【梨佳子】
「――遥希、梨佳子。パパが帰ってきたぞー」
玄関から飛び込んできた夫の声。
時刻は十九時半を少し回っていた。
電話で聞いていた予定より、若干遅い。けれど、これも私にとっては想定内のこと。
「お帰りなさい。ほら遥希、パパがお仕事から帰ってきたよ」
私は温めていたシチューの火を止め、奥の部屋でブロック遊びをしている息子に呼び掛けた。
「ただいま、遥希。遅くなってゴメンなー」
言いながら私の横をすり抜けた篤斗は、一目散に遥希の部屋へとなだれ込んでいく。
それでも遥希は、私たちの声など聞こえていなかったようで、ブロック遊びに夢中の様子。赤、白、黄色と、様々な色、形のブロックを組み合わせて大きくしていくのが最近のお気に入り。傍から見ている分には、それが何の形を目指しているのか、まるで見当もつかないが、本人には確かな完成予想図が見えているのかもしれない。
集中力が高いというか、興味優先型というべきか、遥希は一旦自分が興味を持ったことにしがみついてしまうと、梃子でも動こうとしない。
今だってそう。両手に持ったブロックを組み合わせることが、よほど重要のようだ。
「遥希ぃ。パパがお仕事から帰ってきたんだぞ。ほら、パパにお帰りは? お帰りのぎゅってしないのかぁ」
夫の猫撫で声が聞こえてくる。篤斗は半ば強引に遥希を抱き寄せると、嫌がる遥希を余所に頬ずりをし、チューをした。
見慣れた光景ではあるが、パパとブロック、どっちが好きなんだよー、なんて真顔で訴える夫の姿を見てると、笑みをこぼさずにはいられない。
しつこい父親に根負けしたのか、それとも抱かれているのが苦しかったのか、遥希は「おかえり」と短く発し、渋々とブロックを手放した。
篤斗のそれは、父と息子の関係を忘れさせる。
声高に発せられる猫撫で声。見ているこっちが恥ずかしくなるようなベタベタのスキンシップ。
遥希は篤斗の彼女じゃないでしょ? と突っ込みを入れたくなる程に、接し方が、年々エスカレートしていく。
最近なら、私にだって言ったことがない台詞を照れもなく連発する姿に、くすぐったいような、気味が悪いような、何とも例え難い感覚を味わうこともある。
「ほら、遥希もパパを待っててお腹空いてるんだから、早く着替えちゃいなよ」
言った私を見返し、まだもう少しいいだろ、と名残惜しそうな目を向ける篤斗に、私は噴き出しそうになるのを必死で堪えた。
全く、あれならどっちが子供かもわからないじゃない――。
「遥希もお片付けしようね! お部屋キレイキレイにしてから、みんなで美味しいご飯食べようか」
「わかった」
遥希が答える。ややぶっきらぼうに聞こえる言い方を、何故か男らしいと思ってしまう。
パパ似かな。いや、違うな。残念ながら、今の私には男らしいパパ像よりも、赤ちゃん言葉を巧みに操る、女々しい夫の姿しか浮かばなかった。
篤斗が着替えている間に、私は片付けの終わった遥希を抱っこして、ダイニングの椅子に座らせた。幼児用の、安全ベルトが付いた専用の椅子である。
もうお友達の中にはベルトを外している子もいるのだけど、遥希にはまだ無理だ。つい先日も挑戦してみたけれど、遥希は突然立ち上がってみたり、足をバタバタさせて落ちそうになるので、あえなく断念した。
安全ベルトは、今の遥希にとっては拘束ベルトに程近い。もう少し落ち着きが出るようになるまでは我慢するしかない。
今も少し窮屈そうにして、遥希はベルトに収まっている。
「ママ、ごはんでしょ。ごはんでしょ」と言いながら、両手をぶんぶん振り回しては、テーブルを叩いている。
そのテーブルには、遥希の好きなクリームシチューとオムライスをメインに、普段よりも品数多く料理を並べた。
今日は遥希が主役なんだから、多少は食べ残したって構わない。
残した物は私と篤斗で食べればいいのだから、遥希には、好きな物を少しでも多く食べさせたかった。
もちろん、ケーキだって冷蔵庫の中にちゃんと準備してある。
生クリームとイチゴが沢山載った大人用のケーキ。いつもなら、極力甘いものは控えているが、食後の歯磨きをきちんとすれば、少しくらいは大目に見よう。今日だけは特別だ。
案の定、というべきか、遥希は用意したシチューとオムライスを、ペロリと平らげてしまった。子どもサイズの盛りつけとはいえ、この大食漢は、父親似だ。
もうお腹いっぱいじゃないの、ケーキは食べれる?
顔を覗き込んでみると、遥希は元気な声で「たべるー」と即答した。
「まさか二歳児でも、甘いものは別腹なんて言うのか? 我が息子ながら末恐ろしい食欲だな」
と、言葉とは裏腹に、篤斗は嬉しそうな笑みを浮かべている。
そうだよ。きっと篤斗に似たんだよ、と思いながらも、私は遥希の将来が多少なりとも心配になる。
やはり、体育会系の血が色濃く受け継がれているのだろうか、と。
これでもし、血液型までB型だったら――と、私はA型であることを祈るばかりである。
私が冷蔵庫からケーキを取り出してくると、遥希の視線が、四角い箱に釘づけとなった。
お待ちかね、今日のメインの登場だよ。
美味しそうにデコレーションされたケーキの中央には、チョコレートで作られたプレートに『はるきくんたんじょうびおめでとう』と書いてある。そのプレートの左右に、赤と黄色のロウソクを二本、丁寧に立てた。
全ての準備が整ったところで、篤斗がロウソクに火をつける。続いて電気のスイッチを押し、消灯する。
一瞬にして暗くなった部屋の中で、二本のロウソクが柔らかな明かりを浮かび上がらせる。微かに揺らめくロウソクの炎。ケーキを中心としたふたつの灯火に、遥希の顔が優しく照らされる。
演出はこれで完璧。遥希も興味深そうにロウソクの炎を覗き込んでいる。篤斗がビデオカメラを構えながら、私が手拍子をしながらバースデーソングを歌った。
「遥希、二歳だよ。誕生日おめでとう!」
私たちが拍手で祝福すると、わかってか、わからずか、遥希も一緒になって、嬉しそうに手をパチパチ叩いていた。
ケーキを遥希の前に移動させる。融け始めたロウが液体となって、柱のてっぺんから零れ落ちようとしていた。
いよいよクライマックスだ。
私は視線で合図を送る。――篤斗、遥希がロウソクの火を消す瞬間をばっちり撮っておいてよ。
遥希の顔がケーキに近付いた。その口が大きく開かれる。
「遥希、そこだっ、ふーってしろ! ふーって!」
父親の横槍につられるように真似をした遥希が、「ふーふー」と声に出し、息を吹きかける。すると一瞬ではあるが、炎がぐらりと揺れ動いた。一年で凄い進歩だ。去年の誕生日には揺らめきもしなかったのに。
それでも、息を吐き出す力が弱いのか、炎は揺らめきこそするが、消えはしない。
まだ遥希には早かったか、と私が代わりに吹き消そうとした瞬間。
すっと伸びた遥希の指先が、綺麗にデコレーションされたクリームの小山をさらった。見れば遥希は、してやったりの表情を浮かべている。
「もう。遥希ったら先にクリームだけ食べちゃって、折角のケーキが崩れちゃったよ」
そう私が零すと同時に電気が点けられた。遥希が、口の周りにクリームをつけたまま、無邪気に笑っている。
ならば私が火だけでも消そうと、息を吸い込んだ瞬間。今度は目の前の炎が消えてしまった。犯人は篤斗。こちらも、してやったりの表情を浮かべている。
――全く、親子揃って!
