ず私の股の間に顔を埋めてきた。執拗に、私の性器を舐め続ける。

 これも以前であれば、快楽を得られるような行為であったはずが、やはり嫌悪の象徴であるかのように、体が拒否反応を示した。

 脳から信号が送られているのか、体全体が拒絶しているのか、私の性器がそれを受け入れようとする動きはない。ざらつく舌の感触をおぞましく受け取り、また嫌悪する。

 悪戯に掻き回される指の動きに、辛抱強く唇を噛み締めた。

 宇津木は、私が声を挙げないことに苛立った。

 半ば強引に自分の唾液を撫でつけ、私はまた四つん這いに起き上がり、背後から、宇津木の動きを受け止めた。宇津木は卑猥な体位を好み、中でも背後から入れることを一番に望んだ。

 私はこの行為が嫌いだった。相手の顔を見ることもなく、ただ性の道具さながらに、受け入れ続ける。尻を叩かれ、腰を抑えつけながら、強引に打ちつけられる様は、まるで先の尖った杭を、木槌で何度も打ちつけられる様相に酷似していると思った。

 僅かでも声を漏らせば、「なんだよ。オマエも感じてんじゃねえのか」といやらしい声でなじられる。

 宇津木はこの台詞が好きなようだった。

 そうすることに興奮を覚え、何度でも繰り返す。行為の最中、宇津木はレイプ願望が強いことを知った。私を犯し、凌辱することに快楽を覚える。淫靡さは、拍車を掛けるようにエスカレートしていった。

私の口が反応を示さなければ、背後から馬の鬣を引くように後ろ髪を鷲掴みにする。卑猥な台詞を口にするまでの執拗な強要。セックスに狂ったカウボーイは、私の性器が濡れる度に満足な声をあげた。

 それでも私は、快楽に上塗りされた感情があることを知っていた。

 何度腰を打ちつけられようが、どれだけ性器が敏感に反応を示そうが、心は冷え続ける一方だった。

 私は性の奴隷と化し、ただひたすらに、宇津木の気が済むまで、つまりは射精するまでの間、耐え続けるだけだった。

 一度だけ、背後から腰を突き動かしている宇津木の姿を、鏡越しに見てしまったことがある。宇津木は、口元に卑しい笑みを湛えながら、陶酔していた。快楽ではなく、自らの行為、おそらくは、女性を犯し、服従させているかのような充足感に溺れているようだった。

 その時、あまりの悍ましさから、私の体が反射的な拒否反応を示した。逃げ出すようにして、行為を遮ってしまったのだ。

「てめえ、何してんだよっ!」

 宇津木は怒りを露わにすると、次の瞬間には、わき腹に激痛が走る。私は崩れ落ちるように、ベッドの上に突っ伏した。

 だが宇津木は気にする素振りもなく、呻く私を余所に、中断した行為の継続を優先した。さらに腰を深く打ちつけながら、ややあって、私の背中に射精した。

 唾を吐き捨てられたかのように、屈辱的な行為だった。

 私は悔しくもあり、虚しくもなり、やりきれぬ想いを噛みしめては、シーツを濡らす。

 それ以降、私は行為の最中、心を石に変えながら、固く目を瞑り続けた。


 性の奴隷、道具、服従、暴力、支配。

 まるで私は、生殺与奪の全てを掌握されたかのように、自我を失いつつあった。

 愛とは無縁の、無意味な行為。

 快楽に喘ぐことはなく、苦痛に喘ぎ続ける。

 私はただ、宇津木の体を受け入れる度、自らの肉体が擦り減っていくような感覚を、常々感じるようになっていた。

 唯一の救いといえば、宇津木が私の中では絶対に射精をしなかったこと。

 もちろん、私からその理由を訊くような真似はしなかったが、いつかの行為の最中に、宇津木がこう言ったのだ。『下手に中に出して子供でもできたら、無駄な金が掛かるだけだからな』と。

 皮肉なもので、酷く下劣な台詞を耳にした裏側で、私が心底胸を撫で下ろしたこともまた事実だった。

 但し、宇津木の我欲は留まることを知らず、粗暴さが輪をかけたように増していく。

「くわえろよ」とは、支配が始まる合図になった。

 宇津木は奉仕の最中、背中の上に、煙草の灰を気まぐれに落とすようになり、ついには煙草の先で、赤々と燃える先端を押し付けられるようにもなった。

 本当に、何もかもが嫌になった。嫌で、嫌で、堪らない。

 この生活がいつまで続くのか、出口の見えない現実に慄然とし、私は日々、憔悴していく一方だった。

 この時の私は、自分の顔を鏡でみる度に思ったことがある。私の顔には、何か決定的に欠けているものがある、と。

 私の存在意義とはなんなのか、私はなんのために生きているのか、いっそのこと、死んでしまった方が楽になるのではないか?

 いつしか私は、深く煩悶することさえも放棄し、死後を想像することが、自由への近道であるかのように、錯覚していった。


 そして、私がお金を失った翌月。

 宇津木は私にあるバイトを勧めてきた。正確には、勧めるとはいえず、強制だ。

「横浜にオレの知り合いがやってる店があるから、そこで働いてくれよ」

 何故か宇津木は、私に頼みごとをする時だけは、口調を緩めることを意識しているようだった。

 紹介されたバイトは、『ジュエル』という名のキャバクラだった。

 私がそれを拒否すると、「あーそう。だったら別にいいんだぜ。もっと割のいい仕事もあるからな。そっちにするか?」

 それが風俗であると表情から匂わせて、私を脅す。迷う間さえも踏み潰すように「オレ、できれば殴りたくねーんだよな」と続け、私の権利を剥奪した。 

 断ることなど、できなかった。従順でない私には、容赦ない暴力が降りかかる。


 肌を刺すように、冷たい風が吹き荒む二月。

 私は梨佳子から、新たに『美羽みう』という名をつけられた。

 不似合いな化粧を施し、胸元が大きく開いた不慣れなドレスを着こんだ私は、キャバクラで働くことになった。

 夜、キャバクラでバイトをするようになると、当然それは、昼間の仕事にも悪影響を及ぼした。

 私はそれまで一度もなかった遅刻を経験し、睡眠不足から仕事の能率が上がらず、ミスすることが多くなった。社内からは、体の調子でも悪いのじゃないか、と心配してくれる声もあがったが、それはいつまでも続かなかった。

「瀬野さんがキャバクラでバイトをしている」

 いつしか社内には、そういった噂が立つようになった。

 噂は煙が立ち昇るような勢いで上司の元まで到達し、課長に呼び出された私は、真意を問われる。

 私には、正直に答える以外、方法がなかった。

 この頃の私は、噂の出所が倉持さんであること知っていた。

 確証こそなかったが、私がキャバクラで働いていることを知っているのは、宇津木と接点のある倉持さん以外に思い当らなかったからだ。

 もちろん、何千人という社員を抱える会社の面々を、全て知っているわけではない。私の知らぬ間に、店の中で社内の人間と接していた可能性も否めない。

 しかし、その確率は限りなくゼロであると思えた。

 宇津木と付き合うようになってから、倉持さんの接し方が明らかに変化したからだ。以前から、それほど口を利く機会は多くなかったが、それでも顔を合わせれば挨拶し、些細な話題を口にした。

 それが仕事の会話以外、意図的に私を避けるようになったのは、宇津木が私から五十万を奪っていった後のこと。私は直感的に、只ならぬ二人の繋がりを察知していたのだ。もしかすると、二人は以前に付き合っていた経緯があるのかもしれないし、最悪の場合、今でも付き合っている可能性がある。その場合、私は計画的な罠にはめられたことになる。さらには、あの五十万の一部を、倉持さんが持っているのかもしれない。そうとも疑った。

 もちろん、これは私の思い過ごしで、邪推に留まる範囲なのかもしれない。だけど正直なところ、私は倉持さんを恨んでいた。

 何の確証もない。ただの逆恨みなのかもしれない。けれど思い返してみれば、宇津木と付き合う報告をした時に見せた倉持さんの顔は、面倒臭いお荷物を、ようやく押し付けられたような安堵感に満ちていたと思えてならない。

 背景はともかく、倉持さんは知っていたのだろう。宇津木という男の、本来の姿を。

とはいえ、それでも真意を問うことはできない。万が一、今でも倉持さんと宇津木の間に何らかの接点があって、それが私にとって不利な状況になりうるとすれば、不用意な発言は自分の首を絞めかねない。特に、倉持さんが宇津木に告げ口をするような関係であるならば、私はまた暴力を振るわれる恐れがあった。それだけは絶対に避けたかった。

 結局、私は不本意ながら、自主退社というかたちをとって、会社を辞めることにした。それも仕方ない。私はこれ以上倉持さんの顔を見続けることが苦痛だったし、会社は社員のバイトを禁じている。

それでも課長は懲戒扱いに留め、温情措置をとってもいい、とまで言ってくれた。

 おごりっぽい言い方になるが、短い期間ながらも、それまでの勤務態度を評価してくれたのだろう。しかし、一度キャバ嬢というレッテルを張られた私に、そうまでして椅子に齧りつくほどの気力は残っていなかった。いや、仮にあったとしても、キャバクラのバイトを辞められない以上は、意味のない選択だった。

 桜の蕾増す三月の末に、社屋の横を一直線に伸びる桜並木を眺めていた。

 普段であれば、仕事をしている時間帯。桃色の花びらが咲き乱れる姿を待つこともなく、私は両手に荷物を抱え、歩いていく。

 虚しくもあり、またその方が自分には似合っているようにも思え、自嘲する。今の私が歩くには、花道は酷く滑稽に映るはずだ。そしてもう二度と、この道を歩くこともない。

 勤続年数一年。この無残な結果だけが、私の歴史に、また新しい傷跡を残していった。


 会社を辞めた私は、週三日勤務していたキャバクラのシフトが、翌月には週五日になり、完全に、夜の世界の住人へと成り代わっていった。

 その店では、二週間に一度、手渡しで給料が支給された。

 私がそれを持ちかえると、宇津木は封筒から無条件に半分を抜き取った。私に拒む権利はない。酷い時は封筒ごと持ち去られることもあったが、どちらにしても、最終的に私の手元に残るのは、生活していく上での最低限の費用しかなかった。

 この頃になると、私は宇津木がバーを開店する意欲がないことに、気付いていた。これも嘘だったのだ。

 時折みせる電話のやりとりから、私は宇津木自身もまた、誰かに強く管理されている身であることを知った。

 時に宇津木を罵倒する声は、携帯を飛び出して私の耳にまで届けられる。宇津木はその度に、言い訳がましく情けない声を洩らすのだが、電話を切った直後には、すでに声の届かぬ相手に向かい、強気な声でやり返す。

 宇津木が何に腹を立てているのか定かではない。けれど最後はきまって「畜生、今に見てろよ!」と握りしめた携帯に向かい、無意味に声を荒げていた。

 そうして叫んだ後には、出し損なった鬱憤を晴らすように、暴力の名を掲げ、私を服従させようとした。

 私は道具だった。苛立ちの捌け口として、また性欲の捌け口としてただ利用されているだけの存在。宇津木が私を抱く理由はどちらかでしかない。実に単純な男だった。


 私は当初、キャバクラの仕事が嫌で嫌で仕方なく、とても自分には勤め上げることはできないと考えた。

 はじめての出勤を控えた朝は、緊張からか、何度も吐き気を催しては、その都度、トイレに駆け込んだ。

 死を覚悟し、それでも戦地に赴く兵士は、こんな気分を味わったのだろうか。そんなことを考えてみては、嘔吐を繰り返した。

 だからだろうか。本来であれば、記念になるほど脳裏に刻まれそうな出来事のはずが、その日のことを、私は殆ど記憶していない。

 そんな私にとって、唯一の救いだったのが、千尋との出会いである。

 店内での千尋は、『翼つばさ』と名乗っていた。

「あっ、美羽ちゃんも私と同じ、名前に羽が生えてるね!」

 二度目の出勤の際、更衣室で快活に笑った千尋の顔は、今でも鮮明に思い出すことができる。

 もし千尋の言う通り、私の背中に羽が生えているのなら……。

 遠い、遠い、宇津木の手の届かない世界の果てまで、今すぐにでも飛び立ちたい。そう思ったことを覚えている。

 そんな千尋は、ことあるごとにミスを繰り返す私を擁護し、サポートしてくれた。後々になって知らされたのは、新人の教育係として、千尋自らが買って出てくれた、ということ。彼女曰く、第一印象が、放っておけないタイプだったらしい。

 以来、私は千尋を通じて、接客のノウハウを学んでいった。

 基本的な接客術、お酒の作り方はもちろんのこと、対話のやりとりや、さりげないタッチ(体を触られた場合)のかわし方。あるいは苦手な客にアフターへ誘われた場合のかわし方など、基本から応用に至るまで、あらゆる手解きを受けた。

 美羽ちゃんは化粧映えする顔だからいいね、と言いながら、楽しそうに私の顔へメイクを施し、ドレス選びにまで気を配る。おかげで私は、キャバクラという想像もしなかった異次元の中に、自分の足で立つことができるようになった。

