【梨佳子】

「なあ! いったい遥希はどうしちゃったんだ?」

 夕食の席で、想像通りのリアクションを見せた篤斗を前に、私は嬉しさから笑みを押さえることができなかった。

 どう? 凄いでしょ。驚いたでしょう! と。

 あんぐりと口を開け、スプーン片手に固まったままの篤斗へ、私は、ことの流れを説明する。

「私もね、今日のお昼くらいに気付いたんだけど。ほんと、突然なの。お喋りの練習をしてたら、突然言葉が上手に繋がるようになってきて、すっごく驚いた。こんなことが本当にあるんだって――」

 遥希は、先日から三日間続いた熱も無事におさまり、四日目の昨日からは本来の体力を取り戻しつつあった。

 今、遥希の身体には発疹らしきものは見当たらない。だとすれば、結果的に熱の原因は突発性発疹ではなかったのだろう。そう私は判断していた。

 しかしこれを、ただの熱、と済ませるのは早計かもしれない。時期的に、インフルエンザということはなさそうだけど、それでも注意するに越したことはないだろうと考え、しばらくは様子を見守ろうと思っていた。その矢先の出来事だった。

 熱が下がったことが好転の兆しだったのか、はたまた熱自体が何かのきっかけになったのか、理由は定かではない。どちらにしても、何らかの力が作用し、言語を操る、遥希の脳内スイッチを刺激した可能性が高い。

 その結果、遥希は卒然として、お喋りが上手になったのだ。

 ――言葉なんて、焦らなくても、ある日突然喋るようになるもんだよ。

以前に千尋が語っていたことを思い出す。

 それまで殆どお喋りできなかった子供が、唐突に喋り始めるようになることも珍しくないという話だった。

 かといって、とりわけ遥希が遅かったわけではない。今までも二語を上手に組み合わせて、対話することができていた。むしろ、同時期に生まれた子どもたちの中では早い方だったと思う。

 だけどやっぱり進歩している。いや、進歩というよりも、進化と呼んだ方が適当だと思えるほどの上達ぶり。

「ママ、おなかすいた」、「ハルキ、ごはんたべたい」と、今までは別々に言っていた遥希が、今日になって突然、「ママ、ハルキおなかすいたよ。ごはんたべようよー」と言い出したのだ。

 目が点になる、とはこのことだろう。私はハッキリと聞き取れていたにもかかわらず、我が耳を疑い、「何? 遥希、もう一度言ってみて」と確認してしまったほど。

 私の声に、同じ言葉を繰り返した息子を見て、手を叩いて喜んだ。

 嬉しさから遥希を抱き寄せるも、「ママ、そんなにぎゅってしたら、くるしいよう」と言ったものだから、今度は別の驚きで、飛び退くように遥希を離してしまった。

 凄いよ、遥希。突然どうしちゃったの?

 昨日まで二語で成り立っていた会話が、極端に言えば、流暢な日本語に変ってしまった。これって、飛び級の進化じゃないの?

 と、私はひとり、昼間から大騒ぎをしていたのだ。


 これを夫に伝えるのが、楽しみで仕方なかった。

 だから、たった今見せた篤斗の反応は、私を満足させるのに十分なものだった。

「おい、他には何を話せるようになったんだよ。ずるいぞ梨佳子。これならメールくらい入れてくれたっていいのに。自分だけ抜け駆けするみたいに楽しんでたんだろう」

 興奮冷めやらぬ状態のまま、篤斗は遥希と私を交互に見返している。

「パパ、ぬけがけしてたのー」

「違うよ遥希。抜け駆けしてたのは、パパじゃなくってママの方だよ。なっ、遥希。パパとお風呂に入って、沢山お話しよっか」

「うん。いいよー。いっぱいおはなししてあげるね」

 今の遥希はビックリ箱のようだ。その小さな口から、どんな言葉が飛び出すのか、私も篤斗も期待に胸を膨らませては、口元を緩ませる。

 篤斗は喜色満面といった様相のまま、お皿に残ったカレーを、一気に口の中へ流し込んだ。そしてご馳走様もそこそこに、いそいそとお風呂の仕度をはじめだす。

「パパ、はやくおふろにいこーよ」

 そう言って父親を急かす遥希を眺め、気付いたことがある。

 お喋りが上手になると、その表情も変わっていくようだ。言葉の端々に、得意げな表情を浮かべる姿は、またひとつ階段を上って成長した証なのだろう。

 これまで、何度となく経験してきたことだけど、子供が成長していく過程を目にするのは、いつだって嬉しいもの。日々、新しい発見の繰り返し。それが今日に限っては大発見なのだから。

