【梨佳子】

 十月四日。

 それは人生で最高の喜びであり、幸せだった。

「おめでとうございます! とっても元気な男の子ですよ」

 目の中に飛び込んできたのは、元気な産声をあげて泣く、赤ちゃんの姿。

 しわくちゃだけど、愛らしい顔をしている。

 赤ちゃんを抱きかかえ、にっこり微笑んだ助産師の表情に、全身の力がどっと抜け落ちた。まさに脱力。絞り出せるものなんて何もないカラカラの状態。体力の限界なんて、ずっと前から越えていたのだから、文字通り、私の中は空っぽだった。

 私はひたすらに、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返すだけ。それも意図した行動ではなく、私の本能が、必死に酸素を補給しろと訴えているのがわかる。

 体中が熱い。全身の血液が、血管の中を濁流のように駆け巡っている。それこそ私の意思なんて関係なく、激しく脈を打ちながら脳まで到達した血流が、疲れ切った身体を無理矢理覚醒させているみたいだった。

 分娩台に身をあずける私は、興奮と疲労感とが綯い交ぜになったまま、一点に、我が子の姿を眺めていた。くしゃくしゃに顔を歪ませた赤ちゃんの産声が、私の脳を刺激する。

 私は手を伸ばした。殆ど無意識に、両手が伸びていた。

 抱きたい。抱き寄せたい、届くわけなんてないのに、そうせずにはいられなかった。

 そんな私の様子を察したのか、担当である老齢な女医が、子供を諭すような口振りで制した。

「もう少し待っててね。先に赤ちゃんを綺麗にしてから、お母さんのところへ連れてきてあげる。だから 今は無理しないで、呼吸を落ち着けることに専念して。落ち着いたらこっちの処置を進めるから、その後で赤ちゃんの様子をみて、抱っこさせてあげるからね」

 医師の説明に――ああ、と思い出す。

 この病院では、出産直後のカンガルーケアを実施してはいなかった。私は頷き、仕方なく天井を見上げた。

 だけど、どうしたって視線は我が子の姿を追ってしまう。

 助産師に抱えられた赤ちゃんを横目に覗きこんでいると、遮るように、夫の顏が飛び込んできた。

「梨佳子、よく頑張ったな! 本当に頑張ったよ。ありがとう。本当にありがとう。俺たちの子が無事に産まれたんだ。梨佳子のおかげだよ。良かった。本当に頑張った」

 出産に立ち会った篤斗あつとが、私の手を力強く握った。

 瞳にいっぱいの涙を浮かべながら出した声は、興奮交じりに震えていた。

 その声に私は、自分が成し遂げた現実をあらためて実感した。と同時に、それまで使命感さながらに張り詰めていた糸が、ぷつりと解かれた。

 生まれた。

 本当に、生まれたんだ。

 無事に、私は無事に赤ちゃんを産むことができた――。

 安堵から目を潤ませると、傍らに立つ夫の口元が、優しく綻んだ。

 その表情には、感無量って言葉がぴたりと当てはまる。私は今にも零れ落ちそうな夫の涙を見つけ、微笑んだ。

 篤斗、私も同じ気持ちだよ、と。

 私の思いが伝わったのか、夫は、俺もだよ、とでも言いたそうに相槌を繰り返す。頷く度に、涙が頬を伝った。

「……良かった。無事に産めて、本当に良かった」

「梨佳子はよくやったよ。頑張った。本当にお疲れ様だな!」

 夫の声に、胸が熱くなる。

 視線が重なった先で、篤斗の顔が涙で滲んだ。ああ、これは私の涙だ。と、今度は溢れ出る嬉しさを噛み締めた。

 貴方が傍で支えてくれたから頑張れた。貴方の声がずっと私を励まし続けてくれた。貴方が力強く握ってくれたこの手の感触が、私の意識を繋ぎとめていてくれた。

「篤斗、私だってありがとうだよ。本当に、本当にありがとう。私、ほっとした。無事に産むことができて、良かった。本当に良かった」

 ありがとう、と、良かった。

 これ以上の言葉なんて、なにも浮かばない。

 頭の中は、感謝と安堵で埋め尽くされている。

 あとはもうひたすらに、やりきった達成感をこの身に浸しこませながら、呼吸を整えることだけを意識していた。


 その後、私は産後の胎盤処置を受けていた。

 出産中の痛みに比べればなんてことないが、緊張が途切れたせいもあるのだろう。これはこれで、なかなかの痛みだった。

「はい、終わりましたよ」

 医師の声にひと呼吸落とし、私は、そこにあったはずの膨らみを、感慨深く眺める。

 この十カ月もの間、自分のお腹の中で育った赤ちゃんが、出産と同時に私の体内からいなくなってしまった。目線の先にあるお腹は、見事なまでにへこんでいる。お腹の表面は、しぼんだ風船のように不格好な姿をしているが、大きく息を吸い込んでみても、以前のようには膨らまない。