 この時、すでに千尋には月菜ちゃんがいたこともあり、また私には宇津木がいたせいもあり、二人が店の外で会うようなことはなかった。それでも私は、千尋のペースに釣られるように、時間さえ空けばお喋りを繰り返し、他愛ない話で笑い合えるような仲になっていった。


 キャバクラでの仕事にもようやく慣れ初め、勤め始めてから二カ月が経った頃。

 普段よりもやや遅い時間の帰宅となった私に、宇津木が言った。

 まだ日も完全に昇ってはおらず、外は静まり返っていた。アパートの住人も夢の中だったはずだ。

「オマエ、浮気してんじゃねえだろうな」

 言葉の意味がわからなかった。

 が、宇津木は私が店から送迎をしてくれる運転手と、性的な関係をもっているだろうと決めつけた。つまりはセックスしただろう、と。

 そんなはずない。馬鹿なこと言わないで、と訴えるも、次の瞬間には、顔を叩かれた。

 頬を裂くような痛みが走ったが、見れば宇津木は一瞬だけ、何かに怯んだようにも見えた。

 そこに私は、良心の呵責を見た気もしたが、それはすぐに誤りだったことに気付く。宇津木が舌打ちした。

「顔は不味いか、売り物にならなくなっちゃうもんな」

 耳が拾った直後、私は鳩尾にめり込んだ宇津木の右拳を見た。

 痛みに顔を歪めると、頬には床の感触があった。

 ああ、私は『商品』なんだと、またひとつ不名誉な符合を与えられた。さらにはそこへ、追い撃ちをかけるようなひと声。

 私を殴った後に告げる、決まり文句が落ちた。

「くわえろよ」

 かくして私は、背中にあらたな焼き印を付けることになる。

 こうした宇津木の束縛心や嫉妬心は、私の目に異常としか映らなかった。束縛や嫉妬の限度、基準値なるものは、見たことも聞いたこともない。そもそも、そんな基準があるのかさえもわからない。

 けれど、それでも宇津木の行動が、常識の範囲から逸脱していることだけは理解できた。

 運転手とやっただろ。ホールの奴とできてんじゃねーのか? 色目使ってマネージャーに媚売ってんじゃねえだろーな。それらの全てが宇津木の妄想でしかなく、しかもその妄想には、必ず暴力という名のおまけがついてきた。

 私にはわからなかった。宇津木にとって、私の存在意義とは、性欲の世話に、金銭の世話までおこなうマルチな家政婦同然の扱いに他ならない。

 ここまで私に嫉妬し、執着する意味があるようには思えなかったのだ。ましてや恋愛感情があるなどは、考えるに及ばない。

 私は宇津木の言葉を思い出す。いつかの私を舞い上がらせた、あの言葉を。

 宇津木は言った。私に、癒しを求めていると。

 これが宇津木の求める癒しの形なのだろうか。だとすれば、私の乏しい恋愛経験では、到底、計りきれるものではなかった。

 ノイローゼというものが、具体的にどういった状態を指すのかは知りえなかったが、おそらく私はノイローゼ、もしくは鬱病、あるいは自己逃避など、いずれかのメンタル疾患に陥っていたはずだ。

 いつ自分に死が訪れても構わない。

 絶望に冷え切った現実を生きるよりは、死後の世界を選んだ方が、余程温かみがあるのではないかと妄念していたのだ。

 この頃の私を見て、千尋は思ったのだろう。

 日に日にやつれていく私を心配し、千尋は声を掛けるのを躊躇うほどに痛々しかったと、後に語ってくれた。


 このように、宇津木の尋常ではない嫉妬心は、キャバクラでの仕事にまで影響を及ぼしていた。

 店では毎週金曜日、お客との同伴出勤が義務づけられていた。

 通常、同伴するパターンの多くは、出勤前の一、二時間を利用して、お客と食事をしたりするのだが、嫉妬深い宇津木は、同伴なんてもってのほか、と言わんばかりに許してはくれない。

 どうせ出勤前に客とヤルのが目的なんだろ。

 単純明快な頭の作りは、私がお客とセックスをするという被害妄想に直結した。

 だが同伴できない者には罰則が与えられる。

 千尋によると、こういった罰則も店によって様々だと聞いていたが、ジュエルでは、二週連続で同伴できなかった場合に、一万円の罰金が科せられた。

 私は黙ってそれを受け入れ、且つ、千尋を除く回りの先輩スタッフたちからの非難めいた視線を浴び続けた。

 そんな時、私を救ってくれたのが黒木さんだった。


 黒木さんは、元々千尋についていたお客だった。

かねてから私も同席する機会が多く、黒木さんが、出版系の会社を経営していることは知っていた。黒木さんは、経営者としての風格のようなものは漂わせていたが、何故か私には、本人から受け取るイメージが、出版系という響きには似つかわしくないようにも感じられた。

 彼女曰く、もう長いこと、といっても一年くらいだが、黒木さんは、来店すれば必ず千尋を指名してくれる良客らしかった。

 私は当初、黒木さんと千尋が、ホステスと客以上の間柄なのだろうかと勘ぐってもみたし、その可能性がかなり高いのではないか、とも思った。とはいえ、事実関係に踏み込むのは厭らしくもあり、だからこそ、私は千尋の提案を受け入れにくかった。

「来週から、黒木さんが美羽の同伴してくれるってよ」

 私は目を丸くした。

 えっ? ちょっと待って。それは困る。

 だって翼が――と私が告げるよりも早く「私のことは気にしないでね。こう見えても私、この店のナンバー2なんだから、同伴客なんて、別に不自由してないよ」と陽気に笑い、肩を叩いた。

 以後、千尋の言葉通り、黒木さんは毎週金曜日になると、私の出勤時刻に合わせ、ビルの入り口で、私が来るのを待っているようになった。

 黒木さんが、どこまでの事情を知っているのかはわからない。

 まさか嫉妬深い男に同伴を禁止されているなどとは、千尋にだって相談したことはない。つまり黒木さんが知る術はなかった。けれども黒木さんは、私の諸事情を理解しているかのように、どこかへ誘う素振りもみせず、理由さえも訊こうとはしなかった。

 およそ同伴と呼ぶには相応しくない行為であったが、黒木さんは何食わぬ顔で「さあ、今日も楽しく飲もうか!」と言っては、同伴を装ってくれた。

「あの人はね、困っている人を見捨てられない性格なんだよ。だから気にしないで甘えちゃいな」

 千尋はそう言ったが、彼女に少なからずの負担を負わせたことは間違いない。それが心苦しくもあったが、その半面で、宇津木との生活では無縁の優しさに甘えてしまっている自分もいた。

 本当に、千尋には感謝の想いしかない。

 その黒木さんが、ある日突然連れてきた人物が、登坂さんだった。

 私が入店してから三カ月ほどが経ったある日。黒木さんの隣に座る彼は、キャバクラが初めてなのか、妙に落ち着かない様子だった。

 黒木さんと同じスーツ姿。一見して、上司と部下の関係だということはわかる。私の三つ年上らしく、年齢も近い。だが見た目の印象はそれよりも若く、二十代の前半を感じさせた。精悍な顔つきに、がっしりとした体型は、見るからに、体育会系を連想させる雰囲気を持っていた。けれども、いかんせん話し方がよそよそしいのが気に掛かる。

「今度からは、コイツが同伴相手になってくれるからな」

 黒木さんが彼を指さした。

 しかし当の登坂さんは、それが初耳であったらしく、「ちょっ、いきなり何言ってんですか? 意味がわかりませんよ」と訴えた。

 それでも彼は、翌週の金曜日から、黒木さん同様の時刻に、ビルの入り口で私を待っているようになった。


 ある朝。といってもお昼を回った頃に、私はまた宇津木に殴られた。

 ほぼ寝起きの状態で、またも私は、自分が殴られる意味が理解できなかった。どうせまた上司にでもなじられたんだろう。八つ当たりもいい加減にして欲しい、と辟易すれば、私の想像以上に、宇津木は激昂していた。

 いつの間に抜き取ったのか、宇津木は私の手帳を手に取ると、パラパラと捲り、開いたページを私の顔面に押し付けた。

 プライバシーの欠片もない。宇津木は、私が寝ている隙にバッグの中をあさり、手帳の中身まで覗き見たのだろう。

「なんなんだよ。オマエ、ふざけんじゃねえぞ。いちいちこんなこと書いてんじゃねーよ!」

 そう指摘されたのは、私が宇津木に貸していた、いや、返ってくる見込みさえないのだが……どちらにしても、今まで私が宇津木に対し、いくら渡しているのかを記した数字だった。

 暗号とまではいかず、十万円だったら数字の十を、五万円だったら五と記入していたのだが、給料が支給されたその日にメモしていたことと、宇津木自身、自分が抜いた金額と同じ数字が書いてあることに気付いたのだろう。

 すでに私の手帳には、百万近い数字が書き込まれていた。

 それが三百を超えた時、私は万が一にでもこの生活が終わるのではないか、と期待していたのだ。願ってもいた。一日でも早く終わりが訪れることを――。

 この頃の私は、人間はどんな環境にも順応できる生き物なんだと達観視していた部分がある。恐怖こそ感じさえするものの、殴られることに対する痛みには、ある程度、私の感覚が麻痺したかのように、慣れ始めていた。ほぼ毎日繰り返される、道具同然の扱いを受け続けるセックスにでさえ、私は何の感慨も持つことはなくなっていたのだから。

 だからといって、私には成す術がないことも事実だった。

 この家の他に、私の居場所はない。実家には戻れない。昼間の仕事を辞めたことを、両親には伝えていなかった。言えるはずもなかった。

 無理して進ませてくれた大学を、両手を挙げて喜んでくれた電機メーカーへの就職を、私はすべて台無しにしてしまった。親の期待を裏切った。それでいて、今も嘘を吐き続けている罪悪感が、私と両親との間に、縁遠く、強固な壁を作り上げていた。

 学生時代の友人を頼ろうにも、携帯電話の履歴は、全て宇津木にチェックされている。着信ひとつをとっても、いちいち説明しなくてはならない。人に余計なことを洩らすんじゃねえぞ、と釘を刺されて以降、私は仕事以外の要件で、携帯を手にした記憶がない。

 相談する相手すらいない。頼る相手さえいなかった。

 だから思った。宇津木が私から三百万をむしり取ったあかつきには、私を縛り続ける負のスパイラルから解放されるんじゃないかと。

 それでも解放されないのなら……私は、宇津木を殺すしかない。

 私が殺さなければ、いつか、私が宇津木に殺される日が来てしまう――そう妄念したのだ。

 だけど私には殺せない。殺せるはずがなかった。私にはそんな勇気がないことを、誰よりも私自身が一番理解していた。

 私にできるのは祈り、縋る程度のこと。私は天に向かって祈りを捧げる。縋るような思いで、合わせた両手に力を込めた。

 世の中には、交通事故や、通り魔、無差別殺人などで、予期せぬ不幸に見舞われる人たちが大勢いる。だけどそういった悲劇の中で、何の罪もないような人々が死んでしまうのであれば……。

 神様、お願いです。

 この次は、宇津木を選んでください。

 もし本当に神様が存在するならば、私の願いを聞き入れてください。神様の気紛れなくじ引きによって死ぬ人間を選んでいるのなら、その内の一回、たった一回でいいんです。

 あの男を、宇津木を引き当ててください。

 交通事故でも、通り魔でもなんでもいい。宇津木に死を、死を与えてください!