 私は、母だからこそ味わうことのできる喜びに酔い痴れた。

 遥希がいなければ、こんな気持ちには巡り合うこともなかっただろう。篤斗に出会わなければ、遥希を産むことさえなかった。

 互いにじゃれ合いながら、お風呂場へ向かう大小の背中を見つめ、家族というかけがえのない存在に、深く感謝する。

 ありがとう遥希。ありがとう篤斗。

 今のママは、とっても幸せだよ――と。


「いやー、子供って凄いな。ほんと、どんな脳の仕組みなんだ。謎だよ、謎。謎なだけに、凄く興味がある。なんでこんなことが起きるのか、どっかで調べられないもんかなあ」

 湯上りの篤斗は、余程遥希との会話を堪能したのだろう。もはや興味の矛先が、感動から感心を通り越し、謎解きに向っていた。

 気になることは何でも調べたくなる。あれは篤斗の癖だ。職業病と言ってもいい。きっとこの後は、パソコンの前でにらめっこが始まるに決まってる。

 着替えを済ませた遥希に、お風呂上がりのアックを飲ませていると、案の定、篤斗はリビングの隅にある机に向かい、パソコンを起動させていた。

「全く、パパの調べ癖には、困っちゃうよねー。さっきまではあんなにチヤホヤしてたのに。もう遥希のことはほったらかしなんだから。ねぇ遥希。パパに『酷いよ』って、言ってあげな」

 アックを飲み干したところで、冗談めかして言ってみる。

 きっと今の遥希なら、そっくり私の言葉を真似するだろう。

 私は期待を膨らませる。

 けれど現実は、私の描いた通りにはならなかった。


「――したな」

 遥希の声が切れた途端。そこで私の思考が停止した。

 一時的に、全ての音が、耳から遮断される。

 自分の呼吸音、心臓の鼓動までが掻き消されてしまったように、私の意識は、部屋の中でポツリと宙に取り残された。

 ……今のは、何?

 ようやく思考が復旧したところで、私は目の中の現実を捉えることができた。

 そこでは――。

 遥希が何も言わず、ただ薄い笑みを湛えていた。

 私は咄嗟に目を逸らすと、意識を遠ざける。

 テレビには、流行りの情報番組が映し出されていた。海外から来日した、話題の女性ミュージシャンの特集をしている。当然、流れている声は女性のもので、男のものではない。

 ならばと夫の姿に目を向けてみるも、篤斗は私たちに背を向けたまま、横目にテレビを眺めていた。こちらに向って、何かを口にした様子はない。

 私は急な息苦しさに襲われた。

 まるで何かの発作のように胸が締め付けられ、呼吸を拒む。胃の奥が委縮し、鈍い痛みを伝えはじめた。

 わかっている。私には、現実を否定する術がなかった。耳に蘇った遥希の声が、私の心を震わせる。

 目に見えない重圧が、心の中で、ひとつの感情を物凄いスピードで膨らませていく。

「ごめん、篤斗。遥希のこと見ててくれるかな。私、急に寒気がしちゃって……。熱いうちにお風呂に入ってきたい」

 どうにか声を絞り出すと、私は夫の返事を待たず、その場から逃げ出すように、お風呂場へ駆け込んだ。遥希を置き去りにして。

 背後では、篤斗が何かを言ったのかもしれない。

 しかし、私の耳が、その音を拾うことはなかった……。


 寒気がする。いや、これは寒気なんて生易しいものじゃない。

 背中を丸め、肩までお湯に浸かっているにもかかわらず、全身が細かく震えている。私は肩を抱き、その震えを必死に抑え込んだ。

 遥希が私を見ていた。口元に浮かべた笑みのすぐ上から、突き刺さるような視線が、私に向けられていた。

 私はそれを、直視できなかった。だから逃げ出してきた。遥希から。

 ――どうして?

 自問し、すぐに後悔する。既に私は、溢れだす自分の感情を押さえることができなかった。

 ――怖かった。ただただ、怖ろしかった。

 あの瞬間の私は、あろうことか、遥希に対して『恐怖』という感情を抱いてしまったのだ。

 自分の大切な息子であるはずの遥希に。

 ――いったい、どうして?

 重ねた疑問符が、すぐさま答えを導き出す。

『――したな』と、遥希が口にした言葉。

 あの声は、遥希のものではなかった。いや、声そのものは、遥希だったに違いない。だけど……。

 だけど違う。あれは遥希じゃない。私は、私はあの声を知っている。

 あの声は、あの口調は……。

 私は両手で耳を押さえつけると、しゃにむにかぶりを振った。

 そうすることで、脳裏に浮かんだ映像を必死に掻き消した。

 心臓が、驚くほどの早鐘を叩いていた。

「馬鹿。……私って、どうかしてるよ」

 声に出してから、精一杯笑ってみせる。

 そんな馬鹿な話がある筈がない。何よ、もっと冷静に考えればわかることじゃない。私が耳にしたのは、ただの聞き間違い。遥希はきっと、何か別の言葉を喋ったんだ。なのに私ったら、本当に馬鹿みたい。

 そう自分に言い聞かせることで、必死に抵抗していた。

 それでも遥希の発した声が、粘着質のように纏わりつく。

 胸の鼓動は、尚も勢いを増している。

 私はどうにかして、現実を否定したかった。気を抜けば弱気になる自分を叱咤し、何度でも否定を繰り返す。そしてその都度、甦る映像に、心を挫かれる。

「あり得ない。そんなこと……絶対にあり得ないよ」

 それが最後の抵抗であるかのように、低く、震える声で吐き出した。

 それでも耳の奥では、遥希が口にしたあの声が、鳴り止むことはなかった。


『オマエ、浮気したな』と――。


 私は絶えず、何度も、何度でもかぶりを振り続けた。

 左右に激しく頭を振り乱すことで、邪念を粉々に粉砕し、塵のように吹き飛ばそうとした。頭の中身を全部吐き出して、空っぽにしてしまいたかった。

 だけど駄目だった。どんなに頭を振ったところで、消し去ることはできない。悪意に染まった三つの文字が、明確な形となって浮かび上がってしまう。

 駄目だ、と思った途端、目の前に円形の闇が見えた。

 闇は浸食を繰り返し、私の足元へ近づいてくる。

 底知れない、漆黒の闇――。

 ああ、駄目だ。駄目なんだ。沈んでいく。私はこのまま沈んでしまう。あいつは、あの男は、私の前から姿を消した後も、こうして記憶に留まり、私を縛り続ける。あの闇の中へ引き戻そうとする。

