第32話 したはずの話
したはずのことが出来てない、されていない、そんなことは多いだろう。
仕事でも、プライベートでも。
掛けたはずの鍵が開いている。
消したはずの電気がついている。
出したはずの書類が引き出しから見つかる。
払ったはずの料金の請求が届く。
別れたはずの恋人が平然と部屋の中にいる。
閉めたはずの冷蔵庫が開いている。
こうした出来事は己という人間への信頼を大きく減ずる。記憶の不変性を著しく減衰させる。自分という人間のあやふやさを突きつけられる思いだ。
実害があればなおさら心に厳しく響く。
消したと思ったクーラーが付けっぱなしだった。これはまだ、付けている期間の電気代を払えば済む。
消したと思ったヒーターが付けっぱなしだった。これは下手をすれば大事故だ。火事にもなろう、ガス中毒の危険もある。最近では自動で切れたり、そうした不安を解消してくれる商品もあるが。出先でふと思い出し、消した記憶が無いとかなりひやりとさせられる。
私自身かなり忘れっぽい性格で、入れたはずの提出物、弁当、宿題、運動着、エプロン、習字道具、リコーダー、約束の場所、手紙の返事、そういった尽くを忘れ果てる過去を過ごした。
今でもその傾向は続いている。いるのだが。
それどころではない、という状況でもある。
どういうことかというと。私の住んでいたこの部屋が問題なのだ。
メゾンピース逆水。駅から徒歩二十分。築二十年。ワンルームの中々悪くない、一人暮らしにちょうどよいこのアパートだが、どうやら「いる」のである。そうとしか思えない。
例えば深夜、ふと目が覚める。深夜目を覚ましたらすることは二つ。寝返りか、用を足すことだ。その時の私は後者で、ベッドから起き上がり、寝ぼけた頭で廊下に向かう。住み慣れた家だ。そう広くもないから、目を瞑っていてもある程度動ける。そう慢心してパソコンを踏み壊したこともあるが、まあ、簡単には直らないから慢心というのだ。暗闇のなか手探りで扉を開ける。廊下に出る。
寝ぼけた瞳に突きささるように光が入ってくる。
トイレの電気が、ついている。
扉がゆっくりと動いている。
まるで今誰かが使い終えて、電気を消さずに出てきたように。
時刻はちょうど深夜二時であった。
これが一度だけなら夢や勘違いで済むのだが、こういうことが頻発する。
そうなれば流石に異様に思えてくる。
こういう事態は、今も継続している。
だが、真に問題なことはそこではない。
何かがいる部屋。それだけならまだ良かった。
真に問題なのは、だ。
私は今、部屋の前に立っている。
扉の前に立っている。
朝、出る時に鍵を掛けている。
今、まだ鍵穴に鍵は指していない。
私はドアノブを握る。
私はドアノブを回す。
回る。スムーズに回る。
鍵が開いていた。
ゆっくりと扉を開ける。
部屋の奥から、足音がする。
「おかえり」
出迎えて来たのは、男だ。
私は、ため息をつく。
「ただいま」
そして後ろ手に扉を閉めると同時にバッグのなかのナイフを掴み、目の前の男に突き立てた。
私は今、部屋の前に立っている。
扉の前に立っている。
先ほど、出る時に鍵を掛けている。
今、まだ鍵穴に鍵は指していない。
私はドアノブを握る。
私はドアノブを回す。
回る。スムーズに回る。
鍵が開いていた。
ゆっくりと扉を開ける。
部屋の奥から、足音がする。
「おかえり」
出迎えて来たのは、男だ。
私は、ため息をつく。
「ただいま」
そして後ろ手に扉を閉めると同時にバッグのなかのナイフを掴み、目の前の男に突き立てた。
私は今、部屋の前に立っている。
扉の前に立っている。
先ほど、出る時に鍵を掛けている。
今、まだ鍵穴に鍵は指していない。
私はドアノブを握る。
私はドアノブを回す。
回る。スムーズに回る。
鍵が開いていた。
ゆっくりと扉を開ける。
部屋の奥から、足音がする。
「おかえり」
出迎えて来たのは、男だ。
私は、ため息をつく。
「ただいま」
そして後ろ手に扉を閉めると同時にバッグのなかのナイフを掴み、目の前の男に突き立てた。
私は今、部屋の前に立っている。
扉の前に立っている。
先ほど、出る時に鍵を掛けている。
今、まだ鍵穴に鍵は指していない。
私はドアノブを握る。
私はドアノブを回す。
回る。スムーズに回る。
鍵が開いていた。
ゆっくりと扉を開ける。
部屋の奥から、足音がする。
「おかえり」
出迎えて来たのは、男だ。
私は、ため息をつく。
おかしいのは、家か、こいつか。
それとも、私なのだろうか。
殺したはずの彼がいつも家にいる。
捨てても焼いても流しても、帰宅したら必ず目の前にやって来る。笑顔で。
もうどうして殺したのかなんか忘れてしまった。
最初の一回目がなぜだったのか、なんて。
二度目は恐らく、恐怖から。
数度目からは、気味の悪さ。
そして今は、もはや習慣だ。
流れ作業の殺人工程。最短距離を駆け抜けるナイフの軌跡。自慢ではないがこの距離、この場所、このナイフに限り、私は人類最速の使い手となれるだろう。それだけの数を殺して殺して殺して、それでもなお、私は彼を殺せない。
もはや私にとって彼が何者なのかすら、思い出せないのに。
今はもう、この部屋の奥まで入れない。入口で彼を殺して、捨てて、それを何度か、満足するまで繰り返して、そして、最後には貸しガレージへ戻り眠る。そういう生活を続けている。
この部屋を引き払うと彼はどうなるのか。
わからない。
何もわからないのだ。なぜ、彼が生き返り続けるのかも、わからない。
なぜこうも、私が、彼を殺し続けているのかも。
わからない。ただ、もしかしたら、私が単に忘れているだけなのかもしれない。殺すことを、忘れたから、殺せていないのかもしれない。
死という結果、もしくは命という概念を、いつも何処かに忘れているから。だから彼は、ずっと生きている、のかもしれない。
私は、ナイフを突き刺す。
彼の顔は見ないように。
肉深々と鋼が貫く。
したはずのことが出来てない、されていない、そんなことは多いだろう。
仕事でも、プライベートでも。
掛けたはずの鍵が開いている。
消したはずの電気がついている。
出したはずの書類が引き出しから見つかる。
払ったはずの料金の請求が届く。
閉めたはずの冷蔵庫が開いている。
殺したはずの男が、平然と生きている。
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