 そう切に願い続けた――。


 六月のある日。

 私は店までの道程を、傘の中へ身を隠すように歩いていた。

 辺りはすっかり暗くなっていたが、だからといって雨が止む気配はない。季節はまさに梅雨の真っ只中。一年を通して、私が最も嫌う季節だった。じめじめした空気が肌を湿らし、執拗に纏わりつく。 

 淀んだ湿気を体内で入れ替えることの不快感。ただでさえ陰鬱な気分が、余計に増長されていく。

 しんしんと雨が降り続ける中も、やはり登坂さんは、いつものようにビルの入口で立っていた。約束とはいえ、本当に律儀だな、と思いつつも、それ以上の申し訳なさで、心が痛む。

 その晩、飲み始めてすぐに、彼がこう言った。

「本当は、こういう仕事したくないんじゃない?」

 声に出してすぐ――あっ、ゴメンね。気を悪くしたら謝るよ。って、言ってからじゃ遅いか。と彼が続ける。

 彼の声は、寸分違わず、私の本音を射抜いていた。けれど私は否定する。

「そんなことないですよ。やっぱり最初は不安でいっぱいでしたけど、これでも今は、結構楽しんで仕事ができてますから」

 この頃の私は、愛想笑いは当然のこと、営業的なやりとりの大半を無難にこなせるようになっていた。

 多少の苦痛こそあれ、それでも家にいることを考えれば雲泥の差で、私にとってはオアシスのような場所だった。

 また、アルコールを飲めることが良かったのかもしれない。

 正直、お酒はあまり得意な方でなかったが、それでも気休め程度には、私の神経を弛緩させてくれていたように思う。

「結構楽しんでるって、それ、半分は否定が入ってるでしょ?」

 痛いところを指摘され、はっとする。

「嘘嘘、ごめん。ちょっと意地悪だったかな」

 彼が笑う。たぶん、面と向かって彼の笑顔を見たのは、これが初めてだったように思う。

 それを見て緊張が緩んだのだろうか、私は思い掛けず、口にしていた。それはずっと疑問に思っていたことだった。

「登坂さんは、どうして私を指名してくれるんですか? それに同伴だって……」

 彼の態度を見ればわかる。彼は他のお客と比べても、あきらかに飲み方が違っていた。

 事実この店に来る大半のお客は、日頃のストレスを発散するべく、酒を呷り、会話を楽しみ、また適度なスキンシップと称し、悪戯に体に触れることを楽しんだ。セックスの誘いを受けたことも、一度や二度じゃない。どこまでが本心かわからないにしろ、交際を申し込まれたことだってある。

 だけど彼に至っては、そのどれもが当て嵌まらなかった。

 いったい何が楽しくて来店しているのか、まるで私を観察しているような、あるいは監視されているような、そんな違和感さえ覚えてしまう。

 少し離れたボックス席で、無邪気に笑う千尋と楽しそうにじゃれあう黒木さんの姿を、彼は横目に一瞥した。

 ここだけの話――そう囁くと、声の調子を抑え気味に、先を続けた。

「簡単に言えば、俺に選択権がないだけのことかな。あっ、これは別に愚痴じゃないよ。ほんと、ほんと。ただ黒木さんには『着いてこい。くればわかる』としか言われなかったんだよね。この同伴にしても一緒。黒木さんの指示だからね。言い方悪いけど、これも仕事なのかなーって感じ。だから俺も、これがいつまで続くのかもわからない。けどまあここの飲み代ってさ、全部黒木さんが持ってくれてるんだよね。それもあって、大きなことを言える立場じゃないってわけ」

 彼の言った通りである。支払いは、いつも黒木さんがカードで済ませていた。でも――。

「嫌じゃないんですか?」

 言ってから、失礼な質問をしてしまったと思い、すいません、と低頭する。

「いいの、いいの。美羽ちゃんは気にしないでいいんだよ。こんな話するものあれだけど、俺なんて、最初は凄く叱られたんだから」

 彼は自嘲気味に肩を竦め、先を続けた。

「ほんとはさ、こういった店が得意じゃないんだよね。俺の仕事は、夜の業界にもクライアントが多くいてね。いいか悪いか、スタッフの本音を聞かされる機会が多いわけ。――まっ、要するに愚痴っていうか……俺が客側だったら絶対に耳にしたくないような話ばっかり」

 話の内容は、私にも理解できた。

 私たちも、閉店後の店内では愚痴を零すことが日常茶飯事、当たり前の光景である。そこには当然、お客に言えないような裏の顔、といっても、そっちが本来の顔なんだけど……とてもじゃないが、言えないことが盛り沢山だ。

「だから最初は、嫌ですよ、って言ったんだ。なんか上辺だけで相手されるみたいで、無理されてるって思うと、逆にこっちが気を使いませんか? だったら、居酒屋クラスで飲んでた方が、よっぽど楽しいじゃないですか、ってね」

「で、結果は?」

「お察しの通り、見事に雷が落ちたわけ。しかも、もの凄いのがね」

 これも想像がつく。というよりも、予想通りだ。

「黒木さんは、なんて言ってたんですか?」

「もう、それはそれは激怒だよ。文字通り、激しいのなんのって……。俺なんか、怯えたうさぎみたいに小さくなってたんだから」

 彼の姿から兎を想像するのは困難だったが、黒木さんが怒れば怖いだろうというのは容易に想像がつく。

 黒木さんは、態度こそ社長然としているものの、親父ギャグが大好きで、くだならい話をしては、私と千尋を笑わせてくれた。それこそ、こっちが接客されているかのように楽しませてくれる。だけど普段が鷹揚にかまえている分、こんな人が怒ると相当怖いのだろうとは、雰囲気からも想像がつく。

宇津木みたいに底の見透けた浅さとは異なり、懐の深さというか、芯の通った主張で、叱られる、といった表現がしっくりくる感じだ。

「黒木さんが言ったんだ」

 彼はそう言って、私を見た。

「あの子たちは、それぞれに理由や目的があって、ああいった場で仕事をすることを選んでる。生まれついてのキャバ嬢や、天性のキャバ嬢なんていない。マザーテレサやナイチンゲールにキャバ嬢をやらせたら、話は別かもしれないがな。――いいか、登坂。どんな理由があるにせよ、あの子たちはプロとして接客をしてるんだ。それを嘘くさい笑いだとか、適当に話を合わせてるだとか、そんな偏見染みた目で見てることの方が失礼だろ。――オマエだってそうじゃないのか、クライアントの前ではへこへこ頭下げて真面目なふりしてるだろ。でも思われてるかもしれないぞ。『ああ登坂さんは、無理してるかもね』ってな。一歩外へ足を踏み出したら、くわえ煙草に唾でも吐いて愚痴ってんじゃねえのかってな」

 言い終わってひとつ、彼は溜息を吐いた。

「こんな感じでね、エンドレスにお説教されまくったんだよ」

 勝手に黒木さんの口振りを真似ときながら、まるでたった今、自分が怒られていたかのように肩を落としている。

「だから俺も、慣れるのには結構な時間が掛ったんだよ。自然に振る舞っているように見せるのが精一杯でね。しばらくは居心地が悪かった。そういった意味では、俺と美羽ちゃんは同じような境遇なのかもしれないね」

 ――飾らない彼の言葉が、とても印象的な夜だった。

 この日を通じて私は、登坂篤斗という人間に対し、どこか一歩、距離が近づいたような親近感を覚え始めていた。


 それは、予期していたような、してなかったような。

 しかし現実として私の耳が聞き取ってしまった、最悪のシナリオ。

「オマエ、来月から風俗で働いてくれよ。オレの知ってる先輩の店でさ、待遇良くしてくれるっていうから、そこでオレの為に稼いでくんねえか。っていうか、確定なんだけど」

 抑圧的な視線は、私の無条件降伏を意味している。

「それと、今の内に金を借りれるだけ借りてくれ。どうせ、風俗で働けば今よりも稼げるだろうし、すぐ返せんだろ」

 無造作に投げ渡されたメモ書き。そこには、私が耳にしたことのある消費者金融や、それ以外にも数社、そちらは見たことも聞いたこともない、いかにもといった風の、怪しげな金融会社の連絡先が書かれていた。

「全部で二百万は借りられるはずだから。それでオレは念願のバーを開店することができる。なっ、俺の夢が叶うんだ。もちろん協力してくれるだろ」

 これも決定事項。協力するも、しないも、ない。

 私はおそらく、これが最後の一線なのだろうと思った。ここに足を踏み入れたら、私は二度と後戻りができなくなる。そう確信する。

 返事をしない私を一瞥し、宇津木は鼻を鳴らすと、不敵に笑う。

 短い導火線の先に、火種が見えた。

 宇津木は私の襟首を掴むと、捻じり上げるように引き寄せた。

「いいか、この際だから言っておくぞ! オマエは一生オレから逃げられないからな。オマエはオレの女なんだ。誰にも渡さねえ。一生オレのもんなんだよ。オレの言うことだけきいて生きてりゃいい。オマエに選択肢なんてもんはねえんだよ。ああ、だからって、変な気は起こすんじゃねえぞ。どこに逃げたって絶対に探し出す。いいか、オレを怒らすなよ。怒らせばどうなるか、わかってんだろ」

 いまさら返す言葉もない。

 私の人生は、一蓮托生だというのか。こんな寄生虫のような男と……。

 ここが行き止まり。もう私の足元に伸びる道はない。落ちるとこまで落ちていく。だけど、底なんて、あるのだろうか……。


 宇津木が姿を消したのは、この翌日のことだった。

 目が覚めた私の隣に、宇津木の姿はない。珍しいこともある、と私は訝ってみせるが、どうせ宇津木は、すぐに戻ってくるだろうと思っていた。機嫌が悪くなければいい。そう願った。

 しかし、さらに一日が経過しても宇津木は姿を現さず、私が恐る恐る掛けた携帯も繋がらなかった。

 電話など、掛ける必要もなかったかと思うが、万が一「オレのことが心配じゃねーのかよ」などと理不尽な因縁をつけられ、殴られることの方が数倍嫌だった。

 私の全てを蹂躙し、あれだけ私に執着していた男が、何故、いなくなってしまったのか?

 まさか本当に、私の願いが神様に通じたというのか。神が与えてくれた恩寵……いや、まさか私に限って、そんな運のいい話があるだろうか。

 あまりに突然過ぎて、何もかもが判然としない。それでも私は、宇津木がいなくなってくれたことの安堵を感じつつ、その反面で、原因の見えてこない不透明さに怯えていた。

 部屋中を見回し、どこかに隠しカメラがないか、あるいは盗聴されているのではないかとさえ勘繰った。

 今こうしている私の現状をどこかで眺め、宇津木は愉快にほくそ笑む。私がちょっとでも隙を見せれば、どこからともなく舞い戻り、それを餌に、また私に暴力を振るうのではないかとも警戒した。

 だが三日が経っても、宇津木は姿を現さなかった。

 宇津木の行き先に心当たりはない。それどころか、私は宇津木の実家さえ知らず、もっと言えば、出身地さえわからなかった。この川崎が地元なのか、それとも、私のように地方出身者だったのかさえ定かではない。私と宇津木の付き合いは一体何だったのだろうかと、この期に及んで皮相浅薄な自分の行いに、嫌気がさした。


「ねぇねぇ。今日マネージャーが電話で話してるのを聞いちゃったんだけど。宇津木くん、逃げちゃったってホントなの?」

 閉店後、私が着替えを済ませようとしていたところに、千尋が小声で訊ねてきた。

 ――宇津木が逃げた?

 消えたではなく、千尋は今、「逃げた」と言っただろうか。

「逃げたって、何? どういうこと」

 逆に私が訊き返したところで、マネージャーが現れた。

 呼び出された私は、店内の一番奥にあるVIP席に向かった。

 テーブルを挟んだ私の向かいには、マネージャーと見知らぬ顔の男が一人。マネージャー同様に黒のスーツを着込み、堀深い顔を押し出すように、ほぼ金色になった髪をオールバックに整えていた。切れ長の目には威圧的な鋭さが宿り、左の目尻には、刃物で裂いたような傷跡が残っている。

年齢は三十代の後半くらいだろうか。大柄で、体躯のいいがっしりとした体つきをしている。ぱっと見は、とてもじゃないが、まともな仕事についているようには見えなかった。

 男はマネージャーの知り合いで、古館と名乗った。

 川崎と横浜で、キャバクラを何店舗も経営しているのだとマネージャーが紹介するも、古館は「雇われているだけだ」と野太い声で否定する。

 雇われていると聞いた私は、即座に用心棒を連想した。

 業界では「バック」と称される実態があるようだが、古館が放つ威圧感は、そう当て嵌めることがしっくりきた。

 マネージャーの説明から古館は、直接ではないにしろ、宇津木の上司にあたることがわかった。そこで私は、この古館が、電話で宇津木を叱っていた人物なのだろう、と結びつく。

 マネージャーが簡単な紹介を済ませると、「ここからは俺が説明する」と言って、古館が話し始めた。

 この話の中で、私はどうして宇津木がいなくなったのか、その真相を知り、新たな一面を垣間見ることになった。

 元々、宇津木は古館の管理する店に来ていた客で、多額のツケを未納にしたまま、連絡が取れなくなっていたらしい。

 この業界の多くは、客が残していったツケは私たちホステスに跳ね返り、最悪の場合、全てを被り、弁済させられる羽目になる。

 当然、宇津木が残していったツケは、ホステスが被ることになったらしいのだが、相手が悪かった。

 そのホステスは、古館の女だったという。

 事情を聞いた古館は、店舗を管理していたマネージャーを呼び出し、宇津木を探させた。そして宇津木を捕まえると、ツケの返済を理由に、店舗で動向を監視し、働かせたという。

 私は無銭飲食をした男が、皿洗いの仕事をさせられる場面を浮かべたが、実情はそんなに甘いものではなかったようだ。

 実際、宇津木にとってはかなり苦痛を伴う仕事であっただろう。

 それまでの間、自分が我が物顔で腕を広げ、偉そうに酒を注がせていた女の子の下で働くのだ。立場は逆転し、店の女の子達からは嘲られ、時には罵られる。

 薄っぺらな矜持しか持ち合わせていない宇津木にすれば、どれほどの屈辱であったか、容易に想像がついた。

 それでいて、賃金は必要最低限しかあたえられず、生活は決して楽ではないはずだった。しかし、何故か宇津木は、金銭に困った様子を見せなかったという。それどころか、時折、他のキャバクラへ飲みに出るような余裕さえあったそうなのだ。