遥希が生まれてから丸二年。
十月四日の今日、遥希は二歳になった。私と篤斗の記憶に追加された、あらたな記念日。
もっとも、誕生日のイベントとして実際に喜んでいるのは私たちの方で、当の遥希には、テーブルに並んでいたご馳走や、プレゼントの意味なんてわからないのかもしれない。
ただ、遥希の表情を見る限りでは、終始喜んでくれているのが窺えたし、見た感じのテンションだって、普段に比べて高いように思える。イベント自体の意味はわからなくても、ちゃんと喜びを表現してくれている。その姿を見てるだけでも、私は十分に満足できたし、嬉しかった。
だけど一つだけ、私にはどうしても腑に落ちないことがあった。
遥希へのプレゼントだ。
選んだのは篤斗。その篤斗が、これもサプライズだからといって、中身が何であるのかを事前には教えてくれなかった。
だから実際に中身を見るのは私も初めてで、ある意味遥希と同じように、ドキドキ、ワクワクと、心躍らせていた。
で、開けてびっくり何とやら。箱の中から出てきたのは、最近流行っている仮面ライダーの変身ベルトだった。私も毎週日曜日には、遥希と一緒にテレビで見ているから、その塊が何であるかをすぐに理解できた。
でもなんで? と私の頭の中には疑問符が列を並べる。どうして仮面ライダーの変身ベルトなんだろうか、と。
確かに遥希は、毎週日曜日には欠かさず早起きをして仮面ライダーを見ている。が、実際のところ夢中になっているのは篤斗の方で、遥希はどちらかというと、仮面ライダーよりも前に放送されているヒーロー戦隊の方を気に入っているはずだ。なのに何故、仮面ライダーなのか……。
私は篤斗を睨みつけた。
篤斗、それって自分の趣味が半分入ってるんじゃない?
いや、半分以上といってもいい。
そんな私の視線から、意図した部分を察したのだろう。篤斗は逃げ出すように遥希を抱え、奥の部屋へと連れ去った。
早速、遥希の腰に変身ベルトを巻き付けると、向き合った自分は悪の怪人役に徹するサービス精神で、仮面ライダーごっこを開始する。
嬉しそうに跳ね回り、ご満悦な表情を浮かべる遥希を抱きかかえると、篤斗は見計らったように私へ見せつける。
なっ、変身ベルトで正解だったろ!
そう言いたげに目でアピールする夫の姿が、なんとも憎らしい。
その姿を見て、やっぱりこの誕生日は、私と篤斗の為にあったのだと実感した。遥希の為とは名目上で、終わってみれば、完全に親の自己満足だったのかもしれない、と。
息子の相手を夫に任せ、私がキッチンの後片付けを済ませていると、いつの間にかたっぷりと遊ばされた遥希は、布団の上でコロンと横になり、眠っていた。
今日は早い時間でお風呂に入ったせいか、食後の満腹感も伴って、寝つきも早かったのだろう。
普段、遥希が就寝につく二十二時には少し早かったけど、寝る時間帯としては悪くない。次に遥希が目覚めるのは、いつも通りの朝七時。それまではぐっすり眠っているはずだ。
奥の部屋の灯りが消え、篤斗が「寝ちゃったよ」と、ひと仕事終えた表情で戻ってきた。その足で冷蔵庫に向かい、中から缶ビールを取り出す。
「適当なツマミある? それっぽいのであれば、なんでもいいんだけど」
それっぽい、の意味はわかりかねたが、私は「なんでもいいんでしょ」と訊き返し、冷凍庫の中を覗き込んだ。
たしか『それっぽい』ものが入っていたな、と庫内を掘り起こす。
「――はい。こんなのしかないけど」
テーブルへ、平らな皿に盛り付けた枝豆を置く。
「おっ、サンキューな」
篤斗は差し出された枝豆を、スナック菓子でも頬張るように、口へ運んだ。
単に冷凍された枝豆を、流水で解凍しただけの料理とも呼べない代物だったが、どうやら『それっぽい』には該当したらしい。手にした枝豆が、続けざまに口の中へ弾かれていった。
「たまには一緒にやるか」
ビールを指差した篤斗に誘われたが、やんわりと首を振る。気分は飲みたくないこともないが、ここは自制するべきだ。
「そういえばさ。さっき帰ってきた時に、下に黒塗りのベンツが止まってたけど、お隣さん、今日は休みだろ。きっと、新しい男ができたんだぜ。ったく、あの子も相変わらずだよなぁ」
篤斗の言うお隣さんとは、水商売をしている一人暮らしの女性のことである。私も何度か目にしたことがあるが、私と同じ年くらいか、もう少し若いくらいの年齢のようで、昼間見かけるすっぴん顔は、幼さを感じさせる可愛らしい表情をしていた。
但し、顔のつくりとは裏腹に、異性との交遊は派手なようだった。
仕事柄、遅い時間に帰宅することがある篤斗は、男性を部屋に招き入れる場面に遭遇しやすいようで、その度に彼女は、別の男性を連れているらしく、どうにもリアクションが取りにくいと零していた。
幸い、篤斗が取引をしているクライアント先のホステスではないようで、仕事場での顔見知りじゃないことに胸を撫で下ろしていた。
「たしか前に見た時は、ボルボのステーションワゴンに乗ってた若い男だったんだけどな。ああ、そうだ。その前は年式の古いポルシェ乗りだったけど、911ターボを選ぶあたり、センスのいい男と付き合ってるなって思ってたんだよ。それが今度はベンツだろ。あのベンツなら、中古で見積もっても七、八百万は固いだろうな。そう考えると、彼女、男を選ぶ基準が外車乗りかどうかって部分なのかもしれないな」
ビールを片手に持論を展開する篤斗は、ここ数年、自転車が愛車になっているが、元々は大の車好きだった。そんな篤斗らしい、いかにもといった見解。
「へー、そんな高級車に乗ってるんだったら、今度の相手は相当なお金持ちかもね」
「そうそう。俺みたいな自転車乗りとは天と地ほどの差があるだろうな」
「だけど、篤斗の自転車だって外車なんでしょ?」
「もちろん。あれはイタリア製だからな。その辺の自転車と一緒にされたら困るよ」
変な部分で負けず嫌いなところは別として、本人の表情を見る限り、とりわけベンツが羨ましいわけでもなく、車に大きな未練はなさそうだ。
一昔前であれば、いつかはフェラーリに乗りたい、が口癖だった男も、今の愛車に満足している証拠だろう。
もっとも、私にしてみれば『件のイタリア製』と、ホームセンターで売っている安売り自転車との違いが全くわからなかったが、そこは内緒にしている。
「なあ、梨佳子。遥希が生まれてから二年が経つなんて、本当に早いと思わないか」
二本目のビールを手にした夫が、しみじみ言った。
「早い早い。ほんと、あっという間だったよねー」
二十四歳で遥希を産んで、もう二年。時が経つのは本当に早い。
篤斗は余程感慨深いのか、ワインテイスティングさながらの要領でビール缶を回した後、ゆっくりと口の中へ流し入れた。
ゴクリ、と喉を鳴らした後で、とりわけ深い意味もないだろうに、手にした缶を傾けて、これまた感慨深そうに眺めている。
さもそれが年代物のビールであるかのような自己演出は、お酒に酔ってるのか、自分に酔っているのかも定かではない。
全く、そこには何年物なんてワインみたいな表示はありません。
篤斗の目に見えてる数字なんて、消費期限くらいなもんでしょ?
