【篤斗】

「ああ、わかったよ。それなら俺が買って帰る物は何もないな。だったら大丈夫。あと一時間くらいで帰れると思うから。じゃあ、遥希に代わって」

 携帯を持つ手に力を込める。少しだけ強く、耳に押しあてた。

『パパ、かえってきて。はやく、かえってきてねー』

 可愛い息子の声が飛び込んでくる。覚えたてのたどたどしい言葉だけに、自然と笑みがこぼれてしまう。

「遥希、パパもうすぐ帰るからね! ママといい子で待ってるんだよ。わかったか」

『わかった』

 偉いぞ遥希。じゃあ待っててな。パパ、電話切るからな、と伝えようとするも、既に通話は切られていた……。

 上がった口角も、あえなくダウンする。

 最近、少しずつではあるが、遥希の話す言葉が上達してきた。所謂二語文を、上手に話せるようになってきている。

 パパ、ママ、と呼ぶことに加え、食べる、美味しい、ダメ、なんてアピールを得意げにする。今だってそう。

「パパ」「帰ってきて」「早く」と、最近覚えた単語を組み合わせて、言葉のキャッチボールをこなしていた。

 しかし残念なことに、電話を切るタイミングまでは理解していない。当然だ。二歳児でそんなに空気が読める子供もいないだろう。

 いや、まてよ。

 もしかすると、俺の息子ならできるかもしれない。遥希だったら、教えさえすればすぐに覚えるのではないか。俺の子なんだから。

 そこまで考えて、自嘲気味に笑う。

 自分でも重々承知しているが、俺は相当に子煩悩な父親だ。

 別名、無敵の親バカとも言う。これについては他人からも良く指摘されるし、自他共に認めるってやつだろう。

 だけど俺は構わない。親の欲目だなんだと指さされたって、可愛いものは可愛いのだから仕方ない。だってそうだろ。息子への愛情は、他人様の目なんて壁も、簡単に飛び越えるんだよ、と俺はいつだって大真面目に言ってやるんだ――。


 今から五分程前。俺は得意先で最後の打ち合わせを終えた。

 この後の予定はない。気持ちの半分は、既に帰宅ムードであったが、だからといって全てが終わったわけではない。

「今日だけは、ダッシュで帰らせてもらうからな」

 誰にでもなく呟くと、俺は歩みをペースアップさせていく。

 駅前に渡された陸橋を登り終えたところで、昨晩、妻と交わした会話のやりとりを思い出していた。

 当初、梨佳子に伝えた予定では、十八時が帰宅予定であった。

 が、駅の大時計は十八時を五分ほど回っている。つまり、既に予定をオーバーしていることになる。

 しかしこの仕事柄、予定が押すなんてことは、別段珍しいことではない。今日にしたって同じこと。夕方近くになって、どうしても時間を割かなければならないイレギュラーが舞い込んでしまったのだから、避けようのないことだった。

 その結果として、皺寄せは家庭に向けられることになる。

 幾分不本意ではあるが、いつの頃から使い出したのか、『予定は未定』などという曖昧な表現が、我が家にとっての合言葉になっている。

 だからといってはなんだが、妻もこの辺りは充分理解してくれている。仕事を優先させることを当然の如く考えてくれ、愚痴の一つも零さずに俺の仕事をサポートしてくれる。本当に良くできた妻だと思う。

 それでも今日に限っては、少しでも早く家路に着きたいのが本音だった。やり残しの仕事もない。これ以上のイレギュラーさえなければ、余計な時間を費やすこともないはずだ。そう。イレギュラーさえなければ……。

 何といっても、今日は我が家の大切なイベントが待っている。スムーズに進んでくれよ、と願うような思いで、俺は駅の改札を通り抜けていった。


 俺がこの仕事を始めてから、七年の歳月が経った。

 右も左もわからない、無鉄砲なまでに元気と気合いだけが取り柄だった頃を思い返すと、我ながら、良く成長したものだと思える。

 といっても、うちの社長に言わせれば、お前なんてまだまだ『ひよっこ』なんだから、頭から毎日汗が滲み出るくらいの努力をし続けろ、と釘を刺される始末。

 もちろん、俺にだって多少なりの自覚はある。

 三十歳という一つの節目を目前に控えた現在、社長に『ひよっこ』扱いされるのは不本意にしろ、それでも社会人として、ひとりの人間として、まだまだ人生経験も不足しているし、世の中には知らないことが沢山あるってことも承知している。事実この仕事なんて、それを思い知らされる日々の繰り返しだ。

 だがそんな俺も、会社では『部長』の肩書きを背負っている。

 企画・営業部、部長。

 もっとも、直属の部下は三名しかいないし、社員だって、社長を含めた全体で十名しかいない。零細企業のど真ん中。それでも俺は、実質、会社のナンバー3というポジションに座っているのだ。