 だから古館は、どこかで金蔓を抱えていると睨んでいたらしい。

 もちろんそれは、説明するまでもなく、私のことだ。

 そして三日前、事件が起こった。

 宇津木はあろうことか、スタッフの給与を持ち逃げしたのだという。

 この業界は、給与の現金支給が珍しくない。古館が管理する店も同様で、給料日には、本部へ全スタッフの給料を取りに行くことが通例だった。本来であれば、古館の直属の部下であるマネージャーの仕事。けれども当日は、突然の体調不慮を訴え、急遽、宇津木を代理で行かせてしまったのだという。

 私は当然、そのマネージャーの顔を知らない。だけど思う。その人は、自分の取った行動がどれほど愚かであったか、死ぬほど後悔しているだろう。ましてや上司がこの古館だ。この恰幅のいい男が激昂する様は、宇津木などの比ではないはずだ。

 理由はともあれ、私は、その運のない男を不憫に思い、我が身を省みるように同情した。

 宇津木が持ち逃げした金額は、六百万近いという。

 半月分とはいえ、三十人を抱える大箱の給料なら、それくらいの額になるのも頷ける。

 私は思い出す。苦虫を噛み潰しながら携帯電話を握りしめ、「今に見てろよ!」と声を荒げた宇津木の姿を。

 そして想像する。多額の現金を手にした宇津木が、これぞ千載一遇のチャンスとばかりに顔を綻ばせ、闇の中へ消えていく姿を――。


「――俺は一昨日、宇津木の家に行った」

 古館の声は野太くも張りがあり、よく通った。真っ直ぐに人の心を捉え、震わせるような強さがある。

 その声が言った。宇津木の家に行った、と。

 瞬間、私がどれほど動揺していたのか、古館の目を見れば、一目瞭然だった。だって、そんなこと、私は知らない。

「そこに宇津木はいなかったが、代わりに女がいた。『宇津木の女か?』と訊けば、宇津木の留守を預かっているだけだと、言い訳がましいことを言っていた」

 一方的に話を進める古館を前に、私は状況を呑み込むことができなかった。

 思考が追いつかない。代わりの女? 宇津木の家って……。

 古館は続ける。

「女に『宇津木は何処へ行った』と訊いたんだが、知らない、の一点張りでな。シラを切ってかくまってるのが見え見えだったもんだから、宇津木の代わりに引っ張ってきた」

 私のことは、その女に聞いたらしい。

 古館は私を見ていた。固定した視線を微動だにもしない。私は心臓を鷲掴みされたように、息苦しさを覚えた。

 次は私が答える番なのだろうか……とも思ったが、何を言えばいいのか。

「ちょっと待ってください」

 沈黙に耐えきれず、私は口にした。情報が頭の中で錯綜し、混乱していた。整理しようにも、古館の話した現実は、私の知っている現実には重ならない。だけど、まずひとつ、確認しておきたいことがあった。

「その女の人の名前って、わかりますか?」

 私の名前を知っていて、且つ、私がこの場所で働いていることを知っている。しかもその人は、宇津木の知り合いでもある。そんな人物は、私が知る限り一人しかいない。

「名前か? あの女の名前に興味はないが、新しい名前なら知ってるぞ。『ヒロコ』だ」

「……ヒロコ、ですか」

「そう。ヒロコだ。宇津木弘也の女には、お似合いの名前だろう。ヒロコには、今日からうちの系列で働いて貰ってるよ。なかなか見栄えのする女だ。すぐに稼ぎ頭になるだろう。といっても、ここみたいなキャバじゃなく、ソープだがな」

 そう言って古館は、無感情に歯を見せた。

 瞬間、私の背中が総毛立った。

 話の意味するところが本当ならば、やはり古館は、法律を度外視した世界に住んでいる。もし、僅かでも歯車が狂っていれば……と想像した私は、肝を冷やした。

 その女は、倉持さんに違いない。彼女が宇津木とどんな関係であったのか、仔細な理由は定かではない。宇津木の家という場所が、元々宇津木が住んでいた所なのか、それとも倉持さんの家だったのか、それさえも、実態は不透明だ。けれど、それも今となってはどうでもいいように思えた。

 どちらでもいい。だけど……確実に言えることが、ひとつだけある。

 彼女には、天罰が下ったのだ――。


「君にわかりやすく説明してやる」

 私の態度から、話の流れに追いついてないことを読みとったのか、腕組みをした古館が、再び語り始めた。

「宇津木は自分の家に、女を一人囲ってた。偉そうに、まるで愛人でも作るみたいに気取ってな。それがヒロコだ。――で、ここからは俺の推測なんだが、君は宇津木から金を吸い取られてたんだろ。君と宇津木がどんな関係だったのか、実情は知らない。ただ俺に言わせれば、君はただの金蔓でしかない。宇津木は紐だ。君から巻き上げた金で、女を囲っていた。そして君は、どうやらその事実を知らされていない。どうだ?」

 古館は私が状況を呑み込むのを待っていた。ほどなく私が頷き、古館が続ける。

「あの女が言ってたよ。宇津木には他に女がいるんだ――って。私は関係ない、宇津木のことを知りたいなら、そいつに聞けばいいってな。全く、自分の立場は棚に上げといて、人に罪を擦りつけるように醜い言い逃れをしやがった。馬鹿な女だと思わないか。そんなくだらねえことを言わなけりゃ、俺も黙ってたんだがな。俺はああいった女が一番嫌いなんだ。――で、めでたく風俗流しってわけだ」

 そこまで言うと、古館は思い出したように、スーツのポケットから煙草を取り出した。隣に座るマネージャーが素早く火をつける。

「まあ少し話が逸れたが……。いいか、俺の解釈の上では、君は宇津木の被害者になっている。わかるかい。つまりは金を持ち逃げされた俺と同類ってことになる」

 私は頷いた。古館の言う通り、私は被害者だ。それ以外の何者でもない。

「なら本題に入ろう。端的に言うぞ。俺は宇津木を捕まえなくちゃならない。だから君には、少し協力をしてもらう」

 それは強制力を伴った言葉に思えた。すでに同類だと言われて、断りにくい雰囲気が出来上がっている。しかし、だからといって、私に何ができようか。

 不意に頭をかすめたのは、宇津木が持ち逃げした金を、私に肩代わりさせるのではないか――という解決策。だとしたら、最悪だ。

 三百万の脅威が、まさか六百万に膨れ上がるとは……。

 私は心を震わせた。

 たった今耳にした、倉持さんの例もある。それも可能性がゼロとは言い切れない。私も同じ道を辿るのだろうか。この男の手にかかったら、私は今すぐにでも奈落の底へつき飛ばされるのではないか。

 それほどに、古館という男には、善と悪との境目が見えない不気味さがあった。捨てられた子猫を拾い、必要であれば餌を与え、必要でなければ首を折る。この男の手の中では、どちらに転んでも不思議はないように思えた。

 心臓の高鳴りが、相手に伝わるのではないかと冷や冷やする。

 古館の視線を感じるも、私は目を合わすことができなかった。

 私の瞳孔の僅かな動きも見逃さないように、古館の視線は強く、鋭い。無理に視線を合わそうとすれば、心の動揺を悟られてしまう。

 視線のやり場が、何処にもなかった。

「そう固くなるな。協力といっても、俺に言わせれば、君は宇津木の捨て駒だ。あのヒロコって女も同じだろう。宇津木は持ち逃げした金で高跳びしたはずだからな。すぐこの街に戻ってくる可能性は低い」

「じゃあ、私は何をすればいいんですか?」

「まあ待て。気持ちはわかるが、焦らなくてもいい。一年もあれば金は尽きる。ただ逃げ続けるには限界があるからな。だが、ああいった奴は学習能力が乏しい。必ず、どこかで同じことを繰り返す。つまり、どこか余所の街に隠れ、また君みたいな金蔓を探すはずだ。宇津木は女に頼らなければ生きていけないような屑だからな。だが、それも上手くいかなかった場合、君に連絡がくる可能性がある。自立心のない、女々しい男ならではの帰巣本能って奴だ」

「その時に、協力しろ、と」

「その通り。但し協力といっても、君にやってもらうことは簡単だ。宇津木から連絡があった場合、こう言ってくれればいい」

 そこで古館が言葉を切った。今から大切なことを伝える。そう視線で釘を刺されているような気がした。

「お前を殺しに行く。俺がそう言っていたと伝えてくれ」

 低く、抑揚のない声だった。凍りついた私は、息を呑むのがやっと。古館は、表情をぴくりとも変えてはいなかった。

 殺しに行く、といった言葉に嘘はない。否、嘘であるはずがない。

 この男が殺すと言った以上、それは必ず遂行されるはずだ。理屈ではなく、私の本能が、そう感じ取っていた。

 古館が去った後、見送りに出ていたマネージャーが戻ると、開口一番にこう言った。

「全く、美羽ちゃんも面倒なこと抱えたね。まさかブルーローズと繋がりがあるなんてさ。最悪だよ。マサヒデも、そんな話はひと言もいってなかったのにな。ったく、あの野郎、黙ってたんだな。――あっ、今のは内緒。絶対、古館さんには言っちゃ駄目だからね」

 余程古館を恐れているのか、見ているこっちが恐縮してしまうくらい、大袈裟に両手を合わせ、低頭する。

 ちなみにマサヒデとは、ホールを担当している男の子のことで、宇津木はマサヒデを通じて、私を入店させたのだ。

 私から目線を外すと、マネージャーはこれみよがしに溜息を吐いた。余計なお荷物を抱えてしまった、と無言のアピールしているようだった。

 マネージャーが懸念する『ブルーローズ』が、いったい何を意味するのか、私は知らない。けれど話の間中、終始無言のまま、顔を強張らせていたマネージャーの意図が、あまり係わりたくない、という意思表示だったのなら、それも頷けた。


 宇津木が戻ってくる可能性は低い。

 古館はそう言っていたが、それでも私は、いつ戻ってくるかも知れぬ、宇津木の影に怯え続けた。アパートの玄関を通り過ぎる隣人の足音に、郵便配達らしき物音にさえ、心が委縮した。いつまた突然、部屋の鍵が開けられるのか、微かな物音にビクビクしながらの生活は、生きている心地がしなかった。

 七月を目前に控え、ひとしきり降り続いた雨もおさまり、ようやく梅雨の終わりを実感できるようになった頃。いつものように飲みに来ていた登坂さんが、帰り際に、こう言った。

「俺にできることなら、なんでも相談に乗るから。遠慮しないで連絡してよ」

 何の前置きもない。それっきり、「じゃあ、またね」と立ち去っていく後ろ姿を眺め、どうしてそんなことを言ったのか、彼がいなくなってからも、その理由を考え続けた。

 宇津木がいなくなってから、二週間が経つ。

 何事もなく過ぎ去っていく日々を、素直に喜ぶこともできぬまま、先の見えぬ現実に、当惑する日々が続いていた。

 言うなれば、私はどこか闇の中で彷徨うように、出口の見えない迷宮の奥に取り残されているような気分だった。進む方向さえわからずに、足を踏み出すことを躊躇する。不安は、どこまでも私の後ろを付き纏った。

 その私から何かを察したのだろうか。それとも、千尋から何かを言われたのか。どちらにしても、彼は私から、何らかの変化を読み取ったのかもしれない。

「美羽、どうしたの? 篤斗くんと何かあった?」

 千尋が何食わぬ表情で、私の顔を覗き込んだ。 

 その翌日のことだった。


「美羽ちゃん、お疲れさま! ちょっとだけ、俺と一緒にドライブにでも行こうか」

 土曜日の閉店後。ビルの出口に立つ彼は、どういうわけか、私を待ち構えていた。いつものスーツ姿を見慣れているせいか、私は一瞬、それが彼だとは気付けなかった。

濃紺に襟元だけが赤いラガーシャツを着て、下はベージュのカーゴパンツというラフな格好。足元は、白地に赤いラインの入った、アディダスのスニーカーを履いている。

「わっ、篤斗くんって、結構強引なんだねー」

 私の隣で、千尋が愉快そうに笑った。

「じゃあ私はここでね! ほらっ、美羽は乗っちゃいなよ」

 千尋はそう言って、車道脇に駐車した黒いスポーツカーの助手席に、まだ事情の呑み込めていない私を押し込んだ。

「篤斗くん、後はヨロシクねー」

 示し合わせたように頷く二人のやり取りを見て、やられた、と気付く。千尋は知っていたんだ、と。

「よし、行こうか!」

 深夜二時を回っているにもかかわらず、彼は殊更に明るい声を出し、アクセルを踏み込んだ。

 窓越しに手を振る千尋を、私はどんな顔で見ていたのだろうか。

 きっと千尋は、「唖然としてたよ」と、笑うに違いない……。


「……あの、何処へ向かうんですか?」

 ハンドルを握る彼に訊ねる。

 行き先も告げられず、ドライブとはいえ、これなら拉致に近い。

 千尋は何かを知っていたようだけど、私にはさっぱり意味がわからない。酷く酔っていたわけでもないが、私は、頭を回転させるのに必死だった。

「とりあえず、高速に乗るからね」

 軽快にギアをシフトチェンジさせながら、彼がスピードを上げていく。繁華街を抜けた車は、マリンタワーを横目に新山下町へ向かっていた。視線の先に、首都高速の入口を示す案内標識が見えた。

「俺はさ、嫌なことがあるといつも車に乗るんだよね。高速に乗って、ベイブリッジからレインボーブリッジまで湾岸線を走り抜ける。で、そこから環状線をぐるっと一周して、またレインボーブリッジから湾岸線に戻って、横浜に帰ってくる。不思議なもんで、その頃になると、自然と気分が落ち着いてたりしてね」

 淡々とした、独り言のような説明だった。

 行き先は東京なのか? 私は漠然と思う。

 車が料金所を抜けると、すさまじい勢いで加速していった。その勢いで、私の体がシートに押し付けられた。

 私は車に詳しくはない。どちらかと言えば、疎い方だと思う。それでも見た目から、この車がスポーツカーだということはわかった。

 座席は運転席と助手席の二つしかなく、何の意味があるのか、マフラーが吐き出す音は、けたたましいほどに煩い。だからだろうか、車内には、音楽の類が流されていなかった。これなら相当にボリュームを上げなければ聞こえないだろう。もっと言えば、乗り心地だって、相当に悪い。快適さとは程遠く、とてもドライブ向きな車には思えなかった。

 彼は俗に言うところの『走り屋』と呼ばれる部類なのだろうか? 

