第11話 観察日記

 お題「もやし」「柔軟体操」


 泳ぐ前に体を解すようなものだと言って、年の離れた姉は、空になった大きなジャムの瓶を煮た。熱で消毒されたそれを冷ましてから、使う必要があるのだという。室内の温度は日差しと鍋の湯気によってじっとり上がっていく。堪らなくなってシャツを脱ぎ、上半身を下着だけにすると、煮沸した瓶を引き上げる姉がちくりとした視線を寄越した。

「あんた学校でもそんな恰好してるんじゃないでしょうね」

 勿論そんなことはしないが、そんな心配は今更である。昨日だって、夏休みで開放された学校のプールで諸肌を脱いできたばかりなのだから。

 暑さのせいか、あるいは誰かがいたずらしたのか、柔軟体操を終える前に、男子の一人がプールに落ちるように飛び込んで、それからは皆、体操なんかに集中していることなんかできなくなって、形ばかり手や足を伸ばしたり曲げたりしながら、周囲とお喋りし始めた。

 少しずつ大きくなる声の中、泣きそうな少女の声はひと際目立った。隣の組の、巻いた髪が目立つ子だ。プールが怖いのか。ある男子が尋ねた質問は的外れで、彼女を慰める女子たちから冷ややかな視線を返されることとなった。

 涙の理由は、観察日記をつけていた朝顔にあった。三日だけ遠方の祖母の家に行くことになり、朝顔に十分な水をやって旅立ったのだが、滞在中に祖母の体調が急に悪くなり、結局三日のはずが一週間も家を空けることになってしまったのだ。盛夏に咲く花も、水分補給のない暑さには敵わず、帰宅した少女が見たのは、干からびて割れた土の上に、針金のような蔓をかろうじて支柱に残す、萎れた朝顔の姿だった。

 夏休みの自由研究が台無しになってしまった。零れる涙を見て、僕は自分の兄がにやりと笑う姿を思い出す。こすっからく、人を出し抜くのが至上の喜びだという風に、あの夏、兄は『観察日記』を片手に笑っていた。

 あの『観察日記』はまだ家にあったはずだ。兄の日記には何が書いてあったのか、物置を探す前に姉に尋ねると、姉もまたその『観察日記』のことはよく覚えていた。

「あんなもの、よく提出しようと思ったわよね」

 冷めた瓶に『グリーンマッペ』の種を注ぎ、種が十分浸かるように水を加える。ガーゼで蓋をしたら、まずはそこから三日だ。三日後、種が十分に水を含んだら、あまった水は除き、瓶全体をアルミホイルで覆い遮光する。決して種に皮膚が触れないようにするのがコツだ……と『観察日記』にはある。

「一週間後にはもやしができて、いただきます、ってわけね」

 こんな観察日記なんて、あるものかしら。最後のページに色鉛筆で描かれた野菜炒めと「ごちそうさまでした」の一文を見て、兄の担任だった人は少なからず頭をひねったことだろう。

「それにしても、先生って大変ねえ。代わりの自由研究まで考えてあげなきゃいけないの?」

「あの子が兄の『観察日記』を真似て満足するかは分からないけれどね」

 僕は幼い兄がしてみせた、口の端だけを上げる小狡い笑いを真似てみる。

「似ていないわ」

 似ていないその笑いで、姉は間違いなく兄を思い出したようだった。

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