 その上で『ひよっこ』呼ばわりされるのだから、立場の上では「堪ったもんじゃない」と声を上げたくもなる。

 うちの会社は主に、企画・出版を手掛ける広告代理店だ。

 会社の看板事業は、毎月五日に発行している横浜と川崎をステージにしたフリーペーパーの作成。所謂タウン誌で、誌面の名前は『タウンズ・ウォー』。

 紙からwebへの媒体移行が注目されている昨今、我が社の社長は「新聞が紙から完全撤退するその日まで、紙媒体を武器に戦い続けるぞ!」と声高に訴える。

 個人での閲覧が大半を占めるwebに対し、紙媒体ならではの楽しみ方。タウン誌であればこそ、人と人とが肩を並べ、ワイワイ、ガヤガヤと情報共有できる輪を無くしてはならない、とタクトを振るうのだ。

 俺はその中で誌面の企画を考案したり、会社の収入源となる広告を掲載して貰う為の営業をしている。故に、企画・営業部。

 といっても、実際は八対二程度の割合で営業に比重をおいているのだから、俗に言うところの営業マンと、なんら変わりはない。

 日々、街中の方々にアンテナを張り巡らせ、敏感に情報採取を試みる。実務の根幹は、靴底を擦り減らすことにある。

 毎月、読者に無料で楽しんでもらう為の誌面の制作費用を、有料で集める。慈善事業などではなく、立派な企業活動である。

 まあ、この先の話は発刊サイドの話になるのだが、この『無料』という部分が、フリーペーパ―を語る上で良くも悪くも肝となる。

『無料タダほど怖いものは無い』

 言い得て妙とはこの通りだが、俺たちにとっての『怖い』とは、やや異なった意味を持つことになる。

とりわけ、この仕事をやり始めたばかりの俺は、『無料』から受け取るメリットばかりに目を向けていた。

 無料なんだから――即ち誰もが読んでくれるもの。と錯覚していたのだ。事実、読者だった頃の俺自身がそう解釈していた。

 だけど違う。

 現実はそんなに甘いもんじゃない、ということを、こちら側に足を踏みいれた後、嫌というほど味わってきた。

 タダなんだから、貰われるのは当たり前のこと。

 逆に、タダでも貰われない事実があることに、恐れを抱き、着目せよ。金銭を支払う必要がないのに、それでも「いらない」と手を払われることの重大さに目を向けろ!

 社長からの叱責。誌面の方向性に関する打ち合わせをしている最中、安直な発言をした俺に浴びせられた初めての洗礼である。

 無料だからこそ、発行日から二日と経たず、全ての誌面が設置箇所から姿を消している。欲しくても手に取れない人が出る――だからこその口コミ効果。

 読者が渇望してやまない需要。その確固たる土台があってこそ、企業が広告を掲載する意味がある。すなわち我が社の利益に繋がっていく――。

 これらの理念を呑み込み、消化し、糧として、俺は数々の壁を乗り越えてきた。そのどれもが懐かしい場面を思い起こさせ、未熟だった頃の自分を顧みることができる。

 こうして、今では俺自身が経営理念を部下に説く立場になっているのだが……。

 それでもつい先日、『ひよっこ』と呼ばれたような気がするのは、気のせいだということにしておこう。


 とはいえ、我が社の社長である黒木さんは、かなりの変わり者だ。

 仕事柄、多彩なジャンルの経営者と顔を向き合す機会があるのだが、あの人ほど規格外の人物に遭遇する確率は、ゼロと言っていい。

 その黒木さんが、よく口にする台詞がある。

 俺たちは、業界の大手連中が手を出しにくいような隙間を縫って仕事をする。重要なのは数じゃない。タイミングと、質だ。

 間隙を突きつつも、結果、仕事の質で圧倒してしまえば、大手も対抗してこない。否、対抗させる隙を与えないことが重要なんだ。

 もちろん、クオリティの高い仕事を続けなければならないし、相手の動きだって敏感に察しておかなければ、一瞬にして形勢をひっくり返されてしまう恐れだってある。風向きに細心の注意を払いつつ、常に一歩先を見据えた、屈強な足場を作り続けるんだ。

 いいか、お前らは特殊部隊だってことを忘れるな! 

 俺たちは少数精鋭のグリーンベレーのように戦い、マーケットを制圧する。目指すは一騎当千! 零細企業の意地を見せようじゃないか。

 この独特の言い回しと、一貫した仕事へのスタイルが黒木さんの特徴である。特に酒を飲んだ場面では、タチの悪い不良の武勇伝のように、延々と語られていく。


 ちなみに、黒木さんは『社長』と呼ばれることを極端に嫌う。

 社長なんて呼び方は偉そうだから、というのが理由らしい。

 しかし実際のところ、社長は社長なんだから仕方ないだろう、と入社当初は大いに戸惑ったものだ。

「そんなこと言っても、誰だって普通は社長って呼びますよ。『黒木さん』って呼ぶのは不自然です」

若く、向う見ずだった俺は、勢いままに諫言したこともあるのだが、あえなく黒木さんに一蹴されてしまった。

「お前が自然だとか、不自然だとか言えるほど、社会に出て何を学んだって言うんだ? お前の言う普通ってなんだ。その基準はどこにある? なあ、答えてみろよ」

 これには俺も、言い返す言葉がなかった。

 当時の俺は確かに若く、社会人としても駆け出しの年頃だった。

 加えて黒木さんと出会う直前は、社会の波に呑み込まれ、自分を見失っていた時期でもある。

 そんな俺が、十歳も年が離れている黒木さんに、それ以上言い返せる言葉なんてなかったし、それじゃなくとも、圧倒的な黒木さんの迫力に気圧されていた。

 だから仕方ない。あの頃の未熟さは、素直に認めようじゃないか。

 でもね、黒木さん。今となっては伝える意味もありませんが、明らかに『不自然』ですよ! 全然普通じゃないし、一般的でもない。

 敷いて正論化するならば、黒木さんが「B型」だから。

 この一言で説明するしか、納得できる理由が見当たりませんよ。

 これが我が社を牽引する、黒木拳一郎くろきけんいちろうという社長像の有り方。

 まあそれも、強烈な個性を彩っている、ほんの一部だが……。


 会社のある桜木町で電車を降りると、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。設定していたマナーモードを解除する。 