 どうして? どうして消えないの。

 ねぇ、どうして。どうしたら消えてなくなるの――。

 ふとした記憶は思い出せないことばかり。学生時代、同じクラスだった子たちの名前。想いを寄せた男の子の声に、先生たちの顏。

 思い出そうと働きかければ尚のこと、記憶は影を潜め、忘れてしまったのだ、と諦めさせる。

 それなのに、何故?

 消し去りたい記憶に限っては、永遠に、陰ることなく形を留めておくのだろう。私が心の奥底へ封印し、どれだけ堅強な鍵をかけたとしても、些細なことをきっかけに、いとも容易く開いてしまう。

気が付けばいつも同じ。闇の中で蝕まれた手の中には、あの時の記憶の断片が握られている。

 このまま握りつぶすことができないだろうか。そうすれば、全てをこの闇の中に葬り去ることができるのではないか。記憶ごと、あの男を抹殺できないだろうか。そう願い、渾身の力を振り絞る。

……が、どれだけ力を込めてみたところで、一度でも手を開いてしまえば、その断片は、花開くように全ての記憶を蘇らせる。

 黒塗りのマリーゴールド。

 花言葉は、絶望。

 全てが、そう。まるで昨日のことのように――。


 ねぇ、お願い。お願いだから、私の中から消え去って。

 もう二度と思い出させないでよ!


 私は闇の主へ届くように、声を上げた。

 だけど、それでも私はわかっている。

 それが無駄だってことを、理解している。


 私は逃げられない。

 私は生涯、この先もずっと過去の映像に縛られ、翻弄され続ける。

 あの悪夢からは、逃れる術がないのだ……。


 手を伸ばした。殆ど無意識だった。両手で浴槽の縁を掴むことで、記憶の底へ引きずり込まれることを、阻止しようとしたのかもしれない。けれども私の指先には、浴槽に触れている感覚さえなかった。

 何も感じられない。ただ映像として、掴んでいるのが見える。それだけ。

 あれほど身体を震えさせていた寒気も、今はピタリと止まっていた。止まっている、というよりは、それさえも感じられなかった。

 奇妙な虚無感。私の精神が、肉体から完全に別離してしまったような、酷く現実味のない感覚だった。

 そう。私はこの感覚を記憶している。過去にも私は、これと同じ感覚を経験していたことがある。漆黒の闇の中に身を委ね、行き場なく徨っていたことがある。

 ああ、そうか。これはあの時と同じ。

 私は現実から逃げ出したんだ。無力な自分。脆弱な私の心は、自分が自分であることを、放棄した。

 今の私は人形と同じ。中身のない、生きる意志を失った空虚な肉の塊だ……。

 

 絵の中の世界を見るように現実を傍観していると、不意に、視界の中を、夫の顔が埋め尽くした。

「――おい梨佳子っ! 大丈夫か! どうしたんだよ、おい、聞こえてるか!」

 私の耳が篤斗の声を拾うまで、誤差でもあったのだろうか。

 血相を変えた篤斗は、ただならぬ事態の真っ只中にいるようにも見えた。

 聞こえてる。

 篤斗、どうしたの? そんなに大声出さなくても、私、ちゃんと聞こえてるよ。

 私の声が届かないのか、篤斗からの反応は、ない。すると、ひときわ大きな夫の声が、浴室中に響き渡った。

「――おいっ! 梨佳子、しっかりしろっ!」

 その瞬間、全ての回路が正常に作動したかのように、私の目が、耳が、目の前の現実に接続された。

「……篤斗?」

 目と鼻の先にある篤斗の両目を、ただ茫然と、見つめ返す。

 視線を落とすと、私の体を引き起こすように、篤斗の左腕が、脇の下に差し込まれていた。肩に触れる篤斗の右手。そこから、確かな体温を感じる。

「梨佳子、わかるか? 俺がわかるか」

「……わかる。わかるよ、篤斗」

 そこで篤斗は、大袈裟に息を吐き出した。

「良かった」と声を洩らす。大袈裟ではなく、本当に安堵しているのだと気付いた。どうやら私は、現状を掴みきれていないようだ。

「なあ、いったいどうしたって言うんだよ。あんまりにも遅いもんだから、ずっと部屋から呼びかけてたのに、全然反応ないし。それで心配してきてみたら、梨佳子、今にも風呂の中に沈みそうだったんだぞ」

