第42話 A海岸の見舞いの話


 六嘛りくま家へ見舞いを頼まれた時、心底めんどくさいと思ったらしい。


 Sが、大学生の頃の話だ。


 時期は、夏休みの帰省時。

 ちょうどその頃、Sの祖父が転んで腰を痛めて立てなくなっていた。この祖父のことを、Sは好きだった。厳しい親父からこっそり隠れるように小遣いをくれたり、勉強の息抜きとして将棋を教えてくれたりしたんだという。学校の振替休日なんかは親父の目がないから、今だ! とラーメンを食べに連れて行ってくれたんだとか。


 だが何よりの思い出は、釣りに出かけたことらしい。祖父は釣り好きで、時々一人で海へ出かけていた。祖父の部屋には古い釣り竿が飾られていて、時々磯の香りがした。それはほとんどインテリアになっていて、釣りに使うのはもっぱら新しい釣り竿だったけれど。

 特にC岬から橋が架かっている小さな島を好んでいて、そこでよく釣っていたという。Sも度々釣れられて、そこで釣りをした思い出がある。蝉の声と、波の音が懐かし、とSは言っていた。


 ある時、Sが、持っていった網で、岸壁にいたタコを捕まえたことがあった。

 小さな赤いタコで、ヌルヌルとして網から抜け出ようとしていた。

 Sが大物を捕まえたことに興奮して祖父に見せに行くと、祖父は笑って、皺だらけでゴツゴツとした手で彼の頭を撫でた後、タコを放すように言った。


 なんでと問うと、


「タコはヌルヌル滑るだろう。持ってきたクーラーボックスからも抜け出てくるよ。家まで持ち帰るのは難しいんだ。

 それにな、お爺ちゃんはタコをなるべく捕まえたくないんだ」


 昔、釣りをしていた時にタコに似た友人ができて、以来タコを見るたびに彼を思い出すから、なるべく命は奪いたくないと、そんな感じのことを言ったらしい。


 他の魚は存分に釣ったというが。


 そういう釣りの思い出を、Sはよく覚えていた。

 満潮時にやってきて帰れなくなったらしい、水溜まりで生き絶えかけた河豚。渇いたイソギンチャク。ひっくり返ったカニ。張り付いている海藻。空の貝殻。鳥の群がるは釣り人の捨てていった魚たちの死骸。同じく釣り人の放棄した餌のエビや撒き餌が甘ったるい腐敗を纏う。濃密な死の薫り。そんな光景がある岩場に腰を下ろして、釣り竿を振るう数時間。海の中の芳醇な命を考えるひととき。祖父の隣でのんびりと時間を過ごすSの体験は、幼少期の1ページだった。


 同時に、疑問に思っていたこともある。それはある日、祖父が海の方に行くと言った日のこと。


 釣り? 僕も行く。そう言ったSは、しかし祖父に家にいるよう言われたらしい。


 釣りじゃない。見舞いだと祖父は言った。

 A海岸の古い知人が寝込んでいるから、見舞いに行くのだと言った。


 A海岸と言われて、Sは、ああ、釣りではないんだなと理解した。海辺で釣りをする時、祖父は、A海岸だけは選ばなかったから。


 その見舞いに行く前に、祖父は仏壇に線香を備えていた。


 磯の香りではなく線香の匂いを纏って、祖父は出かけて行ったという。




 さて、そんな祖父が転んで腰を痛めたというから、見舞いがてら帰省したSは、祖父の部屋で大学のこと、友達のこと、などなど色々話した。磯の匂いのする釣り竿は完全なインテリアとなっていて、その部屋で将棋を指しながら二人で話した。