とはいえ、仕事の付き合い以外で、夫がお酒を口にすることは珍しい。食後やお風呂上りにビールを飲むことだって、滅多にあることではない。
だから遥希が眠った後、篤斗があえてお酒を口にする時といえば、決まって何かを話したい時だと相場は決まっている。
元来篤斗は、お酒の力を借りて愚痴を並べるタイプではない。どちらかと言えば、その逆。今は、お酒が飲みたくなるほど気分が良いのだろう。
見ていればわかる。おそらく今日の篤斗には、何か嬉しいことがあったのだ。既に篤斗の身体からは、喋りたいオーラが滲み出ていた。そしてそれは遥希の話題とも違う。そんな気がしていた。
「――梨佳子。俺、今日付けで『ウォ―・レッド』になったから」
向き合った椅子に座ろうとした瞬間だった。
唐突な呼び掛けに、私は全て聞きとることが出来なかった。辛うじて拾った言葉で訊き返す。
「なにそれ。ウォレット?」
「違う違う。『ウォー・レンジャー』のリーダーで、『ウォー・レッド』だよ。わかるか?」
篤斗はやや大袈裟に『レッド』の部分を強調した。
「わかんない」と首を振り、そもそも『ウォー・レンジャー』なんて聞いたこともない、と付け加えた。
「今日さ、黒木さんが突然言い出したんだ。うちの誌面でヒーローを作ろうって。――で、出てきた案がそれ。ヒーロー戦隊『ウォー・レンジャー』って奴」
なるほど――と私は黒木さんの名を耳にしただけで、おおよその展開を想像した。『ウォー・レンジャー』が何者なのか、詳しいことは別として、だけどおそらくは、そういうことなのだろう、と。
あの黒木さんが言い出すのだから、当然それは普通の枠組みで収まるはずもない。また何か、突飛なことをやらかすに決まっている。
「そして俺が、リーダーのウォー・レッドってわけだよ。――どう?」
夫が自慢そうに右手の親指を立てる。
その仕草が「かっこいいだろ」とアピールしているのか、只の強がりなのか、表情を見る限りは半々といったところだろうか。
「それって昇格なの、それとも降格?」
「どっちでもない。現状維持のまんまだよ。まあヒーロー手当くらいはつけて欲しいけどな」
自分で言っておきながら、篤斗は「そりゃ無理か、出るわけないな」と口にして、ビールを流し込む。 何故か半笑い。緩んだ口元に枝豆が吸い込まれていく。
「仕方ないよね。黒木さんだもんね」
「そうそう、仕方ない。今はただコスチュームを作るって言い出さないことだけを祈るよ」
「ああ、それなら絶対作るって言いそうだけどね」
「なくはない、な」
私たちは顔を見合わせ、笑った。
黒木さんは、篤斗の務める会社の社長で、私自身も面識がある。
以前、まだ私が仕事をしていた頃からの付き合いで、実のところ、私と篤斗を引き合わせた張本人でもある。
元々面倒見が良いのか、単にお節介焼きなのかはわからない。
けれど二年前の今日。私が遥希を出産した時には、誰よりも早く病院へ駆けつけ、産後の余韻冷めやらぬ 私たちを驚愕させたのだ。
そう。あの時の黒木さんは、何の前触れもなく、突然、病室に姿を現した。それも出産後に、ひと段落した篤斗が、無事に生まれたとの報告メールをしたらしいのだが……。
驚くことに、それから三十分も経たない内に、あの人はやってきたのだ。
面会時間なんてお構いなし。看護師さんも、日の出前からいきなりやって来るもんだから、当然私か篤斗、どちらかの親族だと思ったらしい。当の黒木さんも、普段なら篤斗のことを「登坂」と呼ぶくせに、ここぞとばかり「篤斗」と呼び名を変えていた。それこそ二人が兄弟であるかのように、無茶苦茶な既成事実をでっちあげる。
あれは明らかな確信犯――。
不憫なのは篤斗の方で、まさか「兄貴」とも「拳一郎」とも呼べず、終始、しどろもどろしていた。
それでも結果的に、黒木さんは看護師さえもが見て見ぬふりをする状況を作り出してしまった。一般論や常識なんて、あの人の前ではただの語彙でしかなく、言葉の意味なんてまるで必要としていないらしい。
嵐が去った後、「ほんと、黒木さんらしいというか……」と零しながら、ほとほと困り果てていた篤斗の顔を、今でも鮮明に思い出すことができる。
正直、黒木さんに関するエピソードをあげればキリがない。
それは私も篤斗も一緒。
だけど今日の篤斗は、お酒の勢いもあってか、朝まで延々と語り続けるような勢いで、黒木さんの愚痴を零している。けれど、どの話ひとつをとってみても、口振りとは裏腹に、実に嬉しそうな顔をして喋っているのが印象的だ。
なんだかんだで、篤斗はあの人のことが好きなんだから――とみているこっちも微笑ましい気持ちになる。
翌朝、まだ陽も昇らぬ早朝に、私は目覚めた。
暗闇の中で、何度か目を瞬かせる。
何かがおかしい。理屈ではなく、部屋の中に、どこか違和感を感じとった。そして、霞がかった意識が 晴れる前に、その答えが忽然と浮かび上がった。
ほぼ直感。遥希だ――。
見れば、隣で寝ている遥希が苦しそうに顔を歪めている。身体が湯たんぽのように熱く火照り、強い熱を帯びている。口から零れ出る、小さな呻き声。その様子から、ひと目で熱だと察した。
遥希の額に手を当てる。熱い。かなりの高熱だ。額から汗が滲むというよりも、熱さのせいで水分さえ蒸発してしまうのではないか、そう思えるほどの熱量が、手の平の皮膚を刺激する。
私は、寝ている夫に呼び掛けた。
「篤斗、起きて! 遥希が熱出したの。ねえ篤斗、起きて!」
篤斗は二度目の呼び掛けに反応し、目を覚ました。まだ眠いのか、名残惜しそうに瞼を擦っている。
「遥希が熱を出したの。かなり高熱っぽいから、篤斗は体温計を出して、熱を計ってて――」
説明しながら立ち上がり、部屋の電気を点け、キッチンへ向かう。
すると背後から、篤斗の大きな声が聞こえてきた。
「おいっ、遥希。大丈夫か! 梨佳子、大変だ! 遥希が熱を出してるぞ!」
だから私は最初から熱だと言ってるでしょ!