 捲し立てるように伝えられた話が本当であれば、私はどれくらいの時間、こうしていたのだろうか。考えを巡らせてみるが、すぐには判然としない。

「……ゴメン」

 口を抜けた後、やり場なく、視線を逸らした。

「本当に大丈夫なのか? 顔色だって悪いし、貧血とか、何か具合悪いんじゃないのか? それに梨佳子――」

 そこで篤斗は言葉を詰まらせた。

 訝しい視線が、私の目を射止める。

 私は何故だかきまりが悪く、目のやり場に困る。そこで卒然と気付いた。

 咄嗟に私は湯船のお湯を使い、顔を洗い流す。

 いつからだろう。

 私は泣いていた。涙を流していた。

 そんなことにさえ、自覚がないなんて……。

「何か、あったのか?」

「ううん。なんでもないの」

 反射的に落とした声を、当然、篤斗は嘘だと見抜いている。だから訊かれる前に声を重ねる。

「本当にゴメン。心配かけちゃったね。少し疲れてたみたい。……たぶん、昼間に遥希とはしゃぎすぎたんだと思う。もう、私ったら子供みたいだよね」

 言い終わりに笑いかけようとしたが、無理だった。頬が思うように緩まない。不自然に、口角だけが吊りあがった。

 篤斗の目が、真実を探していた。

 こんな時、私は真っ直ぐな篤斗の目が、苦手だった。でもそれは、私がうしろめたいから。原因は私にある。けして篤斗のせいじゃない。

「わかったよ。大丈夫なら、湯冷めする前に出てこいよ」

 背を向けた篤斗に、私は恐る恐る訊ねた。

「遥希……は」

声に立ち止った篤斗が、振り返る。

「いつも通りだよ。もう、ぐっすり夢の中さ」

 そう言った篤斗は、穏やかに微笑んだ。けれどそれは、物悲しさを隠すように上塗りされたものだと、理解できた。

 ぎこちなく、不安定な間が生まれる。

 何か……何か変わったことはない?

 出かかった言葉を喉の奥へ押し込む。そこまで訊く勇気を、私は持ち合わせていない。

「早く出てこいよ」

 踵を返し、篤斗は浴室を後にした。


 篤斗が去った後で、私は深々と息を吐き出した。浴槽から抜けだし、熱めのシャワーを全身に浴びる。

 心に纏わりついた不安を清めるように、しばしの間、私は滝行さながらに立ち尽くしていた。

 泣いていた……。

 私は自分が涙を流していたことに、気付かなかった。

 まだ篤斗と出会ったばかりの頃、これと同じ経験を、何度かしたことがある。あの時と同じ。私は数年の歳月が、一気に巻き戻ってしまったかのように思え、息苦しくなる。

 篤斗が来てくれなかったら、私はどうなっていたんだろう。そう考えるだけで足元が揺らぎ、その場にしゃがみ込む。私はどうにか膝を立て、鏡の中の自分を見つめた。

 違う。今の私は……。

 あの時とは、違うはずだ――。


 私がリビングに戻ったタイミングで、篤斗がパソコンの電源を落とした。私に振り返ることなく、椅子から立ち上がる。

「俺、先に寝るからな」

 短く伝え、隣の部屋へ消えていく。視線は交わされなかった。

 避けられているわけではない。それはわかっている。だけど何か煮え切れず、悶々と思いを巡らせているのは間違いない。

 篤斗と出会って四年。私は、あんな篤斗の姿を何度も見てきた。

 だから知っている。

 仕事上の人間関係がどうかは知らないが、私に対しての篤斗は、自分の感情を丸裸にすることを意に介さない。普段は意図的に自分の感情を押さえるようにしていても、何かの拍子にスイッチが入ってしまえば、体裁を纏うことなく、裸の心を曝け出す。

 しかしその弊害として、篤斗は私の感情にまで過敏な反応を示してしまう。体面という名の鎧を脱ぎ棄てた剥き出しの感受性は、自らの存在を顕示すると同時に、周囲の信号をダイレクトに受け止めてしまう。

 喜怒哀楽。なかでも篤斗は――そう。人が傷つき、涙することを極端に恐れる。人の哀しみに直面し、その上でなんの力も持たない無力な自分が腹立たしいのだ。真摯であればこそ、余計に我が身を憤慨する。それゆえに、その場しのぎに気休めの言葉を告げることは、絶対にない。だからこそ唇を噛み締める。それこそ血が滲むほどに、きつく。私の夫は、そういう男だった。

 おそらく篤斗は、今も心の中で模索しているはずだ。

 自分にできること。自分がすべきことを。

 そしてその矛先は、私に向けられている――。


 時計の針が零時を回ったところで、私は寝室に足を向けた。

 足取りは重い。しかし、このまま布団に入らぬわけにもいかず、二人が待つ部屋の扉へ手を掛ける。

 微弱なオレンジ色の灯りが、ひっそりと部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。私は一歩足を踏み入れ、そこで立ち止る。

 視線を落とし、静かに息を漏らした。部屋自体は静かなものの、まだ篤斗は眠ってないだろう。私に背を向けてはいるが、起きている、という確信があった。先に寝る、とは言っていたが、篤斗の性格であれば、決して眠ることなどできないはずだから。