 ハンドルを握る彼の横顔は嬉々とした様相で、私が初めて知る顔つきだった。車を運転することが心底好きなように、身動きのしにくい、この窮屈なシートに収まっていることでさえ、居心地がいいようにも映る。

「ホントはね、もっと早い時間なら景色も最高にきれいなんだけど……。でもまあ、この時間でも意外にきれいなもんでしょ」

 視界には、ライトアップされたベイブリッジが飛び込んできた。

 私の左手には、ウオーターフロントの輪郭を彩るように、赤や黄色、何色もの灯りが、そこかしこに散りばめられていた。

 神奈川に越してきてから五年が経つが、実のところ、ベイブリッジから横浜の街を眺めるのは、これが初めてだった。

 港町横浜は、深夜二時を回っても眠らない。私はそれを、眼下に見下ろすことで実感した。彼は「意外」と表現したが、私の瞳には、充分きれいな光景に映っていた。

 窓ガラスに顔を近づける。

 背後に流れていく夜景が名残惜しくもあり、視線が途切れるまで眺めつづけた。

「今度は、もう少し早い時間に来ようね」

 それは不意打ちに近い、投げ掛けだった。

 咄嗟に「はい」と答えた私は、後になって理解する。

 たぶん、私と彼は、ドライブに行ける程度の間柄にはあった。

 出会ってから三カ月。毎週決まった曜日には顔を合わせ、何度も会話を繰り返してきた中で、私たちは、互いに打ち解けあった面もある。

 当初、彼が「仕事」と称した来店も、今では普通に楽しんでくれているように思える。特に最近は、何でも気さくに話してくれる彼に対し、私も気を許している部分は多かった。

 もし「彼のことが好きか」と問われれば、嫌いと答えることは、絶対にない。

 だけど――。

 どうしたって、宇津木の顔がちらついてしまう。

 ともすれば、二度と会うこともない男の影。だけど私は、この瞬間も絶えず怯えている。こんなことをしてもいいのだろうかと自問し、鎖に縛られる。

 やはり私には、どうしたって拭えない不穏さが、纏わりついていた……。


 ベイブリッジを抜けると、高速は真っ直ぐに伸びるだけの単調な景色に変わった。

 京浜工業地帯の中を切り分けるように、両サイドには、飾り気のない、積み木みたいな建物が列をなしている。

 車は三車線の真ん中を、彼曰く、法定速度の「ちょい増し」で走行していた。サッカーのW杯で初めて耳にした、ブブゼラに似た音が、延々と鳴り続いている。

 私は訊きたいことが山ほどあったけど、仕事終わりとあって、口を抜けるアルコール臭を敬遠した。土曜日ということもあり、結構な量のお酒を飲んだ。その私が、この狭い車内で話し続ければ、すぐにアルコール臭が充満してしまう。

 普段は彼も一緒に飲んでいるせいか、私一人が酔っているのはどうにも気恥ずかしい。必然として、私は窓の外へ目を向けることが多くなった。

「今日は、いきなりで悪かったね」

 沈黙を嫌うように、彼が言葉を落とした。

 いえ、大丈夫ですよ、と私は首を振り、否定する。確かに、彼がこんな行動をとるとは予想もしていなかった。私が驚いたことは間違いない。けれど昨晩、彼が言い残した台詞が前振りであったなら、やはり彼は何かを知っているのだろう。だとすれば――。

 私は思い切って訊ねた。

「あの、登坂さんは……翼から何かを聞いたんですか?」

 彼は前を向いたまま、視線を動かさなかった。ややあってから答える。

「ん? ああ、そういうことか。別に翼ちゃんからは何も聞いてないよ。今日のことなら、翼ちゃんを責めないであげてね。俺が彼女に頼んだことだから」

「頼んだ?」

「そう、俺が頼んだの。今日、営業終わりに美羽ちゃんを迎えに行くから、翼ちゃんに、店から一緒に出てきてくれるかな――って」

「どうして……ですか」

 そう。私は、その理由が知りたい。千尋が入れ知恵をしたのでなければ、尚更だ。

「美羽ちゃんが困っていると思ったから。で、もっと言えば、それはきっと美羽ちゃん一人では解決できない悩みなんじゃないかって、思った。だからだよ」

「だから……ですか」

「うん。それが理由かな」

 彼の横顔は穏やかだった。優しい顔をしている。面と向かってないせいか、それが凄く自然な表情に見えた。

 見抜かれていた。いつ、何をきっかけに、彼がそう感じたのかは定かではない。だけど彼は、私が抱えている闇に、気付いた。それ故の行動だというのか。

これはきっと……彼の優しさなのかもしれない。

 多少、強引な行動だとしても、それが善意だということは伝わった。だけど私は、何故か心の奥底が、チクリと痛む。これを受け入れていいような、いけないような。

 嬉しさもあり、彼に対しての申し訳なさもあり……。どう返していいものか、言葉が続かない。

 私は顔を伏せ、居心地の悪さに戸惑っていた。

 私が黙ると、それが車内に伝染したかのように、不自然な沈黙ができあがった。


 私を乗せた車は、オレンジ一色に照らされたトンネルを何度か潜り抜け、その先で、二度目の料金所を通過した。景色で判断することはできないが、進路標識を見る限り、ここは東京都内のはずだ。

「あのさ。少し面倒臭い奴だって思われるかもしれないけど……」

 そう前置いてから、彼が続けた。

「俺って、性格的にどうしても見過ごせないっていうか、どんな形でも、自分に関与した人間のことが気になっちゃう性分なんだよね。で、これが困ったことに、俺自身が納得できるように解決できないと、気になって仕方がないわけ」

 彼が振り向いた。話の途中から横顔を見ていた私は、突然重なった視線に、戸惑う。

 ――ね、面倒臭い男でしょ。

 そう言って笑い、再び前に向き直る。

 そんなことないです、と口にしながらも、やはり私は困惑していた。一歩ずつ、それでも確実に、彼が私の領域に踏み込んでくるのを感じていたからだ。誰にも知られたくない、私の秘密に――。

「だからね。今日は美羽ちゃんと真正面から話してみたいって思ったんだ」

 真正面、と言われ及び腰になる。私は返事ができなかった。けれども彼は、私の意志とは無関係に、話を進めていく。

「ところで。美羽ちゃんって、ホントはなんて名前なの? まさか本名じゃないんでしょ」

 私は頷いた。仕事中、本名は幾度となく訊かれた経験がある。それでも彼からは、一度として訊かれたことはなかった。興味がないのだと思っていたくらいだ。

 梨佳子です。そう答えるのは簡単なのに、私は躊躇した。言えばまた、彼との距離が近くなる。私の心へ、手を差し伸べてくる。が……。

「梨佳子、です。瀬野梨佳子」

 漢字の説明までしてから、答えないわけにはいかないよね、と自分に言い訳をする。

「梨佳子、か。やっぱ美羽ちゃんとは全然印象が違うなー。でも、俺はそっちの方が断然いいと思う。――って、本名なら当たり前なんだろうけど、梨佳子の方が全然いいよ。ほら、口にしてもしっくりくるしね」

 あえてそうしていることが伝わるほどに、彼は快活に物を言う。

 それが私の為に行われているかと思うと、居た堪れない気持ちになった。目を伏せた私は、葛藤する。胸の内で、ぐらぐらと心が揺れ動くのを感じていた。

「それじゃあ梨佳子ちゃん。もう登坂さんと美羽ちゃんの関係はやめようか。ここはお店じゃないしね。 まあ、俺には『登坂篤斗』以外の呼び方がないんだけど……。梨佳子ちゃんも、『登坂さん』なんて堅苦しく呼ばないで、翼ちゃんみたいに『篤斗』って呼んでいいからね」

 そう言った彼が、ウインカーのレバーを下げた。私は返事に困り、曖昧に頷く。

 車が左車線の分岐方向へ流れていった。この先がレインボーブリッジだよ、と彼が言った。

 しかし、視界の中心にライトアップされた吊り橋が見えてきても、私の心は躍らない。橋の上から眺める夜景がどれほど綺麗なものだったとしても、今は、景色に浸るような気分になれなかった。

 心がざわつき、そわそわする。

 レインボーブリッジを渡り終え、車は環状線に合流していく。

 ねえ、梨佳子ちゃん、と彼が呼んだ。

 声色から、真剣な話を告げられるのだと察知する。

「俺は梨佳子ちゃんと話がしたい。お店で見る美羽ちゃんじゃなくて、瀬野梨佳子ちゃんっていう女性の本音をぶつけてもらいたいんだ。なんでもいい。俺は梨佳子ちゃんが何を悩んで、何を抱えてるかもわからない。正直に言えば、俺が役に立つのかさえもね。――だけど、何かひとつでも力になれて、何かひとつでも解決の手伝いができるなら、俺は全力で協力しようと思う。つまらない愚痴だって大歓迎。何時間だって聞く準備はあるよ」

 彼の声を聞きながら、私は歯を食いしばっていた。

 駄目だ、と思った。彼はすでに手を差し伸べている。

 私が絶対に超えることのできなかった壁の向こうから、彼が身を乗り出していた。

 私のすぐ目の前に、彼の指先が見える。そして私は、心からその手に縋りたいと思っている。でも駄目だ。今この手に触れてしまったら、私は自分がどうなってしまうのか、わからない。

 恐怖もあった。もし、こんなことが宇津木に知れたなら……。そう考えるだけで、屈折した嫉妬に憎悪を燃やす宇津木の顔が、歯止めを掛ける。私は手を引くように、腕を抱えた。

「だからって、無理して話す必要もないからね。梨佳子ちゃんが、本当に打ち明けたいタイミングで構わない。別に今じゃなくても……今日じゃなくたっていい。俺はいつでも大丈夫だから」

 今度は唇を噛み締めた。そうしなければ、唇の端が震え出し、声が洩れそうな気がした。

 嬉しくて、苦しい。本当に嬉しくて、どうしようもないくらいに苦しかった。

 無理に押さえ込んだ感情が目頭を刺激する。私は顔を伏せた。

 彼に悟られたくない。今、自分がどんな顔をしてるのか、彼には知られたくなかった。車内が薄暗く、彼が運転に集中しているのが幸いだった。

 どれくらいの時間、私は顔を伏せていたのだろう。

 本当に、長い沈黙だった。彼はあれっきり、何も語らない。けれど本音を言えば、声を掛けられるのを恐れていた分、沈黙は有り難くもあった。

 だけど、それでも私には、彼が待っているのがわかった。

 決して無理強いすることなく、扉の鍵が、内側から開けられることを待っている。ドアをノックすることもせず、チャイムも鳴らさない。彼はただじっと、閉じ籠った殻の中から、私が出てくるのを待っていた。

 このままでいいはずがない。

 いつまでも、このまま閉じ籠っていていいはずもない。心の底に顔を覗かせた、たしかな感情の芽生え。私はそれを、否定することができなくなっていた。だけど、そんな自分の判断に自身が持てないこともまた、事実。

 葛藤に喘ぎ、微かに首を振る。私の限界は、もうすぐ傍まできていた。


 気が付くと、車は止まっていた。

 窓の外へ視線を回すと、この場所が、渦上の高架陸橋に囲まれた場所だということがわかった。

 ベイブリッジの真下にある、大黒埠頭のサービスエリア。

 いつの間にか、私たちは横浜まで戻ってきていた。車は、駐車場の外れに停車している。埠頭は深夜にもかかわらず、駐車している車の数が多く、人影も多かった。ところどころで人の輪ができあがり、賑やかそうに会話しているのが見て取れた。