思いながら冷蔵庫の扉を開き、常備してある冷却シートと冷却枕を取り出した。もしや、と思い、先回りをして篤斗を促す。
「体温計は薬箱の中だからね!」
小さめのビニール袋を二枚用意し、それぞれに製氷機から取り出した氷を詰め込んだ。水分補給用に、アクエリアスをストロー付きのマグカップへ注ぐ。
部屋に戻ると、篤斗が心配そうな顔で遥希の体温を計っていた。
案の定、無用な引き出しが開けられている。
「どう? 何度くらいありそう」
「かなり高そうだ。今三十八度を超えた。ゆっくりだけど、止まらない。まだ上がり続けてる」
篤斗が早口に言った。ほどなくして、短い電子音が二度鳴り響いた。
「三十九度七分。殆ど四十度だよ」
それが絶望的であるかのように、篤斗の声は弱々しい。私にもその気持ちは通じた。過去、遥希が経験したことのない高熱だったからだ。
それでも私には、体温計の数字に肩を落としている暇なんてなかった。大切なのは遥希。今は遥希の熱を下げることが先決なのだから。
一度、遥希を布団から起こし、水分補給を試みた。
普段、篤斗が愛飲しているアクエリアスを、遥希は「アック」と呼んでいる。
「ほら遥希、アックだよ。飲めるかな」呼びかけながら、ストローの先端を息子の口元に運ぶ。
遥希は、ゴクゴクと喉を鳴らしながら、カップの半分ほどを一気に飲み干した。
良かった。最悪、脱水症状だけは避けられそうだ。
再び遥希を布団に寝かせ、首元の汗をタオルで拭うと、額に冷却シートを張って、冷却枕を敷いた。
遥希は突然の冷たさに目を見開き、顔を歪めたが、すぐに瞼を閉じた。眉根と口元に力が込められる。熱からか、冷たさからか、どちらにしても辛そうな表情に変わりはない。
こんな時、意外と男は頼りにならないなんて話を聞くけれど、それは本当かもしれない、と目の前の現実から学ぶ。
何がしたいのか、篤斗は心配そうな顔を浮かべるばかりで、肝心の手は宙を彷徨っているだけ。私は、その手を遮るように退けると、遥希の両脇の隙間に、ハンカチで包み込んだ氷入りのビニール袋を挟み込んだ。
薄手の肌掛けの上に布団を被せ、遥希の表情を見守る。呼吸は苦しくないか、熱に魘されてないか、しばらくの間、注意深く様子を見守った。
熱が熱だけに、素人の憶測で、安易に大丈夫だろうとは決めつけられない。だけど応急的な処置として、私にできることは全部やったつもりだ。
一旦気持ちを落ち着けて冷静に考えよう。もしかすると、まだできることがあるかもしれない。そこまで考えて、私は大きく息を吐いた。気付けば私の額にも、薄っすらと汗が滲んでいた。
「少しの間、これで様子を見るから。もし熱が下がらないようなら病院に連れていった方がいいと思う」
顔を見合わせ、説明する。篤斗が顎を引き、二度大きく頷いた。
「うん。そうだな。俺もそう思う」
気持ちの籠った強い口調に、真剣な眼差し。ろくな仕事もしてないくせに、どこか、やり遂げた感を便乗させている。
何よ、アナタは別に大したこともしてないでしょ――と思いながら、都合の良い変貌ぶりに呆れてしまう。
だけど、不思議と気分が安らいだのも事実で、緊張の糸が解けたように脱力した。思わず頭を垂らし、鼻を鳴らしてしまう。自然と口元には、薄い笑みが出来上がっていた。
しかし私は、すぐさま現実を見つめ直した。かぶりを振ると、緩んだ意識へ糸を張り直すように、口元を引き締める。
「原因はなんだろうな。突然、熱が出るなんて、とりわけ風邪を引いてた様子もないし……」
遥希の頭を撫でながら、篤斗が不可解そうに首を捻った。
時刻は午前六時を回り、私たちは、すっかり目も覚めていた。遥希は一度目を覚まし、水分補給のアックをたっぷり飲んで、再び眠りに就いている。
「あるとすれば突発性発疹かもね。早い子は一歳くらいからかかるって言うし、遥希の場合はちょっと遅いくらいかもしれないけど」
私は以前に育児本で読んだことのある記憶から、心当たりのある病名を口にした。
「突発性発疹って……、別に発疹が出てるわけじゃないだろ。どっちかって言えば突発性高熱なんじゃないのか?」
「発疹は熱が収まってから出るみたいなの。高熱がね、三、四日は続くんだって。で、その後に発疹がでるらしいの」
「おいおい、そんなに熱が続くのか? それって、大人だって参るような状態だぞ。遥希みたいに小さな身体には酷だよ。――なあ遥希、辛いだろ。そんな熱、パパが貰ってやるからな。全部寄越していいんだぞ」
篤斗が嘆く通り、この身体にしてこの高熱は酷に違いない。気持ちはよくわかる。だけど、親バカの頬擦り程度で移る熱なら、医者はいらない……。
「そういう病気なんだからしょうがないでしょ。それに、篤斗だって小さい頃になっていたかもしれないし」
俺もか? とでも言いたそうな顔で眉根に力を込めた篤斗は、過去の記憶を辿っているようだった。けれど行き詰ったのか、首を傾げる。
「そんな記憶ないな。たぶん、俺はなったことないと思うぞ。それに、突発性発疹って病名だって、今、初めて聞いた名前だしな」
実に篤斗らしい回答だけど……篤斗が二歳くらいの記憶をきちんと覚えていたらね。
と、心で言ったつもりが、声に出ていたらしい。
「確かに、な」
――失敬。幾分不満そうに、篤斗が呟いた。
結局、遥希の熱は三十八度台の前半までは下がったものの、それ以降は下がる様子が無く、私は遥希を朝一番で病院に連れていくことに決めた。
病院へ向かう仕度をしながら、心配症の夫が「一緒について行く」なんて言いだすことも考えたが、予想は外れた。
「何かあればすぐに連絡してくれよ。その時は飛んでいくからな」
篤斗はそう言って、普段通りに会社へと向かった。
家族も大切だけど、俺には管理者としての責任がある。背中には凛々しくもそう書いてあったが、仕事と家庭の天秤は、どの程度になれば家庭側へ傾くのか、境目を知りたくもなる。
その後、夫を送り出した私は、残りの準備を済ませると、眠っている遥希を車に乗せて病院へと向かった。
早朝の病院は、思いのほか空いているように感じたが、よくよく周りを見れば、空いているのは小児科だけの話。
内視鏡と採血室を挟んで隣にある内科の周辺は、席の大半を老人達が占め、溢れた人達が僅かな隙間を見つけては壁に寄り掛かる。
そんなにタチの悪い病が流行っているのだろうか、と疑いたくなるほどのごった返しよう。
まるで沈黙の喧騒。いや、無声の喧騒といった方が正解か。声こそ届きはしないもの、遠目に見ている分には、誰が病人で誰が病人でないのか、見分けもつかないような状態だった。
もっとも、ここは病院なのだから、病人以外の人間がただ時間を潰しているとも思えない。けれどその 現実を疑いたくなるほどに、病気とは無縁と思えるような老人達が、井戸端会議さながらに会話を楽しんでいる光景が、随所に見てとれた。
診断の結果。遥希の熱は、突発性発疹の可能性も考えられる――とのこと。
現時点では、あくまでも可能性の話。高熱が数日続き、おさまった後に発疹が出た時点で確定となる。
そうではなく、今日明日中でおさまれば、ただの風邪だった可能性もある。原因については様々なケースが考えられる。つまり今の段階では、一概に決めつけることはできない――とは、それらしくもあり、曖昧な見解。
「この時点で結論を急がれても……なんともね。とりあえず経過を見守りましょう」
およそ大学病院の医師が口にする言葉としては、便宜的でいい加減な聞こえ方がする、こちらの心中などまるで察しない事務的な対応。この淡々と告げられる抑揚のない言い回しを、私は『無責任』と命名した。
別に「お子さんの命は必ず救います!」だなんて、ドラマみたいに熱意の籠った台詞を求めていたわけじゃない。だけど、それにしたってもう少しマシな言い方ってもんが……と思った心の内を察したのか、はたまた私の視線がそう告げてしまったのか、医師は怪訝そうに一瞥すると、せかせかと薬の説明をはじめる。
