第31話 心残りの話
セットポジション、テイクバック。
ステップ、リリース、ストライク。
───奈須きのこ『DDD2』(講談社BOX)
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社会科のK先生は、一学期末試験が近付くにつれて残業時間が膨らみ続けていた。
その夜もいつもと同じく、誰もいない職員室でパソコンに向かっていた。
遅くまで活動していたバスケットボール部と剣道部もニ時間前には全員帰宅した。野球部の応援団とチアリーディング部、吹奏楽部の合わせ練習も終了している様子で、校舎から聞こえてくる音はなく、窓の外はひたすらに暗い。
K先生は授業を受け持つ三学年十二クラス分の試験を作成していたのだった。
去年は演習の授業など、テキストから出せるから楽なテストも多かったのに、今年は全て講義形式である。
内心ため息をつく。己の板書事項、授業ノートと照らし合わせながら、テキストから使える問題をピックアップし、或いはゼロからオリジナルの問題を作成していく。この作業には当然のように時間がかかる。
夜中の学校は静かだ。
昼間の喧騒は消え去り、校庭や複数の校舎が町からの音も遮る。キーボードを打つ音、印刷機の動く音がやけに大きく聞こえ、その大きさが逆に学校の静寂を強調している。
最後のクラスの分が出来上がる。配点を計算し、あっているかどうかを確認していく。
問一、各2点、十問あるので10点。
問二、選択問題なので3点。
問三は記述問題で、この部分とこれに言及していればそれぞれ2点与えて計4点……。
よし、と頷く。
点数は合っている。合計百点だ。
仕事が片付いたことにリラックスし、K先生は伸びをしながら時計を見た。
時刻は時を示している。
静寂がひときわ強まったように思えた。
深夜の学校。
そんなに恐ろしいものでもない。
ここ半月、毎日のように残業していて、夜中の学校には慣れきっている。
それでもたまに、厭だなあと思うことは起きる。
起きるというか、気付く。
職員室の窓から見える東校舎の三階教室。あれはスポーツ育成クラスの教室だった。その一つが、サラサラと、なんだ? 光る何かが舞っているのか?
ホコリ? いや、何らかの明かりに照らされたホコリが舞っていたとしても、こちら側まで見えるわけがない。
更にいえば、だ。
何らかの粉が舞っている、舞っているということは空気の流れがあるというわけで。
ああ窓が開いている。
K先生はそう思った。
三階だ。別に侵入なんてされないだろう。するやつがいたら拍手したいぐらいだ。それでも、開いた窓を放置して帰ったことを管理職に知られたら怒られるし、仮にもしも何かあれば責任問題だ。というか現に何かが起きているから、サラサラキラキラしているのである。
確認しに行くしかない。
ああ厭だ。面倒だ。
職員室をでた。
廊下は暗い。職員室の明かりは、夜の闇にすぐに飲み込まれてしまう。
非常灯やスイッチの位置を示す明かりがぼんやりと小さく光っている。
職員室のある中央校舎から東側校舎へ向かうには、渡り廊下を通る必要がある。といっても普通の廊下と変わらない。変わらなかったのだが、このスペースを活用しようと考えたある時代の校長が生徒の制作物を並べ始め、それが続いているため、ある種のギャラリーとなっている。
そこに踏み込む。
電気はつけない。面倒だからだ。
雰囲気は抜群だ、と思った。
風船を持って飛ぶ太った小人数十人に囲まれぼんやりと微笑む少年の絵画。タイトルは「友達」。七年前に卒業した生徒の絵。
角の生えかけた耽美な美青年の絵。
木材を削って作成された梟の彫刻。ただし瞳はガラスで、何処からでも目が合うように出来ている。三年前の卒業生のもの。
書道部の作品。『惑星』。
阿修羅像。
薔薇のスケッチ。
アップされた笑顔。
死火山の風景写真。
税作文。
『歌声やがて星を結んで
遠き夜に泣き恋うる誰かに届く夢』とある詩。
球体関節人形四体とか、どんな生徒がいたんだよと思う。
ふと、足を止める。
新聞が飾られている。
