第13話 暑夜の影
お題「日傘」「乗り物」
疲労をごまかす為、最寄りの自動販売機までやる気のない足を引きずるようにして歩き、その場でプルトップを引いて苦い液体を喉に流し込んでいた時である。
反対側の歩道に、傘の作るささやかな影に身を寄せて、視線を左右に動かす女がいた。しかし、所在無げな彼女に困りごとかと尋ねる者は現れない。皆、茹だるような暑さの中、自分の目的のために体を動かすので精一杯なのだ。
傘の色も良くなかった。暑さを助長する真っ赤な傘だ。視界に飛び込めば、たちまち体感温度が二度も三度も上がってしまいそうだ。皆、傘とその持ち主を見ないように、そっと視界を逸らしている。
時間も良くなかった。折しも雲一つない空に満月の輝く、怪しげな夜。日中にため込まれた熱が、アスファルトから妖気のように立ちのぼる刻限に、真っ赤な日傘は不吉なほどに鮮やかだった。
女はますます狼狽えて、過ぎ去る人々を呼び止めようと体を捻ってみるが、自分から話しかけてもよいものか、話しかけるなら誰にすればいいのか。行動を起こす前に立ちはだかる問題に答えを出せず、とうとう誰にも声を掛けることもできずに項垂れてしまう。長い髪が顔の半分を隠すようにさらさら流れた。
「タクシー?」
彼女一人どうにもならないと見え、駆け寄って車道に向けて片手を伸ばしてやった。間もなく一台の黒い車がブレーキを鳴らして停まったが、女はよく手入れされた車体のぴかぴかしているのを眺めてから、首を横に振った。車は不機嫌そうに走り去る。
「本当は、二人乗りはいけないんですよ」
でも、見逃してあげます。もう一度、車道に向けて手を伸ばす。唸るような音を立てて、一台のバイクが停まった。女は銀色の筒から吐き出される煙から顔を背け、首を横に振った。運転手は首を一八〇度、右に左に振り回しながら走り去る。
一体何なら満足するのだろう。再び道の向こうに、熱帯夜にも負けない熱い視線を注いでいると、のろのろと車輪を回しながら、近づいて来るものがあった。おおい、おおい。手を振って呼ぶと、牛に引かれた乗り物が一台、目の前で止まる。女は慣れた仕草で着物の裾をさばくと、屋形の後ろから乗り込み、御簾を下した。
「かたじけなく」
御簾の隙間から聞こえた涼やかな声を、もう二度と聞くことはないだろう。牛の手綱を握っていた男が、竹で出来ている傘骨をたたみ、油を引いていない和紙を丁寧に丸めて肩に載せると、牛は再び夜の闇に向けて歩き出す。遠ざかる車輪の転がる音を聞きながら、残っていたコーヒーを飲み干そうとして、空になっていることに気付いた。
彼女は無事、目的地に辿り着けるだろうか。
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