 遥希の横へ体を並べ、枕に頭を埋めていく。薄灯りに照らされる天井を見据え、音をたてぬように呼吸を繰り返した。もう充分に気持ちの整理をつけてきたはずなのに、胸の奥がざわめいた。私は言い聞かせる。大丈夫、これは私の遥希。他の誰でもない。かけがえのない、私の息子だと。

「なあ、梨佳子」

 夫の声が、部屋の真ん中に落ちた。予想通りである。

 私はゆっくりと首を右に傾け、篤斗に向き直る。私たちの間で、遥希がスヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。

「何?」

 気持ちの準備ができていたせいか、声は自然と口を抜けた。篤斗は天井を眺めるように、真上を向いていた。

「俺の性格はよく知ってるだろうから、今さら必要以上に詮索はしない。だけどな――」

 そこで篤斗が言葉を切った。咄嗟に私は、沈黙を呑み込む。

 視線の先で、篤斗が大きく息を吐き出す音が聞こえた。

「梨佳子には俺がいる。そのことを忘れるなよ」

 静かだが、力のこもった声だった。

 再び落ちた沈黙の中、篤斗の声が、耳の奥で木霊し続ける。梨佳子には俺がいる。それだけで、篤斗が何を伝えたいのか、私には理解できた。

「前にも言ったよな。なんでも一人で抱え込むのは梨佳子の悪い癖だって。もちろん、自分で解決できることはあるかもしれない。それはいい。でも、自分で処理しきれない悩みを無理に抱え込んだって、何の解決にもならないだろ」

 付き合った当初の篤斗がよく言ってくれた言葉。

 人が抱えられる悩みには重さがあり、限界がある。悩みに耐えきれなくなって、解決への道を自力で踏み出せなくなったのなら、そこが自分の限界なんだと。後ろばかり見て、後悔ばかりして、一歩も前に進めない状態が続くことで、どれほど心に負荷が掛かるのか、それが精神衛生上、最も好ましくないってことを教えてくれた。

「……なあ。何のために俺がいるんだよ。俺は誰のためにいるんだ? 俺は遥希の父親である以前に、梨佳子の夫なんだよ。梨佳子を支え、守るのは俺の役目じゃないのか?」

篤斗の声に胸が熱くなる。私は喉の奥を閉め、唇を噛んだ。そうしなければ、今にも泣いてしまいそうだった。

「梨佳子に対する俺のスタンスは、今だって何も変わってない。付き合うと決めた時から、今もずっと。梨佳子が一人の女から、母親になった今も、何ひとつだって変わったことはないんだよ」

 俺のスタンスは変わらない。母親になった、今も。

 その声を合図に、涙が溢れ出していた。抑え込んだ感情の受け皿を失ったように、目尻から零れ落ちる。

「いいか、もう一度だけ言うぞ。俺にとっての幸せは、家族が幸せであること。梨佳子が幸せでいてくれることなんだよ。辛い顔なんてみたくない。苦しい顔なんてみたくない。その為に、俺にできることがあるなら、なんだってする。だから梨佳子。変な遠慮はいらない。もっと俺を頼っていい。頼っていいんだ」

 私は夫の声を噛みしめる。

 嬉しかった。ただただ、嬉しかった。頬を濡らす涙も、どこか温かい。

「……うん」

 殆どすすり泣きながら、私は声をあげた。

「たぶん俺たちは、遥希が生まれてから、それぞれが親として自立しようって、背伸びをしてたんじゃないかな。お互いに親とはこうあるべきだって、勝手な理想像を作り上げ、追い求める。確かに俺と梨佳子には、それぞれに親としての役割があるよ。でもな……母親になった途端、急に無理して頑張らなくちゃいけないなんて、誰が決めたんだ?」

 抑揚を抑えた声で、ひとつひとつの言葉を、篤斗は丁寧に告げていく。私は目に涙を溜めたまま、ただじっと、篤斗の声に耳を傾けていた。

「無理に自立する必要なんてないだろ。母親だから、父親だからって言っても、俺たちはまだまだ親としては全然未熟で、経験値だって不足している。できないこと、知らないことだって山ほどある。――だけど、親として頑張っていく以前に、俺たちはひとりの人間であって、人としても未熟な部分が沢山あるんだよ」

 だから二人で助け合って生きてくんだろ。

 それが夫婦なんじゃないのか?

 投げ掛けた篤斗が、私に向き直る。この部屋に入って、初めて交わされる視線。互いの視線が、遥希の頭上で重なった。私は唇を引き結び「うん」と頷く。

 いつだってそう。篤斗の声は、いつだって私の心に響き渡る。私の胸の奥深くまで、こうやって手を差し伸べてくれる。泡のように弾けそうな私の心を、篤斗は優しく包み込んでくれる。けして深くを追求することなく、けして詮索することもなく、けれども私の全てを受け止めてくれる。