 再びポケットに携帯を戻そうとすると、着信を知らせるメロディーが鳴った。

 バイオリンの音色が心地よい『情熱大陸』。俺の一番のお気に入りである。このメロディが鳴り出したということは、着信はグル―プ設定している社内の人間で確定している。ディスプレイに目を落とすと、『石本』の名前が表示されていた。

「もしもし」

『お疲れさまです! 石本です』

「おう。お疲れさま」

『部長。今日の終了報告ですが、今、電話の方は大丈夫でしょうか?』

 社長のことを黒木さんと呼んでおきながら、自分のことは部長と呼ばせている。

 いささか不自然な感も残るのだが、仕方ない。これが『一般的』な習わしであり、『自然』なやりとりなのだ。

「大丈夫だよ。完了なんだろ? それとも何かあったのか?」

『いえ、何もありません。今日も無事に完了しました!』

 今日も無事に完了しました――とは、裏返せば、最近は何も問題が起きてない、との意味。あくまでも最近は……だが。

「だったら先にあがっていいぞ。今日は特に打合せもない。俺もすぐに着くけど気にするなよ。帰れる時は早めに退散するのがこの仕事を長く続けるポイントだからな。他の二人なんて、定時ぴったりには帰ったはずだぞ」

『はい。わかりました! では部長、お先に失礼します!』

 携帯から飛び出てくるように、威勢のいい声。

 石本と話す時は、多少携帯を耳から遠ざけていても問題ない。快活さが売りの体育会育ち。付け加えるなら、コイツもB型だ。

 俺には石本の他にも二人の部下がいるが、そちらは揃ってO型である。しかし、どちらも体育会上がりの点は、石本と変わらない。

 このあたりの人事選考にしても、黒木さん流のこだわりが反映されている。営業は身体が資本。体力と根性なんて大歓迎だろ、という台詞は、いかにも黒木さんらしいと思う。

 石本大地は、部下の中でも一番若い社員で、今年の春、新卒で入社してきた。

 過去は中途採用が多く、うちの会社が新卒を採るのは珍しい、と思ったが、よくよく聞けば、黒木さんの大学時代からの友人の推薦であることが、後にわかった。

 その方が監督を務める大学の野球部に在籍していたのが、石本である。当人曰く、レギュラーよりも使える補欠だった――とは、同じ体育会育ちの俺としても、頷きようがない主張だ。

 野球部時代の石本は、主に内野でサードのポジションを任されていたそうなのだが、傍目にはキャッチャーを連想させるがっしりとした体格(昔で言うところのドカベンスタイル) をしている。

 肩から臀部にかけてのほぼ寸胴な体躯に、自前のバリカンで仕上げた坊主頭。顔の印象をほぼ独占してしまうような目の大きさを称して、『ロボコン』という愛称を黒木さんから付けられていることを、本人はまだ知らない。

 こんな石本を――オレが直々に足を運んで引っ張ってきた男だ。石本はお前に託すからな。立派な営業マンに育ててくれよ!

 そう黒木さんに押された時は、随分と仰々しい物言いに聞こえ、訝りもした。けれどその黒木さんの思惑も、すぐに理解することができるようになる。

 なるほど。石本が体育会系のB型だからだな、と。

 つまりは俺と同系なのだ。

 石本は、若い時のお前と同じ匂いがするよ。だから任せる。

『自称』B型の良し悪しを理解しているお前なら、間違いなく石本を良い営業マンに育てることができるはずだろ。

 いいか、生かすも殺すもお前次第だってことを覚えとけよ。

 そんな言い分に『自称』だけは余計だ、と思ったが、確かに黒木さんのプレッシャーの掛け方は効果的だったと思う。

 黒木さんは、流石B型らしく、実にこの辺のやり取りを熟知していた。

 俺みたいなタイプのB型が、どうすれば意欲を掻き立てられるのか、多少、挑発的に言ってみせるあたりが本物だ。

 B型に関するプロファイルはほぼ完ぺき。またこれを自己分析と言わないのも、B型。まあ、結局は俺も上手に使われているのだろう。B型を良く知る、B型に。

(と、B型づくしの展開は敵を作りやすいので、この辺で……)