結局、処方された薬にしても、それらしい症状に効く、それらしい薬。ありきたりの説明は終幕間近といったところだろうか。
視線は机の上に落としたままで、私にも遥希にさえも殆ど目を合わすことはない。手元のカルテ相手に説明したところで、何の意味もないでしょうに。
この見解、対応を、ベテラン医師の経験則と呼ぶのなら、あまりに希薄ではないか。私は地肌の透けている医師の頭部を見つめ、皮肉ではない、と内心で呟く。
やはり篤斗は会社に行って正解だった。この場にいたら大参事になりかねない。極度の親バカで、熱血漢。あの男ならきっと揉める。
「なんともね」なんて、そんな説明があるのか、もう少しちゃんと調べた方がいいんじゃないのか、薬は 本当に効くんだろうな、と医師へ噛み付く姿は、想像するに容易い。
ただこちらとしては、これ以上何を言ったところで高熱が出ていることには変わりなく、一度解熱用の座薬をさしてから様子を見るより方法はない。
と、これは私の見解。そして、帰り際に医師が言った台詞でもある。違うのは白衣を着ているか、紺色のジャケットを着ているのか、それだけの違い。
私は最後まで杓子定規な姿勢を貫いた医師へ、存分に皮肉を込めて「本当にありがとうございました」と礼を告げ、遥希を抱き上げ、診察室を後にした。
通路に出てからも、頭の中が医師への不満で埋め尽くされていることに、げんなりする。
別に貴方に恋い焦がれ、ひと目その顔を見にきたわけじゃない。
冷淡で無機質な対応に、シュールだなんて誤った幻想を抱き、影で憧れていたわけでもない。
それなのに何故、こんなにも私の感情を支配するのか。尚も膨れ上がっていく苛立ちに眉をひそめる。
あー、もう消えて無くなれ! と固く目を瞑り、頭のキャンパスを埋め尽くす医師の映像を、しゃにむにかぶりを振ることで掻き消してみる。
が、結果は逆効果。怒りは増す一方で、拍車を掛けるように「こんな病院、二度と来ないから!」と、いかにもヒステリーな主婦が口にしそうな台詞が喉元にせり上がってくる。だけど私は、唇を抜ける既の所でチャックをし、喉を鳴らすようにして、無理やり呑み込んだ。
ヒステリーな主婦……か。
いやいや、これでは自分も同類だろう。私はもっと謙虚で冷静では無かったのか、と言い聞かせ、その後は怒りを鎮めるように努めた。
何度か深呼吸を繰り返し、気持ちが落ち着いたところで目を見開くと、腕の中の遥希が私を見上げ、怪訝そうに覗き込んでいた。
「ママ、いたいの? いたいの?」
遥希のか細い声に、はっとする。
胸を打ち抜かれたような衝撃――。
思いがけず私は、歯を食いしばる。押し寄せる後悔の波。自責の渦に飲み込まれる思いだった。
痛い。遥希の言葉に、ママの胸が痛いよ。
今、何よりも優先すべきは遥希の容態であるはずなのに、よりによって、その遥希から心配されるなんて……。
「ごめんね」と呟くが、遥希は、どうして? とでも言いたそうな表情を返す。その無垢過ぎる表情が、 余計に胸を締め付けた。
「ママは大丈夫だよ。熱があるのは遥希の方なんだから。――ねえ遥希。熱が下がるまでは大人しくしてようね。その代わり、元気になったら、いっぱい遊んであげるからね」
「わかった」と答えた遥希の顔に、やはりいつもの元気はない。
全く、お前は何してるんだよ、と背中に大きな烙印を押されたようで、居た堪れないが……
間違いない。
そこにはきっと、『母親失格』と書いてあるはずだ。
私と遥希が家に戻った後、親友の千尋が訪ねてきたのは、お昼を過ぎようかという時間帯だった。
「――でも良かったね。ハルちゃんも、坐薬入れて少しは落ち着いたんでしょ」
「うん。最初は嫌がって暴れたけどね。今はもう、あんな感じ。ぐっすり寝てくれてるからね」
そう答えた私は、カップに注いだ紅茶を、テーブルの上に二つ並べた。
家に戻ってからすぐ、私は遥希に解熱用の坐薬をさした。初めてのことに随分と抵抗されたが、おかげで今は熱も下がり出し、遥希は隣の部屋で静かな寝息を立てている。
「これでちょっとは気が楽になったかなぁ」
椅子に座った私は、立ち昇る紅茶の香りに気分を落ち着かせる。
それなら安心、といった表情で千尋が顎を上下させた。
「でもリカは大人だよねー。私なんてさ、最初に月菜が高熱出した時なんて、ほんと、どうしていいかわかんなくて慌てまくったんだよ。家中をね、バタバタ動いてるだけで、自分が何をすればいいのか全然わかんないの。あれもこれもやらなきゃってのが頭の中をぐるぐる回っててさ。……で、気付けば私、バファリン握り締めてた」
千尋は当時の出来事を再現するように、右手に目を向けた。そして手の平を返し両手を軽く持ち上げると、お手上げ状態の恰好をして見せる。「最悪でしょ」と自虐的に笑った。
つられるように微笑んだ私は「千尋らしいよ」と声を返す。
「あっ――今、リカは絶対に私のこと馬鹿にしたでしょ」
そういって頬を膨らませる仕草が可愛らしい。
夏井千尋は二十三歳。
私が以前に勤めていた職場時代からの付き合いで、最初に出会ってからは四年が経つ。今では唯一といえる、私の親友だ。
とはいえ、三つ年下の千尋は、職場時代は私の先輩でもあった。
直属の上司、という表現には当てはまらないけど、仕事のノウハウを教えてくれたのは全て、千尋だった。
千尋には、今年四歳になった月菜つきなちゃんという一人娘がいる。だから現在も、ママとしては先輩と後輩の間柄。私の良き相談相手である。
もっとも千尋は、出会った当初から先輩風を吹かすわけでもなく、ごく自然と友人関係を築いてくれた。私のことを「リカ」と呼び、私も彼女を「千尋」と呼ぶ。
千尋は、見た目にも派手な印象が際立つタイプで、日々、女子力を磨くことを怠らない。肩下二十センチのロングヘアを、明るめのハニーゴールドで染め上げ、緩やかにカールさせた髪型が彼女流のこだわり。本人曰く、「ナチュラルキュート」と呼ぶスタイルなのだそう。
それに加え、今や若者の間でカリスマとなっている歌姫のように、ぱっちりとした目元を作り出すアイメイクも、こだわりのひとつ。
本人は、百五十二センチという小柄な身長がコンプレックスらしいのだけど、それを補うに十分な高さのヒールを日常的に履きこなしている。
また見た目の印象から「ギャルママ」と呼ばれることが多いのだが、本人はその表現を嫌い、どうせなら「イケママ」と呼んで欲しい、と訴える。けれど、どちらの呼び方が似合っているのかは、論議するまでもない。
対して私は、というと。
千尋に比べ、こだわりらしい部分は特に無く、唯一上げるとすれば髪型くらいなもので、アッシュブラウンに染めたショートボブがここ数年の定番。それ以前は、背中の真ん中あたりまで伸びたロングヘアーがお気まりのスタイルだったのだが、篤斗と付き合ったことをきっかけに、バッサリ切ってしまった。
「いったいどうしたの?」と、当時の千尋は目を丸くしていたが、私にしても、かなり大胆な行動だったことは自覚している。けれど、今となってはこの髪型の方が気に入っているし、日常的に履くことが多いアディダスのスニーカーには、ショートヘアの方が似合うのだと、自分に都合よく解釈している。
また育児をしていれば、主婦が自分の身だしなみにかける時間は限られてくるもの。その中で、効率よく外出準備をするのにも、髪の毛が短いということは好都合だった。
メイクにしてもそう。「ナチュラルメイクを心掛けている」という発言を盾にして、以前のように、気合いを入れることが少なくなった。いや、正確には手を抜いている、と言った方が正しいのかもしれない。
