第8話 手根管症候群
お題「ピアニスト」「すごろく」
親指と小指を殺そう。彼らが世の理を破ること甚だしく、残された指たちは最早放ってはおけなかった。
規則に従って並ぶ白鍵と黒鍵、その一つを撫でて生まれる音は、毎回調律された正しい一音だけなのに、指たちがそれぞれの働きを見事に果たすことで旋律となり、はおとぎ話を語る窓辺や、子供や動物の泣く夜更けを描き出し、ときに聞く者を足元から幻の世界に引きずり込んでは、人類に注ぐ日差しの冷徹なまでの公正さを教え諭したりもする。そういう一仕事を終えた後、ほとんどの場合においては彼ら(を頂く人間)に、拍手喝采が捧げられ、全員を大いに満足させた。
しかし、皆等しくそれぞれの役割を果ながらも、親指と小指が特別であることは、三本の指から見ても明らかだった。七本の白鍵と五本の黒鍵からなる音階を飛び越えるのは、二本にのみ与えられる大仕事なのだ。
薬指は一度か二度、人差し指は二度か三度その大役を任されたような記憶があるが、すでに一昨日の夢のようにかすんでしまっていて、実際のところそんな仕事をしたことはないのではないかと強く問われれば、そうだと頷いてしまうかもしれないほどに、曖昧な思い出である。
なので中指が、一度たりとも音階を超えたことがない中指が、親指と小指を亡き者にすることを小さく小さく、手の平の両端にいる彼らに聞こえないように呟いたとき、人差し指と薬指は一も二もなく賛成した。
中指は言う。そもそも十二の鍵に対して、五本という数が悪い。世にあるものは十二に対して六を割りふるようにできている。月日でも、時間でも、すごろくの賽というものもそういう理屈があるように思われる。
しかし、と人差し指が言う。二本がいなくなった後、我々は三本になってしまうではないか。
なあに、そんな心配はする必要はないと中指は笑った。君たち、先んじて主人の家族が増えたのを知っているか。細君が病院に行って、二人になって帰って来たではないか。確かに新しく増えた人間は随分小さなかったが、人間は増えることができる。人間の一部である我々にできないはずがないだろう。
薬指は素早く計算し、三本が倍になれば六本になることを叩き出す。六本の完全なシンメトリーの手が奏でる姿を想像すると、五本のままであるのと同じくらい、あるいはもっと美しく完成されている弾き方のように思われた。
「最近、手が痛いんです。特に親指が……たまに中指まで痛みが広がって……」
指の付け根を揉むようにしながら、分厚い眼鏡をかけた白衣の前に右手を差し出す。白衣の老人は、患者の職業を聞き、心得たという顔になる。
「手の使い過ぎですね。手根管症候群でしょう」
痛み止めを出しておきますね、と結論付けた白衣は、彼の手のひらで起こっていることを知らない。
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