 まあ、この黒木さんから始まる『Bの系譜』を、しっかりと石本へ相伝していくことが俺の役割なのだろう。

 そう考えると、今のところ、石本は順調に育ってるのかもしれない。

 やや軍隊的な体育会色が抜け切らないものの、仕事は至って真面目にこなしているし、決して器用なタイプではないにしろ、行動力については申し分ない。

 荒れ狂う社会の波に、臆することなく敢然と立ち向かい、見事に撃沈してくるあたりが、いかにも体育会らしい生き様だ。

「もう一度、次は絶対にリベンジしてきます!」

 不屈の闘志は認めてやりたいが、それでもアイツには、いい加減ギブアップという言葉も教えた方がいいのかもしれない、と最近になって思うようになってきた。

 言うならば、熱が入り過ぎている。一度冷静に負けを受け容れて、補強すべき個所を身に落とし込まなければならない。

 どう頑張ったところで、現実として、今の石本にはこなせない仕事は存在する。知識や経験、年齢や役職であったりと、石本の目に見えない壁は数多い。チャレンジ精神旺盛な今の彼は、盲目にも似た症状だといえる。

 ただこれらを理解できるようになるのは、もう少し先の話。当人にすれば気も逸るだろうが、それも仕方のないことだ。

 真の成功に近道はない。成功とは、自らが積み重ねた失敗体験の延長に待っているもの――。

 ただ、そうは言っても、俺だって似たような経験を散々踏んできたのだから、確かに俺と石本には共通する部分があるのかもしれない。

 そこに気付くことも含め、俺にとっては、全てが勉強なのだろう。

 ゼロから部下を育て上げる。その為に学ぶべきものがある。学ばせることによって、俺自身、学ぶべきものが。

 と、話は変わるが、恒例の新人歓迎会の席で、ほど良く酔いが回った黒木さんの熱弁に、爛々と目を輝かせ、憧憬の眼差しを送っていたのは、歴代新人の中でも石本ただ一人。

 普通の人間であれば、引き気味に苦笑いを浮かべ、話の調子を合わせるのが、おおよその反応だ。

 お決まりの特殊部隊やグリーンベレーなんてフレーズに、目を宝石みたいに輝かせるのだから、もしかすると石本は、将来の我が社を支える大きな屋台骨になるのかもしれない。ともすれば、部長より使える平社員になるのでは? とまんざらでもなく感じたことを記憶している。


 ――ざっけんじゃねえぞ!

 駅からの導線を足早に歩んでいた俺の耳が、不意に、物々しい叫び声を拾い取った。場所は桜木町の駅から、まっすぐ抜けた交差点のすぐ手前。

 しかし叫び声といっても、実際はくぐもっており、声量は乏しい。

 が、そう聞こえたのは、声の出所が停車中の車内にあったからだ。車は白い国産の高級セダン。トヨタのクラウン、アスリートか。

 目を向けた先では、おおよそ似つかわしくない年頃の若者がハンドルを握っていた。

 声の主は、助手席側の男のようだ。左手に携帯電話を握っている。

 僅かに開いた窓の隙間から、先程の叫び声が洩れたのだろう。声は、危機的状況を連想させるような怒気をはらんでいた。

『オマエふざけんなよ! ここで逃がしたら俺がどんなことになるかわかってんだろ! いいか、なんとしても捕まえろよ! 絶対にだぞ――』

 耳にした声を反芻し、男の様子に目を向ける。相手は丁度、信号待ちで停車をしていた。歩行者用の信号が変わらない限り、動き出すことはない。俺は足取りを遅らせ、車の正面を横切るかたちで、それとなく車内の様子を窺った。

 あの声は、通話相手に向けられているようだ。運転席に座る若者は、腫れ物に触れることを恐れるように、視線を窓の外へ投げ出していた。

 男はハンドルを握る若者よりは上に見えるものの、それでも年齢は二十代後半、もしくは三十代前半といったところだろう。

 濃色のスーツに胸元を大きく開けたシャツの着こなし方。もちろん、ネクタイはしていない。暗い車内の中でも見てとれるほどに、明るく色付いた髪の毛が、雑誌に出てくるモデルさながらにセットされている。

