第24話 蛾の話
大学生の頃、やることもない時は散歩をしていた。
散歩は楽しい。景色を見るのも、考え事をしながら歩くのも、とにかく楽しかった。知らない道、知らない場所を歩くことは少なからず興奮があった。
その日は、キャンパスの更に山奥へと進む道を選んだ。
通っていたキャンパスが小山の高台にあり、鬱蒼とした原生林が昼なお暗く独特の趣を感じさせてくれて、奥へと続く道がどこまで伸びているのか、たいそう気になっていたのだ。
校門を出て、普段は下へ降りていく路を、逆に登っていく。
山の奥へと。
遠目にはブロッコリーとしか見えない、山というには些か低い丘陵、小山であっても、それでもやはり山は山。前述した通り原生林の鬱蒼は、アスファルトで舗装された公道沿いであるのに日差しを優に遮り、視界は何処か薄暗さを湛える。
まだ初夏にも少し早い頃合いだったと記憶する。
セミの鳴き声はなく、道端に茂る雑草の青々とした様も勢いに欠けていた。
しばらく進むと道は二股に分かれている。
右側には看板があり、開発されたニュータウンがあることを示していた。
山の奥を目指しているのに、住宅街に出ては興醒めだ。
左の方へ進むことを選ぶ。
登っていく。
登っていく。
夏ではないとは言え、梅雨の最中。湿気は無視できない。むわっとする暑気がどうにも全身に纏わりつく。
滴り始めた汗を拭い、ふと数歩先を見ると、何やらあって、それは、祠である。覗いてみると、赤色の布のようなものを纏う三面六臂のそれは阿修羅像。しかし朽ちているのか、風化したのか、或いは最初から作っていないのか、顔のパーツがなく、のっぺらぼうである。のっぺ羅像だと内心面白く思えた。
像の前には茶碗が置かれていて、雨水でも溜まっているのか、どこか濁っていた。
歩くのを再開する。
しばらく進むと左側の森が開けた。
見れば、木がほとんどない一角。
代わりにあるのは、黒黒とした平面。
それが湖面であると気付いたのは二秒ほど考えて後のことだ。
貯水池である。
円形に水が溜められていて、流れることなく淀んでいるそれは黒い。上には濃い緑の水草が浮かぶ、藻が茂る。反対側にはダムのようなコンクリート制の設備が見え、上部のみ顔を出す姿は何処か古代の遺跡のように思えた。
こういうのに出会えるから、散歩は面白い。
貯水池はその近辺にいくつかあって、道沿いに何度も見かけた。
ガードレールに阻まれていたので池の近くまでは降りなかったものの、雰囲気のある貯水池はどれも好みで、でてくる度にしばらく眺めていた。
二つ目の貯水池は前のより水が綺麗に感じた。
三つ目は、先の二つより大きい。
四つ目は、水草の量が群を抜いていたと思う。
問題は、五つ目だった。
白いガードレールが外側に開けていた。
その奥に、貯水池があった。
そこに、
クソデカい蛾が泳いでいた。
全長五メートルはあったと思う。
ああ、蛾だ。と思った。
蛾だ。
例えば月曜深夜にコンビニへジャンプを買いに行く時に、通り過ぎた自動販売機にベッタリと張り付いているようなそんな蛾だ。
何処か黄ばんだような白色で、羽には大きな丸が左右に三つずつ浮かんでいる。丸の中心は赤色だ。
赤い目玉が六個あるように思える。
それが、ゆっくりと、水面を漂っていた。
羽がかすかに動いていて、何より六本の腕が水を掻き、するすると湖面を進んでいた。
平泳ぎだなあと思った。
バタフライじゃないのかよ。いや、そりゃそうか。蛾だもんな。
いや、何故、蛾。
……大き過ぎないか?