 彼は何も言わずに車を降りると、暗闇の中で煌々と光を発している自動販売機に向かっていく。

 私は大きく息を吸い込むと、これ以上ない息を吐き出した。脱力からシートに身をあずける。車内の時計に目を向けると、時刻は三時半を回っていた。

 戻った彼は「今更だけど……どう?」と微笑み、缶コーヒーを差し出してきた。

「ありがとうございます」

 私は礼を言って受け取ったコーヒーを、両手で包み込むように握った。触れた手の平にほどよい冷たさが滲みていく。軽く、頬に当ててみた。その瞬間、私は気付いた――。

 泣いていた……。私は涙を流していた。

 いつからだろう。私の頬は、涙に濡れていた。咄嗟に私は首を回し、彼に気付かれないように、指先で拭った。けれど、涙が止まる気配はなかった。

 いいんだよ、と彼が呟いた。

「いいよ、泣きなよ。泣きたい時は泣いていい。我慢する必要なんて、ないから」

 彼の声は、私を慰撫するような優しさを帯びていた。

 とても温かく、私の胸のずっと奥底にまで沁み渡る。それが合図になったのか、私は涙を止める術を失ったように、溢れ出した感情が、とめどない流れを作り出した。

 私は両手で顔を塞ぎ、むせび泣いた。

 悔しさであり、悲しさであり、寂しさであり。

 これまでの間、私が無理やり封じ込めていた感情の群れが、檻から解き放たれたように溢れ出していく。

 もう駄目だ。

 私はもう、止められない。

 私はもう、耐えられない。

 みっともなくたっていい。構わない。

 出せるだけ全部、吐き出してしまいたい。

 湧きあがる衝動に身を委ねながら、私は声を上げ、肩を震わせて泣いた。

 体裁を顧みず、それこそ子供が泣きじゃくるように、泣き乱れた。

 我慢する必要なんてない。彼が言うように、泣けるだけ泣いて、全てを吐き出してしまいたかった――。


 私が泣いている間、彼は私を包み込むように、ずっと抱きかかえてくれた。

 泣いていい。気が済むまで、ずっと泣いててもいいと、彼の体温が教えてくれた。

 私はバッグから取り出したハンカチを顔に当て、もう一方の手で、彼の腕をぎゅっと掴んでいた。離したくなかった。彼に触れることで、彼の存在を真近に感じることで、私は泣きながらにして、安堵していた。

 ずっと孤独だった。ずっと、ずっと、孤独だった。

 千尋にだって、全てを話すことはできなかった。

 千尋はいつも心配してくれた。悩み事があるなら、いつでも相談してよ。そう言ってくれる千尋の存在が、心から有り難かった。

 だけど話すことなんてできない。私が打ち明けることで、万が一にでも千尋に迷惑を掛けることになったとしたら……。そう考えれば、とても全てを話す気にはなれなかった。

 だから私の心根は、いつだって孤独だった。寂しかった。

 宇津木と暮らしている最中、私は、どれだけ涙を流しただろうか。

 だけど泣いたところで、私の涙は、何の解決にも結び付かなかった。誰も助けてはくれない。私はひとり耐え忍び、孤独を痛感した。

 誰かに助けて貰いたい。救いの手を差し伸べて欲しい。そう願うことにまで、罪の意識が働き、苦しんだ。

 いつしか私は、泣くことの意味さえ、わからなくなっていた。

 だからこそ今は、私を包んでくれるこの温もりが、心の底から嬉しく思えた。

 彼の存在が教えてくれる。私がどれだけ泣こうとも、一人じゃないと私を繋ぎ止めてくれる。

 この涙には、きっと意味があるんだと――。


 私が泣きやむまでの間、彼は何も語らなかった。

 それでも彼は、涙でボロボロになった私を労わるように、頭を撫で続けてくれた。

 泣けるだけ泣いて、空っぽになった私の心に、彼の優しさが注がれていく。空白が満たされるまでの間、いつまでも、こうしていたい気分だった。彼に甘えたい。また彼も、私の望みを叶えてくれるような気がした。でも……。

「ありがとうございます」

 私は遠慮がちに声を出し、顔を持ち上げる。ハンカチは、私の涙でびしょ濡れだった。

 車外に目を向ければ、夜が明けようとしていた。

 日の出が近いのかもしれない。時計を確認すると、自分が一時間近くもこうしていたことを知る。

「俺、ちょっとトイレに行ってくるから」

 そう言ってドアを開けた彼は、後ろ手に掴んだティッシュの箱を、私の膝元に置いた。

 気を遣ってくれたのだろう。

 トイレに行くと言ったわりに、彼の足取りは急ぐ素振りもなく、随分とゆったりしている。そんな彼の優しさが何故か可笑しくて、私は頬を緩ませた。

 ありがとう。

 本当に、ありがとう。


 鏡の中の私は、酷い有様だった……。

 目は真っ赤に充血し、泣き腫らしたことは一目瞭然。何より酷いのは、頬に浮かび上がった黒い筋だった。仕事帰りで、ある程度の化粧品を携帯していたことが唯一の救い。そうでなければ、この場から逃げ出していたかもしれない。

 アイブロウが入った、コンパクトの鏡を見つめる。

 目元がヒリヒリと、熱を帯びたように痛んだ。何度も上塗りすることで、どうにか全体的なバランスは取り戻したが、目の赤みがより一層際立ってしまい、かえって目立つ結果となった。

 私は苦笑した。これなら、ちょっとしたホラー映画に出られそうな顔をしている。特殊メイクも真っ青だ。

 しかし、見てくれは悲惨な状態でも、思いのほか、気持ちは晴れ晴れとしていて、不思議な充実感に満ち溢れていた。

 フロントガラスの向こうから、彼が車に戻ってくる姿が目に止まると、私は出していた化粧道具と、鼻をかんだ大量のティッシュの残骸を、急いでバッグに詰め込んだ。

右側の髪を頬にかけ、左の空へ視線を投げ出しながら、彼が乗り込む音を耳にした。

「梨佳子ちゃんは、トイレ、大丈夫?」

 彼の視線を頬に感じながら、「大丈夫です」と短く答える。

「もうすぐ五時だけど、眠くない?」

 やはり私は視線を合わせずに、「眠くないです」と答えた。

 瞼を伏せ気味に、私は不自然な態勢でシートに収まっていた。醜態を晒した記憶に、顔の状態が重なって、彼に目を向けることができない。

「わかった。じゃあもう少しだけ付き合ってよ。とっておきの場所に案内するからさ」

 そう言った彼がシートベルトを締めると、私の返事を待たずに走り出した。

 思えばこんな時の彼の行動には、強引さが目立つ。でもそれは、決して不快なものではなく、むしろ心のどこかでは、私自身が歓迎しているようにさえ思えた。


 再び走り出した車は、首都高速横羽線から、横浜横須賀道に向かっているようだった。

 まだ時間が早いせいか、高速の下り車線は貸し切られたようにガランとしていた。車は道なりに横須賀方面へ進んでいくと、逗子と書かれた案内標識から、進路を一般道に向けた。私はハンドルを操作する彼の横顔をわき目に、目的地は海なのかもしれない、と思い始めていた。

 私が予想したように、連れてこられた場所は、海を一望できる高台だった。海から吹き上げられた風が、肌に心地よく、潮の香りを帯びている。

 公園というわけでもなく、県道に面した非常駐車帯のような場所で、車を何台か停められる程度のスペースだった。

「そっちが葉山マリーナで、向こう側が逗子マリーナね」

 彼はそう説明すると、ガードレールの上に腰を下ろした。

 左右に二つの港を一望できる中間地点に、この場所はあった。彼から少し離れた位置で、私は立ち止る。

 そこで目の中に飛び込んできたのは、オレンジ色の眩い輝きと、海へ伸びた一本のライン。

 私は眩しさに一瞬、目を背けるも、眼前に広がった光景を前に、圧倒された。

 東の空に顔を覗かせた太陽が、広大な青のキャンパスに、自らの姿を投影させていた。青と、黄色と、 オレンジ色が作り出した自然美を前に、私は息を呑む。

「……綺麗」

 殆ど無意識に、声が洩れていた。

「でしょ。なんてったって、俺のお気に入りの場所だからね」

 彼は得意げに、自分の胸を二度叩く。

「ほら、あそこ見てよ。海の向こう側に富士山が見えるでしょ」

 彼が指差した方向に目を向ける。手でひさしを作り、朝日を遮ると、言われたとおり、海の向こう側には、左右に稜線を広げる雄大な富士山の姿を見ることができた。

 ――息を呑むような絶景。

 事実、私は息を呑んだのだが、本当に、それ以外の言葉では、名状しがたい景勝が広がっている。

「なんかさ、こんな凄い景色を見てると、いかに自分がちっぽけな人間かってことを思い知らされるんだよね。俺の悩みなんて、たいしたことねえなって、考えさせられるっていうか……。嫌なことの存在さえ、忘れさせてくれる気がしない? ほら、よく心が洗われるっていうけど、あれって、こういうことを指すんじゃないかな」

 彼の問いに、私は答えられなかった。

 唇が震える。唇を薄く噛むと、今度は心が震えた。思い出したように、目頭が熱くなる。

 無理に口元を引き結び、力を込める。私はどうにか彼に頷くも、それがやっと。できるなら、この感謝の想いを、ありがとう、と声に出して伝えたかった。

 彼の横顔を太陽が照らしている。彼は優しく微笑むと、眩しそうに目を細め、また海を眺めていた。

彼が太陽に見えた、なんて台詞が、私に似合わないことは承知している。馬鹿にされたっていい。

 それでも私には、彼が太陽に見えた。

 深く、暗い場所に閉じ込められている私を、表の世界へ導いてくれる一筋の輝き。この海に伸びたオレンジのラインが、私を救い出してくれる道筋のように思えたし、そうであって欲しいと願った。


「さて、そろそろ帰ろうか。家まで送っていくよ」

 彼は穏やかに声をあげたが、その声は、この夢のようなひとときが終わることを意味していた。快哉に浸っていた私は、途端に胸が苦しくなる。

 車はすぐ目の前にあるはずなのに、私の足取りは、重い。

 帰りたくない。宇津木と暮らしたあの家に、宇津木の匂いがする、あの家になんて戻りたくない。

 シートに座ると、私の心臓が激しく脈打った。まるで家に戻ることを拒むように、警鐘を鳴らし続ける。

 わかっている。そんなことはわかってる。私だって……帰りたくなんか、ない。

 心で自問するも、やはり私の帰る場所は、あの家以外にはなかった。避けられない現実。目を背けることはできない。どうしたって私は、現実に向き合わなければならないのだから。

 私は力なく項垂れた。腹部の中心が、ぎゅっと締め付けられる。

 だけど、どうしようもない。この時間はすぐに終わる。終わってしまう。そして私を待っているのは、いつまた宇津木が戻ってくるかも知れぬ、不安と隣り合わせの鬱屈した日々。私は再び、孤独に耐え続けなければならない。

 だけど、だけど私には、もう……。

「――けて」

 どうにか絞り出した声は、自分の耳にさえ届かないような音だった。

 これじゃ駄目。もっと、ちゃんと伝えないと――。

 私は自分を叱咤し、もう一度、今度はちゃんと、声に願いを乗せる。

「お願い……助けて、ください」

 言い終わりに俯いた私は、彼の目が見れなかった。伝わって欲しい。これが精一杯の勇気だった。

 膝の上で合わせた両手が震えていた。止められない。無理に抑えようとすれば、余計に震えが強まった。

 助けを求めたはずが、かえって息が詰まりそうになる。もし断られてしまったら……そう思うと、余計に彼の目が見れなくなった。

 心が酷く縮こまる。場の緊張に押し潰されそうになった。

 私が苦痛に顔を歪めると、震える指先に、彼の手が重なった。はじめは震えた手を包むように、それが 次第に、彼の指先から伝わる力が強まっていく。彼が言った。

「助ける。……俺が、梨佳子ちゃんを助けるよ」

 彼の声は力強く、けれど震えていた。

 私は反射的に顎を上げ、彼の目を、真正面から受け止めた。

 待ち焦がれた台詞。

「助ける」と口にした彼の眼には、薄っすらと涙が滲んでいた。

 彼は私の頭へ手を回し、そっと抱き寄せた。

 包み込む、というよりは、彼の腕の中に守られているようだった。

 私も彼の肩へ手を回した。

 彼の肩越しに歯を食いしばる。喉元まで出かかった声を、必死に抑え込んだ。何が口を次ぐのかもわからない。ただ私の本能が、大声を上げ、叫び出そうとしていた。

 声を堪えた分、余計に高ぶった感情が、胸が熱くさせた。けれどこの気持ちをどう表現すればいいのかわからずに、私は、回した腕に力を込めた。きつく、きつく彼を抱きしめた。

 私の背中越しに、彼が言った。

「梨佳子ちゃんに何があったのか、俺は知らない。だけど俺は、どんな理由があるにせよ、絶対に力になる。約束するよ。絶対に、梨佳子ちゃんを助けるからね――」

 あれほど泣いたはずなのに、私の涙は枯れていなかった。

 私の顔は、また涙でくしゃくしゃになる。だけど思う。この涙には、悲しみや後悔の翳りはない。目の中に滲むのは、彼への感謝。

 こんな私の為に、涙を流し、救いの手を差し伸べてくれる彼への想いが、私の目を、心を、熱くさせていた。

 嬉しかった。ただただ嬉しかった。それ以外に、この気持ちにどんな名前をつければいいのか、私には思い浮かばなかった。

 彼になら……私は全てを打ち明けても構わないと思った。

 そして、私は語り始めた。

 この九ヶ月もの間、私に、何があったのかを。

 初めはゆっくりと、何重ものオブラートに包みながら、語彙を選び、順序立てしながら話していた。宇津木弘也と私の関係を、できるだけ客観視するような口振りを意識していた。