 まるでぽっかりと、大切なものを抜き取られてしまったようで、不思議と物寂しい気分にもなった。

「――三千二十一グラムです」

 不意に舞い込んだ声に、私と篤斗の視線が重なる。

 揃って声の出た方向に目を向けた。

 耳が拾った四ケタの数字を、助産師が分娩台の正面に備え付けられた白板に書き込んでいく。

 三千二十一グラム。

 私はもう一度、脳の中で咀嚼するように反芻した。あれが、私のお腹の中で育んだ命の重さ。生涯忘れることのない、大切な記念となる四桁の数字。

 出産時刻は、午前五時二十八分。

 分娩室に入ってから、およそ三時間が経過していた。

 私にとっては、途方もなく長い時間に感じられたが、医師の「安産でしたよ」の声に、そんなものなのかとも感じつつ、だけど安産であったことに、あらためて安堵した。

 白板を眺めながら、もう一度、現実を噛みしめる。

 私と篤斗の愛の結晶。

 私たち夫婦の第一子が、無事に誕生したことを――。

 

 待ち望んだ瞬間は、その後すぐにやってきた。

助産師の手によって、大切に抱えられた我が子が、私の元へと近づいてくる。息を呑んで構えると、差し出した両手の間を通り、ゆっくりと、小さな、小さな身体が、私の胸に舞い降りた。

 肌と肌が直に触れ、赤ちゃんの体温が伝わってくる。受け止めた命の重みは何ものにも代えがたく、たまらなく愛おしかった。

 今ならわかる。あの身を引き裂くような激痛も、血管が千切れ飛んでしまいそうだった苦しみも、全てはこの瞬間の為にあったのだろうと。あれは母になるための試練。そしてこれは、課せられた試練を乗り越えた私に届けられた、最高のご褒美に違いない。

「……遥希。遥希、ありがとう。無事に生まれて来てくれて、本当にありがとうね」

 はじめから伝えるべき言葉は決まっていた。ありがとう。その感謝の想いを無事届けられたことに胸が震え、私は、再び涙を滲ませた。

 登坂家の長男。遥希はるきとは、篤斗が命名した名前だ。

 生まれてくるのが男の子だったら篤斗、女の子ならば私が決める。

 そんな約束を、私たちは妊娠が確定した夜に交わしていた。

 そして妊娠から六か月が経過した時、医師から伝えられた性別は、男だった。

 私は、篤斗の言葉を思い出す。

 篤斗は、新生児の命名ランキングが掲載された育児雑誌を手に、こう言った。

「なあ梨佳子。最近の子って、俺みたいに『斗』の付く名前が多いだろ。それってみんな、俺の真似してんのかもな。もしかすると、俺が『○斗ブーム』の火付け役だったりして」

 そう口にした篤斗が、開いていた雑誌をパタリと閉じた。

「でもさ。その手の名前が多いってことは、この先は、それがありきたりな名前になるってことだろ。俺世代の上の人たちによく聞く『ヒロシ』や『マコト』みたいな感じでさ。――それはちょっと避けたいよな。あとは親の名前を一文字使うって昔流儀な技もいいけど、それだとちょっと昭和チックで令和っぽくない感じもするしな。だから俺は、少し珍しい名前にしたい。しかも、令和の世に倣った、現代風に見合う名前に――」

 それから数日が経ち、篤斗の口から二つの候補が告げられた。

 ひとつは『コハク』で、もうひとつの候補は『シオウ』。

 私は目を丸くして訊き返した。まるで予想もしてなかった名前が飛び出してきたからだ。けれど耳に返ってきた答えは、聞き間違えのない、同音の響きだった。

 正直、『コハク』については異論ない。その名前なら、近年命名された男児の一例として、雑誌に紹介されていたことを目にした覚えがある。私の世代には珍しい響きではあるが、篤斗のいう現代風に倣った感はある。