あまりに当然のようにそこを泳いでいたから、大きさへの違和感に気付くのが遅れてしまった。
クソデカい蛾が泳いでいた。
全長5メートルはあったと思う。
昔の映画にあんな感じの怪獣いたなあと思った。
蛾は、何も気にしていないように、ゆっくりと湖面を泳いでいた。
クソデ蛾。
その泰然とした趣き故だろうか。明らかに人間のサイズを超越した怪物を目の当たりにしながらも、恐ろしさというものを全く感じなかった。
なんとなく。
偉大なものを見ているような気持ちにすらなって。
何処か遠くから音が聞こえてきたのは、その時だ。
それは笛の音色。太鼓の響き。人々の騒がしい言葉の波。
ふっと頭によぎる。
燃える、燃える、燃える───イメージ。
神の瞳は空。
地は緑に満ちて。
燃え盛る焔を抱くように、円陣を組んだ人は踊る、踊る、踊る───
地と空、二つの灼熱に愛され、そして二つを愛す人々は、救われるように踊っている。踊り手と踊り足がステップを刻む。交差し、離れ、絡み合う。彼らを導くのは肉笛遣い。ヒュンと空気を裂く音は指揮。絶叫を奏でる肉笛たち。その音色に酔わされて、踊り手と踊り足どもは更に加速し続ける。空には鳥が飛ぶ。山ほど鳥が飛ぶ。極彩色の人食い鳥が飛ぶ。すずめが飛ぶ。カラスが飛ぶ。コンドルが飛ぶ。蛇が飛ぶ。何処から来たのかというほどの鳥が飛ぶ。その下で、踊り手と踊り足がステップ。肉笛の音色が響き渡る。
祭儀だった。恐らく二十年に一度の。なぜ二十年なのかは誰も覚えていない。以前行ったのが二十年前なのかも定かではない。記憶に価値はない。神話に意味はない。神々は人の理を超越しているのだから、その眷属足らんと望むものもまた、条理を捨て去り気儘に生きねばならない。この過酷の地。灼熱と病、鳥獣と毒蟲の息づく、命の楽園から程遠き修羅畜生の獄道。食物連鎖と弱肉強食の理のみが支配する繁栄絶滅輪廻の大地で、気儘に生き抜くことができたもの、それすなわち神である。神であるなら自由である。自由であるから踊るのだ。踊り手と踊り足は神であり、その眷属。命の円環を抜けた解脱の証として、その生殖器は削ぎ落とされ、その口は縫い合わされ、その目は潰し塞がれている。穴という穴に枝と葉と肉を詰め込まれ異形に変じた彼らはやはり人でなく神である。生殖行為を捨て、捕食行為を捨て、睡眠行為すら捨て去って。生存に不要なるダンスという行為を追及する彼らはやはり命ではなく神である。
神である、神である、神である。
肉笛遣いが肉笛を奏でる。
生殖器のみを削いだ、まだ人の身に留まる神官たちは、燃える焔へ供物を投げ込む。
祭儀は盛り上がる。
祭儀は盛り上がる。
祭儀は盛り上がる。
昨晩、夢を見た。
鳥になって空を飛んでいたと思ったら、学校の廊下を走り回っていて、扉を空けた先がジャングルだった。楽しくなってきたので踊った。気が付くと、足元を猫が走っていて、周りで日焼けした男と女が泣きながらずっと踊っていた。ジャングルだけど、やけに静かに思えた。木々を見ると、何か違和感。目を凝らすと、木々の隙間にはぼんやりとした灰色の男と女と子供とが沢山立っていて、じっと見つめていた。泣きながら踊る男と女も、見ていた。猫も見ていた。その顔は姉だった。視線から逃れようと空を見ると、白くて、そして何も見えなくなった。
肉笛の絶叫が聞こえた。
それは来た道から聞こえた。
振り返る。
彼らが踊っている姿がはっきりと浮かんできた。
来そうに思えた。
蛾が、ゆっくりと羽を動かした。数メートル近い羽は風を巻き上げ、ふわりと。
私は、何を考えていたのか。
意味不明な思考に囚われていた私は、それに気付いた。気付けば、奇妙な幻想は何処かへと去り、現実の実感が足に来た。とにかく歩きだすこととした。
蛾は、ゆっくりと羽を動かしている。
ゆっくりと。
私は、山を降りた。
その後調べて知ったこと。
このキャンパスのある山はかつて合戦場だったという。特に安土桃山時代には一際大きな戦いが繰り広げられ、両軍合わせて数千もの死者を出した。血塗られた土地であるという。
以降十年ほど怪異の発生止むことなく、民の訴えを聞き届けた当時の政権が命じて、鎮魂のための大きな寺院が建立された。
それも江戸中期の干害による飢饉を止めることはできなかった。
寺院には食べ物がある。そんな根も葉もない流言に踊らされた民による焼き討ちが起こり、跡形もなく焼失。再建はなされなかった。
戦死者と、餓死者。二つの死が積み重なったこの地は呪われているとして、以来住むものもなく、荒れていたところを、戦後になって、私の通う大学の前身となる法人が買い取り、以降整備されていく。
土地の歴史は、以上である。
あの奇妙な祭祀の幻視も。
あの、大きな大きな蛾についても。
不明である。
あれらはどこにも登場しない、ただ死者だけが積み重なる歴史が、そこには横たわっていた。
───以来。
その山をいくら散歩しても、五つ目の貯水池を眺めても、巨大な蛾と出会うことはなかった。
不思議な音を聞くこともない。
まだ。
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