 こんな私でいいのだろうか。本当に、私で……。

 まだ結婚前、二の足を踏んでいた私に、篤斗はこう語って、自らの決意を示してくれた。

「俺についてこい、なんて男は口にするけどさ。あの台詞、俺はあんまり好きじゃないんだよな。確かに響きは恰好いいかもしれない。でもなんか、自らの人生に相手を引き込むようで、一方的だろ。俺はちょっと違うんだ。結婚ってさ、生まれも育ちも違う、赤の他人同士が結びついて、互いに同じ道を歩み始めることだろ。結婚を機に道はひとつに交わるけど、それでも、互いの人生は別々に存在する。夫婦ってのは、進むべき道が同じ方向に向かっているということであって、道はあくまでも二本存在してるんだよな。だから各々が相手の人生を支え、尊重し、背負う覚悟があるのかどうか。共に苦楽の道程を歩む覚悟があるのかどうかってこと。俺はそう思ってるんだ」


 俺には梨佳子の一生を支え、背負う覚悟がある。


 それが篤斗のプロポーズの言葉だった。

 篤斗には、私の人生を、背負う覚悟が、ある。


 私は今、愛されている、という実感があった。

 思えば篤斗は、愛している、という言葉を殆ど口にしなくなった。

 一昔前は毎日のように口にしていた声を、最近は耳にした覚えがない。その代わり、「ありがとう」と、感謝の想いを口にする機会が多くなった気がする。

 おそらくは、遥希が生まれたからだろう。

 父親になり、私が母になり、それぞれが親としてのステップを踏んだ現在、互いの気持ちを伝えあう機会はめっきり減った気がする。

 もちろん、照れ臭さだってあるのかもしれない。私だって、面と向かって言われるのは、なんだか面映い。

 だけど、言葉にはなくとも、私には感じることができた。愛されている実感があった。互いの愛情表現が変わっただけのこと。今も私は愛されている。そして私も、夫を愛している。

 胸のすく思いだった。ついさっきまで、あれだけ揺らぎ、隙間だらけだった私の心は、篤斗の声によって満たされていた。

 ほんとなら、今すぐにでも篤斗の腕に抱かれたい。

 傍に寄り添い、篤斗の胸に頬をうずめたかった。逞しく鳴り続く篤斗の鼓動を耳に受け、眠りに就きたかった。

 何もかもを忘れ、互いの体温を重ね合いたいと思った。

 届きそうで届かない、二人の距離に視線を落とし、合間に眠る息子に、心で問い掛ける。

 貴方はママとパパの大切な宝物。それなのにゴメンね。ママの心が弱いばかりに、変なことを考えちゃって。もう二度と錯覚なんてしないから。遥希は遥希。他の誰でもない、ママとパパのかけがえのない息子だからね。

 私はそっと手を伸ばし、遥希の髪を、優しく撫で上げた。

 その様子を、篤斗が温かい眼差しで見守っていた。私は心から感謝の想いを伝える。

「篤斗、ありがとう」と。

 本当なら、もうひとつ。言わなきゃいけないことがある。

 伝えなくちゃいけないことがある。

 気持ちが押し上げ、喉の先まで出掛かった言葉を、私は、唇の裏側で止めた。

 今は駄目。これだけは、泣かずに伝えたい。


 次の朝、いつも通りに朝食の支度を進める私を待っていたのは、何も変わらない、普段通りの日常だった。

 七時に鳴り響いた目覚まし時計のアラームで、篤斗が布団を抜け出てくると、その後ろを、まだ眠たそうな顔をした遥希が、ちょこちょことついてくる。キッチンに立つ私に向かい、二人、示し合わせたかのように「おはよう」と声を揃えた。

 昨日までと、何ひとつ変わらない朝の光景。

 しかし、挨拶を交わした後も、私はまだ、若干のぎこちなさを胸の隅に抱えていた。それが篤斗に向ける表情に出ていないか、気になって仕方ない。けれど篤斗は、そんな私の心中を余所に、テーブルに広げた新聞へ視線を流している。日々繰り返す、日課。

 遥希は、篤斗へテレビのリモコンを差し出すと、これまた日課となっているNHKの教育番組に齧りついた。今から九時までの時間帯、テレビのチャンネル権は、遥希の独占状態になる。だけどこれも普段通り。本当に、何も変わらない。

 二人に気付かれないように、背を向けた私は、そっと息を吐きだした。幾分、胸の窮屈さが抜け出た気もするが、安堵とまでとは言い難い。緊張が、私の肩に重石を載せているような不自由さが残る。

昨晩のやりとりは、すでに篤斗の中では消化されたのか、その後も、何事もなかったかのように、時間は経過していった。

 予想通り、篤斗は昨晩の話題に触れてくることはなかった。

 しかし突然、そういえばさあ、と思い立ったように切り出したかと思うと、「俺って、嘘つく時の癖なんて、あったか?」とばつが悪そうに訊ねてきた。

 私は昨晩の出来事を、何かを遠回しに訴えられているのかと訝ってみるが、当の篤斗は、「まあ、俺が嘘つくことなんて、ないんだけどな」と私が答えるよりも先に自分を納得させると、一方的に会話を終わらせてしまった。

 遥希にしても、達者になったお喋り以外に、これといった変化はない。けれど食後に、歯を磨く篤斗の横で順番を待ちながら、「パパ、はやくー、つぎはハルキのばんだからねー」と、篤斗の体を揺すりながら催促する姿は、また新しい発見だった。

「パパ、おしごといってらっしゃーい」

 玄関口で、元気よく送り出した遥希の声に、篤斗がにっこり微笑む。

「じゃあパパ、お仕事行ってくるからね」

 そう言って遥希の頭を撫でると、篤斗は会社へと向かった。

 目が覚めてからずっと、構えていたこっちが拍子抜けするくらいの日常が一区切りする。

 と、そこで思う。私は何を構えていたのか? 