 そんなときにふと、祖父が言ったのが、冒頭の言葉である。


 六嘛家へ見舞いにいってはくれんか。


 曰く、祖父の古い知人が、寝込んでいるのだと言う。

 そして寝込む度に見舞いに行っているのだと。

 今まで度々家を留守にしていた用事の一つが、それなのだった。


「見舞いと言っても、大したことじゃない。見舞い品は仏壇のところに用意しとるからな。あれを渡してきてくれるだけでええ」


 正直、心底めんどくさいと思ったらしい。なにせ祖父の知人とはいえ己とはほとんど無関係の家なのだ。六嘛などという家を知ったのも初である。


 けれど、他ならぬ祖父の頼みである。


 どうせ暇なのだしということで、引き受けることとした。



 ─────



 六嘛家はA海岸沿いの集落の一つにあるという。

 海岸へは車で向かうつもりであったが、祖父に止められた。車では絶対に行ってはならんと、強く言われたのである。不審に思いながら、最寄り駅まで自転車を飛ばした。暑い日である。雲一つ無い青空の下、ジリジリとした熱気と陽炎、蝉の声が酷く五月蠅い。見舞い品が悪くはならないかと心配だったが、祖父は気にするなとだけ言った。


 駅で切符を買う。

 しばらくしてやってきた電車に乗った。


 電車に揺られる。

 適当にスマホを弄っている。



 しばらくして顔を上げて、ぎょっとした。

 誰もいない。


 車内に乗客がいない。


 田舎である。電車を使う人の数はそう多くはない。だとしても乗る人間は、ゼロではない。なのに、だ。この車両に自分以外誰もいない。


 窓からは緑色の水田と点在する村々が見え、やがて山へ入っていく。


 ゾワゾワとする厭な気分を味わいながらも、まあそういうこともあるかと内心納得しながら、電車に揺られていく。



 A海岸のその駅は小さく、寂れていた。

 一人だけで降りる。ホームは静けさに満ちている。

 遠くからざざーん、ざざーんと波の音だけが、聞こえてくる。


 ジリジリとした日光が陰ったように感じて空を見上げるも雲一つ無い青空は健在だった。

 なんだかムズムズとして、耳の中を指でほじる。


 何もおかしくない風景に、何処か違和感を覚える。


 駅の改札を抜ける。

 駅員が暇そうに立っていた。

 軽く会釈をしながら通り過ぎて



「おぎゅ、に、ちぢりぢに」



 は?

 振り向くと駅員が欠伸をしている。


 なんだか厭な気分になりながら、駅を出た。


 静かである。

 少し高いところにある駅のロータリーからは青くキラキラと照る海が見える。ざざーん、ざざーんという音が変わらず聞こえる。


 六嘛の家の住所をGoogleマップに入力してみると、だいたい十分の距離だ。


 歩く。

 歩いていく。


 海沿いの町というのは全体的な雰囲気が平野部と違うように思える。建物の建築様式にそう差はないと思うのだが、やはり海という要素が隣にあると、その分思考や見方にバイアスがかかるのだろう。そのように思いながら歩いていた。