 ひと目で夜の商売人だと察することのできる風貌だった。

 ここから車で数分のエリア、関内駅周辺の歓楽街まで足を運べば、似たような若者の姿を、そこかしこで目にすることができる。

 おそらくはホストか、クラブやキャバクラあたりの従業員だろう。

 どちらにしても運転手らしき男を連れているのだから、オーナーか、マネージャークラスの役職に違いない。

 なにやら、よほど切迫した状況なのか、さらには、事態の飛び火が自分に回ってくることを恐れている。そんな口振りだった。

 但し、傍目には物騒なやりとりにも聞こえるものの、さりとて、この界隈では珍しい光景でもない。

 ――お気の毒にね。

 一分と経たずに興味を断ち切った俺は、信号が点滅をはじめたところで歩くペースを速める。渡りきったタイミングで、信号機の色が赤へと変わった。

 そこで一旦ペースを緩め、空を見上げてみる。

 日没からおよそ一時間。空一面は、薄暗い幕によって覆い尽くされていた。ある意味で、予想通りの空である。

 これが空気の澄んだ田舎町であれば、ちらほらと星が顔を覗かせている頃だろうが、ここ横浜の中心部ともなれば、話は別になる。

 綺麗なイルミネーションに彩られた人工的な夜景を目にすることはあっても、壮大な星空が作り出す天然のイルミネーションなんてものを拝む機会は皆無に等しい。

 きっと、俺が家路に着く頃には、飾り気のない濃色の闇が、一層深みを増して見下ろしているだろう。

 まあ、雨が降りそうにないだけ、良しとするか。

 思った俺は、下げた視線を、通り沿いに立ち並ぶビル群の先へ伸ばしてみる。

 白い雑居ビルの六階部分。俺が勤める『株式会社ファイターズ』が入っているフロアの窓に、その明かりを確認する。

「グリーンベレー……ね」

 思わず零れた声に鼻を鳴らし、口元を緩ませる。

 それが良いか悪いかは別として、今では俺も、立派な特殊部隊の隊長なんだ、と自分の立場を居心地よく思う。

 いささか黒木さんの思惑通りになっている自分が気に食わないが、それも仕方ない。いつか必ず、あの人を超えてみせることが俺の野望だが、それもひよっこ呼ばわりされている内は、叶わぬ夢だろう。

ビルの入り口をくぐった俺は、エレベーターホールをすり抜けて、非常階段に足を掛けた。わざわざ、ではあるが、今の気分がそうさせているのかもしれない。

 さて、行くとするか。

 踏み込んだ足に力を込め、躍動的に駆け上がる。

 俺の司令官殿が待っているぞ――。


「お疲れさまー」

 フロア中に響き渡るような声を上げ、元気よく帰社を伝える。我が社の習慣である。

 丁度、入口近くの席で帰り支度をしていた社員が「お疲れ様です」と声を返してきた。編集部の平松だ。社内最年少の二十一歳。細身で長身を理由に、『ポッキー』と呼ばれている。

「はい、お疲れさん」

 奥から声を掛けてきたのは、編集部、部長の伊原さんだ。

 皆からは『編集長』と呼ばれている。

「っていうか、部長。今日ぐらいは早く帰らないと、流石にまずいんじゃないの? 奥さんに叱られちゃうぞ」

「ホントですよね。もう一時間押しは確定っすよ」

 俺は苦笑いしながら答えると、だからダッシュで帰ります、と付け加えた。

 編集長は俺より三つ年上の三十二歳。キツネ目の上に黒縁の眼鏡を掛け、長い髪を後ろで一つに纏めるスタイルは、昔からずっと変わらない。変わったといえば、最近、白髪が目立つようになってきたことくらいだろう。

 もっとも、その辺は本人も気にしているようで、ネットで白髪染めの比較をしているところを目撃したことがある。

 編集長は『タウンズ・ウォー』の創刊当時から残っている唯一のメンバーでもある。二年目から入社した俺の一期先輩。今では、俺と共に黒木さんの両翼を固める、この会社のナンバー2だ。   

 俺はデスクの上に鞄を置き、「ボスは来客中?」と訊ねた。

 編集長は薄く笑い、「残念。きっと妄想中」と返してくる。

 笑みで返した俺は、できるなら熟睡中の方が助かるのに、と思いつつ、奥のフロアへ歩みを進める。

 皮肉にも『社長室』と書かれた銀色のプレートが貼ってある『黒木部屋』の前に立ち、俺はドアを二度ノックした。

 中の様子に耳をそばだてる間もなく、「いいぞ」という野太い声が返ってくる。入れ、という合図だ。

 この会話のやり取りを度外視した略式応答も、黒木さん流。

 以前に一度、もし僕や社内の人間ではなく、相手が来客者だった場合、どうするんですか? と訊ねたことがある。

 仮にもわが社の社長なのだから、来客に対しての「いいぞ」はいかにも横柄だ。せめて「はい」とか「どうぞ」くらいには収めて貰いたい。

「その壁はな、意外と薄いんだよ。もし突然の来客だったら、伊原か誰かが応対するはずだろ。その声が聞こえるはずだ。だけど今はそうじゃない。壁越しの雰囲気がな、事前に誰が来たのかを伝えてくれるんだよ。入ってきたのが社内の誰かだってな」

 だから「いいぞ」の対応で問題はない。先を見通し、無駄を省いたやり取りなんだ、と解説する。

 納得できるような、したくないような。だが俺もそれ以上は口を挟まない。理由はひとつ。話が長くなるのが面倒臭いのだ。


 黒木さんは、部屋の中央に置かれたデスクの前で、ノートパソコンと向き合っていた。

 パソコンの横に立っているのは、日本が生んだ傑作ロボットアニメ、『機動戦士ガンダム』に出てくる、赤い色を施した模型である。

 ピンポイント世代ではないものの、俺くらいの年齢で『シャアザク』と言えば、知らない人はまずいないだろう。あの『赤い彗星のシャア』が操る、代表的な機体だ。

 但し、本来の持ち主は俺だったのだが、黒木さんの「ひよっこだからさ」という謎の台詞によって、強奪されてしまった。

(坊やだからさ、をもじったことに疑いの余地はない)