甲子園の、第一回戦だ。
昨年、この高校は県大会を勝ち抜き、甲子園出場を決めている。ただし、一回戦の相手は古豪と呼べる強敵で、力及ばず大差の敗北と相成った。
選手たちは全力を尽くしたし、中にはK先生が授業を持つクラスの生徒もおり、栄光の舞台とはいえその敗北する姿には心を痛めた。
その後の報道や中傷を思い出す。この高校の野球部は他都道府県からの奨学生が大半を占める。県内では留学生軍団、外人部隊だのと揶揄されることもあり、勝っても紙面の扱いは小さく、負けるなどすれば鬼の首を取ったように厚く扱われてしまう。それは甲子園の敗北でも同様で、特にインターネットではより酷いものとなった。
そうした中傷にも負けずに、主力であった面々はこの春去っていった。
その背中には感じ入るものがあった。
……と、懐かしんでいる時間ではなかった。まずは窓が開いているかどうかを確かめなければならないのだ。
K先生は廊下を抜けて東校舎に入る。階段を上る。
自分の足音が大きく響く。古くて熱の籠る校舎は、夜であってもむわっとしている。三階まで行くと、微妙に汗の垂れるのを感じた。
問題の教室に入る。
そこには砂があった。
ああ砂だと思った。
一面砂が吹き込んでいる。
机の上にはホコリのように砂が積もり、それらは床も覆っている。小さな砂漠。濃縮された、極小の。
それらが月明かりを浴びて、舞っている。
風は感じない。
……風はないのに、舞っているのは、そこに何かがいるからだ。
舞い上がる砂は、黒板の前で人間のような姿を取っていた。
K先生はその姿に見覚えがあった。
砂の人型は蠢いている。
「もう、帰れよ」
K先生はそう言った。
砂は揺らめいて、気が付いたら消えていた。
K先生は人型のいた黒板に近付き、そして、その上にある時計を外す。多分ここだ。そう思った。
そしてやはり、それはあった。時計の裏に小さな瓶が貼り付けてある。
その中には、砂が入っている。
火山灰を含む鹿児島の黒土や、水はけのよい京都の砂などが混ぜられてできている、砂。
命懸けの死闘の舞台となり、全国十五万人の血と汗と涙と努力を否定する、僅か一握り十数人を除いた、十五万人を否定してみせる、それは土だ。兵庫県から、持ち帰られた。
甲子園の、砂である。
K先生はしばらく眺めた後、それを元の場所に戻した。
まあ、気分転換にはなったか。そう、K先生はひとりごちた。
そして、なんとなく視線を下げた。
明かりの灯った職員室が見える。
当然、無人だ。
そろそろ帰るかと思って、K先生は職員室へ戻ろうとした。
一階へ降り、渡り廊下へ。
何も異常はない。
昨年の甲子園で、この学校の、エースと呼べるピッチャーが投げることはなかった。遠く遠くの県からやってきた彼は、砕けた
球体関節人形。
詩。
税作文。
死火山の風景写真。
アップされた笑顔。
薔薇のスケッチ。
阿修羅像。
『惑星』。書道部の作品。
木材を削って作成された梟の彫刻。ただし瞳はガラスで、何処からでも目が合うように出来ている。三年前の卒業生のもの。
角の生えかけた耽美な美青年の絵。
風船を持って飛ぶ太った小人数十人に囲まれぼんやりと微笑む少年の絵画。タイトルは「友達」。七年前に卒業した生徒の絵。
用語もまともに勉強してこない男だった。
だが奴は巣立って行った。
そう見えたが、しかし。
残るものもあった、ということだろう。
その残るものを片付けるのは、K先生の職分ではない。そう思った。
職員室につく。
荷物をバッグに詰め、帰ることとした。
警備会社に連絡して、学校を施錠する。
最後に一度振り返る。
明日───そろそろ今日になる───は、テストが始まる。
あと数時間後には死んだ顔をした生徒たちが列をなすのだろうと思い、
カキン、と。
鉄が何かを打つ音が響いた。
もうどうでもいいや。どうせ野球部で何が起ころうと、それは野球部の責任だろう。K先生は何も聞かなかったことにして帰ることにした。
夏であった。
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