 だけど『シオウ』に至っては別だ。そんな名前は、どの雑誌にも見た記憶がないし、私の人生で、一度たりとも耳にした覚えはない。

 シオウ、シオウ、と頭の中で何度も連呼してみるが、やはりしっくりこない。登坂シオウと組み合わせてみるも、どう考えても名前らしくは聞こえない。確かに少し珍しい名前にしたい、とは聞いていたが、これなら少しどころのレベルではない。はたして、これが篤斗の求める令和の世に倣った名前だというのか。

 それ、本気なの? と夫の表情を窺う。

 頭の中に『嘘だよ』と書いてあることを期待し、透かし見るように目を凝らした。一瞬、「もちろん」という音が聞こえたような気もしたが、今のはきっと幻聴に違いない。

けれども、当人はこちらの思惑など素知らぬ顔で、新聞の折り込みチラシを手にすると、裏面にボールペンで候補となった名前を書き写していた。

 そこに書かれた文字を見て、私は即座に名前の由来であろう部分を理解する。ああ、なるほど。そういうことか、と。

『琥珀』に『獅王』。

 篤斗は八月生まれの獅子座である。この獅子から連想するものといえば、百獣の王ライオン。この『百獣の王』という響きが篤斗のお気に入りだった。

 それでいて、好きな動物は虎。というよりは、タイガーマスクが好きだと言った方が正しい。十九歳で衝撃的なデビューを果たし、『プロレス界の宝』とまで言われたものの、試合中の大怪我により、二十六歳という若さで突如プロレス界を去っていった、至高のプロレスラー。

 篤斗は小学生の頃から大のファンだったそうで、タイガーマスクの存在は、現役を退いた後も、彼の人生に多大な影響を与えてくれた、と心酔している。

 だから『虎』と『獅』の文字を使っている。なんの捻りもない、至って単純な理由。そこに令和のなんちゃらなんてものは一切かかわっていない気もするし、もっとストレートに言えば、篤斗の趣味みたいなものだ。しかし、いざ私が指摘してみると、篤斗は大いに反論した。

「なんだよ。梨佳子は全然わかってないな。虎に獅子だぜ。普通、男なら強いものに憧れるのが当然だろ。そこに最強の印『王』の冠を付けるなんて、こんなに凄い名前、他に絶対ないって。力強さに加え、精悍さまで纏ってるんだ。そりゃあ『琥珀』と比べたら、確かに『獅王』は珍しい響きかもしれないけどさ。だけどそれが逆に新鮮でいいんだって。もし、この名前の良さがわからないんだとすれば、それは梨佳子が女だからだな。男ならわかるよ。絶対にね」

 あえて説明するまでもなく、篤斗は生粋の体育会系だ。

 しかも血液型はB型とくる。発想は突拍子もない上に、自らの基準が立派な世界標準であると疑わない。

 だから思う。彼の意図を理解できないのは私が女だからではない。

 私がA型人間だからだ、と。

 決して男女の差などではないと断言できる。

 私はいい加減慣れたものだけれど、その感覚、周りの人達から迷惑がられないの、と訊いてみたことがある。

 これには本人曰く、仕事とプライベートでは至って違うのだ、という解答が戻ってきた。ほぼ即答。まるで過去幾度でも指摘されてきたかのように、予め用意されていたような決まり文句である。

「俺はB型の良し悪しを一番理解しているB型なんだよ」

 だから俺が世間一般に迷惑を掛けることは絶対にない。

 これがグローバルスタンダードを自認する、彼ならではの言い分であった。

 結局、この後の私にできる事といえば、二分の一の確率で決まるであろう『獅王』を、なんとか『琥珀』になってくれるように祈ること。それに加え、何故あの時に女の子だったら篤斗、男の子だったら私に命名権がくるようにしておかなかったのだ、と後悔を繰り返すだけだった……。


 しかし、数日後。

 夕食後の席で、篤斗はあっさりと自らが決めた二つの候補を撤回してきたのだ。

 急にどうしたの? 訝った私が問えば、篤斗はそのリアクションを待っていた、と言わんばかりに目を輝かせ、こう答えた。

「今朝、会社に向かって自転車を漕いでる時にな。まるで天から降ってきたみたいに、突然、俺の頭の中にそのイメージが浮かんだんだよ。『遥かなる希望』。……なんかさ。壮大な人生のテーマっていうか、こんな時代だからこそ、この先人間が生きていく為に必要とする道標みたいな感覚が、ぶあーっと頭の中を流れていったんだ。で、確信した。これぞ未来を生きる我が子にぴったりな名前だな、ってね。どう? この感覚が梨佳子にも伝わるといいんだけど。まあ俺としては、できる限り理解してもらえると嬉しいけどな。だけどどうだろ、難しいかなあ。残念ながら、梨佳子は俺と感性が違うもんな。それでもこれに決まり。息子の名前は『遥希はるき』にする。この先の変更は絶対にないからな。『遥希』に決定!」

 実に篤斗らしい、何の脈絡もない展開だった。

 先日、あれだけ雄弁していた『琥珀』と『獅王』の立場は何処へ行ってしまったのか? 無論、私は救われた側だが、これでは『獅王』がいささか不憫である。

(どなたか、命名、いかがでしょうか?)