 その後は、失ったシャアザクと入れ替えるかたちで、俺のデスクには量産型のザクがプレゼントされた……。

「お疲れ様です」

 デスクの前で一礼し、先を続ける。

「本日の報告ですが、予定の進捗に大きな乱れはありません。イレギュラーもなし、明日も事前の予定通りに進めます」

 黒木さんは、パソコンの画面を見据えたまま、せわしなくキーボードを叩いている。

 最近になって掛けるようになった、オークリー製の赤いフレームで作られた眼鏡は、スポーティーに短く刈った髪型に似合っている。

 また、その眼鏡越しに覗く視線は、鋭く、厳しい。

 難しい顔つきでパソコンを操作する姿は、いかにも俺は仕事をしてます、といったオーラを漂わせていた。何人たりとも近づけようとしない、といった様相。

「――で、何もなければ先にあがりますが、何かありましたか?」

「ない」

 即答である。

 基本、黒木さんが何かに集中している時は、大体がこんな対応になる。視線も合わせず、ただ自分の世界に没頭する姿は珍しくもない。

 俺は俺で、慣れた対応を目にしながら、頭では全く別のことが気になっていた。黒木さん、伊達でもいいから、せめてその眼鏡にレンズくらいは入れましょうよ、と。

「じゃあ先に上がりますね。お疲れ様です」と、踵を返し、部屋を出ようとしたところで、背後から「おい、登坂」と呼び止める声が突き刺さった。

「――息子の誕生日には何をプレゼントするんだ」

 俺は顔をしかめる。

 毎度ながら全てが突然だ。相変わらずマイペースな人だな、と思いながら振り返り、答えた。

「うちの息子は、最近仮面ライダーにハマってるんですよ。だから、プレゼントはお約束の変身ベルトです。専用のUSBメモリを差して変身するんですけど……。黒木さんは見たことないですか? 仮面ライダーは二人で一人。『さあ、お前の罪を数えろ!』ってのが決め台詞なんですが」

 俺は仮面ライダーと同じように、左手を伸ばし、恰好良く決めポーズを取って見せた。けれどもそれが大誤算。黒木さんの手が、ピタリと止まった。

「仮面ライダーは二人で一人だって? なんだそれ。一号、二号なら知ってるけどな。最近のは駄目だ。全然興味がない。まあ、なんつっても仮面ライダーは本郷猛だろ。一文字隼人もいい線いってるが、本郷猛の渋さには敵わない。流石は男、藤岡弘だな」

 椅子から立ち上がり、変身ポーズで俺に対抗する。仮面ライダーと聞けば誰もが想像する、定番の形。変身が完了すると、黒木さんは先を続けた。

「それとな。やっぱり仮面ライダーと言えばサイクロン号だろ。あれが最高にカッコいい。時速四百キロだぞ。有り得るか? 有り得ないだろ。ましてやバイクが三十メートルもジャンプするなんて、絶対に有り得ない性能だと思わないか。そもそもの話、バイクのカタログにジャンプ力なんて性能欄は存在しないんだよ。バイクが飛ぶか、普通?」

「飛びません」

「だろ、だからこその魅力だよ」

 はぁ、と俺は適当な相槌を打った。

 誰に対してなのか、黒木さんは勝ち誇ったように満足げな表情を浮かべている。もちろん、この部屋には俺と黒木さんの他に誰もいない。だからといって、別に俺は勝負なんてしてないよ、と心の内で反論する。

 それに、既に黒木さんの中では、俺の息子のプレゼント話なんてどうでもよくなっている。本題が、見事なまでに仮面ライダーへと掏り替わっていた。それこそ変身だ。

「仮面ライダー……か」

 ぽつり、と口にした黒木さんがニヤリと笑った。

 顎の尖端をこするように人差し指を動かす。あれは何かを思案したり、閃いた時の癖。その様子から、 俺は反射的に身構える。

「なあ登坂。やっぱり今も昔もヒーローは必要なんだよ。ヒーローって奴は人々に求められる存在なんだ。お前にもわかるよな」

 ――わかりません、と答えたかった。

 今の婉曲した言い回し。「ヒーロー」という響きに嫌な予感がする。黒木さんと七年連れ添ってきた経験が、頭の中に警鐘を轟かせた。

 ……だとすれば、話が掏り替わったのは、もっと先。

 きっと、黒木さんの頭の中では、仮面ライダーの話題など通り越しているはずだ。

 そして、この直感は当る。絶対に――。


 俺は愛車のビアンキに跨ると、力強くペダルを踏み込んだ。

 もう空は完全に夜の幕が下りていた。車の排気ガスや、工業地帯から吐き出された煙をたっぷりと吸いこんだ、煤けた闇。飾り気のない単色に染められた空を見上げ、ライトを点灯させる。

 イタリア製のビアンキ、クロスバイク。

 ホワイトのフレームにオレンジのラインが鮮やかなスポーツテイストを醸し出している。あえて定番のチェレステ(緑色に近い青)カラーを選ばなかったことがポイントでもある。日々の通勤に使用している俺のお気に入り。大切なパートナーだ。

 もっとも、本来であれば、屈強なスタイルに武骨なタイヤを履かせたマウンテンバイクの見た目が好みだったのだが、学生時代に雨空の中を疾走し、交差点の曲がり角で見事に転倒した苦い経験を活かしてこっちを選んだ。

 やはりあのゴツゴツしたタイヤは、アスファルトばかりの市街地を走る公道向きではない。見た目には良くとも、活用法が自分のスタイルに合わないのであれば意味がないということを、痛みと共に学習した。パートナーとは、性格の一致なしには決して成り立たない存在なのだ。