 浜辺の方からはざざーんという波の音と、見てみると遊んでいる人の姿がいくつもある。ピークは越えているが、まだまだ暑い日は続いており、海に来る人もいるのだろう。


 そんな事を考えながら、やがて道を曲り、路地へ入り、入り組んだところを2箇所ほど曲る。


 するとSの前に、大きな屋敷が現れた。


 おお、と思わず感嘆の声が漏れる屋敷である。

 Sの家よりも数倍は広いだろうその屋敷の、開け放たれた門をくぐる。広い庭には飛び石が敷かれ、そして奥の屋敷の扉が、開かれている。


 庭には、と周囲を見てみて、Sは思わず息を呑んだ。


 人がいる、と思ったのだ。だが、違う。よく見ればそれらは人ではない。


 案山子である。

 案山子が、五つ立っているのだった。


 おかしい、と思った。

 そもそも案山子とは畑にやってくる鳥を防ぐために置かれるもの。そんなものを庭に置いても意味はないはずだ。

 立っている案山子が皆、家の方に顔を向けているのも気味が悪い。まるで家を見張っているようだ、なんてそんなことをSは感じた。

 何より、立っている五つの更に向こうに、六つ目が転がっているのも気になるのであった。案山子の数は全部で六つあるが、ひとつは脚が折れて、地面に転がっていたのである。


 六嘛の家の人は、何故直さないのだろう。もしかして気がついていないのか。そんなことを思いながら、案山子から目を離し、家の扉に向き合う。



 雲一つ無い青空という晴れた天気のその下で、家の中は闇だった。

 日光がまるで差し込んでいない。そんな風に思える暗さである。


 呼び鈴らしきものは見当たらない。

 仕方なくSは声を出した。



「祖父の代わりにお見舞いの品を届けに来ました。Sですけども。あの、どなたか居られますか?」



 玄関の暗がりに変化はない。

 奥の廊下は静まり返っている。


 扉口から頭だけ入れて、Sは呼びかけた。



「あのー、Sですけども。祖父の代わりにお見舞いの品を届けに来ましたあ」



 しばらく待ってみたが、返事はない。


 もしかして留守なのだろうか。と思いつつ、いやでも祖父は寝込んでいると言っていたが、それでも通院している可能性だってあるだろうし、しかし。


 しーん、と。静かな雰囲気だけがそこにある。


 けれどそれは心落ち着くような静けさではない。

 まるで何もかも死んで、音を立てるものが存在しなくなったような静けさである。


 いや、違うなと。

 思う。これは、死んだ後の静けさじゃなく。

 息を潜めている静けさだ。何か怖いものから。

 逃れるための。もしくは。



「あのー、祖父の、知り合いの方がこちらで、伏せっていると聞いたものですから……。その、いらっしゃいますかあ?」



 そろそろ厭な気分が強まってきた。ここにいてはいけないという気持ちが強く強く上がってきている。もう見舞い品を置いて出ていこうか。家から電話して、置いてきたとでも伝えれば良いだろう。そのように、思って。



「ええーと。とりあえずここにお見舞いの品を置いておきます、ね……」



 Sがそう言って、上がり框に品を置こうと屋敷の中に入った時である。




「はーい」




 幼い女の声が帰ってきた。

 祖父の知人。いったい何歳の……。いや、家族が留守番でもしていたのか。そんなことを、思っていたところで、ふと。


 心をよぎる、何か。違和感のようなもの。



「いまいきますぅ。ちょっとそこでまっていてくださいねぇ」



 甘ったるい言い回しが、幼い甲高い声に乗って届いた。


 幼子が背伸びした声ではない。むしろ逆。わざと幼いふりをしている声。そのような奇怪な想像がSに浮かぶ。


 そして、だ。

 この静かな家の、案山子が見つめている家の、その中で、幼いふりをする人物とは、いったい何者なのか。


 会いたくない。


 そう強く強く思い、堪らなく恐ろしくなってきた。



「そこにいますかぁ? いてくださいねぇ。いまいきますからぁ」



 声は闇の中から聞こえてくる。

 神経が逆撫でされるような甘ったるい声。


 同時に今度は別の音も聞こえる。


 ごと……。ごと……。

 ず……っ。ずず……。


 何かが闇の奥で転がっている。そして床の上を、擦るようにして動いている。そういう音が聞こえている。


 ず……。ずずず……。

 ごと……。ずず……。



「もうすこしですからぁ。あとすこしのところにいまぁす」



 この場を離れたい。今すぐ帰りたい。いや、もっと直接言えばそう、逃げたい。そうしないと闇の中から現れた何かを見てしまう。見てはいけない。逃げないといけない。そう思うのだが、足が、足がどうにも動かない。体が完全に固まっている。



「いまいきまぁす」



 床の上を、這っているのだろうか。

 転がっているのだろうか。それとも、両方?