 篤斗に、遥希に対し、何を身構えていたのだろう、と。

 いつもと同じ、何も変わらない。これが現実なんだ、と私は胸を撫で下ろす。どれもこれも、私の思い過ごしだ、と。

 昨日、私が見たあの映像は全て幻影。耳にした声は幻聴だった。

 そう確信できるだけの現実が、今、私の目の前に広がっていた。

 テレビから流れる歌声に、遥希の声が上手に重なっている。

 その声を耳に、私の心を縛りつけていた緊張は、きれいに解けていった。

 こうして一日、二日と日常を繰り返し、何事もない一週間が経過していくと、私の心からは、あの日抱いた疑惑の欠片さえも、完全に消え失せていった。


 十月十三日の金曜日。

 午前中、買い物ついでに外出した私と遥希は、ファミレスで早めの昼食を済ませた後、足を伸ばして千尋の家へ遊びに来ていた。先日、遥希の言葉が劇的に上達した話をメールした際に、遊びに行く約束を交わしていたのだ。

「ハルちゃん、ほんとにお喋り上手になったねー」

 遥希を抱きかかえた千尋が、先程から、しきりに感心を繰り返していた。

「ハルキ、おしゃべりじょうずでしょー」

 合いの手をはさむ遥希の声。千尋は我が子の成長を喜ぶように微笑む。

「この一週間でも凄い進歩なんだよ。篤斗なんて、来週から忙しくなるもんだから、『今のうちに色々仕込んでおこう』なんて言ってさ。毎晩、遥希に付きっきりだったんだから」

「わかる。わかるよ、それ。いかにも篤斗くんらしいよ。なんか教育熱心な親バカの姿が目に浮かぶもん」

 相変わらず遠慮のない千尋の言い回しに、私は苦笑する。

「そうだ! ハルちゃん、いいものあるよ。こっちにおいで」

急に何かを思い出したのか、千尋は大袈裟に手を振ると、呼び込んだ遥希を、子供用のピアノの前に座らせた。

 木製のピアノで、サイズこそ子供用だが、れっきとしたグランドピアノ。本物さながらに天屋根が開く、カワイ製だ。

「それ、いいの? 月菜ちゃん、大切にしてるんじゃない」

 以前に一度、月菜ちゃんが遊んでいる場面で、遥希が隣から手を伸ばし、鍵盤に触ろうとしたところを怒られたことがあった。余程大切にしていたのだろう。子供ながらに、たいした剣幕だったのを記憶している。

「ん? いいの、いいの。もう月菜には小さくなっちゃって、もっと大きいサイズのピアノ買ってよって、煩いんだよね。全く、四歳児のくせしてピアノが欲しいだなんて、贅沢だっての。だから、今度お婆ちゃんにヤマハの電子キーボードでもおねだりしなよって、言ってある。そういう訳だから、全然気にしないで。これならハルちゃんには丁度いいでしょ。きっと今のハルちゃんなら、なんでも吸収できる時期だと思うし、今のうちに『音感』鍛えといた方がいいって」

 そう説明すると、千尋は遥希の手を取って、鍵盤の上に両手を並べてみせた。

「いい、ハルちゃん。ここが『ド』の場所で、ここからド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドって、続くからね」

 一度、千尋が見本を見せると、彼女の説明が通じたのか、離れた場所に座る私の耳に、小気味良いリズムで、ドから始まる連続した短音が届けられた。流石はカワイ製。日本が世界に誇るピアノメーカーの技術は、子供用にアレンジされた可愛らしい音色でありながらも、どこか品の良さを感じさせる。それにしても――。

「ハルちゃん、上手だよー。これなら将来ピアニストにだってなれるかも!」

「なれるかも!」

 横から遥希をぎゅっと抱きしめた千尋が、得意げに続ける。

「ねぇリカ、これって凄くない? 普通、最初はただ叩くだけなのに、こんなにリズミカルに弾けるんだよ。これって凄い才能だよ!」

 まるでどこかの親バカさながらに、大層な喜びようだ。私だって凄いと思っているのに、喜びを表現する間も与えてくれないんだから。

「ほんとだね。篤斗に言ったら、明日にでもピアノ買ってきそうだよ」

 いや、間違いない。篤斗なら絶対に買うはずだ。今の千尋と同じリアクションをとる夫の姿は、火を見るよりも明らかだ……。

 二人がピアノ遊びに夢中になっているのを横目に、私は千尋が購読しているファッション雑誌を、それとなく眺めていた。そろそろ冬物のコートを新調したいところだが、もうワンシーズン我慢すれば、遥希にも同じピアノを買ってあげることができるかもしれない。