 けれど言葉が口を次いでいく内に、私は感情に突き動かされるように、喋り出していた。

 恥も外聞もない。気付けば起承転結は皆無に等しく、ただ感情的に浮かんだ情景をかいつまみ、恨みつらみを晴らすかのように、時には語調を荒げ、時には涙を乗せながら、喋り続けた。

 体のどの個所を殴られ、どこを蹴られたのか。お金を奪われ、仕事もなくした。背中の傷痕がいくつあるのかさえ話した。私は道具だったと自らを揶揄し、商品だとも言った。私がどうしてキャバクラで働き始めたのか、最後には風俗へ行けと迫られたことにまで言及し、嘘に塗り固められた宇津木の言動を非難した。

 話の途中、私は、自分がまるで悲劇のヒロインであるかのような錯覚をしていた。……もちろん、私は知っている。自分が悲劇のヒロインにはなりえないということを。決してくじ運が悪かったわけでもない。私の脆弱な心の底に、すべての原因があるということを、誰よりも自分が理解していた。

 それでも口を抜ける言葉は、自分を擁護し、被害者であることを強調するように、脚色されていった。

 こんな自分が醜いと思えたが、それでも私には抑えることができなかった。どうしても彼に伝えたかった。少しでもいい。わかってもらいたかった。どれだけ私が辛かったのか。苦しんだのか。どれだけ私が孤独だったのかを――。


「それって、さ。ドメスティック……バイオレンス、だよね」

 全てを聞き終えた後、彼はそう言って、表情を硬くした。

 DV……と、私は心の底で反芻する。

 それは鋭利な刃物のようであり、まるで言葉自体に殺傷能力が備わっているかのような響きだった。だけど、それが私自身に起きた現実であることを、あらためて突き付けられた気がした。

 彼が私を見つめた。引き結んだ口元に力が込められている。いや、それ以上に、彼が私に向けた眼には、圧倒的な力が込められていた。

 行き場のない感情を、二つの眼球に閉じ込めてしまったような憤りを滲ませる。私は圧倒されるように、そして逃げ出すように、彼の視線から目を逸らしていた。

「……許せない。その宇津木って男を、俺は絶対に許せない」

 やはり彼は怒っていた。声こそ抑えていたものの、ハンドルを握っている右手が、ミシミシと音を立てるように震えている。無理に抑え込んでいるのか、それが逆に、着火寸前の爆弾のようにも見えた。

 ――だけど、と言って彼が続ける。

「俺は、俺自身も許せない」

 彼の落とした声に、私は固まった。

 ――どうして?

「ごめん。本当に、ごめんね。梨佳子ちゃんが、ずっと辛い思いをしてたってのに、俺は全然気付いてあげられなかった。二人で話す機会だって、結構あったっていうのに。それなのに俺は、どうしてもっと早く……」

 苦虫を噛み潰したように、彼が押し黙る。

 その表情が、また私の心を震わせた。

 彼に全てを打ち明けたのは、決して間違いじゃなかった、と。

「いいんです。登坂さんのせいじゃない。登坂さんがそう言ってくれるだけで、私はもう、充分ですから」

 ありがとうございます、と言い添え、今度は私から、彼の手を握りしめた。


 彼はしばらくの間、シートに頭を凭れかけ、瞑想でもするかのように瞼を閉じていた。

「ちょっと気分を落ち着けて、考えごとしててもいいかな」彼がそう言ってから、十分近くが経過していた。

 時刻はすでに七時を回り、道路を往来する車の数も多くなっていた。

 窓の外には、快晴と呼ぶにふさわしい、雲ひとつない晴れ間が、どこまでも遠く、彼方まで広がっていた。

 両サイドの窓を開けっぱなしにしているせいで、気温の上昇は避けられなかったが、その分、通り抜ける潮風が心地よく感じられた。

 唯一残念なのは、この位置からだと、海が全く視界に入ってこないこと。私の目線を遮るように、ガードレールが邪魔をしていた。

 これだけ車高が低いと景色も堪能できない。次に彼が「ドライブ」を口にしたら、軽く指摘してみようか。そんなことを考えては、漫然と、青々とした空を眺めていた。

 早朝から日の光を浴びていたせいで、私の体内時計に狂いが生じているのか、普段であれば床に就き、熟睡している時間のはずが、あまり眠気を感じなかった。

 窓越しの景色を眺めていた私の背中で、彼の呼吸音が聞こえている。まさか眠ってはいないだろうな、と覗きこんだタイミングで、彼の口が「よし」と呟いた。

 シートに座り直し、私に向き直った彼は、何かをふっ切ったように表情をリセットさせていた。

「ねえ、梨佳子ちゃん。金曜日の晩、俺にできることなら、なんでもするって言ったの、覚えてるかな」

 昨晩、といってもすでに一昨日のことになるが、私は彼の言葉を思い出した。覚えてます、と頷く。

「あのね……多少強引って言われるかもしれないけど、俺にいい案があるんだ」

 彼はそう言うと、車のキーへ手を伸ばした。

 手首の動きに合わせ、エンジンが始動する。ブブゼラに似た低い音が、地鳴りのように轟いた。

 どこへ行くんですか?

 私が訊ねる前に、彼が言った。

「まずは梨佳子ちゃんの家に行くから。ナビ役は、任せるね」

 突然の展開に、私はたぶん……目を丸くしていたはずだ。


 私の案内で、彼の運転する車がアパート脇の側道に停車した。

 アパート周辺は比較的閑散としていたが、日曜日の朝らしく、飼い犬と一緒に散歩をする親子の姿が見てとれた。

 エンジンが止まり、車内が静けさに包まれると、途端に私の心が重くなる。

 本当に、戻ってきてしまったんだ。

 彼が何を考えているのか、この場所にきた意図が、私にはさっぱりわからなかった。道中、何度も訊ねようとしたが、それこそ彼は、この話題に触れることを避けるかのように、無関係な話を延々と喋り続けた。

 おかげで私は、この車がマツダという自動車メーカーが作った「RX‐7」と呼ばれる車であることを学んだ。世界に誇るローターリーエンジンを搭載した貴重な車であり、喧しいブブゼラの音色は、ロータリーサウンドが奏でる独創的な排気音なのだと、不必要な知識を植えつけられた。あのフェラーリの排気音にさえ、負けないのだ、とも。

 他にも、タービンがシングルに変わっているとか、車高調節がどうだとか、なにやら専門的な講義を受けながら、私はただ、顔が引き攣らないことをだけを意識し続けた。

 私が降りるのを躊躇っていると、彼がそっと手の平を差し出した。

「悪いけど、部屋の鍵、貸してくれるかな」

「えっ?」

 困惑する私は、言葉が続かない。

「もしかすると、なかに宇津木って男がいるかもしれない。そう考えてるんでしょ?」

 彼は私の不安を見透かしたのか、俺が先に行って様子を見てくる、と言って、半ば強引に部屋の鍵を手に取った。

「部屋番号は?」

「……203。左側の、角、です」

「了解。じゃあ、ちょっと待っててね」

「あの――」

 私も行きます。そう続けようとした私を、彼の右手が制した。

「いいから、いいから。もし何かあれば、すぐに戻ってくるから。ここで待っててよ」

 言い置いて、彼はさっさと出ていった。


 彼の後姿が階段を昇っていく。

 私が暮らすアパートは、各部屋の玄関が通りに面している分、この位置からでも、入口の様子は窺えた。

 彼は玄関の前に立つと、ドアをノックした。チャイムも鳴らしたのかもしれない。聞き耳を立てているのか、やや首を傾げている。

 もう一度、ドアをノックした。

 すると突然、ドアが開いた。

 まさか宇津木がいたのでは、と息を呑む。

 が、私の不安を余所に、彼は何事もなかったように足を踏み入れた。三和土に立つ後姿を眺めていると、卒然と振り返り、私に向かって手招きした。

 大丈夫、ということなのだろうか。私は車を降りたところで、一旦呼吸を落ち着け、それから部屋に向かった。

 ドアの前に立つ彼が、エスコートでもするかのように、私を中へ招き入れる。私の部屋なのに、なんだか妙な感じがする。戸惑いながら、私は靴を脱いだ。

「大きめのスーツケースみたいなのって、持ってる?」

 背後から、彼が問い掛ける。

「はい。一応、三、四泊程度の着替えが入る大きさのなら、ありますけど……」

「おっ、丁度いいね。じゃあその中に、着替えと最低限必要な日用品、それと貴重品なんかも入れてくれる」

「あの。荷物を持って、どこに行くんですか?」

「どこって……ここじゃない、別の場所かな」

「だから、どこに?」

 私が問うと、彼が小さく笑った。

「まあ普通はそうなるよね。でも、詳しいことは後で話すから、とりあえず準備しちゃおうよ。ほら、こんな部屋にいたら、また気持ちが重くなっちゃうよ。善は急げって言うでしょ」

 だけど、と出掛かった言葉を呑み込む。相変わらず、彼は強引だ。

 それに、訊いたところで無駄な気もする。私は仕方なく、促されるままに、荷物をまとめ始めた。

 私に気を使ってか、彼は靴を脱がず、部屋の中までは入ってこなかった。私にしても、あまり部屋の中を見られたくない思いもあり、彼の視線が気になって仕方ない。彼は玄関の三和土に立ち、壁に背をあずけていた。いつの間にか携帯を取り出して、メールでも打つのか、忙しく、画面を操作していた。

 私は要領を得ないまま、それらしい荷物を、それらしくスーツケースに納めていく。行くあてもわからず、目的もわからない。なのに私は荷物を詰めている。本当に不可解なことばかり。こんなことは経験したこともない。

「用意ができたら、ガスの元栓とか、全部チェックしてね。たぶん、二、三日は戻ってこないと思うから」

 まるで旅行にでも行くような口振りで、私はどうにも調子がくるってしまう。しかも、二、三日戻らないって――。

「登坂さん」

「何、どうかした?」

「私、明日も明後日も、仕事のシフトが入ってるんですけど……」

「ああ、それなら大丈夫だから心配しないで。ほら、準備ができたら行くよ」

 結局私は、一切の状況を呑み込めぬまま、また車の助手席に腰を落ち着けていた。

 彼は最後まで相変わらずの調子だったけれど、それが許される雰囲気を纏っていて、私も、それに流されてみようと思えるのだから、不思議でしょうがない。

 ある意味これも、彼の魅力なのかもしれない。


「――はい。到着です」

 彼がそういって、車のエンジンを止めた。

 連れてこられたのは、またもや横浜市内だった。

 今日一日だけで、私は何度この街を行ったり来たりしているのだろうか、と思う。

 場所は、中区にある本牧と呼ばれる街。

 ここに着く少し手前には、映画館や大型複合ショッピングセンターがあった。だとすれば、近くには三渓園があったはず。

 三渓園とは、原三渓という実業家が明治時代に開園した横浜の観光名所である。国の重要文化財に指定された建物が数多くみられ、書画や美術工芸品なども展示している。

 私が大学へ入学した際に一度だけ、両親と共に、桜を眺めながら園内を歩いた思い出があった。共に五十を超える年齢の二人には、みなとみらいに代表される華やかなウオーターフロントよりは、風趣に富んだ三渓園の方が好みだったらしい。振り返れば懐かしくもあり、けれど少しだけ、辛くなる。

 車を降りると、四階建ての瀟洒なマンションが、私の目の前に立っていた。

 すでに太陽は高い位置に顔を覗かせていたが、午前中にもかかわらず、ジリジリと肌を焼くような暑さが照りつけていた。これでも夏の入口に過ぎないのだから、先が思いやられてしまう。

 近年、耳慣れた猛暑という響きを思い浮かべるだけで、体中の毛穴から汗がにじみ出てきそうにも思え、辟易してしまう。今も威圧的に街を見下ろしている太陽が、あの海で見た太陽と同じ姿だとは信じがたい。できるなら、別物です、と背を向けてもらいたい気分だった。

 彼がトランクから私の荷物を取り出した。

「ついてきて」と言い、マンションの入口へ向かっていく。アプローチの先に『ハイブリッジ三番館』と刻印された、金色のプレートが掲げられていた。

「ここ、俺の家だから」

 説明を受けたのは、エレベーターの中だった。

 エレベーターは最上階で止まった。右に進路を向け、通路を突きあたった場所にあるドアにカギを差し込んだ。

「まあ気にしないで入ってよ」

 そう言って彼は、今度こそ私を、部屋の中へと招き入れた。


 彼の部屋は、1DKの間取りだった。

 私は真新しい建物の外観と、最上階という勝手なイメージから、2DK以上の間取りを想像していた。その分、予想外というか、少しだけ、期待を裏切られた気になる。

 それでもロフトがついていることで天井は高く、室内も広く感じられた。

 どちらにせよ、私が暮らしているマンションとは名ばかりの軽量鉄骨で作られたアパートとは別物で、外観に見合った立派な家賃であることは、容易に想像がついた。

 とはいえ、私が異性の部屋に足を踏み入れるのは何年ぶりだろうか。思い起こせば、記憶は高校時代までさかのぼり、そのせいか、視線が目のやり場を探すように、落ち着かなかった。

