第28話 鏡の話


 友人曰く。

 夜中に鏡を見るのが怖いという。


 恐らくは幼少期に与えられた恐怖ゆえであろう。実際に何らかの怪異体験をしたわけではないが、と彼は言う。恐怖譚には二通りあり、あの世もしくは異類の世界と此岸即ちこちらの論理が何らかの形で交差して起こるもの、つまり幽霊とか魔物とかそういうもの。または超自然的な能力によって引き起こされる何らか、魔術だとかポルターガイスト、呪詛のようなもの、に分けられるだろう、というのが彼の持論だった。

 そして、そんな分類をした日には必ず、僕はそのどちらでもないんだよと言うのだった。どちらの体験もしたことのない人間なのだ。そう言って笑うのだった。


 確かに、彼と、もうひとりの知り合いと三人でエレベーターに乗った時。目的は十五階の知人宅なのだったが、四階で扉が開き、女が一人乗り込んできたことがある。


 女というものは須らく陰気なものであるが、この女の陰性は度を越していたと記憶する。野暮ったく長い髪。くすんだ桃色のワンピースは皺だらけだ。指先は黒ずんでおり異臭すら感じた。


 そいつはエレベーターの壁に頭を押し当てて、動かなくなった。奇妙で、出来の悪い現代アートもどきの完成だ。


 私はそれを極力無視した。もうひとりの知り合いもまた同じである。ただ、恐怖に弱いこの知人は、明らかな異常事態と密閉された空間の相乗効果に直ぐ様影響され、冷や汗と震えの止まらない様子であった。


 問題なのは友人である。彼は一切気にしていない。そのまま十五階につく。女は動かない。我々は刺激しないように降りた。


 背後でエレベーターが閉まる。


 恐る恐る振り向くが、見えるのは単なる扉だけだ。


 知人と二人で、息を吐く。


「いや……なんだ今の」

「嫌な女でしたね」


 そう話していると、友人が不思議そうに言った。


「何の話をしているんだ」


「女なんか乗ってないだろ」



 どれだけ二人で説明しても、友人は首をかしげるばかりだった。


 我々にははっきりと見えたあの女が、友人には全く察知できなかったのだ。

 尤も、そう主張して怖がらせようとしているだけの可能性も、否定はしない。その方がまだマシだからだ。


 あのビルのエレベーターを一人で使うことをやめてから、二年が経つ。



 ……という経験があるのだ。

 つまるところこの「友人」にはそういう怪談、怪異の体験がまるでない。あったとしても気付けない。そういう男なのである。


 そんな男が怖がる唯一のものが、深夜の鏡だ。


 深夜の鏡にまつわる怪談は多い。

 異世界と繋がるとか。霊の通り道とか。魔物がでてくるとか。


 彼は、そういうものの一つに影響されたのだろうと語る。


 彼は寝る前に歯を磨くのだが、洗面台の上には鏡がある。それを見るのが怖いので、極力下を向いて磨くのだと言う。


 また鏡恐怖症は筋金入りで、ビジネスホテルに泊まるときにも、事前に部屋の様子を写真で調べて鏡の無いところ、もしくはあっても小さな部屋を選び、バスタオルや着替えを干して鏡面を隠そうとするのだった。


 とかく深夜の鏡が怖い。



「だから、ふざけてみたんだ」





 変顔をして鏡に映ってみたのだとか。

 巫山戯ることは、怖さを跳ね除ける。お笑いの場に幽霊は出てこれまい。


 そういう発想だった。


 ある晩───それは真夏で、台風が近付いていた。窓の外から隣家の門がばたんばたんうんうん、ばたん、うん、ばたん、と風に煽られ開閉される音が聞こえたらしい───彼は歯を磨きながら、洗面台に向かって、変顔をした。


 彼は恐る恐る顔を上げた。



 鏡の向こうも変顔をしていた。



 それだけだった。

 それを見て、何をやってんだろうなと自分に呆れた。

 今まで何が怖かったのだろう。鏡は所詮、ただの鏡だ。奥に恐ろしい何かが写っていたりなどしないのだ。向こう側から何かが出てくるわけもない。


 苦笑した。




 友人は、そこで気付く。





 鏡に映る自分は、変顔のままだ。



 にゅっとつり上がった口の端。剥き出しの白い歯。

 八の字を描くように歪んだ目。半ば剥いている白目。

 皺の寄った額。


 奇妙な顔が目の前にある。



 頬に手を触れる。自分の顔は真顔に戻っている。

 口は笑ってない。目はむしろ大きく見開いている。


 だが鏡の向こうは、変顔のままなのだった。





 その後どうなったのか、彼は黙して語らなかった。






 そもそもこの話を彼から聞いたのがいつだったのか、定かではない。

 気が付いたら覚えていたのだ。彼が話した内容は、鮮明に思い出せるのだが、さて何時何処で聞いた話なのかは、ぼやけていてわからない。


 今にして思うのは、鏡が怖いという彼は、この時代さぞ生きづらい思いであろうということだ。

 スマートフォン。電源を切れば、表面のフィルムに反射した己の顔がよく見えよう。自分の顔を見る頻度として、これ以上のものはない。


 ゲームのローディング画面で暗転した時、己の顔が映り、想像以下に不細工で白けてしまうということが多々あろうが。



 自分の顔ほど、実物と異なってしまうものもない。



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