 それでも夫が指摘した通り、私の感覚程度だと、この急変振りを理解するのは難しいと思った。

 けれど幸いなことに、篤斗の語った壮大な人生のなんたらは全く理解できないにしろ、『遥希』という名前だけには共感が持てた。

 なんの違和感もない。初めからその名前が用意されていたかのように、『はるき』という三つの文字が、胸の内に溶け込んでいくような清々しさを覚える。

「遥希」と確認するように、私はたった今命名された(おそらくは決定事項であろう、否、あって欲しいと切に願う)名前を口ずさむ。

 うん。やっぱりしっくりくる。良い響きの名前だった。

 私はお腹に手をあてて、我が子に付けられた名前をもう一度呼んでみる。

「遥希。登坂遥希くん。それが貴方のお名前だよ。貴方のパパが付けてくれた名前。どう? 気に入ったかな?」

 無論、答えなどが返ってくる筈もないのだが、それでも私は、腹部の膨らみに手を当てながら、中で育まれている命の息吹が、うん、と合図をしたのではないかと想像し、頬を緩ませる。

 すると、不意に伸ばされた手が私のお腹を摩り、「そんなの気に入ったに決まってまちゅよねぇー」と、過去夫の口からは聞いたこともない赤ちゃん言葉が飛び出してきた。

 驚いた私は、引き気味に夫の横顔を窺うも、なるほど名前が決まるということは、親近感と愛着心を倍増させる効果をもたらすものなのか、と理解する。

 さらに私は、こうも確信した。

 この男は絶対、親バカになるだろう、と。


 ――視線の先で、遥希はもぞもぞと小さな手足を動かしている。

 肌の上に、真っ白な厚手の肌掛けを被せられ、私の胸に顔をピタリとつけていた。肌に触れる、遥希の体温が心地よい。

 ようやく落ち着きを取り戻した胸の動きに合せ、小さな体がゆっくりと上下している。

 既にへその緒は切断され、私と遥希の身体を繋ぐものはない。けれど、今はもっと別なもので繋がっている。親子の絆、なんて表現でかたすには安直かもしれないが、紛れもなく、私と遥希を結ぶ、確かな繋がりを感じることができた。

 運命の人と結ぶ糸が赤なら、この糸は何色なんだろうね。

 そんなことを考えながら、私は遥希を愛おしく見つめ続けた。

 いったいどっちに似てるだろう。私かな、篤斗かな。まだ生まれたばかりで顔がむくんでいるせいか、どちらにも受け取れるような顔つきをしている。

 だけどフサフサな髪の毛と、色の濃い、くっきりとした眉だけは篤斗にそっくりだ。こればかりは見間違えようもない。

 私は背中にあてていた手をゆっくりと移動させ、遥希の頭に触れてみた。まだ柔らかいはずの頭部は、どの程度なら力を入れていいものか、加減に思案する。

 私は慎重に、湿った髪の毛を撫でてみる。そこで遥希が、ぱっちりと目を開いた。

 ねぇ、見えてるかな。私が遥希のママなんだよ。ずっとずっと、お腹の中で繋がってたでしょ。やっと会えたね。やっとやっと会えたよね。パパにも会えたよね。見えるかな、隣にいるでしょ。すぐ傍で、遥希をじっと見てるのがパパなんだよ。

 分娩台で重なる私と遥希を囲むように、篤斗と助産師が傍に立ち、やや離れた場所から医師が様子を見守っていた。

 篤斗は何も口にせず、ただじっと遥希を見つめていた。

 その顔は優しさを帯びた笑みを湛えている。だけどそれでいて、涙をぐっと堪えていた。左右に緩んだ唇の奥で、感極まった情の塊を、がっちりと噛みしめている。そんな表情。

 言いたい、伝えたいことなんて数えきれない。でもできない。言えない。口を開いたら、きっと涙が溢れかえるから。今よりも、もっと、ずっと。

 男泣きという表現があるが、夫のそれは語彙の限度を超えてしまっている。そう思える程に、篤斗はよく涙を流した。人目もはばからず、泣くことを惜しまない。時には声を上げ、大泣きする。