 南向きの窓辺には、ゴルフボール大の小さなサボテンが五つ、網状のシルバーラックの上に並べられていた。まるで背比べをするかのように、等間隔に並んでいる。窓際に目を向けると、大きく育ったサンセベリアが、長方形の白い陶器に収まっている。ただ買ってきた、というよりは、彼自身が好みの鉢へ植え替えたのかもしれない。

 ソファやテーブルなどの家具は、全体的に白を基調に揃えられており、黒で統一された電化製品がセンス良く収まっていた。

 よく見れば、部屋のあちらこちらに、小ぶりの観葉植物が置いてあった。まるで部屋の色彩バランスを調和するかのように、それぞれの、個性あるグリーンが映えている。私は冷蔵庫の脇に置かれたパキラを指差し、訊ねた。

「これって、登坂さんの趣味なんですか?」

「そうだよ。って、意外でしょ。実は結構前からハマってて、最初はそこのサンセベリアしかなかったんだけど、気が付けばこんな感じに増えてた。まあ、ちょっと寂しい趣味だよね」

 照れ隠しなのか、彼が鼻下を擦りながら笑う。

 そんなことないです。いい趣味だと思いますよ。と答えると、彼は嬉しそうに頬を緩ませた。

「じゃあ早速、部屋の説明をするからね」

 彼が唐突に話題を切り替えると、不動産の営業マンさながらの対応で、部屋の説明をはじめだした。最初はトイレの場所を、その次はお風呂の扉を開けて、浴槽にお湯を張る手順を説明する。

 マイコン式のお風呂タイマーの説明を受けると、今度はキッチン電磁調理器の使い方。その次は、エアコンのリモコン操作のやり方まで、事細かに説明していく。

「俺は普段、寝るときは上のロフトを使ってるんだけど……梨佳子ちゃんもロフトで大丈夫かな?」

 一瞬私は、彼の言ってる意味がわからなかった。これまでの流れから、私がこの部屋に泊まるのだろうということは察しがついた。

 でも――。

「一緒に寝るってことですか?」

 思わず私は、浮かんだ疑問をそのまま投げかけていた。

「まさかっ――。流石にそれはまずいんじゃない。まあ、俺は別にいいけど……って、やっぱまずいか」

 どこまでが本気なのか、彼の調子からは読みとれない。

「って、冗談はさておき、一応着替えとかもあるし、最低限、俺も部屋の出入りはさせてもらうけど、基本は梨佳子ちゃんだけだから安心してよ」

 そんな、安心してよ、と言われても……。

 返事に困り、言いあぐねている私に、彼が言った。

「いいかい。まずは梨佳子ちゃんの気持ちが落ち着くまでの間、ここが自分の家だと思ってね。もちろん、ホテルとはかってが違うかもしれないけど、それでも遠慮なく、自由に使っていいから」

「でも、それだと登坂さんは、どうするんですか? 泊まる場所とか……」

 実家が近くにあるのだろうか?

「俺? ああ、それだったら気にしなくていいよ。そっちの方も、手配済みだから。『銀』って言ってね、中学から続く腐れ縁で、多少の無理は聞いてくれる奴がいるから大丈夫。アイツなら、俺一人くらい受け入れてくれるだろうし、さっきメールは入れといたから、問題ないと思うよ」

「でも」

「――梨佳子ちゃん」

 毅然とした声に遮られる。

「わかってもらいたいんだけど、不安定な気持ちを落ちつけたり、気分を切り替えたりする為には、環境を整えることが必要なんだ。嫌な思い出ばかりが残ってる部屋にいたら、いつまで経っても、梨佳子ちゃんの気持ちは改善されないよ。それじゃあ何も変わらない。今までと同じで、何一つ、変えることなんてできない。――だからね、今の梨佳子ちゃんに一番必要なのは、無理にでも環境を変えること。わかってくれるかな。……と言っても、いきなりの展開だし、遠慮したくなる気持ちもわかる。でも、それでも今は、少しだけ、少しだけ俺に甘えなよ。この部屋を、自分の部屋だと思っていいからさ」

 確かに、彼の気持ちは有り難い。それでも……。

「やっぱり迷惑ですよ。悪いです」

「だから言ったろ! 助けるって」

 彼の声に気圧される。本気なんだ、という決意の表れが、口調から読みとれた。

「こうみえて、俺は意外と頑固なんだよね。だから俺が助けると言った以上は、必ず助ける。泣いてる子に目の前で手を伸ばされて、それを素通りするなんてできっこない。いいかい。これは誰の強制でもなく、俺の意思だから。何があっても俺が責任を取るし、梨佳子ちゃんが元の自分を取り戻せるようになるまで、俺は協力する」

 無理だ。彼の気持ちは、梃子でも動かないだろう。揺るぎない意志は、私を見る目にも表れていた。

「ただ正直に言うと、今の段階で、ここでの生活がいつまで続くのかってことは断言できない。梨佳子ちゃんにだって、まだまだ不安もあれば、心配ごとも多いだろうし。整理することは山積みだろうからね。――でも、これが第一歩。今まで、梨佳子ちゃん自身が踏み出すことのできなかった一歩だと思って、俺に甘えなよ。で、ここからまたスタートさせよう。新しい梨佳子ちゃんの人生を、一歩ずつ、着実にね」

 しばらくの間、私は沈黙を噛みしめるように、彼と視線を合わせていた。そしてゆっくりと、頭を縦に振ってみせる。

 決して観念したわけではない。これが第一歩。その意味が伝わったから、私は決心したのだ。

 本当に彼の言う通りだと思う。私には、あの環境から抜け出す術がなかった。いや違う。逃げ出す勇気もなかったのだ。たった一歩、それさえも踏み出すことができなかったゆえに、苦しみ続けた。

 ゼロとイチの谷間を飛び越える勇気。

 彼は見抜いていたのかもしれない。意志が弱く、決断力に欠ける、心の弱さを。

 だから彼は、強引にでも私の手を引っ張った。私が一歩を踏み出せる、動力となってくれた。

 たぶん、私は感謝しなければならない。いや、するべきだ。だから甘受しよう。彼が多少と称した強引さに、流されてみようと思う。

「本当に、いいんですね」

 彼は何も言わなかった。

 その代りに、柔和に表情を崩して、頷いた。

 私が彼を『篤斗』と呼ぶようになったのは、この一ヶ月後のことだ。


 後になって千尋の口から明かされたことがある。

 どうやら黒木さんは、私を初めて見た時に、篤斗と引き合わせることを決めていたらしい。

 黒木さんはひと目で見抜いていた。私が何かを悩み、何かに怯えていることを。その解決策として、最も相応しいと思えた篤斗を、なんの説明もなく、店に連れてきたと言うのだ。

 篤斗なら、いずれ気付くだろう。そう信じて。

 篤斗との結婚を報告にいった際、黒木さんは私にこう言った。

「登坂なら、必ず君の助けになると思ったよ。まさかこんなに早く結婚まですることになるとは思わなかったが、いかにもコイツが好きそうなタイプだとは思ってた」

 どこまでが本音なのかもわからない。

 が、事実篤斗は、黒木さんの目論見どおりに働き、私を救ってくれた。私を愛し、ついには結婚を申し出てくれた。

 恐るべきは黒木さんの洞察力。先見の目というか、はたまた野生からくる直感とでもいうのだろうか。どちらにしても、黒木さんが私の恩人であり、この先一生、頭の上がらない存在だということに間違いはない。


 宇津木の消息は、あの日から何もわかっていない。

 携帯電話の番号を変え、住む場所も、戸籍さえも変わった現在となっては、宇津木が私へ連絡を取る手段は皆無に等しい。

 ただ私の所在が変わることに対し、あの古館から、何らかの忠告なり、抑制があるのではないか、と一抹の不安を覚えもした。協力するといった手前、これなら約束を破棄することになるかもしれない、と。

古館は怒るだろうか、いや、怒る程度で済む話だろうか。そう私は恐れを抱いたが、それも杞憂に終わった。

「何も問題はない。ああいった男は、連絡が取れなくなると、かえって連絡をつけたくなるもんなんだ。躍起になって君を探し回ってくれた方が、こっちにとっても都合がいい。まあ、君にそれだけの価値があればの話だが」

 そう言って古館は、なんのお咎めもなく、私の選択を承認してくれた。

 けれども、この件は篤斗に知らせていない。宇津木とブルーローズの関係性は伝えてあったが、あの古館の存在に限っては伝えない方がいいと思ったからだ。

 以降の私は、街中で宇津木にばったり遭遇することを懸念し、長かった髪を切り落とすと、見た目の印象も大きく変えた。

 外出の際には眼鏡をして、変装程度に洋服の趣味さえあらためた。

 私は見えない影に怯えながらも、徐々に新しい生活を手にしていき、幸せを実感できる日々を過ごしていた。

 いつしか私は願うようになった。

 いつまでも、この平穏な生活が続きますように。

 できるなら、私の知らないどこか遠くの場所で、宇津木が不幸になっていてほしい。今後一切顔を合わせなくていい末路が、宇津木の身に起こっていてほしい。そう切に願った。

 すなわちそれは、宇津木に死んでほしいと願うこと。

 そして三年以上の時が経ち、今、私の手元には、あの宇津木が死んだかもしれないというメッセージが残されていた。


 普段なら固く鍵を掛けている記憶が、今日はどうしても蘇ってしまう。ただ過去を回想するだけで、胸がやけるような不快感に苛まされる。私は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、コップに移した後、喉の奥へと流し入れた。

 深く溜息を落とすものの、胸の内は、依然曇ったままだった。

 遥希はまだ眠っている。

 時計に目を送り、そろそろ起こさなければならないと思いつつ、それでも、もう少しだけ休んでいたいと、気分が憚れた。


 宇津木弘也が死んだかもしれない。

 私が千尋へ、真意を問う内容のメールを送った後、千尋からの返信は、『詳しい内容がわかり次第、またメールするね!』という一文だった。幾分、心がやきもきするも、私には連絡を待つ以外にない。

 私は願っていたはずだ。宇津木に、あの男に死んでほしいと。

 顔も見たくない。名前も聞きたくない。本当に、本当に、私の知らない場所で、背負えるだけの不幸を全て背負った後で、苦しみに溺れながら死んでもらいたい。

 そうやって何度も、何度でも願っていた。

 だから本当に宇津木が死んだなら、それは私にとって本望だったはず。私は喜んでいい。確定的な情報ではないにしろ、期待くらいはしてもいいはずだった。

 それでも――。

 今、私は胸の内に広がっていく不安を、どうしても拭えないでいた。脳裏に過るありもしない考えを否定しようにも、笑い飛ばすことさえできず、身動きがとれない。

 あの晩の映像が、耳が記憶した言葉が、私の心を大きく揺さぶっていた。


 ふと、耳にした物音に意識を引き戻された。

 遥希が起き出したかもしれない。

 ムクムクと起き上がった遥希には、余程便利な体内時計が備わっているのだろう。夕方に見ているお気に入りの教育番組が始まる時刻に、ぴたりと合わせた動きであった。

 私も気持ちを切り替えて、夕食の準備をしなければならない。

 篤斗は遅いだろうから、今日は私と遥希の分だけでいい。遥希は別としても、私の分は、あるもので簡単に済ませてしまおうと思った。

 だがその前に、確認しておくべきことがあった。

 私は呼びかける。自分でも馬鹿だと思っている。そうすることに、何の意味があるのかもわからない。だけど、あえてそうすることで、全ての不安を払拭できるような気がしてならなかった。

 私は数年ぶりに、その名前を口にした。

「ヒロヤ……なの」

 当然、小さな背中が答える筈がない。

 私は自嘲し、自分を愚かだと思った。

 あまりに酷い妄想だ。こんな馬鹿げたことを想像するなんて、ママは馬鹿だよね。ゴメンね、遥希。と、テレビの前に座っている我が子へ、心の内で詫びる。だが――。

「なんだよ。やっと気付いたのか?」

 振り向いた遥希は、無邪気な笑みを浮かべながら答えた。

 すっくと立ち上がると私の方へ歩み寄り、ダイニングテーブルの椅子に腰を落ち着けると、今度は不敵に微笑んだ。

「言ったじゃねえか、絶対逃がさねえって」

 私は愕然としていた。

「あれほど言ったよなぁ、オマエはオレのもんだってよ」

 次の瞬間、遥希の小さな体は床の上に突っ伏していた。

 それはいつかの私のように、一方的に叩き落とされた弱者の姿だった。

 叩いたのは……私。

 放心する私の耳に届いたのは、千尋からの電話を知らせる携帯のメロディと、大声で泣き叫ぶ、遥希の声。

 異なった二つの音が、いつまでも、頭の中で鳴り響いていた。

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