 そしてこの見解は、女性を選ぶ時にも共通する。うっかり見た目の良さばかりに目を奪われてしまうと、後で手痛いしっぺ返しを喰らうことだってあるからだ。

 まあこちらは余談で、私的な過去の辛い経験になるのだが……。


 俺は軽快にペダルを回すと、横浜の街を颯爽と走り抜けていく。

 駅へと連なる人々の流れを横目に、その何倍もの速さで走り去る俺は、はっきり言って、相当に恰好いい。それこそ、サイクロン号に跨る仮面ライダーにだって見劣りはしないだろう。

 もっとも、そんなことを考えているのは俺くらいで、周囲の人たちにとっての関心度は、道端を横切る黒猫以下。

 あの自転車、随分飛ばしてるな、くらいの感覚だろう。

それに、だいたいこのビアンキがイタリア製だなんて、余程の自転車通でもない限り、気付くことはない。見た目が少し速そうな自転車。その程度が一般的な映り方なんだと思う。

 だから俺自身も、これがただの自己満足だってことは重々承知している。でも、実はそれが大事。その時、その環境に満足できるということは、即ちそれが喜びに直結する。

 そう。今の俺は最高に恰好いいし、加えて幸せもんだ。たかが通勤手段と侮るなかれ。俺にとっては、これでも価値ある幸せを味わえる時間なんだし、そもそもが、自己満足さえ得られない人生なんて、寂しいじゃないか――。


 会社のある桜木町から、家までの道程は、およそ三十分。

 朝、家から会社までのコースは下り坂が続くのだが、当然、帰路は逆になる。

 本音を言えば、仕事終わりにもう一戦交えるのは体力的にも辛い部分だったが、泣きごとを言わず、あえてそこに戦いを挑んでいくことに意味があった。体力作りや自己鍛錬の一環。一日を締めくくる最後の戦いが、俺を待っている。

 車の往来に注意を払いながら、海沿いの大通りを右手に曲がる。

 その先に伸びる車線の細くなった道を進んで行くと、前方に、行く手を阻むような急勾配の坂が見えてきた。

『仁王坂』と、俺は呼んでいる。実際の名称はともかく、文字通り仁王立ちしているような姿から、俺が勝手に命名させてもらった。

 仁王坂は強敵中の強敵だ。

 並みの自転車なら、あの勾配を登り切ることは不可能。ママチャリ程度で挑むのは論外だし、殆どのチャレンジャーは、坂の途中で脚が止まるはめになる。

 しかし、この難敵に真っ向勝負を挑むのが、俺流の美学であった。

 だから俺は、今宵も己の無敗記録を伸ばすために、相棒のグリップに力を込め、鞭打つ思いで脚を回転させていく。

 坂道と格闘しながら、俺はついさっき黒木さんが語った内容を思い返していた。あれも劣らず、厳しい戦いになるはずだ。

「――良い案が浮かんだぞ! 登坂、俺たちで街のヒーローを作り出さないか? こっちは人数がいるから、仮面ライダーに対抗して、戦隊物で行こう」

 この人はまた、何を突然言い出すのかと面喰ってしまうところだったが……実は違う。案の定、と言った方が正しい反応だ。

 俺は話の先を予見し、胸の内には、続きを避けたい気持ちが半分、無駄だろうと思う気持ちが半分と、混在していた。

「そうだな。名前は……ベタな方がいい。こんなもんは変に洒落たって駄目に決まってるからな。親しみやすい名前で――」

「ウォー・レンジャーですよね」

 と、俺は黒木さんが言うよりも先に口を挟み、その名を告げた。

『タウンズ・ウォー』と、黒木さんの世代ではピンポイントであろう『ゴレンジャー』を組み合わせた、ごく単純な組み合わせ。

 ご要望通り、ベタの王道だ。

 すると一瞬にして、黒木さんの口元が跳ね上がった。

 ぱんっ、と力強く柏手を打つと、勢いままに突き出した人差し指が俺を貫く。

「流石だな、登坂。やっぱりお前は俺の言いたいことをわかってくれてるよ。いいぞ。『ウォー・レンジャー』なんて、ベタな感じが実にいいじゃないか」

 たぶん、褒められることに対し、これほどの抵抗を感じることもあまりないだろう。愛想笑いを浮かべているつもりだったが、右の頬だけが、微妙に引き攣っているのがわかる。だけど仕方ない。こうなると、俺も腹を括らねばならない。

「わかってると思うが、お前はウォー・レッドだからな」

 赤、青、緑、黄、桃、とくれば戦隊物の定番色。

 なかでもレッドは、リーダー格で主役級の働きが求められる。そのレッドに俺は、任命されたのだ。小さい頃に流行った遊び。戦隊ごっこ以来の就任である。

 思えばあの頃は、誰もがレッドに憧れを抱き、配役の争奪戦が勃発するほどの人気ぶりだった。大抵がじゃんけんで順位を決めるのだが、自分がレッドを勝ち取った時なんて、派手なガッツポーズまでして、喜びを表現したものだ。