しかし私自身、ギャルだったという認識はないし、千尋に会うまでは、どちらかといえば地味目なタイプだったという方が本音なのだから、今くらいが自分本来の性格に合っていて、バランスが取れているはずだ、とひとりごちる。
一児の母となった今では、これといって無駄に背伸びをする必要もないのだから、と。
また、私の身長が百六十三センチあることを、千尋は背が高い、といって羨ましがるのだけど、実は自分にそれほど背が高い認識がないことを、彼女には内緒にしている……。
千尋が手土産に買ってきてくれたドーナツを、遥希に悪いと思いながらも口にする。
私は昔からシンプルなドーナツが好きだ。この『オールドファッション』というネーミングセンスだけはどうにも引っ掛かるが……味は抜群で申し分ない。紅茶との相性だって良いし、ママ談議も自然と弾んでいく。
「――でね。その先生の対応が本当に酷かったの。あれ、千尋なら絶対に文句言ってるはずだよ」
続けて私は、今朝の病院での出来事を一部始終説明した。その殆どが医師の対応の悪さを指摘した愚痴っぽくなってしまったが、「あんな頭のくせに、あの対応は酷いよね」と口にした部分で、千尋が大きく相好を崩した。
「何、何、どうしたの? 私、変なこと言った?」
お腹を抱えて笑う千尋へ投げ掛け、同時に自分が興奮して喋り続けていたことに、照れを覚えた。いったい何を口走ったんだろう。
急いで頭の中を巻き戻す。私を見て千尋が言った。
「変なことっていうか、その小児科の先生の評判なら、私も聞いたことがあるんだけど……まさか薄毛を否定されるなんて、ね。予想外」
言い終わると、千尋は右手で口を隠しながら、くすくすっと笑った。悪戯っぽく視線を合わせると「禿げちゃびん?」と囁く。
千尋に指摘され、少し反省をする。確かに対応と薄毛は関係ないか、と。でも、流石に「禿げちゃびん」とまでは言ってない――が、頭の中では否定したつもりでも、口元は完全に緩んでいた。
釣られているのか、余程のツボだったのか、ついに千尋は両手で口を覆っていた。両肩が大きく揺れている。
「もう。千尋ったら、そんなに笑わなくてもいいでしょ」
意図的に出した声は、怒り口調のはずであったが、実際に音になった言葉は正反対。
もう――の後からは、私も完全に笑ってしまった。頭の中に浮かぶ医師の姿と「禿げちゃびん」というフレーズが、見事にマッチしている。
「でもさ。リカって本当に変わったよね」
「ん? 変わったって……何が?」
「なんかさぁ。昔と比べると、本当に明るくなったっていうか、物事をズケズケと言うようになったっていうか」
昔と聞けば、ずいぶん前のことのように思えるのだが、千尋の言う昔とは、せいぜい三、四年前のことだろう。だけど……。
「ズケズケって、何よ」
詰問するつもりはないが、私はわざと口を尖らせる。
「ほら、犬は飼い主に似るって言うじゃん」
「何よそれ。どういう意味?」
訊き返すと、千尋は無邪気に笑った。
「だからぁ」と甘ったるい声で、勿体つけるような間を作る。
「リカは篤斗くんに会ってから性格が変わったってこと。特に、ここ一、二年かな。段々話し方とかも似てきたし、なんていうのかな。上手い言い方をすれば、前よりも言葉を選ばなくなった気がする。思ったことをストレートに口にするようになったでしょ。――だからズケズケ」
千尋の解説に、困惑した。
言葉を選ばない、という表現が上手いのかは別としても、「篤斗に似てきた」という点が気にかかる。
夫の顔を思い浮かべる。
そんなに似てきただろうか。当然ながら自覚はない。これが癌なんかの病だと、病気になった自覚がないことが一番恐ろしいと言われるが、それと同じなのだろうか。そう考えると怖い。篤斗に似ている。――私が?
思考にふけすぎていたのか、そんな私をみかねたように、千尋が言った。
「ちょっと、リカったら。そんなに思いつめた顔しないでよね。なんか、私が酷いこといって困らせてるみたいじゃん」
もう十分に困ってます、とは言葉にはせず、視線で訴える。
ズケズケとか、飼い犬だとか、随分と酷い言われようだけど、それでいて本人には悪気が全くないのだから、つくづく困ったものだと思う。
全く、千尋ならB型の上に『天然』って冠がつくんだから。
これだからB型は……と思った途端、私の脳が、過去の映像を引っ張り出してきた。
昨年の夏だろうか。篤斗の会社で作っているタウン誌の中で、スタッフの毒舌ぶりが人気の『○○の超個人的見解』というコーナーを見た時のこと。その月のテーマは、血液型に関する話題であった。
『B型人間は、貴方にとって敵ですか? それとも味方ですか?』
随分と奇抜なタイトルに目を見張ったが、内容は、いかにも篤斗の会社らしいものだった。
街行く人々からB型に向けた賛否のアンケートを募り、その結果を公表する。――と、この辺の流れについては、至ってシンプルな展開で、当り障りない内容だったのだが……。
印象的だったのは、最後にまとめられていた部分。
B型の発言、行動が、プラスに働こうがマイナスに働こうが、結果として、傍にいた貴方は必ず良い刺激を受けている。これは間違いない事実だ、と断言してあったこと。
B型というイメージから受け取る先入観を捨て、世の中には、こんなことを考える人間がいるんだ、とか、突然変なこと言う奴だな、でも、それは何でそんなことを言ったのだろう。何か隠された意味があるのではないか? ――そう考え接することで、人生に新たな発見があるのだと解説していた。
B型の真意は、一歩踏み込んだ先にある、と。
ときにB型は人生の反面教師であり、ときにB型は人生の開拓者である。暇な時間を持て余すくらいなら、身近なB型人間の動向に活目せよ!
企画の主旨は、世に蔓延するB型のイメージを打破することにあったようだが……。
それにしても私は、過去、血液型について記述されたものの中で、これほどまでにB型を擁護した文面を見た覚えがない。
が……。
『監修/B型評論家K氏』
と、文末に記されているのを発見し、すぐに一人の人物像が浮かび上がった。
このK氏とは、言わずと知れた黒木さんのことだろう、と。
全く、あの人は……どれだけB型が好きなんだろうか。ここまでくると、しつこいを通り越し、私はただただ呆れるしかない。
篤斗が言っていたが、黒木さん曰く、身の回りにB型の人間が一人いるだけで、その人の人生は豊かになるらしい。B型人間は、見ている景色を一瞬にして変える力を持った魔法使いなのだ、と。
その時私は思った。
そして多少の皮肉を込めてこう言い返した。
もしそれが本当なら、私のように、身の回りにB型が三人もいる環境は、さながらハリーポッターの世界にでも紛れ込んだ気分でしょうね、と――。
意識を引き戻し、私は目の前の現実へ向き直る。
一度咳払いしてから、千尋へ問い掛けた。
「別にね、今更千尋が言うことに、いちいち目くじらなんて立てないよ。でもね。篤斗に似てるのは勘弁。それは困るよ。ねぇ、本当に似てるの?」
「そうだね。似てる、っていうか似てきたって感じ」
即答されて、尚のこと落ち込んだ。千尋が続ける。
「なんかねぇ。篤斗くんの体育会系的な暑苦しさが、脈々とリカにも受け継がれてるんじゃないかなぁ。興奮気味に『あの頭で――』なんて力説する姿はそっくりだったよ」
大袈裟にジャスチャーを交えながら、篤斗の真似をする。いや違う。私の真似か。
「なんか凄いショック。よりによって、篤斗に似てきたなんて……。千尋に言われるまで、そんなの考えてもみなかった」
私は文字通り、がっくりと肩を落とした。深い溜息が零れる。私は自分の夫を愛しているが、それとこれとでは話が別だ。
「そう? 私はそんなにショック受けなくてもいいと思うけど。だって、どっちかって言ったら、いい傾向だなって思ってたくらいだし」
