第21話 見送の話
しゃがむ。靴を履く。ふと、靴箱の下方が目についた。変色がある靴箱だ。汚れの一種だが、デザインっぽくて気に入っている。
もうすぐ一年かと思う。
行ってきますと、玄関から声をかけたら、台所からカチャカチャ食器を弄る音がした。祖母がいるのかなと思い、家を出る。
外に出ると、農作業から戻ってきた祖父と祖母が行ってらっしゃいと声をかけてくれた。
───両親は、既に出発している。
では、あのカチャカチャはなんなのだろうと思った。
我が家は五人家族だ。両親が既に出ていて、祖父母が今戻ってきたのなら───そして私が玄関にいた以上、台所でカチャカチャ音が鳴るはずがない。
気になったが、考えていたら仕事に遅れる。聞き間違いだろうと結論した。
だが、それ以降も、台所に誰もいないのに食器を鳴らす音は変わらず聞こえた。しかもそれは決まって、私が家を出る時なのだった。
それで思い付いたのは、ジブリ映画のワンシーンだ。この家には私たち一家とは異なる誰かがいて───それは真っ黒で小さな生き物かもしれないし、借り暮らしの小人かもしれない───祖父母が農作業で外に居り、両親が家を出て、私も出発するという、確実に家が空になるその間隙に、台所で食糧を調達しているのではないか───と。昼間は祖父母の家にいるいないが不規則で、夜だと食べ物は全部冷蔵庫に仕舞われる。確実かつ安全に食糧が得られるのは、朝のあのタイミングだけだ。
ただ……しばらくして、やはりそんなファンタジーなことが起きてるわけでは無さそうということもわかった。
その日、いつも通り行ってきますと言ったら、カチャカチャと鳴り。
なんとなく振り返ってみたのだ。
すると、台所のガラス扉に、ぼんやりと人影が写っていた。
茫然として見ていると、それは直ぐに、小さくなって消え失せた。
慌てて台所に駆け込んだが、中には誰もいない。食器が散らばっているということもない。食べ物が減っていたりもしなかった。
窓は開いていたが、網戸は閉まっていたし、外には一面田んぼが広がっている。この短時間で見えないところまで逃げるのは不可能だろう。
ならば家の中だろうか。まだあれは家の中にいるのか。
ちょうどそこに祖父母が戻ってきたので、私は誰かが入り込んだようだと説明した。会社には休みの連絡をいれ───風邪だと嘘をついた───三人で家中調べて回ったが、やはりというか、それはどこにもいなかった。
祖父母は何も盗まれてないし何かの錯覚だったのだろうと言い、私は頷いた。
だが、本心は違う。
あれは明らかに人のサイズをしていた。
小人や小さな妖怪ならともかく、人だ。このまま放置しておくわけにもいかない。
そこで一計を案じることとした。台所にカメラを仕掛けたのだ。カメラといっても、監視カメラではなく、スマホを壁の下方、色が変わってるぐらいの辺りに置き、パックの牛乳やビールで隠しただけだが。そして、家を出るふりをする。するとカチャカチャいうので、戻って何か撮れたか確認する。
簡単な策だが、出来ることといえばこれぐらいだ。
けれど、その簡単さに反して、効果はすぐに出た。
仕掛けた日の朝にもう、カチャカチャとなったのだ。
振り向けば人影が消えるところだった。私は逸る気持ちを堪えられず台所に駆け込んだ。誰もいない。だが、カメラは動いている。携帯を壁から外し、動画を止め、確認する。
早送りして───終わり間際に、いた。
のだが。肝心なところの記憶がない。
気が付いたら私は台所に倒れていて、祖父母が心配そうに覗き込んでいた。後頭部が傷んだ。血が出ている様だった。祖父母の呼んだ救急車が来て、病院で検査と治療を受けた。
スマホの動画は消されていた。
あの人影の仕業だと、確信した私は、躊躇せず警察を呼んだ。
警官と祖父母と、台所に向かう。
すっかり忘れていたが、あの動画で思い出した。我が家の台所には、地下の物置があったと。
床の一部が開くところまでは、再生できていたのだ。
地下室にいたというなら、小さくなって消えたのも説明がつく。
だがこの地下の物置は、ほとんど使われていない。というか、使えずにいたのだ。
唾を飲み込み、床を開ける。
警官と祖父がライトを当てた。
暗闇の中に、土砂がある。
昨年の洪水で、浸水したのだ。
大雨による一級河川、嫁川の氾濫。その記憶はまだ新しく、その傷跡も随所に残っていた。
この地下室もその一つ。
水と土砂が流れ込んでおり、床下に入れていたものが全滅してしまった。それ以降、簡単な掃除こそしたが、使うことはなかった。
そんな地下室に。
残っている土砂。
それだけだ。それだけだった。
他に何もない。少しの土砂だけが残っている。
死体でもあるのではないか。そうでなくても、何かしら潜り込んでいるのでは。
そう思っていたのだが。
違ったようだった。
それ以降も、カチャカチャという音は続いている。
生活リズムの都合で、私にしか聞こえないが。確かに。
誰が出しているのか依然として気になるが、調べたいと考えるたびに、後頭部の痛みが蘇るように思えた。
幸い、実害は、あの時以外ない。盗んだり散らかしたりするわけでもない。祟るわけでもないようだ。
調べようとしなければ、向こうもなにもしない。ただ音を立てるだけ。
ならいいか、と思う。
座敷童子が増えたようなものだ。
靴を履く。靴箱の下方、変色した部分を見る。この靴箱も洪水でだいぶ汚れていた。変色は浸水の影響だ。綺麗に洗っても、あの被害はどうしても残っている。そういうことが、この町には幾つもある。この家にもだ。
台所の誰かを洪水の被害と見なすか───洪水で得た新しい同居人と見なすか。
後者でも良いだろう。そう思う。
行ってきますと言った。
カチャカチャと音が鳴った。
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