 やって来るものはどう考えても人間ではない。人間の移動によって起こる音とは思えない。少なくとも、こんな声を出すものが立てる音ではない。常識ならば、だ。


 ず……。ずっ。ずっ。ずぅ………っ。


 闇の中から来るものは、何だ。



「あとすこしでぇす」



 廊下の奥の暗闇の中に、ぬっと顔が浮かび上がり……。



 それが、祖父の知人らしい年寄りなのか、声通りの子供なのか、そもそも人間ではなかったのか。Sにはわからない。何故なら浮かび上がりそうになるその時に、全身の力を振り絞って、背中を向けて家を出たのだから。


 玄関を抜ける。

 振り返らない。振り返ればそれが見える。見えてしまうとわかったから、全力で前のみを見て、飛び石を越えて、門を出ようとして。


 Sの視界の片隅に映るものがある。

 駄目だ見るなと心の声が叫ぶが、反射には抗えない。咄嗟に見てしまったのは、案山子の立っている場所とは反対側の庭。



 その庭を埋め尽くす歯を剥き出した人々と目が合う。



 悲鳴が自分の喉から出たことを、Sは最初わからなかった。門ではなく、案山子の立つ方向に体が動いたのは気付いた。そして、抜かしそうになる腰、バランスを崩した体が、ばきりという音と共に地面に倒れた。


 ばきりという音。

 それは、立っていた案山子にぶつかり、その足を折った音であった。

 慌ててそちらを見て、そして、反対側の何かを見ようと視線を戻して、Sは困惑する。



 何もいない。


 玄関は閉じており、飛び石の向こうには何にもいなかった。



 蝉の声と、波の音が聞こえる。

 明るい日差しの中、Sは呆然と倒れており、しばらくして、立ち上がる。

 ふと思う。

 さっきまで蝉の声が聞こえていなかった。

 波だけが聞こえていたはずだ。


 どこから何が始まっていたのか。

 自分は何に関わりかけていたのか。


 そして今、果たして本当に、戻って来れているのだろうか。


 Sは困惑を覚えながらも、ふと見舞いの品が手元にないことに気付いた。

 周囲を見回すが、何処にもない。

 玄関の中に落としたらしいが、確認する勇気はなかった。


 だが、これで、とりあえず、目的は果たせた。


 帰ろうと思い、立ち上がる。



「まあ待て。お前さん」



 今度こそ心臓が止まるかと思えた。

 飛び石の上に誰かがいた。


 それは、皺くちゃな顔をした背の低い老人だった。

 男であることは声でわかる。掠れた、低い声である。



「お前さん、Sの孫か。驚くでない。わしが、あいつの知り合いじゃ。孫が代わりに来るというのは、知っている。じゃが……、なるほどなあ。


 案山子が、ひとつ倒れとったろう。お前さんがあれを見たのは、そのせいじゃ。まぁ、すまんかったの。ちょーっと調子が良くなったから、コンビニまで行っておったから、その隙を、やつらめ……。


 ほれ、ぼーっとするでないよ。

 見舞いのものは、中か。わかった。ありがとな。

 怖い目にあったろうが、忘れなさい。忘れて、帰んなさい。世の中には、こういうこともあるもんだ。


 わしが子供の頃もな。こういうものには出会ったもんじゃ。お前さんがさっき、見たような、あのようなもの。それよりもなお恐ろしいものにのう」



 Sは。

 その時、今日一番の、厭な気分を感じていた。


 老人の口調は親しみやすく、こちらを労るように思えて、けれども、けれどもである。

 帰りなさいと言いながら、その老人は話すことを止めないでいる。Sの目の前でずっと話し続けている。

 そして。何よりも。





 青空の下、その老人には影がなかった。





 飛び石の上で、影を持たない老人は言う。



「もっとも恐ろしいものがある。この家にまつわるものよりも、わしやお前さんがであってきたものよりも、なお恐ろしいものがあるものだ。あれはのう、わしがまだ子供の頃に聞いた話じゃ……






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