「いい傾向?」
「そう。いい傾向だよ」
「だってそうじゃない」と続け、私をじっと見つめる。何やら意味ありげな表情。
「リカってさ。最初に会った時なんてほんとに暗かったんだよ。なんか、じめーっとした雰囲気を纏っててさ。もう、負のオーラ全開って感じで。――それがどうしてこんな場所に来ちゃったんだろ、って思ったの」
出会ったのは四年前。千尋が話している日のことは、私にもわかる。と言っても、覚えているのは極度の緊張と、吐き気だけ。
「あの時ね。私、思ったんだ。こういうタイプの子が、自殺とかしちゃう――」
言葉を切った瞬間、千尋は「しまった」という風に表情を変えた。
私は不自然に胃の中を掻き雑ぜられたように、腹の底がぎゅっと締め付けられる。
すると千尋が胸の前で手を合わせ、ゴメン、と低頭した。
言ったのは無意識だったのだろう。普段、何気無く悪態を吐くくせに、こうした部分には過剰に反応する。
千尋との付き合いが深くなるにつれ、私はそんな千尋の一面を知った。実のところ、B型は意外なほどに臆病だ。そしてそれは、篤斗も例外ではない。
悪気なく棘をばらまいていく反面、それで相手を傷つけたと知れば、途端に猛省する。だったら始めから言わなけりゃいいのに――は、彼女たちに通用しない。
「本当にゴメンね。別にそういう意味じゃなかったんだけど、さ」
前髪の隙間から私の表情を窺うように覗き込み、申し訳なさそうに肩をすくめる。当然悪気はない。頭では理解しながらも、返す言葉が、すぐには出てこなかった。
普段、あれほど饒舌な千尋が、固く口を引き結んでいる。二人の心苦しさから生まれた、不快な沈黙に包まれ、どちらともなく、話し出すタイミングを見計らっていた。
大丈夫。私は大丈夫だから。と、頭の中で言い聞かせる。もう一度、それを反芻すると、声に出して答えた。
「大丈夫。千尋、本当に大丈夫だから。もう過ぎたことだし……そんな昔の話、全然気にしなくたっていいのに」
できる限りの平静を繕ったつもりだが、上手く言えただろうか。
私は千尋の様子を窺った。
「……ゴメン。私の悪い癖だね。調子に乗って喋り過ぎた。ほんとにゴメン」
耳に届いたのは、細く、消え入りそうな声。
しょぼん、という表現がぴったり当てはまる。だけど繰り返し何度も謝られると、逆にこっちが気を使ってしまう。だから私は、大袈裟に抑揚をつけた声で返した。
「もう、本当に平気なんだってば! ほら、千尋。そんなの、らしくないんじゃない?」
私は立ち上がると、千尋の肩をぽんっと叩き、「遥希の様子を見てくるね」と言い置き、奥の部屋へ足を向けた。
遥希はすやすやと寝息を立てていた。その横に腰を下ろし、体温計を取り出した。坐薬をさしてから三時間。効果はまだ持続しているだろうか。
「――テレビ点けてもいいかなぁ。音、小さめにするから」
背後からの声に振り返る。「いいよ」と返事をして頷く。
この状態だと、私が戻るまでは無音だったかもしれないな、と思い、ひとり千尋を取り残したようで、自分の無神経さを反省する。
熱は思ったよりも高くはなく、三十七度台の後半を維持していた。
遥希は、水分補給にアクエリアスを飲むと、布団へ包まるように、コロンと横になった。
少しでも食事を取らせた方がいいかとも思ったが、私が「もう少しねんねする?」と訊くと、遥希は「ねんねする」と、おうむ返しに答える。まだ横になっていたいのだろう。
表情を見ている分には今朝よりもだいぶましになっているように思えたので、そのまま寝かせておくことにした。
「水分が摂れてれば大丈夫。熱もそんなに高くないなら、食事は動き出してからでも平気だよ。ほら、あまり無理に食べさせると、吐いちゃうこともあるからね」
開口一番。テーブルに戻った私へ、千尋がそう説明した。
意図的に口調を変えているのだろう。普段の数倍は丁寧な口振りである。同時に千尋は、テレビを見ていたようで、実はしっかりと遥希の様子を見てたんだな、と思う。一見、無神経そうだけど、実は心配性な気の向け方が、いかにも千尋らしかった。
私は気分を切り替えるように、ドーナツの箱に手を伸ばすと、ホイップクリームが挟まれたドーナツを口にした。遥希の分、と思っていたが、あの調子なら食べることはなさそうだ。
テレビ画面には、この時間にお決まりのワイドショーが、ニュースを取り上げている。
「――では次のニュースです」と、抑揚を押さえた声を合図に、画面が切り替わった。
先日、人気歌手との交際が噂になった女子アナの顔がアップになる。彼女が神妙な面持ちで口を開いた。
瞬間、アナウンサーの声が届くよりも先に、私の目がその文字を捉えた。画面右側で、縦に並べられたテロップ。咄嗟に私は、噛んでいたドーナツを飲み込んだ。次いで、口内で感じた味覚を取り除くように、多めの紅茶を流し入れる。ゴクリと喉を鳴らし、胃の中へ押し込むと、千尋を一瞥し、身構えた。
『公園のゴミ箱に新生児の遺体――』
画面に映し出された文字を、頭の中で反芻する。
現在の光景だろうか、公園らしき場所を歩く男性リポーターの姿が映し出されている。事件の度に全国を飛び回っている、よく見る顔だ。
カメラが後を追っていると、リポーターがベンチの脇で立ち止まり、指をさした。男が画面に向けて振り返る。
「あれが、そのゴミ箱です」重苦しい口調で説明すると、カメラがゴミ箱をアップで捕えた。次の瞬間――。
「ふざけんなよっ! 子供の命をなんだと思ってんだよ!」
突然の叫び声は、画面の外から飛び出した。
千尋だ。画面の手前、私のすぐ目の前で、怒号ともいえる声が弾け飛んだ。千尋は勢いのままに、握りこぶしをテーブルに叩きつけようとしたが、振り降ろした手を、寸前で止めた。
何かを察したように首を回すと、テレビとは違う方向へ視線を伸ばす。隣の部屋の様子を窺っているようだ。
寝ている遥希が目を覚ますのではないかと、気を揉んだのだろう。
私に向き直ると、またやっちゃった、と表情を曇らせ、「ゴメン」と小さく謝った。
「別に平気だよ。――ほら、遥希も起きた様子はないし。だから大丈夫。気にしなくてもいいよ」
答えてからもう一度確認する。大丈夫。あの様子なら、まだ眠っているはずだ。
「ほんとにゴメンね。今度は大声出さないように気をつけるから」
そう言って再び、千尋の視線がテレビに固定された。
その横顔を見つめる。千尋は眉根に深い皺をきざみ、睨みつけるように画面を凝視していた。時折下唇を噛む仕草は、湧き上がる怒りを必死に抑え込んでいるようにも見える。
「酷い。酷過ぎるよ……。どうしてこんなことができるの。自分のお腹の中で育てた大切な子じゃん。それを、どうして捨てちゃうことができるの……しかも、ゴミ箱なんて、馬鹿なんじゃないの」
千尋の唇が、小さく震えていた。怒りなのか、悲しみからなのか、判別はつかない。
「どうして? 自分の子なんでしょ。自分がお腹を痛めて産んだ赤ちゃんじゃないの? 何考えてんの? 相手は? 父親は何してんのよ」
千尋は痛みを絞り出すように訴える。口を通り抜ける度に、彼女の顔が歪んでいく。
千尋は十九歳の時に、月菜ちゃんを産んだ。父親はいない。父親は、月菜ちゃんが産声を上げる前に、二人の前から消えた。
「――私って、男を見る目がないんだよね」
初めてその話を聞いた時。千尋は実にあっけらかんとした顔で、こう続けた。
「でもね。逃げてった男に、未練なんて全然ない。むしろ最低な男がいなくなってラッキーだよ」
その言葉が本心なのか、それともただの強がりなのか、当時の私には、彼女の本音を引き出す勇気がなかった。けれど、後の私は知ることになる。あれは強がりだった、と。
この手のニュースに対し、千尋が過剰なまでの反応を示すのは、今回が初めてのことではない。私の知る限りでも、四、五回は似たような経験をしている。その度に思うのは、少なからず、千尋自身の背景が影響しているのではないか、ということ。