 それが時を経た現在になって、目の当たりにした事実を素直に喜べないのは、俺が歳をとったせいだけではない、はずだ……。


 結果として、黒木さんの狙いはこうだった。

『タウンズ・ウォー』の中で、ヒーロー戦隊を作り出し、街の至るところで困っている人たちの願いを叶えていく。

 その一例がこれだ。

 小さい子供を抱える主婦は、得てして外食に出ることを躊躇ってしまう面がある。特に乳幼児ともなれば、ミルクや突然のオムツ替えに、一般の飲食店ではかなりの抵抗を感じるもの。他の客の目線が、どうしたって気になるからだ。

 これは実際に、俺自身も経験したことがある。

 子連れである以上、ある程度は割り切って考えていた部分もあるが、できるなら、もっと気兼ねなく食事ができないものだろうか、と感じたことは一度や二度ではない。

 これが大型のデパートのように、授乳室などが備わった専用の設備でも整っているなら、話は別だろう。しかし街の飲食店レベルでは、スペース上の問題もあり、思うように叶わないのが実情だ。

 とはいえ、日頃から育児に忙しい主婦たちをほおっておくわけにもいかない。ママ友との情報交換や団欒の場。夫に内緒で食べる美味しいランチやスイーツは、まさしく蜜の味。できるなら、その願いを叶えてあげるべきではないか。

 そこで、この街のヒーローである『ウォー・レンジャー』の出番となる。

 俺たちウォー・レンジャーが商店街に出動し、飲食店と戦いを繰り広げる。(実際は交渉だが……)そこで店内の一角を、オムツ替えや、ミルクをあげるスペースに改良するのだ。

 もちろん、ランチタイムではスペースを削る分だけ店側にデメリットが発生してしまう。だから発想を転換する。ランチタイムが終わった十四時から十六時頃にかけて、客足が薄くなる二時間を活用するのだ。

 通常であれば、従業員の休憩や仕込みに当てるような時間帯を使って、子連れの主婦向けにサービスタイムを設定する。

 利用する側は、周囲の視線を気にすることもなく、有意義に食事をすることができるし、オムツ替えなどの専用スペースだってあるから、遠慮なんて一切無用。赤ちゃんが大声で泣いても問題はない。

ママ友同士、お子様連れで何の気兼ねもなく、憩いの時間を楽しむことができるのだ。

 店側にしてみても、それまでは売り上げの少なかった時間帯を無駄に消化することなく、利益に結びつけることが可能になる。

 両者にとって、効果的且つ実用的にメリットの発生するサービスを、『ウォー・レンジャー』が提案していくのだ。

 さらには、これらの店を十店舗から十五店舗集めることで、誌面の中で特集ページを組む。言うまでもなく、広告料はきっちりと頂戴する。幸せは、我が社にも分配される仕組みだ。

 お店と利用者、お店と我が社との間に『トリプルウィン』の関係を円滑に作り出すことで、ウォー・レンジャーの任務は完了となる。

「困ったことがあれば、僕たち『ウォー・レンジャー』にお任せを! 僕たち五人は、この街に暮らす皆さんの味方です!」

 この決め台詞も、忘れてはならない……。

 と、黒木さんの描くヒーロー戦隊の活躍ぶりはこんなところだ。

 そしてこの企画は、早速、再来月号に差し込まれることになった。


 全く、俺の息子のプレゼント話から、どこをどうすればここまで話が飛躍するのだろうか。

 たった今、難敵である仁王坂を上りきったはずなのに、どこか負けてしまった感が否めない。

 突飛な発想を捻り出し、その全てをビジネスチャンスに転換していく黒木さんは、今も昔も何一つとして変わらない。マンネリや二番煎じを極端に嫌い、斬新なアレンジやオリジナリティーを求め続ける探求心には、常々瞠目させられる。

「流石は、黒木様様だな」

 俺は敬意を表して、その名前を口にした。無論、動く側の労力を加味した上で、何倍もの嫌みを込めながら、だ。

 仁王坂を突破した俺は、刻々と進んでいく時間を気にしながら、ペダルを回転させるペースを速めた。既に当初の予定からは、一時間半も押している。

 けれどペダルを踏み込みながら、俺は確信していた。

 さっきの企画は成功する。いや、必ず成功させて見せる、と。

 今は漠然としたイメージが浮かんでいる段階ではあるが、それでも手応えは感じられる。経験則といえば、多少偉そうに聞こえるかもしれない。だけど俺は絶対にイケると踏んでいた。

 黒木さんも気持ちは同じだろう。いや、違うな。あの人なら、既に次のステップに企画を進めているのかもしれない。

 きっと今頃は、机の前で腕組みをしながら、フレームだけのこじゃれた眼鏡の奥で、俺たち『ウォー・レンジャー』に対して、次なる指令を模索しているはず。そうに違いない。

「ったく、グリーンベレーって言ったり、ヒーロー戦隊って言ってみせたり。ほんと、俺たちを戦わせるのが好きな人だよな」

 言葉の半分は不満を口にしているはずだったが、反面、どこか心躍る自分がいることにも満足していた。不思議とペダルも軽く感じられる。

 悪態半分、尊敬半分。毎度のことながら、俺もまんざらじゃないって感じかな。

 俺は他人事のように笑みを零しながら、明日の朝、この企画を知らされる仲間たちの顔を想像してみる。

 と、そこで気がついた。戦隊物なら、俺以外のメンバーを決めなくちゃならないだろうと。

 犠牲者は、あと四人。

 だけど黄色だけは……、あいつに決定だな。

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