 俺は人よりも感動し屋さんなんだよ。

 本人はそう言い張るが、それにしても涙腺が緩み過ぎているだろう、と言いたくもなる。

泣き虫な夫から視線を戻し、再び息子へ目を向けると、遥希はしっかりと見開いた二つの瞳で、必死に何かを探しているように見えた。

 何処を見ているの? ママかな? ママはここにいるよ。遥希のパパも、すぐ横にいるんだよ。

 私がどうにか目を合わせようとしても、遥希の見ている視線の先には届きそうにもない。

 私と違い、自由の利く篤斗だけは、遥希と見つめ合うように視線を向き合わせていた。

 ――なんだよパパ、抜け駆けはずるいじゃない。

 遥希は、口をぺちゃぺちゃと鳴らし、まだしわしわの指先を小さく動かしていた。

 その様子を見て、助産師が口を開いた。

「本能なんですよ。もうおっぱいを探してるの。お母さんが大丈夫そうなら、あげてみて。きっとおっぱいも出るはずよ。ぎゅってしたら、滲んでくると思うから」

 えっ、こんなに早くおっぱいって出るものなの。私は半信半疑ながら、胸に手を当ててみる。

 本当だ。確かに張りらしきものを感じることができた。これなら本当に出るかもしれない。私は予備知識もなく、何も見本はないから、テレビで見たことのある牛の乳しぼりを真似るように、ぎゅっと、力を入れてみた。

 すると、幾つかの乳腺から滲み出るように、白い液体が、乳首の先に小さな水溜りを作り出した。

「おい凄いな! 梨佳子、本当に出るんだな。なんか、凄い。凄いよ、これ。感動もんだな」

 私は苦笑する。

 篤斗ったら、変なところで反応するんだから。本当なら私だって驚きたいのに、と出かかった言葉を夫に横取りされた感が否めない。

「おっぱいを近付けたら、自分から吸いつくからやってみて」

 言われたように身体を動かして、遥希の口元へ乳首を近付ける。

 まだ目も見えないであろう遥希は、もぞもぞと目的地を探るように、口先を動かしている。

「おいおい、一生懸命探してるぞ。もうちょい。ほら、そこだっ、もう少しっ!」

 息子の動きを後押しするように、夫は両手のこぶしを固く握りしめていた。篤斗の脇に立つ助産師は、その姿を横目にすると、リアクションを取りにくそうに薄笑いしている。

 それでも篤斗の声援が届いたのか、ほどなくして、遥希の唇が、おっぱいの尖端を探り当てた。これぞ生きるための本能。母子だけの特権ともいうべき繋がりを体感し、同時に私は、小さな命の逞しさを実感した。

「よくやった! 遥希、お前凄いぞ! 本当に凄い。梨佳子、俺ヤバイな。涙出てきたし。ほんと、さっきから感動しっぱなしだよ」

 感動もそうだけど、その涙だって、さっきからずっと流れたままでしょ、とは言えず、私は感動もそこそこに、ただただ呆れるしかない。

 なんだか、この場の主役を篤斗にさらわれたみたいで、私は幾分、拍子抜けしてしまった。それが遥希にも伝わったのか、折角くわえた乳首から口を離してしまっている。

 全く、パパには困ったよね。

 私は篤斗と遥希を交互に眺めた後で、思い出したように助産師の様子を窺った。

 思った通りだ。絶対に言うよ、この人。きっと助産師さん達の間で、篤斗の男泣きキャラは語り草になるからね。泣き虫応援団とかなんとか、言われるんだから。

 だってどう見ても、この助産師さん笑いを堪えてるもん。場の雰囲気を壊さないように、必死だよ。

だけどこれも仕方ないよね。篤斗の男泣きなんて今にはじまったことじゃないし、別に私は見慣れてるからいいけど……。きっとこれがごく一般的なリアクションなんだろうね。

「お父さん、よかったら写真を撮ってもいいんですよ。感動を味わうのも大切だけど、今写真を撮っておかないと、後できっと後悔しちゃうわよ」

 終始、私たちの様子を見守っていた医師が、一度咳き込んだ後に、言った。遠慮のない笑みを、口元に浮かべながら……。


 時が過ぎるのは、本当にあっという間だと思う。

 毎日が楽しいから、幸せだから、それとも忙しく続く育児がそう思わせるのだろうか。この時からもう、二年が過ぎようとしているなんて――。

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