千尋には、家の近くで一人暮らしをしている母親がいるが、父親は、千尋がまだ中学生だった頃に病気で他界している。
母として、また一家の大黒柱として働く千尋を、影で支えてくれる実母の存在。いつだったか、千尋が口にした言葉を思い出す。
「お母さんがいてくれなかったら、正直どうなってたか、想像もつかないや」
何気なく洩らした言葉の裏側に、どれ程の重みが隠されているのか、快活な彼女の口振りからは読み取ることができない。
千尋は決して、自分たちの境遇を不幸だと色付することはない。
聞いている側が、どれだけ暗い話に感じようが、本人は至って普段の感覚のまま、さばさばと、まるで他人ごとのように打ち明ける。
十九歳でシングルマザーとなる道を選んだ。それから四年という歳月の中、彼女の歩みにどれほどの紆余曲折があったのか、同じ母親という立場にありながらも、私の想像は、遠く及ばない。
いや、たとえできたとしても、それは上辺だけのものになってしまうだろうし、そもそもの話、篤斗という存在がいる以上、私には、彼女の苦悩を共有する権利がない。そのことが何より辛かったし、またそれを見透かした千尋が、私に心配かけまいと強がっている姿を見ていることが、尚のこと辛かった。
画面の中では、数名のコメンテーターが横一線に並び、女子アナと司会を交え、事の有り様を論議している。その会話を、千尋の声が遮った。
「この前はベランダのプランターの中。その前はコンビニのトイレ。もっと前は、コインロッカーの中……。どうして? 自分で産んだ子じゃん。お腹の中で、大切に育ててきた子じゃんかよ。どうして、なんでそんな粗末に扱えんのよ」
落胆と悲痛が入り混じった声色を、言葉に乗せる。私は黙ったまま、静かに相槌を合わせた。
千尋が言った通り、つい先日も、福岡県内で、マンションのベランダに置かれたプランターの中から、乳幼児の遺体が発見されたばかりである。犯人は実の父親で、年齢は二十七歳だった。
私はそのニュースを篤斗と二人で見ていた。あの時の篤斗も、今の千尋と同じように、やり場のない怒りを握りしめていた。
「もしも法律が許すなら、今すぐ俺が、あの父親を殺しに行ってやる。あんな馬鹿親に生きる資格なんてない。例えどんな理由があったとしても、俺はあんな親、絶対に許さない」
そう語った篤斗の声が蘇る。言葉の意味が本心からであることは、画面を捉える目の鋭さが物語っていた。
やっぱり千尋と篤斗は似ているな。私は千尋の様子を窺いながら、その横顔に、夫の顔を重ねる。
「虫けらみたいに子供を死なせて、困ったら、物みたいに平気で捨てる親も酷い。そんなの最低だよ。許されないし、絶対に許しちゃ駄目。自分の子供だからって、命を奪っていい権利なんて絶対にない。そんなことがわからないなら、初めから親になんてならなきゃいいじゃん。産まなけりゃ良かったじゃん。馬鹿だよ。ほんとに最悪。……最低の馬鹿野郎だよ」
訴え続ける千尋の瞳には、うっすらと、涙が滲んでいた。
「でもさ……」そう言って話を続けようとした千尋は、私に一瞬だけ視線を合わせると、再びテレビへ向き直った。
「だからって、こんなのニュースでやる必要ないじゃんか。こんな酷い話を、真昼間っから当たり前に全国ネットなんかで流すから、真似するような馬鹿が出てくるんだよ。世の中には、こんなニュースに共感しちゃうような馬鹿親だっているんだよ。心の弱い親だっているんだよ。それを凄惨とか悲劇的だとか、理解し難いだとか、アンタ達はただ偽善者ぶった台詞を並べるだけで、まるで他人事じゃんかよ。いつもそうだよ。いつも大袈裟に事を取り立てるだけで終わりじゃんか。そんなんじゃ、何の解決にもならない。何も解決しないんだよ。偉そうに利口ぶってんなら、どうしてこんな事件ばっかり起こるのか、どうして繰り返すのか、もっともっと、大切なことに目を向けろよ――」
『――何の解決にもならない』
そう口にした彼女の言葉は、重い。
今の千尋は、決して投げやりになっているのではない。
支離滅裂に、やり場のない感情の矛先を、八つ当たり気味に画面の向こう側へぶつけたわけでもない。心からそう思っている。願っているのだ。
ニュースはいつだって同じ。表立った内容だけが大袈裟に取り上げられ、祭りごとのように騒がれる。けれど事件の真相が世間に明かされる前に、また新たに生み出された事件が取り上げられ、人々の記憶を塗り替えてしまう。絶え間なく続く、負のサイクル――。
肝心な部分が、人々の記憶に留まることは、ない。
だからこそ、千尋は嘆いているのだ。
ただ事件の表面だけを伝えては、模倣犯を増やすだけだ――と。
もっと違う、何か別の解決策がないのだろうか。そう煩悶する。
そしてそれができない自分を憂い、怒り、涙する。
私はいつも同じ。そんな彼女を痛々しく思いながら、だからといってたいした助言もできず、頷くばかりの自分が嫌になる。
もちろん、私にだって大なり小なりの憤りはある。けれども、どこか一歩、引いた立ち位置で冷静視する私は、彼女が指すところの他人事に値するのかもしれない。そう心で自白してしまえば、今度は千尋の言葉が矢となって、きつく、私の胸に突き刺さる。
ニュースに映る現実は、私たち家族の現実には、重ならない。
果たして私には、その矢を抜く資格があるのだろうか……。
テレビの画面が切り替わるのを見計らって、気分転換に紅茶を淹れ直そうとした、その時。
突然千尋が、あっ、という声を上げ、目をまんまるに見開いた。何かを思い出した、そんな表情。
「ヤバっ、もうこんな時間。私、月菜を迎えにいかなくちゃ――」
時計の針は、もう少しで十四時を指すところまできていた。幼稚園に通っている月菜ちゃんのお迎えは、たしか十四時だったはず。
見れば千尋は、先程までとは表情を一転し、帰り支度を済ませている。――凄い。千尋には、一発で感情を切り替えるスイッチがついている。見事な身代わりの早さに、私は脱帽する。
「また遊びに来てね」
靴を履き終えた千尋へ、呼び掛ける。
「リカ。今日はほんとーにゴメンね。私、なんかダメダメだったでしょ。お見舞いにきたつもりが、逆に迷惑掛けたみたいだし……」
千尋は両手を合わせて恐縮すると、次の瞬間には表情を一変させ、明るい声で言った。
「それじゃ、月菜の未来の旦那様にもヨロシクね。今度は、千尋お姉さんといっぱい遊ぼうねって伝えといてよ!」
お姉さん、という部分をやけに強調したように聞こえ、苦笑する。
「わかったよ。こっちこそ、今日はありがとね。ドーナツ、ご馳走様。また遥希が元気になったら遊びに来て。連絡するからさ。今度は月菜ちゃんも連れてきてよ」
にっこりと微笑んだ千尋が、うん、と頷き「そうするね」と返した。ドアノブに手を掛けようとしたところで振り向く。
「あっ。ハルちゃんも心配だけど、リカだって注意するんだよ。ママは風邪引く暇もないんだからね」
人差し指を突き出し、私に向けた。私が返すよりも早く、千尋が動き出す。
「ヤバイ! 本当に時間ない。じゃあね!」
早口に告げると、千尋は小動物が飛び跳ねるように踵を返し、慌ただしく駆け出て行った。その姿を見て、やっぱり思う。
本当に、B型はみんなマイペースだ……。
部屋に戻ると、布団から抜け出てきた遥希がぽつんと立っていた。
そして、私を見るなりこう言った。
「ママ、たべたい」
その視線が、テーブルの上に向けられている。
私は遥希の意図を察するも、苦笑いする他にない。
ゴメンね、遥希。
ドーナツは、ママのお腹の中に消えちゃったの。
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