いや、まてよ、と首を捻る。

 これなら私も、篤斗と変わらないじゃないか――。


 時計の針が十三時半を回り、千尋が月菜ちゃんのお迎えの準備をするころになると、遊び疲れたのか、遥希は千尋に膝枕されるような格好で、股の間にコロンと寝ころんでいた。

「ちひろちゃん、いっしょにねよーよ」

 眠たそうに瞼をこすり、千尋に甘えている。さて、私たちもそろそろ帰らなくちゃ。帰ったら、遥希はお昼寝の時間だ。

「あっ、ハルちゃんったら、エッチなんだからー。もう、誰のマネしてるのかな―」

 見れば遥希の右手が、千尋の胸元に伸びていた。黒とピンクのトラックジャケット越しに、胸のかたちが浮き上がる。そうかと思えば、今度は胸の谷間に、顔をぎゅっと埋もれさせた。

「こら遥希、やめなさいよ! そんなことしたら、ママ怒るからね!」

 やや語気を強めた声で、遥希を牽制する。もちろん、本人にしてみれば悪戯の延長なのだろうが、見ているこっちは気恥ずかしい気分にもなる。

「別にいいって。リカも怒んないでよ。まさか下心があるわけじゃあるまいし。それに、私もハルちゃんなら……別に、いいかなっ……て」

 千尋は意味ありげな眼差しで視線を落とし、遥希の髪の毛を優しく撫で上げる。

「もう、千尋も変なこと言わないのっ!」

「やばいっ! ハルちゃん、ママ、頭に角が生えてるよ」

「ママー、つのがはえてるよー」

 全く、千尋の悪ふざけにも困ったものだ。それに同調する遥希もどうかと思うが、これなら、歳こそ離れていても、私には手に余る姉弟にさえ思えてくる。

「ほら、遥希も離れなさい。もうお家に帰るんだからね!」

「やだやだ、ハルキ、ちひろちゃんといっしょがいいー」

 千尋の体にしがみつくように、駄々をこねる遥希を無理やり引き剥がし、言い聞かせる。

「遥希、あんまり甘えてると、ママ本当に怒るんだからね」

 眉根に力を込め、遥希をじっと睨みつけた。最近は、会話のやりとりが上達した分、言葉と態度の組み合わせが効果絶大だ。案の定、遥希は下唇を前に突き出す格好で、いじけて見せる。

「ママ、怖いねー」

 隣から横やりを入れる千尋を、私は、ついでとばかりに視線で一喝した。

 千尋は「おー、怖い」と言って両手を返し、肩を竦めた。


 帰り際、車まで見送りにきてくれた千尋へ、「じゃあね」と手を振って別れる。窓ガラスが閉じ終えたところで、車を発進させた。

 遥希は後部座席のチャイルドシートに収まり、今も千尋に向かい、懸命に手を振っているが、走り出せばすぐに眠ってしまうだろう。

 運転中の車の揺れは、心地よい睡魔を誘発するらしい。

 私は市街地の一方通行を抜け出ると、東海道を南へ向けて、ハンドルを左に切った。

 我が家の愛車。ダイハツの軽自動車、タント。

 私が妊娠したとわかったその月に、篤斗がそれまで乗っていた車から、突然入れ替えると言い出して購入した車だ。

 長年、自分が大切に乗り続けていた愛車、マツダRX‐7では、家族三人が乗るのには不都合だと言って、迷いなく購入に踏み切った。

 燃料代や税金も高いし、家計を考えて維持するなら軽自動車の方が絶対に得だから――と本人は言っていたが、心根では、手放すのは惜しかっただろうし、本当なら、もう少しサイズの大きな車が欲しかったはずだ。だけど篤斗は、ペーパードライバー同然だった私の運転技術を優先し、あえてこのサイズの車を選んでくれた。

 この辺りの切り替えを、ズバッとこなしてしまうのが、いかにも篤斗らしいところ。過去、どれだけ愛着があった物に対しても、ちょっとしたことを理由にとり、未練もそこそこに手放すことができてしまう。私には、到底理解しがたい感覚だ。

 あんな性格だったら、私や遥希でさえも、何かの理由にかこつけて、切り離してしまえるんじゃないか? とあらぬ方向にまで、想像は膨らんでしまう。

 でも結局は、車のグレードダウンを餌に、以前から欲しがっていたイタリア製の自転車を買ったのだから、篤斗なりに、譲歩できる結果だったのかもしれない。

 視線の先で、信号機が黄色から赤に変わった。

 私は停止線の手前にブレーキを合わせつつ、ルームミラー越しに、遥希の様子を窺った。

 予定通りと言うべきか、千尋の家から五分と経たずに、遥希は夢の中へと出かけてしまったようだ。

 と、そこで助手席に置いたバッグの中で、携帯電話が着信を知らせていた。

 メールだ。

 私は信号を一瞥する。運転中ではあったが、メールの確認程度なら問題ないだろうと思い、バッグの中へ手を伸ばす。開いた携帯の画面に目を向けた。

 メールは、千尋から送られていた。

 何か忘れ物でもしたのだろうか。訝りながら、ボタンを操作する。

 一瞬、信号へ目を向けてから、再び画面へ視線を落とした。

 そこに表示された文字を見て、私は愕然とする。

 声を上げることもままならず、ただ一度だけ、心臓が大きく、どんっと脈打ったのが感じられた。

 目の中で、捉えた文字列が、小刻みに揺れ動いている。

 どれくらい、その文章を眺めていたのだろうか。

 気付けば背後から、間延びしたクラクションの音が、繰り返し、鳴り響いていた。

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